back//next//index

4.

「お前、隊ぬけるんか?」
 神崎さんに呼び出されたかと思うと、出し抜けに俺はそんなことを訊かれた。そんなんまったく予想してなかったことやったし、俺はただ息を呑んで、しばらく目を瞬かせることしかできへんかった。
「な、なんでそんななことになっとんですか……?」
 場所は河の堤防。突然呼び出され、無言の神崎さんの後に付いてたどり着いたんがここやった。冬の河は澄んどるけど、どこかそれが寒々しさを引き立てる。小さく瞬く水面。くるくると回りながら浮かぶ、茶色い葉っぱ。水を通して見える、石の枯れた色。
「違うんか」
「違います」
 きっぱり言ったが、俺の心の中にはどこかしこりが残った。抜けるとかいうんは考えてはおらんかった。やけど、最近ほとんど顔を見せてないんは確かで。
「まぁ座れや」
 煙草に火をつけながら、神崎さんが言うた。
俺は無言でその言葉に従う。神崎さんの指示するまま隣に腰を下ろし、紫煙が上がる様を視界に納めた。
「……女できた、いう話は」
「……それもちゃいます。………どっから出てきたんですかそんな話」
「さて。だけどまぁいらん噂好きなんがよおけ現れてきたんも確かやな」
 ふ、と笑って再び神崎さんは煙草を咥える。リズムを刻むように、深く吸い込まれ、吐き出される灰色。それが虚空に千切れ、凍った海のような色の空に解けていく様を、俺は見つめた。
「……抜けたいんやったら、抜けたってえぇ。つっぱっとったってえぇことはない。他に居場所を見つけることができたんやったら、さっさとそっちへ行けばえぇだけの話や」
「神崎さ」
「まぁそれなりにツケはくるけどな」
 そういって神崎さんは小さく笑った。寂しい笑い方や。ときどきこの人はこんな風に笑う。
「お前は、下の奴らからも評判えぇしな。次の頭に推そうと思とった」
「………は?!」
 神崎さんは煙草をもみ消すと、それをぴんと河の中に放った。音もなくそれは着水し、ゆっくりと飲み込まれて沈んでいく。
 俺は神崎さんの顔をぶしつけながらもまじまじと見返した。
「……い、今なんて」
「頭に推そうとおもっとった。やけど、どうしたい?流」
「俺は当然」
「流」
 神崎さんのその声は、まるで冷水のように俺の意識を引き締める。身体を震わせて、俺は神崎さんに向き直った。
「流、すぐに返事はだすな。考えぇ。まっとくから。抜けられるんだったら抜けたほうがええ。お前は、いつも詰まらなさそうにしとったな。ここがお前の居場所ではないんは一目瞭然や。それでも俺の顔を立てて、俺の後を継ぐいうんやったら、もう一度言いにこい。えぇな」
 神崎さんはふっと笑って、俺の肩を軽く叩くと横をすり抜けた。バイクのエンジンをかけながら、この人は言う。
「お前自分では気づいとらへんかもしれんが、最近えぇ顔しとるんや。ホンマやで。……よくよく、考えとけ、流」

まったく不本意やった。
不本意なんは確かやった。
だけど、苦痛なほど感じ取った退屈を、覚えなくなったんは確かやった。

 俺も阿呆やと思う。いくらあの孤児院の運営とやらを手伝うって首を立てにふってしまったとしてもや、そんなん反故にしてまえばええだけの話や。なのにその日することも特になかったもんやからついついそこに足を運んでもうて。
「うわー本当にきてくれてん?」
「……アレだけ来いやいうたんは何やってんやお前。来んでもええんやったら帰るぞ俺は」
「ちゃうちゃうそんなんとちゃう!たすかったー運び出したい荷物があるんやけど人手たりんかってん。ありがとう流」
 なんて満面の笑みでえらいごっつう嬉しそうにいうもんやから。
 礼言われるのも悪い気はせえへんかったし。
 結局そのままずるずると手伝うことになってしもうた。

 すること言うたら搬入される食料やらなんやらを運び込むことやとか、家のあちこちの修復やとか、ガキ共の遊び相手やとか。別の仕事をしている柳は、そんなに遊んでやれへんのが実際のところや。俺は体力が果てても上にのしかかられ、*わやにされ、ぶっ倒れてそのまま泊まりなんていうこともざらやった。どうせ俺、友達の家に居候しとる身やったし。最近女ができたらしいそいつんところに、いつまでもいるんは気がひけとったし、丁度よかった。
 久しぶりにギターを引っ張り出してきて、せがんでくるガキのために弾いてやったりもした。小学校に通っとる年長組はこぞってそのギターに夢中になった。女は手を叩いて歌を歌ったりもした。俺が昔弾いとったんは専らロックやった。ガキどもにせがまれるまま、初めて童謡やら人気のアニメの主題化やらの楽譜をあさった。もともと年下の面倒をみるんは嫌いやない。俺が家を出るまでかわいがっとった、年の離れた弟のことをふと思い出す。

代わり映えがないはずやのに。
退屈ではなくなっとった。

「にーちゃんにーちゃん」
「ちょっとまっとれすぐに聞いちゃるから」
「流にーちゃんねーにーちゃん」
「………」
「にいちゃんってばー」
「じゃっかぁしー!黙っとれ集中できんでラジオ直せへんやろが!」
 ドライバーを握る拳をぶんと振り回すと、ガキ共は何が面白いんか、きゃーきゃー騒ぎながら散っていく。そして俺が背を向けるとまた引っ付いてくるんや。うんざりするが、もう慣れた。なれっていうのは恐ろしいもんで、突然ガキが笑顔でおもらししたーなんぞいうても驚かず迅速に片付けることができるようになってしもうた。いやはや……俺、この年で保父かいな。
 今回もまた、ちびっ子が一人俺にくっつきよる。ぬいぐるみを片時も離さへんこのガキの名前はアキ。あの最初に笑顔で俺に礼いってきよった娘や。
「にーちゃーん」
「………なんや」
「ねーちゃんはー?」
「俺が知るかい。飯の準備しとるんとちゃうんか?」
「いないのー」
「わぁったこのラジオ直したら探したるから」
「やーだー。おなかすいたのにー」
「………たく」
 俺は修理器具を布でくるみ、分解されたラジオごと箪笥の上へ置いた。当然、アキらが触らんようにや。
「探したるからちょっとまっとれ」
「ありがとーにーちゃん」
「はいはい」
 ひっくり返ったレゴブロックを踏んづけんようにしながら、俺は縁側にでた。
日はもうとっぷり暮れとる。神父のおっさんは今日は結婚式の仕事らしい。夜遅うなるいうとった。
 歩くだけでぎしぎしきしむ縁側。そろそろこれも修理のし時やと思うんやけど。まぁワックスだけでもぬってやったら水弾いて腐るん防げるし、明日やったろうかとか思うあたり、俺ももうどっぷりここの生活に漬かってもうとる。
 俺は部屋を順番に見て回った。台所は明かりがついとらん。除いてみたが、やっぱり誰もおらへんかった。小学生組は宿題しとった。
「……自分の部屋におるんとちゃう?」
 柳は、とたずねた俺に、一人が言った。
「部屋でなにしとんねんあいつ」
 もう夕飯作らなあかへん時間やのに。すると一人が憮然としていうた。
「……ねてるんかも」
 もう一人が同意に首を振って続ける。
「最近おねーちゃんよく寝てるよね」
「疲れてるんやろ」
「……わぁった。ありがと」
 俺はひらりと手を振って、急な階段を上った。柳には一応個室がある。屋根裏といってもえぇ部屋やけど。向かいの空き部屋を、俺が占領しとった。くそ寒い屋根裏やけど、ガキどもに眠りを侵食されんだけましだと思わなあかんのかもしれん。
「……柳?おるんか?」
 扉をノックする。返事はなかった。ノブをゆっくり回す。いつも鍵がかかっとるはずの扉は、あっさりと開いて俺を向かえ入れた。
「柳?」
「………あー………ぁ?流?」
 初めて見る柳の部屋には物はない。ボロイ机がおかれて、ぺらぺらの布団が敷いてある。その傍に、料理の本が何冊か積まれとった。
 柳は布団の上でぐったりと横になって、俺を見返しとる。暗くてよう判らんけど、顔色が悪いように見えた。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、柳は身体を起こしながら呻いた。
「あーごめん。ごはん……今作るし、まって……」
「ちょっとまて。お前具合悪いんか?」
 俺は柳の横に膝をついて、顔を覗き込んだ。顔がどこととなく腫れぼったいのは、寝起きやからやろうけど、顔が赤い気がする。
「お前熱あるんとちゃうんか?」
「ないって。ちょっと眠いだけ……」
「なはずないやろ熱いやんか!」
 腕に触れると汗ばんだ肌がびっくりするほど熱い。どう考えても熱があった。立ち上がろうとする柳を、俺は布団の中に無理やり押し込んだ。普段は暴れまくるくせに、今日はやっぱりおとなしい。薄い布団の中で、柳は首をひねって呟いた。
「えー……おっかしいなぁ。あたし薬呑んだのに……」
「薬飲んだって熱なんかすぐに下がるかいど阿呆!……ちょっとまっとれ。そんな寒い布団で寝取ったらよくなるもんもよくならへんし」
「でもご飯」
「そんなもん俺が作るからおとなしゅう寝とけ!……たく風邪引いとるなら風邪引いとるゆえや」
 相変わらずストーブも何もない部屋や。居間からストーブを持ってきて……あーガキ共五月蝿いかもしれへんな。だけど今日は我慢させな。それから俺の布団ももってきて。
「流……」
「なんやねん。水ならもってきたるからちょっとまっとけ」
「……ううん。そじゃなくて……流、料理できるん?」
「は?まかせとき。自慢やないけど一応はできるで。目玉焼きがスクランブルエッグになったりはせぇへん」
「うそぉ」
 失礼なことに、柳は目ん玉ひん剥いて驚きおった。男の癖に料理ができるんかよういわれるけど、出来たほうが便利やと思う。金がないときは自炊にかぎるんや。
「だから寝とけ。えぇな。ね・ろ」
 一音丁寧に区切って命令する。柳は少し不服そうな顔をしたが、結局睡魔には勝てんのか小さく頷いて布団を顔まで引き寄せた。

 ガキどもにはキャベツのカレー炒めとコンソメスープを作り、柳にはおかゆを作る。梅干がないんが辛いところや。ストーブは柳への必要性を訴えて、ガキどもからの奪取に成功した。寒々しい屋根裏部屋に取り付ける。
「……どうしたん。熱でもあるんちゃう流」
「なにいうてんのや熱があるんはお前やろ」
「じゃなくて」
 粥をレンゲで口へと運ぶ動きを止めて、柳は至極まじめな口調でいった。
「めちゃくちゃ優しいやんどうしたの。霰でも降ってくるんとちゃう?」
「……てめ殴り倒されたいんやったら頭だせ」
「……ごめん、いつもの流やった」
 柳はお手上げをして降参を示す。あいつを睨む目を伏せて、俺はストーブのつまみを捻った。でかくて重たい石油ストーブ。火が入るには、少し時間がかかってまう。
「……でもホンマ、めっちゃ優しい。なんでヤンキーなんかになったん?似合わへんて」
 粥に息をふきかけて冷ましながら、柳が訊いて来る。俺は眉をひそめながら、あいつに向き直った。
「……難しいこと訊いてきよるな」
「だってホンマに似合わへんやんあの格好。最初、流、怖ぁないんかって訊いて来たけど、むしろ変やったで。お笑いか思うた」
「嘘こけ」
「ホンマやって」
 くすくす笑いながら柳は繰り返す。そんなこいつに呆れながら、俺はため息をついた。
「世の中お前みたいなんばっかやったら、平和やろうなぁ」
「何ソレどういう意味なん?」
「そのまんまの意味やで?」
 少しの間をおいて、俺と柳は腹を抱えて笑った。こんな風に笑うんは、いつぶりのことやったんやろう。薄い畳をばんばん叩いて、堪えられへんというように二人で笑うた。
 何がおかしいんか、ようわからんかったけど。
 ようやく笑いが収まったころ、目じりの涙を拭いながら、柳が手招きする。招きに応じて顔を寄せる。するとこいつの手が伸びて、髪に触れた。
「でももうヤンキーともちゃうねー。普通の人」
 かつて固めていた髪は、今は伸びて、ぼさぼさで。ガキ共の相手を一日中しているといくら固めてもすぐに崩れてまう。集会にでなくなってからは、もうまったく髪を整えることもやめとった。朝起きて、髪洗って、そのまま伸びた髪を後ろで適当にしばっとる。
 着ているもんやってジーパンと襟の伸びたトレーナーやったし、確かにヤンキー然とした格好では、もうなくなっとった。
 猫の毛をすくような柔らかい手つきで、柳が俺の髪に指を通す。心地よさに、俺は瞼を下ろした。薄暗い部屋に、柳の静かな声が響く。
「天使と悪魔は、同じ顔しとるんやって」
 俺は顔を上げた。あどけなさがまだ抜けきらへん、柳の顔がそこにある。
「見る人によって、それは悪魔にも見えるし天使にも見えるんやて。少なくとも、あたしにとって、あんたは悪魔には見えへんかった。そりゃ天使にも、みえへんかったけど」
「なんや俺、初めてお前がシスターっぽいこと口にするん聞いた気がするわ」
「そぉ?……確かにあたし、神様信じとらへんし」
「……お前不良シスターかいな」
「やねー。……はは。不良仲間や」
 ぎゅ、と襟元が握られる。その手はなんや震えているように思えた。寒いんか。そう思った瞬間、ストーブの点火する音が響いた。
 これで少しは、温まる。
「流」
「柳、お前もう寝ぇ……」
 ふ、と。
 一瞬やった。
「……やなぎ」
 一瞬だけ。
「……ごめん。……わすれて」
 こいつの唇が俺の唇を掠めた。
「ごめん忘れて。熱で、ちょっと寂しくなっとんねん。それだけ。それだけやから。ごめん。……ごめん」
 ぱたりと、手がおちて、柳がうなだれながら繰り返す。
 俺の脳裏にはふと、あの一番初め、夜の河端で、今にも自殺するかのような虚ろな目で川面を見つめとったこいつの姿が思い浮かんだ。今の柳の目は、あの時とまったく同じ目をしとった。
 今にも、自殺しそうな。
 俺は汗で張り付いた柳の前の毛を指でよけてやって、そのあらわになった額に口付けを落とした。女の経験はそれなりにあったけど、こんなことするんは初めてやったから、かなり緊張して。
 きょとんとする柳を置いて、俺は立ち上がる。
「お前も忘れぇよ」
 廊下への扉を開けながら、背後のあいつに声をかけた。震えた柳の声が、響く。
「りゅう」
「薬飲んではよ寝ろ。で、さっさと治せ。一人でガキ共の相手するんは、疲れてしゃぁない」
 ちらりと振り返ると、柳が泣きだしそうな、心細そうな微笑を浮かべていた。置き去りにされる子供の顔や。ちくりと胸が痛む。けれどずるずると、この部屋にいるわけにもいかへん。
 柳が、眠れへん。俺も、やらなあかんことが残っとる。
「……お休み流」
 扉を閉める寸前に、かすれた声が隙間から漏れる。俺は少し笑っていった。
「……あぁ。お休み」

やらなあかんことが、残っとる。

「……そか」
 神崎さんのアパートにはもうほとんどものはなく、ダンボールがつまれている。外気をさらに冷やす、雨の降る夕方。
 神崎さんは椅子に深く腰を下ろして、天井を仰ぎながら煙を吐いた。口元を皮肉っぽくゆがめて、俺に向かって笑う。
「よかったな」
「……そうですか?」
「あぁ……よかった。少し寂しい気もするけどな」
 とんとん、灰を、硝子の灰皿の縁で落としてこの人は言った。
鉛が中に入った、鈍色の輝きを封じ込めた灰皿。自分が昔あげたもんやった。今も使ってくれているんやと思うと、なきたくなるような感情が胸にこみ上げる。
 俺を、弟のように可愛がってくれとった神崎さん。どこにも行き場をなくしとった俺を、隊に呼んでくれたんも、この人やったことを、今更のように思い出す。
「でも神崎さんもいってまうやないですか」
「阿呆それでも、こっちの世界からぬけるんとは、ちょっと違うで」
「……神崎さんは、隊から抜けて、仕事につくんとちゃうんですか?」
「そやけどな。俺は、あれや。いわゆる、ヤクザ業や。結構でかい組のな。マトモな、生き方とはちゃう」
 疲れたように吐かれる紫煙。昇る煙は、まるで絡みつくしがらみのようで。
「どこ、いくんですか?」
「大阪」
「……いつでていくんすか?」
「すぐや。年末」
 神崎さんは椅子の背に引っ掛けられたジャケットのポケットをまさぐると、掴み引き出したものを俺に投げた。顔へ真っ直ぐ向かって飛んできよったそれを、眼前で受け止める。
 手のひらを開くと、銀色のジッポライターやった。
「やる。もうすぐ誕生日やろお前」
「……神崎さん」
「それから、もう集会には二度と顔みせんな。そのほうがえぇ。付き合いをみんな切れ。俺ともや」
 俺は、手のひらのライターを見つめた。
 確かな質感と重さをそこに感じる。決別の合図として、渡されたそれを俺は握り締めた。
「元気でやれや」
 俺を見下ろす瞳。ほんの少し、寂しげに細められたそれ。
苦笑に、ゆがめられた口元。
 俺は真っ直ぐ見返す。
「さいなら、神崎さん」

わやにする=滅茶苦茶にする。



back//next//index