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6.

「俺は、お前がずっとうらやましかった」
 基道は、頬にガーゼを貼り付け、腕を白い包帯でつっていた。場所は病院の待合室。じいさんばあさんらがひっきりなしに往来している。医薬品独特の、においがする。
 看護婦の呼び声。医療器具の触れ合う金属音。テレビの音。
「俺がちょっとやそっと、脅かしたってでーんと構えとって、ちょっと石を投げたところで揺らがん、川の流れみたいで。後輩共は、お前がえぇいいよる。神崎さんや、他の先輩らやって、お前をかわいがっとった」
 一切合財の音から浮き出たように、低い声音で淡々と紡がれ、俺の耳に届いてくる、基道の言葉。
「やのに、お前は詰まらなさそうにそれら放り捨てて、さっさと別のもんみつけおって」
「基道」
「神崎さんはな、本当にお前をかっとった。かっとったんやで。お前以外に任せられる奴はおらへん。いうて。なんで、俺とちゃうんや。いつもそうや、お前は、あんな詰まらん女にひっかかるような、つまらんやつやのに、みんなよってたかって、お前がえぇいいよる。俺はあかんのやっていいよる。俺は――」
「何もしらんお前に言ったって、こんなんどうしようもないことやけど」
 俺は立ち上がり、どこともない場所を睨みすえた。焦点の合わない人影が、俺の視界をよぎっていく。
「……俺は、確かに買いかぶられすぎやと思う。感謝、すべきなんやろうな」
 最後に渡れたジッポライター。もう関わるなという厳しくも優しい、忠告の声。
 つまらなくなんかない。優しい人たちは、確かに俺の周りにおったのに、世界をつまらなくしとったんは、俺自身やった。
 それを、覆したんは。
「……それから、あいつは、つまらん女やなんか、ない」
 柳やった。
 踵を返して、基道を背後に歩いていく。看護婦や患者と、すれ違いながら。
「…………ちくしょぉおっ」
 がん、という何かを叩く音と、基道の叫びが、聞こえた。

時は、三日前にさかのぼる。

「……肝炎?」
「B型肝炎というものをご存知ですか?柳は母子感染によるウイルス保持者……無症候性キャリア、でした」
 救急車で運ばれるなり柳は集中治療室へといれられ、俺は手当てと同時になにやら検査を受けさせられた。殴られたところが痛ぁて、しゃべるたびにあごががくがく言うけど、しょうがあらへん。子供らのことが心配やいうて、戻る寸前神父のおっさんは俺に打ち明けた。
「なんやその、むなんとかキャリアって」
「無症候性キャリア……母子感染によってウイルスを体内に持ちながら、病気が発症していなかった無自覚の肝炎患者のことです。つい一年ほど前まで、柳は無症候性キャリア、でした」
「……でしたって、なんやの」
「……もはや違うということです。一年ほど前に病気が発症し、慢性肝炎となりました。治療を続けていましたが、なかなか上手くいかず……半年ほどまえに、肝臓を移植しない限り、余命は、一、二年、であると」
「………なんやて?」
 上手く最後が聞き取れず、俺は眉を寄せて訊きかえす。夜遅い待合室は、昼間の込みようが嘘のように閑散としとる。そこに、おっさんの声は、馬鹿みたいに、よく響くのに。
「……ですが、今回のことが元で、肝臓に負担がかかりすぎて、肺炎から急性肝炎が引き起こされてしまって………」
 俺の耳が聞くことを拒否しとるみたいに、水の膜を隔てとるみたいに。
「運よく肺炎が治まっても、肝硬変が、始まっていて、もう……一年もつか、わからないと」
 聴こえない。
 上手く。
 俺は。
 息を、吸って、吐いてを繰り返して。唇を閉じたり開いたりして、瞬きを繰り返した。目のまえで、おっさんが、泣いとる。唇をぬらして、俺は、呻いた。
「…………えぇ?」
 なんか他にいいようがあると思うのに、搾り出せた声は、それだけやった。
しばらく、おっさんの嗚咽だけが周囲を満たす。雨で湿った空気。薄暗い、非常灯だけがともった待合室。
「……それって……柳が死ぬ、いうことか?」
「……はい」
「……俺の、せい」
 おっさんは首を静かに横に振った。それが余計痛々しかった。むしろ殴りつけて、罵ってくれたほうがどれほど楽だろう。
 俺は、おそらく、ただでさえ短かった柳の命を、縮めた。
「……なんで、移植、せぇへんの」
 肝臓移植。
 それをしなければ、とおっさんは言うた。それは、すれば助かる見込みがある、いうことや。
 臓器移植は、名前だけしっとった。俺が中学生ぐらいんときに、日本人が初めてアメリカで心臓の移植を受けたってちょっとしたニュースになっとった。
 それをして、助かるんなら。
 なんで。
「お金がないんです」
「……は?」
 おっさんは鼻を鳴らし、かすれた声で繰り返した。
「お金が、ないんです………肝臓移植は簡単に換算すると、約八百万弱の費用が要ります。けれどこれはいらない費用を全て省いた、一番安価な値段でです。日本では、まだ移植は一般的ではない。できる施設も、医師も、限られています。国内だろうが、国外だろうが、確実な結果を望むのなら、その費用は膨れ上がる一方で、その手術の後も、また費用がかかります。入院費だけで百万単位のお金が月々に消えていく。国内では一千万か、二千万か、国外なら最低三千万はかかります。……私たちに、それだけのお金を払う余裕はまったくありません。普段の生活すら、とても厳しい、教会運営の小さな孤児院なのですから」
 頭が、痛い。
 これは夢なのか、どうなのか。頭が割れるようにいたい。すぐに眠ってしまいたい。
 今すぐ。
「柳は、知っとったん?」
「……知っていました。これまで通り、ぎりぎりまで普通に生活していくことを選び取ったのは、あの子、自身です」
『あんね……あたし』
 柳の木を見に行ったとき、爪が食い込むほど握られた手。かみ締められていた唇。悲痛そうに伏せられた瞼。
 柳は、知っていた。
 おっさんは、膝をついて、胸の前で手を合わせ、懇願した。決して助けてもくれない、世界を作った何者かに。
「あぁ、私はとても無力です。あの子は、あんなにいい子であるのに!あんなに、優しい子であるのに!私は何もできません!われらが父よ!」
「……おっさん」
「どうして貴方はこうまで無慈悲であるのか、あれほどまでに優しい子であるからこそ、貴方は選びとり、召し上げようとなさっているのか!」
「おっさん黙れ!」
 俺はおっさんの襟首をつかみあげた。銀色の十字架がしゃらりと揺れる。ぶるぶると小刻みに震える顔。俺は、掴み挙げる手の力を緩めながら、低く呻いた。
「……柳は、まだ死んどらへん。まだ、死んでない。そんなこと、いうんはやめろや」
 その場に俺は膝を突いた。拳を、床に叩きつける。ぽたぽたと、こぼれ落ちた水滴が、床に丸いしみを作る。
 俺は、真摯に、懇願した。
「……やめてくれ……」

 夜が明けて、柳はなんとか持ち直した。だけど体中を管でつながれて、呼吸器の助けを借りてしか命をつなげられずにいる。瞼は硬く閉じられて、身体は少し黄色い。触ると、とても熱かった。
 息が、詰まる。
 近くの椅子を引き寄せる。入り口ではきかえたスリッパが、ぺたり、と音を立てた。
 椅子に腰を下ろして、手を握る。握った手に、口付ける。そしてその手を握り締めたまま、うなだれた。
『流に、世界中の幸せが、降り積もりますように』
 俺のためなんかに、祈らんでえぇ。
 どうせこの世界全部つまらん思って、いい加減に生きてきた。お前に出逢わんかったら、どうせ詰まらん毎日を、暇つぶしみたいにして生きて、くだらない理由できっと野たれ死んでいた。
『確かにあたし、神様信じとらへんし』
 どういうつもりで言ったんやろう。必死でいきとるはずやのに、それでもこいつの命は俺のもんよりもうんと短いという。その理不尽さを知って、きっと絶望したんやろう。
 それでも、こいつは笑っていた。
 しなやかな、柳の枝のような屈強さで。
 こいつの上にこそ。
 こいつの上にこそ幸せを降らせてくれ。雪のように降り積れ。溶ければ春になるような優しさで。
 こんな俺に笑いかけた、こんな俺を、見捨てんかった、こいつの上にこそ。
「生きろ、柳」
 手を強く握り締める。握り返してくることはなくとも。
 手を握るとき、硬く硬く、力をこめてきた柳。その手を放せば、死の世界へ招かれるとでも、思っとったんか。
「生きろ柳。俺がどうにかするから。俺が、全部どうにかしたる。金も、病院も、全部用意したるから」
 だから。

生きて。


「オイ増嶋!」
 工事現場の監督の怒鳴り声に応じて、俺は飛んでその場に駆けつける。もともと短気な俺が理不尽なほどの物いいへの憤りをこらえるんは、かなり骨が折れることやった。だけど殴りかかりたくなる衝動を、ぐっとこらえて言われたことを淡々とこなす。この仕事は、金の入りがいい。
 俺は、バイトを増やした。
 早朝から夜中まで、寝る間惜しんで働いた。若いからできること、といえるぐらいに、死ぬ気で。
 職種も実にさまざまやった。工事現場、交通整理、電車の通勤ラッシュ時に、人を電車に押し込む仕事、夕方は居酒屋、夜はバー。
 一分一秒を惜しむように。今まで無意味に過ごしていた時間のもったいなさに、俺は後悔の嵐やった。あの時間、働けば、どれだけ金が入ったんやろう。今更いうてもどうにでもなるもんとちゃうけど。
 それでも、金はたまらん。ちっとも。工面しようにも、そんな知り合いどこにもない。親とも縁は切れとって、今どこにすんどるんか知らんぐらいやった。俺が、なんとかするしかなかった。

「ごめんね。うつるか、思て、怖かったんや」
 キスを拒絶した理由を、柳はそう語った。
肝炎は、体液、血液を介して感染する。いわゆるエイズと同じや。軽く唇を合わせたぐらいではどうもならんやろうが、それでも危険やった。実際かなりきわどかった。とまらへんかったしな、あのとき。
 柳が入院したと同時に俺が受けた検査は、感染しているかどうかを調べるものやったらしい。幸運といってええんやろうか。俺は陰性やった。つまり、感染はしていない。
 それを聞いて、露骨に安堵したんは、ほかでもない柳やった。ずっと気にかけとったんやろう。それでも、怖くていいだせんかったに違いない。
 水曜日の午前中、俺は柳に会いに行く。もうすぐ三週間。柳の病状の経過は良好で、病室も一般の相部屋に移された。それでも絶対安静が言い渡されていた。柳は、ろくろく物も食べられず、付き添いがなければ部屋の外へもでられない。いつ、病状が急変してもおかしくはなかった。
「気にすんなやそんなこと。あんなもんで感染するかい」
 肝炎は、感染しても急性にいたらなければ完治する可能性が高い。三、四回に分けて適切な投薬をおこない、体の中に抗体を作れば、健康に戻れる。たとえ俺が感染しとったとしても、危険はないとはいいきれんけれども、それでも楽観することができた。
 柳も、すぐ治る。
 そんなん気休めや。嘘でも決していえへん。俺はただ、寝台の上に寝そべる柳の癖毛をなでてやることしかでけへん。抗体ができんうちは、涙をぬぐってやることも、でけへんかった。感染を恐れて、柳が嫌がった。
 柳はあの、痛々しい姿をもうしとらんかったけれども、身体全体に黄疸がかかり、目の端が黄色く濁っていた。病人特有の、すえた臭いがする。けだるくて、身体を起こすことが億劫らしい。俺がくると決まって元気に振舞おうとしよるけども、俺はむりやり寝台に寝たままでいるように強いる。実際、そのほうがうんと楽に違いない。
 神父のおっさんは、毎日子供らを順番につれてきているらしい。おっさんもおっさんで、金を工面するのに方々を走り回っているそうやけど、あの表情を見る限り、先行きは暗い。
 俺はなるべく明るい話題を選んでする。仕事場で、現場監督がやらかした失敗談。仕事仲間たちからきいた面白おかしかったこと。最近ブレイクしとる芸能人の話。ギターを弾いてやると、テレビで覚えたらしく柳がそれにあわせて歌を歌った。
 キャノン・ボーイズとかいうアイドルの歌や。ちゃらちゃらした感じはどうも好きになれへんけど、歌はえぇ曲ばかりで。なんか励まされる感じがした。同じ相部屋の奴らも、次第に柳に合わせて歌うようになった。こんなことが、できるうちはえぇ。できるうちは、まだ。
「じゃ、そろそろいくわな」
「うん」
 昼からまた仕事がある。俺はスポーツバッグのショルダーベルトを取り上げて、肩にかけた。このバッグの中には、仕事の制服一式がはいっとる。着替えを取りに行く時間を、短縮するためやった。
「流ぇ」
 他の寝台との仕切りのカーテンを閉める寸前に、柳の手が伸びてくる。俺は、バッグを足元に下ろして柳の傍らに戻った。伸ばされた手をとってやると、柳がうつむきながらか細い声で懇願してくる。
「……もうちょっとだけおって」
「……しゃぁないやつやなホンマに」
 俺は笑って、手を握り返して椅子に腰を下ろす。ぎしりときしむパイプ椅子。狭い、布で仕切られた空間。柳は、こんなところにおってえぇ奴とちゃう。
「……御免ね。仕事、遅れる?」
「バイクとばせば平気やって。気にすんな。身体、痛いんか?」
「……少し」
 吐かれる息は細く、握り締めてくる手は熱い。身体全体が少し浮腫んでいる気がする。俺はゆっくりと腕をさすってやった。
「……なんなん。流がごっつい優しい」
「今の間だけな。ツケとくから元気になった後で覚悟しいや」
「……うあー何されるんやろ。こっわ」
 そりゃ男やからなにするかってきまっとるんやけど、そんなんこの状況で口裂けてもいえるかい阿呆。
 柳は少し笑いに肩を揺らした。やけどそれはすぐに収まり、笑みは、無表情に取って代わられる。
 そんなときに決まって現れるんは、あの虚ろな眼差しや。
俺は、柳の額を指の腹で撫でた。ぽつりと、柳が漏らす。
「元気に、なれるんかなぁ……」
「……そのために俺が金かせいでるんやろ」
「……うん、そうやね。……ごめん流。いっぱいいっぱい、迷惑かけて」
「柳」
 柳は、頬を高潮させて睫毛を振るわせた。透明な水滴が、頬を伝い落ちていく。
「こんなに、迷惑、かけるつもり、ちゃうかったんやけど」
「……柳」
「流は、忘れとると思うけど」
 しゃくりあげながら、柳がいった。
「あたし、あの、最初に助けられる前に、流に一度、会うとんやで。あたし、死ぬかも知れへんって言われて、苦しくて、お金かけてまうぐらいなら、死んでしまおうか、おもうて、河に、いって」
 蘇る。
「そこで、流が」
 寒い夜に、裸足で、立って、ぼんやり流れ行く水を見つめていた、こいつの姿。
「あぁ。俺も覚えとる」
「……え」
「ライター、投げ入れたとこにおったな。自殺志願者かいな思うとったら、ホンマに自殺志願者やったんかお前」
「……ライターやったんや。あれ」
 柳は一瞬笑ったが、すぐにその顔をくしゃくしゃにゆがめた。ぽろぽろと、どこからこんなに出てくるんやろうと思うぐらいに、とめどなく涙があふれてきよる。
俺は身体をかがめて、柳の額に口付けを落とした。空いた手で頭を抱え込んで、髪にあごを埋めて。
 泣いている女の慰め方なんて、俺は知らん。ただ、抱きしめてやることしか、出来へん。
「あた、あたし、あんとき、あたしに、神様が、自分で死ぬなんて、ゆるさへんって、怒っとるんかと思って。びっくりして。に、二回目あったときに、あぁ絶対、この人、あたしへの神様の使いやって、天使やと、思って」
「……俺みたいな奴が、そないな綺麗な奴なわけあるかいな」
「う、うん、あはは、ね。馬鹿やと、自分でも思うた。やけど……」
 柳は、言葉に詰まりながらも、繰り返す。
「やけど、神様はおらんでも、陳腐な言い方やけど、運命の出逢いってもんは、ホンマにあるんやなって」
 柳は少し笑って、身体を起こした。俺の胸に頬を寄せながら、呻く。
「御免、そんな気が、ほんとうにしてん。逃したく、なかった。一緒に、いたかったんや。……ごめんねぇ……いっぱい、迷惑、かけ、ホンマ、ごめん」
「謝んな」
 謝る必要は、どこにもない。
 その、痩せた背中に腕を回して俺は言う。
「運命か……そやな」
 馬鹿馬鹿しいぐらいに陳腐な物言いやけれども。
 名前からして定められたもののような気がせぇへんか?
 途切れることのない河の流れ。そのほとりで揺れている、柳の葉を、思い出す。
 頬を、涙が滑り落ちる。吐息を震わせて、俺はかすれた声を絞り出した。
「俺もそう思た」
 運命じみていると。
 そう、思った。



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