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7.

梅雨。

 柳はなんとか持ちこたえているが、意識がなくなることが多くなった。肝性昏睡というらしい。アンモニアに脳内が置かされて、意識が混濁するんやと。血中のアンモニア濃度を下げるために、血液型が同じ神父のおっさん――先生と、交換輸血をする。稼ぎ出した金は、入院費、治療費として消えていき、一向にたまる気配はない。
 移植には脳死の人間から臓器を貰い受ける方法と、生体部分肝移植という生きている人間から貰う方法があるらしい。後者のほうがドナーやって簡単に見つけやすい。周囲の血液型が一致する健康な人間やったら、だれでもドナーになれるからや。やけど、世界でまだ二回しか例がなく、そしてそのどちらもが、失敗しとった。
 二回目の例はついこの間失敗を報道された。その報道を、柳はあの虚ろな瞳で、じっと見つめとった。

季節はゆっくりと移行していく。
俺が、柳と出逢って、ほぼ九ヶ月が過ぎていた。

「………もうそろそろ、覚悟しておいてください」
 ある日医者に、俺と先生はそういわれた。
「……ここまで持ちこたえたのが、奇跡的といえるでしょう。急いで別の大病院に搬送して、手術をおこなうのが理想ですが、もう」
 肝臓移植をするには、別の設備がととのった病院に搬送せなあかん。そこで脳死したドナーから肝臓が届くのを待つのが、今出来る最良のことやった。やけど、それをするだけの、金がない。柳の体力も、限界やった。
 ここ数日の柳は、しゃべることもろくに出来へんようになってきていた。口臭がきつい。劇症肝炎やと、宣告された。急性肝炎よりもうひとつ酷いやつ。肝硬変になりながらも、ぎりぎり機能を果たしていた肝臓の細胞が、とうとう壊死した。
死が、忍び寄ってくる。
 俺は、神崎さんに貰ったライターの蓋の開閉を繰り返していた。イラついたときの、最近の癖になりつつある。集中治療室に入った柳は、目を閉じて、ただ、死を待っとった。
 かつん、と、俺はライターを取り落とした。思わず舌打ちしながら、拾い上げる。
 そして、それを目にした。底に細かく刻まれた、数字。
06XXXXXXXX
 シリアル番号、とは、違う。アルファベットの一切入っていない、数字の羅列。
 思い当たったんは一つや。
 電話、番号。大阪の。
 何のために、残されとるんかわからへん。けれど、俺には確信があった。
 これは、神崎さんの、電話番号やと。
 神崎さんと交わした会話が、ふと脳裏を掠める。
『仕事につくんとちゃうんですか?』
『そやけどな。俺は、あれや。いわゆる、ヤクザ業や。結構でかい組の――』
 ライターを握り締めて、俺は椅子から立ち上がった。

「なるほどな」
 スーツを着込み、ポマードで髪を丁寧に撫で付けた神崎さんは、特攻服に身を包んで俺たちをひっぱっとったころとはまた違う貫禄があった。これでもまだ下っ端やというんやから、信じられへん。
 電話で連絡を取ったあと、俺は指定された神崎さんのアパートへ向かった。メモった住所と照らし合わせて探し出したアパートは、目立たんおんぼろのアパートやったけれども、中は小奇麗やった。パイプベッドと、テーブルと冷蔵庫だけがある。テーブルの上にはウイスキーのボトルと、ロックグラスと、灰皿。
 灰皿は、俺が昔あげた、あの灰皿。
「確かに、俺の居る組は、金貸しもしとる。やけど将来性のある人間にしか投資せえへん。一個人には、貸し出ししてない」
 ふ、と紫煙を吐いて、神崎さんは言う。
「残念やけど、別のサラ金あたれや」
「……そうですか」
「と、いいたいところやけどやな」
「……え?」
 神崎さんは煙草を灰皿に押し付け、立ち上がると電話を引き寄せた。受話器をとって、手馴れた動作でよどみなく番号を打ち込む。
「……どうもすみません、神崎です。はい。本当にすんません突然こんな時間に。……いえ、仕事のヘマとちゃいますよ。本当ですって。……はい」
 驚く俺の目の前で、神崎さんが電話口の相手と談笑を繰り広げる。短い世間話をしたあとに、神崎さんはその相手と何かの約束を取り付け、受話器を置いた。
「……神崎さん……」
「金をかすかどうかは、たいていボスが顔をみて決める。今から会ってもらえる。コレで貸してもらえるかどうかは、運しだいや。これが俺にできる精一杯やからな。駄目やったら他のサラ金あたれや。まぁ突然一千万以上貸せる場所なんてあんま見つからへんやろけど」
 神崎さんは俺の目の前に立つと、目を細めて笑った。少し寂しそうに見えるこの笑いが、この人の笑い方やった。
「……どうして、電話番号残してくれとったんですか?」
 離れることを決心したんは、俺のほうやった。この全うな世界で生きていくために、もう一切関わらんほうがえぇと、俺に忠告したんは、この人やった。
 なのに今も助けてくれとる。
「……さぁ。ようわからへん」
 泣き笑いのように目元を歪めて、神崎さんは呻く。
「もしかすると、頼られることを、待っとったんかもしれへんな」

「増嶋!遅いぞ!」
「すんません!」
 バーのスタッフルームに駆け込んで、俺は待っていたオーナーに頭を下げた。ここのところ休んでいた深夜のバイトや。でも今日はどうしてもはずせへんシフトやった。
 小言を聞きながら服を着替える。しりをひっぱたかれながら外に出た。睡眠不足でふらふらで、足元がおぼつかへん。それを見かねたスタッフが、フロア役からドリンク役に代わってくれた。
 ステージの上で次々と歌われるへたくそなロックが、頭にがんがん響く。それでも今ここで抜けるわけにはいかへん。俺は生まれてから今までの忍耐力を総動員して、なんとか耐え抜いた。
 昨日の早朝に、金を借りるための“面接”を受けた。小さな取調室のような場所に入れられた俺は、入れ替わり立ち代り、大勢の人間の面接を受けた。一体何人、どんな人間にあったんか、俺はもう覚えとらへん。結果は神崎さんを通じて、明日連絡されることになっとる。とりあえず俺は、先生に連絡をとって、移植するために柳の搬送の準備を進めておくように、言っておいた。金以外にも一つ、問題が残っとるけど。
 たとえこれで金が借りれんでも、方々に借金をしても、俺は柳に最後の可能性を試して欲しかった。
 俺のエゴやと、いえんでもなかったけど。
それでも俺は、柳に生きていて欲しかった。

 明け方近く、客が引き上げていったあとを片付ける。ジュース、酒の瓶、ポップコーンのカップ、お菓子のくず、様々なもんが、床の上に散乱しとる。磨耗して磨り減った床板は、黒光りして、その上にモップを滑らした。集めたごみをゴミ袋へまとめて突っ込んで、次はステージの上。
 ふと、舞台袖に、ギターが一本立てかけられているんが目に入った。歩み寄って、それを取り上げる。弦が切れているわけでもないようや。誰かが忘れてったんやろか。間抜けやなぁ。
 モップを代わりに立てかけて、俺はちょっと弾いてみた。柳の具合が悪くなってから、弾くことからも遠ざかっとったから、触るんは久しぶりや。周囲に、誰もおらへんことを確認して、簡単にスケールを弾いてみる。
 音は、鳴る。
 俺は、柳と歌った曲を、簡単にかき鳴らした。なんやったっけ。キャノンなんたらいう、アイドルグループの、曲。この前まで名前覚えとったのに、思い出せへん。
 ただ、俺は夢中でかき鳴らした。たまっていた鬱憤を、苛立ちを、焦燥を、全てその音にこめるように。
ぱちぱちぱちぱち……
「……?!」
 俺は心臓を鷲掴みされたような感覚に、まさしく飛び跳ねながらギターを放した。オーナーか誰かにみつかったんやと、そう思ったんや。こんなん見つかったら、まさしく減給やし。下手したらクビやし。
 やけど拍手しながら非常口から姿を現したんは、見ん顔の、俺よりもいくらか年上の若い兄ちゃんやった。
「上手だった〜。今晩ここで演奏してたどのグループのギターよりも、よっぽど上手だったよ今の。あんなふうに演奏してもらえると、歌手冥利に尽きるなぁ」
 にこやかな笑顔を浮かべて歩み寄ってきたその兄ちゃんは、ステージの前に立つ寸前。
「うわっつ」
 ずべしゃ。
 ゴミ袋の端をふんずけて、思いっきり転倒しおった。
……何やっとんや、この兄ちゃん。
 よろよろと立ち上がるこの兄ちゃんに、俺は思わず声をかける。
「……だ、大丈夫か?」
「いやぁごめん。まさかこんなところにゴミ袋があるとは……」
「いやむっちゃ最初から置いてあったって」
「え?そう?」
「……兄ちゃん頭大丈夫か?」
「……頭?あぁうん打ってないよ。大丈夫。ありがとう」
 ……俺は全然そんなこと訊いたんとちゃうかったんやけど。まぁええわ。頭が平和やいうことやろう。
 兄ちゃんは温和そうな笑みを浮かべて、俺の姿をじっくりと観察してくる。なんや、妙に迫力のある視線に、俺は半歩後ずさった。仕事サボって楽器弾いとったことに対する、バツの悪さがあったんも確かや。
 やがて兄ちゃんは、笑っていった。
「……君、オーディション受けてみる気ない?」
「…………………は?」
 俺は目を白黒させて、兄ちゃんを見返した。綺麗な造作した兄ちゃんやな、と思う。どんなに人ごみにまぎれていても、ぱっと目を惹く華がある。身につけているものもさりげなくえぇもんやで。どれもこれも。
 そこでふと、俺はこの兄ちゃんに見覚えがあることに気が付いた。どこでやったっけ。どっかで見た。会ったことはないんは確実なんやけど。
「あはは。そんなにじっくりみられると照れる。そりゃ驚くよね。あ、僕ちなみに本物だし――」
「あんた誰や?」
 兄ちゃんの語尾と、俺の質問が綺麗にハモった。
「……君、今弾いた曲誰が歌っているか知っている?」
「はぁ?えーっと、キャノンなんたらいう、ちゃらい兄ちゃんらや……な」
 そこで、俺は、どこでこの兄ちゃんの顔をみたんか、思い出した。
 テレビ。
 柳や子供らと一緒に見た、テレビでや。
 兄ちゃんは盛大な溜息をつくと、身につけているジャケットの上着から、名刺を一枚取り出した。その際に他の名刺もばらばら、と床におちる。沈黙している俺の目の前で、ささっと床に散らばった名刺をかき集め胸ポケットにしまうと、何事もなかったかのように最初の一枚を俺に差し出してきた。
 株式会社J&M所属、キャノン・ボーイズ、植村尚樹。
「……偽者?」
「本物」
「……アイドルって、名刺持ち歩くもんなんか?」
「芸能人だってねぇ、いろいろ人付き合いがあるもんだからね」
 どうも、胡散臭いけど、確かにこの顔はテレビであの曲を歌っとる顔に違いなかった。
 芸能人は、顔が名刺代わりやと、聞いたことがある。紙の名刺は、ついでみたいなもんなんやろう。
「で、話を戻すけど」
 植村尚樹が、気を取り直したらしく人好きのする笑顔を浮かべて訊いて来よる。
「君、オーディション受けてみる気ない?」
「何のオーディションや?」
「アイドルだよ。J&M。楽器もできる子を探して、今度新しいJam,Kidsのオーディションをするんだ。受けてみる気はないかい?」
 俺は思わず閉口する。この兄ちゃんの言っとることが、あまりにも突飛なことやったからや。この俺に、オーディション?アイドルの?
沈黙する俺を差し置いて、兄ちゃんは言葉をにこやかに続けた。
「君じゃもうKidsって年じゃないけどね。だけど関係ないと思うし。無論僕はいわゆるただの平社員みたいなもので、オーディションの選考に関わってない。もし君がオーディションを受けたとしても、合格するかどうかはわからないし、受かったとしてもデビューにつながるかどうかはまた別問題。だけど僕は、けっこう見る目あると思うし、君なら大丈夫っぽい気がするんだよね」
「……な……なんで、そう思うんや?」
「僕が一緒に仕事をしてみたら、楽しそうだと思ったからだよ」
 植村尚樹は即答する。けれどかなり度肝を抜かれる返答だった。論理が、むちゃくちゃや。
 兄ちゃんは突然屈みこむと、ごそごそと持っている書類かばんの中をあさり始めた。
「それって重要だと思うんだ。顔がいいだけ、歌えるだけじゃアイドルは務まらない。一緒にいたい、居たら楽しそう、幸せになれそう、面白そう。ブラウン管を通して、日本国民にそう思わせる、何かを持っていることが、最大の条件だと思う。君の目には、そこらへんでたわむろしている人とは、違うものがあるよ。何かを追い求める、必死さってところかな。そういうものがある人は、人を強く、そして長く惹きつける。ブラウン管の向こうに立てる、資格を持っている」
 言っていることはかなり真剣なんやけど、その鈍臭さがすごかった。名刺のときと同じように、書類かばんの中身をぶちまける。そのかき集め方も手馴れたもので、どうやら頻繁に物をひっくり返したりこけたりしているようやった。
「もしよかったら。はい」
 差し出される、一枚の書類。
 オーディション、応募用紙。胡散臭い兄ちゃんやけど、確かにいっていることは本当らしい。
 俺は、それをうけとった。普段やったら受け取ることもせえへんかったやろう。けれど、俺は酷く疲れていて、突っぱねる気力も何もなかった。
「……一つ、聞かせてくれるか?」
「ん?何?」
 まとめた書類の角を、床に当ててそろえとった植村が、面を上げる。
「……アイドルって、金入るんか?」
「金?稼ぎがいいかってこと?……さぁ、人によると思うけど……僕の年収は多分一般の人よりもはるかにいいよ。今はありがたいことに、仕事があるからね」
 幾ら?とたずねた俺に、植村尚樹は驚くべき金額を答えた。
「それ、ホンマか?」
「え?稼ぎ?ホントホント」
「ますじまー!!!!!!!」
 俺はオーナーの声に、今度こそ心臓とまるか思うぐらいに驚いた。植村の兄ちゃんもまたびっくりして、直立不動になる。二人そろって顔を向けると、非常出口の、緑色の明かりの下で、鬼の形相をしたオーナーが仁王立ちしとった。
「お前いつまでちんたらちんたら仕事しとるんやー?!ここに止まっていく気かー!俺は帰るからな!全部責任もって片付けて、戸締りしてでていけー!えぇな!」
「すんません!」
 頭をばっと下げると、なんでや知らんが、植村の兄ちゃんまで頭を下げとった。
 ばたーんと乱暴に扉が閉められる。静まり返ったホールにぽつりと。
「……ぼ、僕も手伝おうか?」
 という控えめな声が響いた。



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