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5.

1989年 春

「どっかいくか」
「は?」
 柳の病院の帰り、俺は昼飯のアンパンをかじりながら提案した。柳はクリームパンをほおばりながら、目を丸めて呻いた。
「はんへ(なんて)?」
「帰り寄り道していこかーいうたんや。好きなところいってみー。つれてったるし」
 年が明けて、俺は十八になり、それからもあわただしく日々が過ぎていった。
 柳はあの熱以来、少しずつ体調を崩すことが多くなった。神父のおっさん曰く、柳はもともと身体がそんなに丈夫やないそうな。まったくかけらもそんな感じせぇへんけど、でも熱を出して夜中に寝込むことが多うなったから、真実なんやろう。普段は、そんなにいらんっちゅうぐらいに元気がありあまっとる奴やけど。
 時々朝一番に、診察を受けに病院へ行っとる。その送り迎えも、俺の仕事になった。朝、病院へこいつを連れて行って、その足で交通整理のバイトへ向かう。高校は、もう辞めた。どうせ留年しまくっとって卒業できへん。学校にやめますいう電話を入れたら、あっさり了承された。厄介払いしたかったに違いないから、丁度よかったんやろう。
 昼までバイトして、病院の前で柳を拾う。今日も、そのパターンで柳を拾ったところやった。
 パンを飲み下して、柳は言った。
「どうしたんいきなりー。変なこといわんといて雪降るし。降ってきたら寒いやんか」
「……やっぱやめよか」
「あー待って待って。ヤダ行きたいところあるー。つれってってぇな流おにーさん」
 拝んで頭を下げてくる柳を、俺は半眼で見下ろした。そうやって笑う柳はいつもと変わらへん。
 病院から出てきた柳は、どこか気落ちしているように思えたんやけど。
「……で、どこへ行くんや?」
 柳はにっこりと笑っていった。
「河」

 柳が連れて行けせがんだ場所は、孤児院からも病院からもかなり距離がある温泉町やった。山奥にひっそりと並ぶ古い町並み。観光客もろくにおらへん。静かで、どこかから寺院の鐘が響いてくるような場所や。石畳を歩くだけでなんだか江戸時代かなんかにタイムスリップした気分になる。その町のど真ん中を流れる河がみたかったんやと、柳は言った。
「ほら、コレみたかったんよ」
 そういって柳が指し示したんは、“柳”の木やった。
細くしなやかな枝を撓らせ、笹の葉にも似た葉を薄垂に揺らして。その葉先は、透明な水面に触れて、轍を作っとる。冬やから、葉っぱの色は当然そんなに綺麗とちゃうけど。
「倉敷っていったことある?岡山の。あたしもともとあそこの生まれなんやて。一度だけいったことあるねん。こんな風に、柳の木が、あっちこっちに植わっとって、川に彩りそえとんねん。こんな風に、気持ちよさそうに、葉っぱ水につけて揺らしてるんやで。あたしの生まれた病院のまん前にもこんな感じの場所があって、そこで柳を見てあたしの名前決めたって」
「誰がいうとったんや」
「……もうおらへん、あたしのおかあちゃん。……いきとんのか、死んどんのか、知らへん」
 川のふもとへと下りる道を下りながら、柳が言う。ふらふらとした足取りが危なっかしい。俺は黙って後ろを付いて歩いた。
「本当は倉敷につれてってほしかったんやけどなー」
「阿呆、そんな遠くへ連れて行ってやれるかいな」
「だからここに連れて来ていうたんやんか」
 呻いて柳は口先を尖らせた。口の減らんやっちゃまったく。顔をしかめて拳で軽くこいつの頭を小突く。
「やめーよ落ちるやろー」
「感謝の気持ちが足らへん。ありがとうの一つぐらい言ってみたらどうやホンマに」
「はいはーい。お優しい流兄さんどうもありがとー」
「……ホンマにこん中に突き落としたろかコイツ」
「ぎゃーこーわいー」
 波打ち際ぎりぎりの、下段まで下りて柳。とんと押せば本気で水ん中にどぼんや。熱しょっちゅう出す今日も病院にいってきたやつを、そんな苦行に突き落とす気はさらさらなかった。が、こうもふざけられるとそこはかとなく憎たらしい気持ちが芽生えんでもない。
 今度は力いっぱいどつくつもりで挙げた手を、どことなく熱っぽい柳の手がくるむ。驚く俺を他所に、柳はそれをそのまま自分の額に触れさせた。
「……ホンマ、ありがとう。流」
「……柳」
「流に、世界中の幸せが、降り積もりますように」
 ぎゅ、と手が、握られる。
 硬く目を閉じられた柳の瞼。あぁ睫毛、こいつ結構長いんやなぁ。見下ろしながら、そんなことを思う。
 下ろされた手。けれど繋がれたまま。柳は笑い、俺も笑った。
「何言うてんのやお前」
「聖職者っぽかったやろ今の」
「神さん信じてない不良シスターが」
「なんやの流なんて正真正銘の不良やったやんか」
 不良“やった”。
 あぁそうやな。過去形か。そんなにいきなりよくなれるとは思わへんけど。
「……不良で悪いか」
「悪くないよ。ふてんといてぇなーもー」
「ちょいまて。誰がふてとるって」
「流」
「……あーもー」
 呻く俺に、歯を見せて柳が笑う。屈託なく。怒る気も失せるんやって。どうやら俺は弱いらしい。こいつの馬鹿っぽい笑いに。
 肩を揺らして柳は笑っとったが、その笑い声は溶け細るように消えていった。繋いでいる柳の手に力が篭る。
 沈黙が落ちた。田舎町。人の気配はなく、水の流れる音と、柳の木が風に撓る音だけが、鼓膜を振るわせる。
 俺はほんの少し腰を屈めて、戯れ程度に唇を触れさせた。なんとなく、そうしたかった。子供が、お気に入りの犬か猫に、口付するような気安さで。
 熱っぽい身体。空いている柳の手が、俺の背中に回って服を握り締める。
 ついばむ程度のキスを繰り返す。繰り返して、洒落にならんぐらいにのめり込んでいく自分を感じた。
 交わす口付けが、だんだん深くなっていく。
 柳の身体を、堤防の壁に押し付ける。吐息を奪うように、繰り返される口付け。やけど舌で唇を割って、それを口内に滑り込ませた瞬間、柳の身体が撥ねた。
「ごめん、あかん!」
 夢からたたき起こされた気分で、俺は柳を見返した。頬を上気させて、柳は荒い呼吸を繰り返しとる。
「……なんで?」
「なんでも」
「……なんやソレ!説明しいや!」
「……あかんもんは、あかんの!……ごめん」
 呼吸を落ち着かせた柳は、ため息をついて、視線を川面のほうへと移動させた。途中で行為を中断させられた俺は、無論不機嫌で、口をへの字に引き結んで、柳に倣って川を睨みつける。
「りゅう」
 少しうつむいて、柳が呼ぶ。
「……なんや」
 返す声は、知らんうちにどうしてもぶっきらぼうになってしまう。柳は少し躊躇してみせてから、再び口を開いた。
「……あんね……あたし……」
 柳の唇は声をつむがず、ぱくぱくと酸素を求める魚のように、かすかに空気を振るわせただけに留まった。爪が食い込むほどに握られた手は、かすかに震えとる。俺は怪訝さに首をかしげて、柳を見下ろした。
 柳の顔は、苦しそうに歪んで、今にも泣き出しそうな気配が、そこにある。
「……おい柳」
「……ごめん。なんもあらへん」
 柳は帰ろう、と手を引いた。俺は眉間に皺を刻んだまま頷いて、黙ってこいつに手を引かれて階段を上った。

 俺と柳の関係は、微妙やった。
 恋人なんかやあらへん。決して。俺たちはたとえ二人きりでおっても、それ以来それらしい行為に及ぶこともあらへんかった。
 一緒にいるんと胸の奥が温かくなるんは確かやし、居心地はよかった。軽口の応酬も軽く流せる。けれど好きなんかどうか、とか問われると首を傾げたくなる。そんな感情とは、少し違うようにも思えた。
 ただ、笑っていて欲しかった。
 ほしかったんや。

「なぁ大丈夫か?」
「大丈夫やって」
 靴を履きながら、柳が笑う。
「流、いつからそんなに心配性になったん?」
「阿呆。お前がヘマばっかりしよるで、心配性になるしかのうなったんや。誰のせいやとおもとんねん」
「そーやって人のせいにするところ少しは直しんかいな。まったくもう」
 靴を履いて立ち上がる。厚手のジャンパーを引っ掛けて、マフラーで首元をぐるぐる巻きにして、柳はおし、と気合を入れた。降ったり止んだりの雨のせいで、春やいうのに気温は冬なみに下がっとる。
「だって片栗粉買ってくるだけやし。流には雨漏りさっさと直してもらわなあかへんし」
 なーと隣のアキに柳は同意を求めた。ぬいぐるみを抱きしめて、アキはねーっと笑う。買い物にはアキと二人で行くという。ちまいガキやけど、面倒みなあかへん奴がおったら、柳も無理はせぇへんやろ。
 なんで俺がこないに心配しとるかというと、昨日の夜も柳は熱をだして寝込んだとこやったからや。熱を出す感覚がせばまっとる。人の前では空元気装っとうけど、今朝もけだるそうに家計簿つけとったんを見て知っとった。
「雨も今やんどるし、大丈夫やって。それよりも雨降りださんうちに、さっさと直してしもうてよ」
 ひらりと手のひらが振られる。アキが元気に手を振って、柳に手を繋がれて玄関を後にした。
 あいつらの手に握られた、赤い傘の色が、なんや毒々しいぐらいに、鮮やかやった。

「柳さん、帰ってきましたか?」
 夕方、再び雨が降り出してきた頃、神父のおっさんが居間にひょっこり顔をのぞかせた。小学生組と一緒に算数に頭を抱えとった俺は、面を上げた。
「……まだ帰っとらへんのんか?」
 俺は時計を見る。柳とアキが出かけて、そろそろ二時間経つ。出かけたんは歩いて十五分あるかないかのスーパーや。たかが片栗粉買いに出かけて、そんなに時間が経つんはおかしかった。
「雨宿りしとるんかもしれへん。様子見てくるわ」
 俺はそういって立ち上がった。柳とアキは二人とも傘を持って出かけたけれども、濡れるんを嫌がってるんかもしれへん。雨脚はますます激しく、白い礫が雨どいを激しく叩いとる。雨が降り始める前に、修理が終わってよかったと思う。
「……流さん」
「なんや?」
 すれ違いざまに、おっさんが神妙な顔つきで俺を呼び止めた。おっさんはらしくなく視線を泳がせ、何かを言いたげにその口元はもごもごと動いとる。俺はため息をついて、
「なんもないんやったら俺行くけど――」
 そういいかけて。
「おにーちゃぁあああん…………」
 アキの鳴き声が、雨音を押しのけて響き渡った。

「せんせぇぇええ、おにいちゃぁああああん………」
 玄関口に、ずぶ濡れでアキがたっとった。
 アキ、だけが。
「おいバスタオルもってきい。それから風呂わかせ!」
 一緒に様子を見に来たガキ共に命令して、俺はアキの身体をさすった。アキの様子は服を着たまま泳いできたかのような有様で。ぬいぐるみを抱きしめて、アキはわんわん泣き続ける。
「アキ、アキ。もう大丈夫ですから。どうしたんです。何があったんですか。落ち着いて、先生に話してみてはくれませんか?」
「にーちゃん先生ぇ持ってきたで!」
 バスタオルを俺は受け取り、アキの肩にばさりと掛ける。アキはぐすぐす鼻を鳴らしながら、俺とおっさんの顔を見比べた。
「アキ、柳はどこいった。どないしてんや?」
 焦燥がある。
 アキに問いただすその口調が、早口できついものになっとったんは否めへんかった。だが神父のおっさんは咎めへんかった。おそらくおっさんが第一に尋ねたいことは、ソレやったに違いないから。
「おにーちゃんにそっくりなおにーちゃんたちがね……」
「……俺にそっくりなおにーちゃん?」
「……おねーちゃんひっぱってっちゃったの。お、おねーちゃ、に、にげなさいって、おねーちゃん」
 ――基道。
 よぎったのは、基道を含む、昔の仲間の顔やった。昔の俺と同じ、格好をしていた、やつら。
「流さん!」
 背後で、おっさんがなんかを叫んどったけど。
 雨の中に飛び出した俺には、なんも聴こえへんかった。

スーパーの近くで、赤い傘を二つ見つけた。
 柳とアキが持ってでたやつやった。すぐ近くに、片栗粉の入ったスーパーの袋も見つけた。
 水が入ってぐちゃぐちゃで、履き心地最悪のスニーカーを踏み鳴らして、ぬれたアスファルトの上を走っていく。
 “案内人”は、案外すぐに俺の前に現れよった。
「………基道」
 短く切られた、黒い学生服。その上に張り付くようにしてある、特攻服。
基道は冷笑するように口元をゆがめて言った。
「ちょっと面かせや、流」

 案内された場所は、何かの店の跡地やった。レストランかなんかやったんやろう。広いカウンター席と、まばらに並べられたテーブル。その上に、脚を天井に向けるようにして椅子が置かれとる。
 柳は床の上にぐったりと横になっとった。呼吸が荒いことは傍目にも判る。顔が紅潮して、目の焦点があっとらへん。
 発熱、しとる。
 その柳の傍に、柄の悪い男が二人。あの、身なりのえぇおばはんを柳がかばっとった時、からんどった二人組みや。
「……お前、もうちょっと舎弟は選んだほうがえぇで。基道」
 この二人組みは、お世辞にも頭よさそうやとは思えへん。だから扱いやすいいえばそうなんかもしれへんが、俺は気に食わん。
「余計なお世話や。勝手に抜けていきおったくせに」
 隣にたっとった基道が、突然腕を振ってくる。俺は条件反射で身体を引いた。ぴっと銀色のものが、目の前をかすめ、頬を傷つけていく。
がたん!
 テーブルに触れて、バランスを崩し、俺は椅子とともにひっくり返った。
がたがたがたっつ
「……っつ……」
「えぇざまやんか。流、えぇ?」
 胸倉を掴まれながら、俺は冷ややかな目で基道を見据えた。首を絞められて、息が苦しい。声を絞り出すようにして、俺は呻く。
「……柳を返さんかい阿呆」
「お前あのくそガキのどこがえぇんや?」
 基道は驚愕しとるようやった。瞠目して俺を見返してくる。俺は憮然として答える。
「俺にもわからんわ」
 抱きごこちがえぇわけともちゃうし、特別可愛いわけともちゃうし、がやがや五月蝿いし、基道のいうとおりどうもガキ臭いし。
 なのに、あぁどうしてなんやろう。
 だけど、大事やと思ってまうんやから、しゃぁないやろ?
 馬鹿みたいに笑っといてくれな落ち着かへんし、熱だしとったら気が気でないし。
 しゃぁないやろ?
 この感情を、どういえばえぇんか俺は知らへんけど。
「……基道、こんなことする必要がどこにあるねん」
 俺は抜けた。冷たい言い方すればもう関係がない。その抜ける際にこいつらに迷惑をかけたとも思えへん。恨まれる理由が、わからん。
 基道の手元に、力が篭る。
「必要?……そんなもん、あらへん」
 ご、っと視界がぶれる。
「必要なんかのうたって、ただ、むかつくからこうする。……お前一人、あの場所から抜け出ていくなんて、俺は許せへん。こんな、つまらんもんを選んで、出て行くようなやつが、俺よりも、秀でてるやなんて、許せ、へん」
「なんや、て」
ごん
 襟元ごと、頭をゆすぶられ、再度背後の椅子に叩きつけられた。白く濁る視界。
「どう、い」
「だから、お前の女が、どんなに酷い目にあおうと、しったこっちゃ、ない」
「ひぐっつ」
 柳の声に、はっとなる。柳はあの二人組みの片割れに、思い切り蹴り飛ばされて、部屋の壁に叩きつけられた。背中をくの字に折り曲げ、激しく咳き込んでいる。
 そこに、血が混じっていた。
「てめぇ」
 俺は基道の腕を掴み、その腹を勢いよく蹴り飛ばした。基道の身体が、他のテーブルと椅子を巻き込んで転倒する。よろけながら立ち上がった俺に、柳の傍にいた二人組みがナイフを抜いて突進してきた。
 まずは一人目。真っ直ぐ繰り出された突きをぎりぎりまでひきつけてかわすと、その腕を絡め取って膝を梃子に腕をへし折る。呻く相手の足を払い、床にたたきつけると腹と手のひらを、力いっぱい踏み抜いた。
「あぁあああああああぁああ?!」
 からん、とナイフが落ちる。俺はそのナイフを拾い上げながらもう一人の懐に踏鞴を踏んで飛び込んだ。ナイフとナイフを絡めて弾き落とす。床に落ちた二本のナイフを遠くへ蹴り飛ばし、同時にあごを拳で砕いた。ひ、としゃくりあげたような悲鳴が耳朶を掠める。バランスを崩したそいつの腕をとって、片足を踏ん張って背負い投げ。
がしゃぁあああああん………
 男はガラス張りの部分に背中からぶち当たり、硝子の破片をまといながら雨の中へと身体を踊らした。
「………く、そ」
 ネックスプリングの要領で身体を起こした基道が、拳を繰り出してくる。俺はよけきれんで、顔面に食らう。口の中に血の味が広がって、がり、という歯の折れる音がした。
 俺はなんとか踏みとどまった。もう一回突き出される基道の拳を腕で受けて、回し蹴りを食らわす。きゅ、というスニーカーのこすれる音。刹那、俺の踵に痺れるような衝撃が広がり、吹っ飛んでいく基道の姿が網膜に残像を残した。
 がだーんっつ
 ひっくり返った椅子の中に埋もれる基道を、俺は襟首つかんで引き起こした。さっき、丁度こいつが俺にそうしたように。
 腹部に拳を沈ませる。かほっと咳き込み、虚ろな目を向けてくる基道の顔面を、もう一回殴りつける。
もう一回。
もう、一回……。
「流さん!」
 ぐ、っと腕を引かれ、俺は目を見開いた。後ろから羽交い絞めにされて、身体の動きを制限される。俺を羽交い絞めにしとるのは、いつの間にここにきたのやら、ずぶ濡れの神父のおっさんやった。
「流さん、もういいでしょう。この人はもう、動けません。それよりも柳さんです。手伝ってください。早く病院へ連れて行かなければ、彼女のほうが、死んでしまう」
 俺は鼻にこびりつく血の臭いに意識を朦朧とさせながら、ゆっくり立ち上がった。椅子とテーブルがひっくり返り、一気に狭く感じられるフロアの端に、動かない、柳が見える。
「……やなぎ?」
 柳は身体を折って、横たわったまま動かない。歩み寄って傍らに膝を付く。息はあったが呼吸の仕方が変やった。肺から空気がぬけていくような、そんな音。
「流さん、近くの公衆電話で急いで救急車を呼んできてください」
「あ、あぁ」
 俺は立ち上がって、椅子をよけながら出口に向かった。雨はまるでバケツの水をそのままひっくり返したかのような勢いでもって、世界を濡らしている。
「……どうしてやねん」
 背後から、かすれた基道の声が聴こえた。
「どうして、お前には見つかるんや。……どうして。……神崎さんが、お前、頭にしようおもとったって。……誰も、推薦できるやつおらへんいうて……なんで、お前なんや。なんで」
 壊れたオルゴールのように、繰り返される基道の呟きが耳にこびりつく。俺はそれを振り払うように頭を振って、外に飛び出した。



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