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第三帖 北は埋められ花は手折られ 2


 結婚式は秋。少し涼しくなる頃合の三連休に行う予定だった。支度は何事もなく進んだ。式場を選び、ドレスを決め、エステに通う未来の妻は、怖くなるほど機嫌がよい。仕事も滞りなく。まるで台本通りに。
 寸分の狂いもなく、周囲は進行していく。
 カレンダーを見つめながら、夏になる、と暁人は思った。気が付けば、記憶から数か月が飛んでいる。手帳を見ればこなした仕事の内容、取り付けた契約、交わした約束、積み上げた成果、残した問題、諸々のことはきちんと思い出せるのに、記憶が連続していない。
 現実感を伴わぬ日々。
 ひとりで目覚める朝、ベッドの上に仰臥しながら、まだ自分は夢を見ているのではないだろうかと、暁人はふと思った。


「まるで主任のほうが、マリッジブルーになっているみたいだな」
 週明けのミーティングで使う資料を持ってきた上司は、暁人から話を聞いた後、そう言って笑った。
「はぁ、僕がですか?」
 言われてみればそうなのかもしれないと、妙に納得できるところがある。だが、認めたくはない。
「別に女だけがなるものでもないのかもしれないな。俺も覚えがある」
「係長も?」
「俺は本当にこの女に一生振り回されて終わるつもりなのだろうかとかなり真剣に悩んだ」
「噂に聞く奥方を見てみたいですね……」
 社内の女子を騒然とさせた係長の奥方については、女優も真っ青な美女だの、清楚な箱入り娘だのと様々な憶測が飛び交っているが、係長当人の口から話を聞く限り、かなり破天荒な女性らしい。
 そのうちな、と上司が苦笑し、暁人は期待に胸を浮き立たせた。
 会話の終わりと共に、ブースの仕切りの向こうから、柳井がひょっこりと顔を出す。
「ねぇねぇ、今日は、係長と主任、このままあがり? その後お暇?」
 時計はあと三十分ほどで、終業時刻を示す。暁人はパソコンのディスプレイを一瞥しながら答えた。
「この処理が無事終われば、何もないけど?」
 係長もまた、急ぎの用件がない限り、定時上がりの予定らしい。
「こっちも今のところ特には…」
 彼の返答を耳にした柳井は、にまりと口角を上げた。
「アマちゃん、係長たち暇だって!」
 彼女に呼ばれた天宮が姿を見せて、おずおずと提案する。
「柳井さんがお酒のおいしいお店、見つけたんです。……よかったら、係長たちもご一緒にいかがですか?」


 同プロジェクトに配属されて以降、三人とはよく夕食を共にする。休日でも会うような付き合い方をしているわけではないが、気安いわりに口は堅く、そして押しつけがましくない彼らを、暁人は好ましく思っていた。特に上司の妹尾には、実兄に近い年齢のせいもあって、ここのところよく相手になってもらっているとは思う。
 彼らとの付き合いを深めるに反比例して、実兄の家からは、足が遠退いていくばかりだった。


 ビール、ウイスキー、焼酎、ワイン、日本酒。どれもそれなりに楽しめるし、酒には弱くないほうだと思っていた。
 が。
「大丈夫か?」
 妹尾の問いに、暁人はどうにか微笑み返した。
「……大丈夫、だとは思うんですけどね」
 どうにも腹座りが悪くなってしまったのは、勧められた生酒を一合ほど呑んだ後のことだった。量は多くないものの、様々な種類の酒を飲んだあとということもあって、悪酔いしたらしい。立ち続けることままならず、暁人は店の軒先で壁に寄りかかった。
「タクシーももうすぐ来るし、一度店の中に」
 その提案に、暁人は首を横に振る。
「いえ、風に当たりたいんで、ちょっとここにいます」
 店舗が地下にあるためか、どうあっても空気がこもる。それが、吐き気を掻き立てるのだ。
「柳井がいればよかったんだがな……」
 妹尾は嘆息した。暁人と同じく生酒をきっかけに悪酔いした天宮に付き添い、柳井は一足先にタクシーで帰っている。ちなみに妹尾と柳井は暁人たちの倍量の生酒を飲んでいるが、何事もないようだった。
「じゃぁ俺は、荷物を取ってくるから」
「すみません……」
 店に続く階段を下る上司の姿を横目で追って、暁人は息を吐いた。壁に背を滑らせるようにして、その場に腰を落とす。
 下腹部の不快感はますますひどくなる一方だ。暁人は後頭部を壁にもたせ掛けた。往来する人々の脚が、視界を過ぎる。一体何をしているのかと訝る、不躾な視線が暁人を刺し貫いていった。
 こんな風に悪酔いするのは本当に久方ぶりだった。
 浴びるように酒を飲んだのはいつだっただろうと記憶を探り――やめた。にもかかわらず、ふつふつと、まるで気泡のように映像は浮かび上がる。
 暗い部屋。転がる瓶と充満する酒の臭気。フローリングの冷たさ。そこから眺めた窓の外、街を雪が覆い尽くしていた。
 薄墨色の空。その下で舞い踊る、灰色の六花。白い呼気。冷蔵庫のモーター音。耳鳴り。
 わんわんと、声が反響する。
 琴乃の非難、遥人の慰め、菫の笑い声、仕事でかかわる人々の、緊迫したやり取り。
 そしてそれらすべての雑音を、押しのけるようにして。
 澄んだ、声が。
 ……アキさん。
『わ……なりかわ。……に、してもらうことに、なったからな?』
 妹尾が何かを尋ねている。暁人は曖昧に頷いた。彼の質問の内容について、深く考えることができなかった。
 頭が、割れるように痛い。
『たてる?』
 腕を引かれ、暁人は壁に手を付いて立ち上がった。間もなく、弾力ある座席に押し込まれる。おそらく、タクシーの中。
 ふわりと、何かがあまく鼻腔を掠める。
 ひどく懐かしい香りだった。


「え、露子帰るのかよ」
「うん。わたし、二次会は遠慮する」
「えぇ、じゃぁ俺もかえろうぐぇ」
「和真、お前がカラオケ行きたいっつったんだろうが!」
 わたしを含む帰宅組に付いてこようとする和真くんの襟首を掴み、健太くんが激しい剣幕で怒鳴りつける。周囲からくすくすと忍び笑いが漏れ、和真くんは肩を落としてしょげ返った。
「和真、露子は私たちがエスコートして帰るから大丈夫よ!」
 わたしの腕を取って、心美ちゃんが宣言する。ショートボブのよく似合う、色白の女の子。
「そうそう、野郎どもで仲良くしなさいって」
 わたしのもう一方の腕に自分のそれを絡めたのは、加奈ちゃん。すらりとした体形が羨ましい女の子だった
 他にも、わたしと一緒に帰る子たちが何人か、和真くんへからかいをささめいている。
 和真くんは、居心地悪そうにわたしに苦笑いを向けた。けれどわたしには、彼を友人たちの揶揄から救ってあげることはできない。和真くんは、わたしへの好意を示しすぎるのだ。それが、わたしには少し息苦しい。
「……気を付けて帰れよー露子」
 わたしも苦く笑って、彼に頷いた。
「うん。ありがとう」
「露子だけ!? ねぇ私たちは!?」
「お前らみたいな男女を襲うやつなんざいねぇ!」
「ひどい! 健太! 殴っていいわよ!」
 どっと笑いが巻き起こった後、わたしたちは二手に分かれた。サークルの男の子たちのほとんどは、二次会に向かう。わたしたちは皆、駅に向けて、ネオンサインきらきらしい繁華街をぞろぞろ歩き始めた。終電にはまだまだ余裕があり、のんびりとした足取りだった。
「ねぇつゆこぉ」
「なに? 加奈ちゃん」
「あのさ、あんたまだ和真とエッチできてないってホント?」
 公衆の面前で堂々と、そんなことを聞いてくる友人に、わたしは目を白黒させて足を止めた。
「か、かなちゃん……」
「大丈夫だよ。がちゃがちゃうるさいし。聞き耳立てるひとなんていないって」
「それでも加奈、あんたちょっとデリカシーないよ」
 心美ちゃんが嘆息して、わたしの手を引く。
「露子、突っ立ってたら危ないよ。歩こう」
 わたしたちは、三グループほどに分かれて、歩いていた。かなり前方を行く女の子たちは、映画や旅行や、夏のバーゲンについての話に夢中で、加奈ちゃんの発言を気に留めた様子はない。
 そのことにほっとしながら、わたしは俯いて、心美ちゃんに手を引かれていた。
「あのさ、和真、悩んでたよ。あんた、実は男の子が怖いんじゃないか、そんな話聞いたことはないかって、私に訊きに来るぐらい」
 加奈ちゃんが、ぼそぼそとわたしに囁く。和真くんが彼女に、そんな風に相談していただなんて驚いた。
「そんなこと、ないんだけど……」
「初めてだったら、怖いのは女の子なら誰だって一緒だと思うよ、露子」
 穏やかに、心美ちゃんが語りかけてくる。
「和真はけっこう強引だから、奥手のあんたには色々受け入れられない部分もあるんじゃないかと思うけど、悩みがあるなら聞くからね」
「うん……」
「和真のこと、嫌いなわけじゃないんでしょ?」
「すきだよ」
 心美ちゃんの問いに、わたしは即答していた。
 思いのほか、強い口調で断言したわたしに、加奈ちゃんと心美ちゃんは顔を見合わせて、微笑んだ。
「それ、ちゃんと和真に言ったほうがいいよ」
「和真があんな風に、人前であんたにべたべたしたがるの、あんたが和真のこと好きかどうかがはっきりしないからだと思うよ。ちゃんと好きなら言わないと、伝わらないからね」
「うん……」
 小さく頷くわたしの頭をぽんぽんと撫でて、心美ちゃんが笑う。
「まぁ、私だって人のこと言えないんだけどね」
「まったくだよねぇ!」
「加奈! あんたは少し黙る!」
 いつの間にか、話はわたしについてから、心美ちゃんの恋の話に移り変わる。それが心美ちゃんと加奈ちゃんの、心遣いだっていうことはわかっていた。
 盛り上がる二人を見つめながら、わたしは下唇を噛みしめる。
 和真くんのことは好きだ。とても。
 けれどそれが恋愛感情なのかどうかが、わからない。
 だから口に出すことが、どうしても躊躇われた。
 ぼんやりと歩いていたわたしの視界の隅を、ふと、壁にもたれて地べたに座る、ひとの姿が過ぎる。
 ちかちかと明滅する居酒屋の看板。その陰に腰掛け、目元を覆って、気怠そうに脚を地面に投げ出している男のひと。
 背筋が、電流を流しこまれたみたいにびりびり痺れて、ぴんと伸びた。
 急に立ち止まったわたしを、友人二人が怪訝そうに振り返る。
「どうしたの? 露子」
「え? あ……ううん」
 なんでもない、と、加奈ちゃんに微笑み返し、わたしは再び足を動かした。
 隣を通り過ぎたひとたちの笑いが、空気を震わせる。
 徐行するタクシーの排気音。道を横切る、千鳥足のひと。
 前を歩く加奈ちゃんたちの、楽しそうな、おしゃべりの声。
 胸を早鐘のように打つ、心臓の音。
(おちついて)
 わたしは、息苦しさに喘ぎながら、ワンピースの胸元を握りしめた。
 足元が、妙にふわふわする。
 おかしい、わたし。
 一瞬、見ただけだ。
 ひと違いかもしれない。ひと違いだ。そうに、違いない。
 そんな風に自分に言い聞かせていたはずなのに。
「あ、あの、加奈ちゃん、心美ちゃん」
 角を曲がってすぐさま、わたしは加奈ちゃんたちに声を掛けていた。
「やっぱりなんかあったの?」
 勘の鋭い心美ちゃんが、眉をひそめる。
 胸中を見透かされてしまったような心もとなさを感じながら、わたしは口を開いた。
「あ、のね、忘れ物、したみたいなの。定期入れ」
「え? さっきの店に?」
「本当なの? ちゃんと鞄の中探した?」
 歩み寄ってくる加奈ちゃんから距離を取って、わたしは首肯した。
「さがしたの。わたし、お財布を探すときに、たしかテーブルに置いた覚えがあって」
 たぶん、そのまま、と、口はすらすらでたらめをいう。
 青い花柄の定期入れは、わたしのトートバッグのサイドポケットに、今も入っている。
「だから、お店に一度、戻るね。加奈ちゃんたちは、先に帰ってて」
「ひとりは危ないよ、露子」
「大丈夫。来た道、戻るだけだから」
 ね、と二人に微笑んで、何かを言われる前に、わたしは踵を返した。
「ゆっくりめに歩いてるからね! 露子!」
 心美ちゃんの声が、追いかけてくる。わたしは手を振って、角を曲がった。
 これでもうあのひとがいなくなっていたら、お笑い種だ。その時は、定期はノートの隙間に紛れていたとでも言おう。
 わたしは、来た道を逆走した。サンダルのストラップが足に食い込んで、少し痛い。
 なんでわたし、こんなに息を切らしながら走っているんだろう。
 ほんの一瞬、見かけただけのひとのために。
 わたしは昔、そのひとから逃げたのに。
 居酒屋の並ぶ、通り、ちかちか光る、看板の陰。
 そのひとは変わらず片脚を歩道に投げ出して、ぐったりと壁にもたれ掛かっていた。
 わたしは、膝を突いて、彼の顔を覗き込む。
「……アキさん」
 四年ぶりに見た、わたしの家庭教師だったひと。
 暁人さんは、とても蒼白な顔で、固く目を閉じていた。
「アキさん、アキさん、起きて」
 地べたに座り込んで浅い呼吸を繰り返すひとは、わたしの呼びかけに答えない。具合が悪いのは明白だった。わたしは鞄から取り出したハンカチをペットボトルの水で濡らした。軽く絞ったそれで、彼の額に浮いた脂汗を拭う。もし、このひとが、寝たふりをしているだけで、わたしを無視するつもりだったらどうしよう。そんな愚かしい考えが過ぎって、手が、震えた。
 けれど暁人さんは本当に昏睡してしまっているらしい。わたしがお顔のあちこちにハンカチで触れても、身じろぎひとつしなかった。
 鞄も何も持っていないみたいだけれど、暁人さんは、ひとりでここにいるんだろうか。
 そうだとしたら、いつまでもこんなところで寝かせておくわけにもいかない。
 とりあえずタクシーを呼ぼうと、携帯電話を取り出したわたしの頭に、影が差した。
「君は」
 低い声に驚き、わたしは身体を震わせた。恐る恐る仰ぎ見た先で、遥人さんと同じ年の頃の、男のひとと目が合った。
 びっくりするぐらい、綺麗なひとだった。
 胡乱な視線を向けられ、わたしは縮こまった。緊張しながらしどろもどろに唇を動かす。
「あ、あの、アキさん、は……?」
 その男のひとが、ほっとした様子で表情を緩めた。
「彼の知り合い?」
「はい……」
 しばらく会っていなかったけれど、知り合いであることには間違いない。
「あの、アキさんはどうしたんですか?」
「少し悪酔いした。……この様子じゃ、少しとは言えないか」
 男のひとはわたしの隣に片膝を突き、暁人さんの肩を強くゆすった。
「主任。成川主任。……成川。起きろ」
 暁人さんが低く呻きながら、薄く瞼を開ける。
「……ちょう」
「大丈夫か? 病院に行くか?」
「……いえ、……じょうぶです」
 ぼそぼそと低い声。
 かすれていたけれど、暁人さんの声だと、思った。
「タクシーももうすぐ来る」
 暁人さんは頷いて視線を彷徨わせる。夢をみているみたいに、瞳の焦点が合っていない。
「……アキさん……」
 大丈夫なんだろうかと呟いたわたしを、彼の目がひたりと捉える。
「え?」
 その瞬間、彼はまるで子供みたいに破顔して、わたしを強く抱き寄せた。お酒香る呼気と高い体温に包まれて、わたしは一気に混乱の坩堝へ突き落とされる。
「あ、あぁあぁあ、アキさん!?」
 ともすれば石畳の上に倒れこんでしまいそうな暁人さんを抱え、途方に暮れたわたしは、隣の男のひとに思わず目線で助けを求めた。
「あぁ、なんだ……君がそうか」
 妙に納得した様子を見せて、彼は言った。
「わたしは妹尾(せのお)といいます。彼の上司でしてね。こんな様子ではひとりで帰れないだろうし、付き添うつもりなんですが、自宅の詳しい場所がわからない。案内していただけないだろうか?」
 どうしてこのひとは、わたしが暁人さんの住所を知っていると決めてかかっているんだろう。
 当惑するわたしに、妹尾さんは苦笑して、暁人さんを指し示した。
「まぁ、その様子じゃ、君も離れられないだろう?」


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