第三帖 北は埋められ花は手折られ 3
雪が視界を染め上げた、寒い寒い冬の日。
わたしが逃げ出した部屋に、暁人さんは今も住んでいた。
妹尾さんは暁人さんをベッドの上に横たえて、大きく息を吐いた。汗を拭いながらわたしと目を合わせて彼は微笑む。
「すまなかった。巻き込んでしまって」
「……いいえ」
抱えていた妹尾さんの荷物を渡しながら、わたしは否定した。
「わたしも、アキさんが心配だったから、いいんです」
「そうか。……と、失礼」
突如スーツのポケットからバイブレーションが鳴り響き、彼は携帯を手に寝室を離れる。その間、わたしは暁人さんの上着を目についたハンガーに掛けて、彼の枕もとを快適に整えることに専念することにした。
まず、暁人さんのシャツのボタンをいくつか外して、襟元をくつろげる。目に入った喉元の線に、訳もわからずどきどきした。下敷きになっている掛布団をずるずると引き抜き、暁人さんの身体をそっと覆う。重労働でもないのに、妙に息が上がって落ち着かなかった。
「迎えが来た」
電話を終えた妹尾さんが姿を見せて言った。
「家まで送ろう」
「あ、え、いえ」
「迎えはわたしの家内だよ」
男のひとと二人で不安がったと思ったのか、彼は穏やかに付け加える。
わたしは寝息を立てる暁人さんを一瞥して、首を横に振った。
「わたし、もう少し、アキさんの様子を見てから帰ります」
起きたとき、すぐお薬を飲めるようにしておいてあげたい。胃薬なら調達済みだ。それに、体調が悪いときにひとりだと、不安なのではないかと思ったのだ。
妹尾さんは、微笑んだ。
「そうか」
わたしは玄関まで妹尾さんを見送りに出た。靴を履き、鞄を持った彼は、ドアに手をかけてわたしを振り返る。
「それじゃぁ気を付けて」
「はい」
ありがとうございます、と言葉を紡ぐはずだった唇は、続いた妹尾さんの言葉で、凍りついた。
「君みたいな気立てのいい婚約者を持って、成川は幸せものだな」
面を上げて、わたしは呻く。
「……こんやく、しゃ……?」
妹尾さんは、わたしの問いに答えてはくれない。
そのとてもきれいな微笑を残像のように残し、扉は非情にも、私と彼の間を隔てたのだった。
ひやりとした何かが、顔に触れている。
水底から浮上するように、意識が徐々に覚醒し、暁人は身じろぎした。薄く開けた瞼の向こうに、見慣れた天井が見える。
実家を出てからもう六年以上、住み続けているマンションの寝室。
けれど仕事を終えてからどのようにしてここに戻ってきたのか、判然としない。
そこそも、今日は何年何月何日だったか。
記憶の混乱もここに極まれりだと苦笑し、手さぐりでサイドボードのデジタル時計を引き寄せようとした暁人は、指先に触れたやわらかい感触に息を詰めた。
ひとの、てのひら。
それを握りしめて引き寄せる。
「きゃ……」
薄暗い部屋に、小さな悲鳴が上がった。小柄な身体が、どっと胸元に倒れこんでくる。
上半身を起こしてマットレスの上に後ろ手を突いた暁人は、愕然と呟いた。
「つゆ、こ」
露子は呆然とする暁人の前でもたもたと身体を起こす。そしてきゅっと眉根を寄せると、上目遣いに暁人の顔を窺った。
小さな手が、寝起きで熱った頬に触れる。
「大丈夫? アキさん」
「……なんで」
「アキさん、お酒を飲んで、具合悪くなってしまったの」
言われてみれば、確かに大量に酒を飲んだような――否、雑多な種類の酒を飲みすぎたのだったか。
どこで飲酒をしたのだろうか。この部屋だったような気もする。繁華街の居酒屋だったとも思える。頭を襲う酷い痛みが、記憶を縦横無尽に掻き乱し、引き裂いていくせいで、思考が少しも纏まらない。
そうこうするうちに露子はベッドを離れ、ダイニングへと姿を消した。静まり返る部屋。しばらく待っても、彼女が戻ってくる気配はない。気が抜けてベッドに背から倒れこみ、暁人は幻だったのだろうかと思いながら目を閉じた。
再びうとうとと微睡み――……。
「アキさん」
揺り起こされて、我に返った。
動かした視線の先、彼女はベッドの傍で膝立ちになっている。
「おくすり。のめますか?」
露子は水で満たされたグラスと、胃腸薬と思しき袋を暁人に差し出した。
封切られた袋を震える手で受け取り、粉末を口に含む。続けて、グラスの縁に口を付けた。胃の腑に落ちた水は、胸の不快感を幾何か洗い流していく。
露子は空になった袋とグラスを引き取って、再び別室へ消えた。頭を枕の上に落とした暁人は、呼吸を整えながら、その背を追う。
耳を澄ますと、聞こえてくる、裸足の足音。水の流れ。エアコンの稼働音。
感じられる、確かな、ひとの気配。
やや置いて戻ってきた露子は、ベッドの横にちょこんと腰を落とした。
その顔に、手を伸ばす。
「つゆこ」
身体を捩り、温かい身体をそっと抱き寄せる。鼻先をくすぐる柔らかい髪の感触に、ひどく、泣きたくなった。
「あ、アキさん、あのね」
狼狽した様子の露子の頭を強く抱え、彼女の言葉を封殺する。
「いい。いいんだ……。ありがとう……戻ってきてくれて」
あぁ、自分は、夢を見ていたのだ。
暁人は思った。長い、夢を見ていた。雪の降る夜。この部屋から逃げた少女が、二度と自分のもとに帰らぬ夢。
露子は、戻ってきた。
戻ってきてくれたのだと、思った。
暁人は彼女をさらに強く掻き抱き。
そしてそのまま、眠りに落ちた。
遅くなると連絡を入れていたとはいえ、明け方に近い時間に帰宅したわたしは、両親にこってりとしぼられた。
「わたし、飲み会は当分禁止なの……」
和真くんたちからの誘いを、わたしは肩を落として断った。週末の飲み会の後、定期を取りに(実際は暁人さんに会いに)戻り、友人たちと別れたわたしは終電を逃して、親から遅い帰宅を厳重注意されたのだと説明する。
和真くんはひどく憤った様子で、言葉を吐き捨てた。
「なんだよそれ! 露子の親ってどんだけ露子を締め付けりゃ気が済むんだよ!」
「別に、わたし、締め付けられてなんて。ただ、心配してくれてるだけで」
「いーや、一人娘が手を離れるのが嫌なんだろ! 自分のわかんねぇところで、好き勝手やられるのが嫌なんだよ」
「ちがうよ!」
声を荒げて否定したわたしを、和真くんは目を見開いて凝視する。その表情に、わたしは高ぶっていた感情が、急に萎れていくのを感じた。
「……ちがうの。そんなふうにいわないで」
わたしの両親は、とても過保護。みんなのご両親と比べれば自由が少ない部分もあるけれど、遅くに生まれたわたしを大切に育ててくれていることは知っているから、できる限り逆らいたくはないのだ。
両親はいくら飲み会でも限度があると怒ったのであって、これがもし遅くなるに相応しい理由をあらかじめきちんと連絡していれば、そこまで目くじらを立てることはなかったと思う。
沈黙するわたしたちに、明るい声を向けてくれたのは、加奈ちゃんだった。
「まぁまぁ、露子。和真もあんたがいなかったら、さびしいだけなのよ」
わたしを後ろからぎゅっと抱きしめて、彼女は続けた。
「こいつなんて放っておいて、わたしといちゃいちゃしよう」
「かなちゃん……」
「飲みが駄目ならケーキでも食べに行く?」
加奈ちゃんの隣から現れた心美ちゃんが、街カフェ特集の雑誌を掲げた。
「さっきもあっちでカフェりに行こうっていってたのよ」
部屋の隅のテーブルを囲む友人たちが、わたしたちの視線に気づいて、手を振ってくる。
彼女らに手を振り返していたわたしは遠ざかる気配に気付き、慌ててその背に声を掛けた。
「和真くん……!」
「大丈夫だよ、露子」
わたしの手を掴んで、加奈ちゃんが引き止める。
「おとなしい露子に噛み付かれて、ちょっとショックだったんだよ」
「でも私も結構びっくりした。まさか言い返すなんて思わなかったから」
「だって」
わたしは言い訳しようとし、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
――……暁人さんなら、あんなふうに、いわない。
わたしは血の気の失せた手を握りしめ、そう思った自分を恥じて、俯いた。
月曜、いつもより早く出社した暁人は、もう席に着いてメールをチェックしていた上司に歩み寄り、頭を下げた。
「おはようございます係長。先日はすみませんでした。醜態を見せて」
「あぁ、おはよう」
上司はマウスを握る手を止めた。
「もう大丈夫なのか?」
「えぇ、どうにか」
「よかったな。あぁ、メールもありがとう。悪かったな。電話に出られなくて」
「いえ……」
少しでも早く礼を述べるのは当然のことだ。
正体を失くした男ひとりを担がせたのだ。女ならまだしも。
かつてない失態に、暁人は穴があったら埋まりたい気分だった。
「あぁ、そういえば、かわいらしい婚約者だな」
自分の席に戻ろうと上司に背を向けた暁人は、投げかけられた言葉に瞬いた。
「……は?」
「気立てのいい感じのお嬢さんだが、見たところずいぶん若いな。……いくつ離れてるんだ? 彼女」
上司が誰を示しているのか理解に努める一方で、暁人の口は既に返答のために動いていた。
「ななつです……」
そこで初めて、上司の眉が訝りにひそめられる。
「ということは……二十一? 大学生か?」
「……かのじょは、そう、ですね」
「付き合って二年になると言ってただろう。いつからの付き合いなんだ?」
「……それは」
曖昧に言葉を濁した暁人を見据え、上司はようやっと勘違いを悟ったようだった。
「婚約者じゃなかったのか」
「……兄嫁の、妹、のような子で。兄夫婦を挟んで食事したことが」
「すまない」
上司が神妙に謝罪を述べる。
「……彼女に、悪いことをしたな」
「……どうかしたんですか?」
らしくない様子でぐるりと視線を彷徨わせた彼は、暁人の問いに重苦しく口を開いた。
「完璧に、彼女がそうだと思っていたからな。言ってしまった。君が婚約者で、成川も幸せ者だろうと」
暁人と同じように悪酔いした天宮が、いまだ体調不良で欠勤ということもあって、念のために病院で診察を受けることにした。結果は無論何もなく、胃腸の薬を出されただけだった。
そのまま取引先を回り、帰社する前に少しだけ寄り道をする。
閑静な住宅街の一軒家。その門前を、箒で掃き清めている婦人がいる。
来訪者に気が付いたらしい彼女は、大きく目を見開き、昔と同じように穏やかな微笑で暁人を招き入れた。
「本当に久しぶりねぇ。元気してた?」
露子の母が、コーヒーの香り芳しいカップをテーブルに置く。暁人は申し訳なさに微笑しながら頷いた。
「はい。おかげさまで。あれだけお世話になったのに、ご無沙汰して申し訳ありませんでした」
「いいの。お仕事忙しいんでしょ? 琴乃ちゃんから、時々話を聞くわ。今日は露子、アルバイトの日なの。帰ってくるのが遅くなるんだけど……」
「あ、いえ。僕も実はまだ仕事中なので、すぐにお暇します」
本当は家の中にあがり込むつもりはなかった。母親に先日の謝罪をし、露子に託(ことづけ)を頼むだけの予定だったのだ。
「あら、そうなの」
婦人は、残念そうに声を低める。
「今日は少し多めにシチューを作ったから、ちょうどよかった、と思ったのに」
「すみません」
「いいの。それにしても今日は露子に渡したいものって、一体なんだったの?」
対面のソファーに腰を下ろした彼女は、実に怪訝そうな様子だった。無理もない。家庭教師を辞めてから四年間、暁人は一度もこの家に寄りつかなかったのだ。
「渡したいもの、というか、返したいもの、だったんですが」
暁人は脇に置いていた小さな紙袋をテーブルの上に置いた。
その中から、ハンカチを取り出す。
先週の金曜の夜。露子が暁人の部屋に忘れていったものだった。
「……ご存じかと思いますが、先週、露子さんに久しぶりにお会いしまして」
暁人が目覚めたのは、土曜日の明け方である。
露子の姿は既になく、冷蔵庫の中で鎮座していた見覚えのないスポーツドリンク、テーブルの上に残された粥の入った鍋と書置きがなければ、酒に浮かされてみた夢だと錯覚していただろう。
ハンカチはベッド脇のサイドボードに置かれていた。夢うつつの中、濡れた布で顔を拭われていた記憶がある。ハンカチはその時に使われていたものに違いなかった。
「あら? そうだったの?」
暁人の予想に反し、露子の母は驚いた様子だった。
「やだあの子ってばアキ君のことなんて何にも言わないから……」
「え? そうなんですか?」
どう考えても、露子は深夜を回ってから帰宅したはずだ。
「実は恥ずかしながら、街中で具合が悪くなったところで偶然会って、助けてもらったんです。その後、薬や、食事の世話をしていただいて、助かりました。僕が寝ている間に帰ってしまったらしくて……」
「……もしかして、先週の金曜の夜? あの子、明け方近くに帰ってきたのよ」
暁人は申し訳なくなりながら頷いた。
「……かなり夜も更けていた、と記憶しています。てっきり帰りが遅くなった理由を、もう説明しているものと思っていました。今日は、そのお詫びも、と思いまして。露子さんを遅い時間まで引き止めて、申し訳ありませんでした」
露子はこの夫妻にとっては愛娘だ。手中の玉のように大切にしている。夜遅いだけでも心配だろうに、理由もなく明け方近くまで帰宅しなかったとあっては、気が気でなかっただろう。
「なるほどねぇ」
婦人は深く首肯した。
「あ、コーヒー飲んで。冷めてしまうわ」
「……いただきます」
勧められるままに、暁人はカップを口に運んだ。ここの家では、父親がかなり豆にこだわっていることもあり、出されるコーヒーは一級品だ。社内の休憩所で飲めるインスタントとは違う芳醇な味わいに、暁人は舌鼓を打つ。
露子の母が、ふいに笑い出した。
「そういう几帳面なところ、相変わらずね、アキ君」
「……几帳面、ですか?」
「そう。わたしたちに礼を尽くそうとするところ。いいのよ、お詫びなんて。具合が悪かったんでしょ? 仕方がないわ。露子が何も言わないのが悪いの。遅くなるっていうメールはくれたんだけど、帰ったきたの、午前……何時だったかしら。あんまりにも遅い上に、説明がしどろもどろで、何か隠してるぞって感じでね。馬鹿ね、あの子ったら。本当のこと言えばいいのに。アキ君に会ったっていうのが、照れ臭かったのかしらね」
「いえ、たぶん……」
暁人が醜態を晒したという事実を、伏せようとしてくれていたのではないか。
露子は、そういうところのある娘だ。
だがあの時の状況を細かに説明しようにも、暁人自身の記憶が曖昧すぎる。
露子の母は、暁人の手元にある紙袋を指し示した。
「それは?……まだ何か入っているわよね?」
「あぁ、これ、露子さんへのお礼です」
何気ない風を装い、暁人は紙袋を差し出した。
「彼女に、渡していただけませんか? たいしたものじゃないですが」
「……たいしたものじゃないの?」
紙袋のロゴを凝視して、婦人が問う。暁人は苦笑した。ブランドものらしいが、中身は本当に些細なものだ。
空になったカップをソーサーの上に置いて、暁人は壁掛け時計を一瞥した。
「すみません。僕は、そろそろ」
用事を済ませたなら早く辞去するに限る。それでなくともこの家は、暁人を無駄に感傷的にさせた。
「アキ君は独り暮らし?」
「え? えぇ」
「そう」
問いの意図が、わからない。
暁人は首を捻りながら、鞄を提げて一礼した。
「コーヒーご馳走様でした」
婦人が、露子によく似た面差しを柔らかく緩めて微笑む。
「独り暮らしじゃ栄養偏るでしょう。いつでもまた、晩御飯食べにいらっしゃい」