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第三帖 北は埋められ花は手折られ 4


 アルバイトから帰宅したわたしは、出迎えた母の険しい形相に目を剥いた。
「え……お、お母さんどうしたの?」
「露子、聞いたわよ」
「……え、え、なに、を?」
 その声音はいつになく低い。母に隠し立てしていることなど、何もないはずだ――和真くんと、お付き合いをしている、という一点を除けば。
 わずかに身を引くわたしを前に、母は先ほどとは一変して満面の笑みを浮かべた。
「この間の金曜日のことよ。遅くなった理由、なんでちゃんと言わなかったの」
「……え?」
「アキ君がお礼を言いに来てくれたわよ。大変助かりましたって。あと、夜遅くに露子を一人で帰して、申し訳ありませんでしたって。あぁいうとこ、ちっとも変わってないわねぇ、アキ君は」
 機嫌よさそうに踵を返す母を、わたしは呆然と見つめた。
「……アキさんが、来たの?」
「残念ながら、すぐ帰っちゃったけれどね。しばらく見なかったけど、本当、男前になったわねぇ暁人君は」
 暁人さんがわたしの家庭教師だったころから、母は彼が息子だったら素敵なのにと公言して憚(はば)らなかった。彼がこの家に近づかなくなって、一番落胆を見せていたのも母だ。久方ぶりに暁人さんに会えたというのなら、この機嫌のよさも納得がいく。
 台所へ戻る間際、母はわたしを振り返って言った。
「あなたの部屋のテーブルに、アキ君から預かっているもの、置いておいたからね。ちゃんとお礼を言っておくのよ」


 母の言った通り、部屋の丸テーブルの上に、見慣れない紙袋が鎮座していた。
 カーペットの上に正座して、躊躇いがちにそれを引き寄せる。有名ブランドのロゴが印字された、何かに使い回しできそうな可愛らしいデザインの袋だ。中には暁人さんの脂汗を拭うときに使ったハンカチと、小さな箱が入っていた。
 綺麗に洗濯されたハンカチを脇に追いやって、ビニールで包まれた箱を眺める。淡いブルーの花が表面にプリントされたそれを、わたしは駅前の百貨店で見たことがあった。
(これ……)
 先日、心美ちゃんたちと一緒に見て回ったデパートの化粧品コーナーで、ふわりと広がる甘やかな香りに、胸をときめかせたオードトワレだった。夏の限定品。そのミニチュアボトル。
 瓶の作りも凝っていて、インテリアとして置いておくだけで華やかな気分になれるそれは、五十ミリリットルのフルサイズよりは低価格だったけれども、十分の一の容量にしては値が張った。新しい夏服を我慢すれば買えないこともなかったけれど、結局は後ろ髪を引かれながら断念したのだ。
 暁人さんは。
 わたしの家庭教師だった。プレゼントをやり取りするような間柄ではなかった。彼がわたしに贈ってくれたものなんて、指折りで数えられてしまう。けれど彼はいつも、わたしの欲しいものを当ててしまう。
 封を切って、手首に香りを少しだけ落とす。
 花のような、南国の果実のような、甘さがくゆった。
 切なく吐息を零し、わたしは紙袋をたたみにかかった。指先をのろのろと折り目にひっかけ――中にまだ、封筒が一通入っていることに気付く。
 手紙か、と思った。
 けれど慌てて引き出した封筒の表書きにはタクシー代とだけ記され、肝心の中身は千円札が二枚きり。
 あとは、何も。
 連絡先すら。
(アキさんらしい)
 彼につながるものが何も残されていないことに、落胆するわたしがいる。
 そんな自分を、罵らずにはいられなかった。
(にげたのは、わたしだ)
 彼とのつながりを、断ち切ったのはわたしだ。
 わたしのほうなのに。
(アキさん)
 せめて、お礼だけでもいいたい。
 声が聴きたい。
 わたしは衝動に突き動かされて立ち上がり、クローゼットの扉を開けた。ジャケットやコート、ワンピースが吊るされているそのさらに上、帽子などを収納する棚から、古びた箱を引き出す。ほこりがもわっと視界を染めて、わたしは軽く咳込んだ。
 表面を覆う綿埃を軽く払い、蓋に手を掛ける。収められているものは、書き込みのなされた参考書、譲り受けた数学ノート、大学祭のパンフレット、あの、硝子玉の首飾り――……暁人さんにまつわるすべてのもの。四年前、彼から逃げたわたしはそれらと優しい記憶を、この中にまとめて押し込めたのだ。
 ノートを何冊か漁っているさなか、紙切れがひらりと落ちて、わたしの膝の下に滑り込む。
 それを拾い上げながら、わたしは泣きたくなった。
 黄ばんだノートの切れ端の上に並ぶ、十一桁の数字。
 暁人さんの、携帯番号だった。
 わたしはトートバッグから自分の携帯電話を引っ張り出して、震える指で数字を押した。無我夢中だった。電話番号が変わっているかもしれないという可能性すら、失念していた。
 その興奮も、コール音が繰り返されるたびに、冷めていく。
 紙袋の中に、どうしてメールアドレスのひとつ、私信すら、残されていなかったのか。
 それは、連絡されたくなかったからでは、ないだろうか――……。
 わたしは受話器を耳から離し、血色失せた指先を、終話ボタンのキーに載せた。
 電話からくぐもった声が響いたのは、指に力をこめようとしたその瞬間だった。
『はい、成川です』


 今日は寄り道してしまったがために、定時を過ぎてもかなりの量の仕事を残していた。
 ウインドウズの画面に表示された数字と、取引先から送付されてきたデータを照合していく。単調ながらも神経を使うその作業に、気怠さと戦っていた暁人は、突如鳴り響いた携帯の呼び出し音に目を細めた。
 社内で配給されているものとは別の、私用の携帯だ。見覚えのない番号が表面に浮かび、明滅している。
 何度見返してみても、記憶にない番号である。少し逡巡した後、念のためと思いながら、暁人は通話ボタンを押した。
「はい、成川です」
 しかしながら、返事がない。
 一度目視しなおした液晶には、通話中の文字が表示されたままだ。首をかしげて電話を再び耳に押し当てると、相手の密かに息を呑む気配だけが伝わってきた。
 椅子の背にもたれ掛かり、目元を揉み解す。
 やはり、悪戯電話か。
『……アキさん』
 嘆息しかけた暁人は、不意に響いた声に体勢を崩した。
「……っ」
 ばさささささっ
「……しゅにーん!? 大丈夫ですか!?」
 通りがかった柳井がぎょっと目を剥き、暁人の席を覗き込む。椅子から転倒することだけはどうにか堪え、床に散乱したファイルを拾い上げながら、暁人は手振りで大丈夫と彼女に示した。


 激しい落下音のあと、大丈夫かと問う女のひとの声が聞こえた。
 がたがたと、何かを動かす音が、断続的に響く。
「……あの、ごめんなさい。露子です。……大丈夫ですか?」
 問いかけても応答がない。
「……アキさん?」
『あぁ……ごめん。今、ファイルを落として……。ちょっと待って』
 わたしに請うた暁人さんは、場所の移動を始めた。電話越しに響く、慌ただしい足音。それに伴って音声がくぐもる。それはしばらくして、ひときわ大きいノイズを挟み、クリアになった。
『……電話……もらえるなんて思わなかった。どうしたの?』
 柔らかい声音に、ほっとした。拒絶されているわけではないらしい。
「……お礼を、言いたくて」
 わたしはテーブルの上のオードトワレを見つめた。
「あの、香水、ありがとうございました」
『あぁ、そんなこと』
 暁人さんの声は、笑いを含んでいた。
『礼には及ばないよ。というか、あれは君へのお礼なんだから。……この間はありがとう。すごく助かった。お粥も、おいしかった』
「ただのお粥ですよ」
 彼があまりにもしみじみというから、わたしは可笑しくなってしまった。台所を拝借して作ったのは、本当にただのお粥だったのに。
『……この番号どうしたの? 義姉さんから聞いた?』
「いえ。……ずっと昔に、ほらあの、大学祭のときに」
 暁人さんの質問に答えながら、床に散らばったパンフレットに視線を落とすわたしの脳裏に、当時の記憶が色鮮やかによみがえる。
 彼の同級生のいじわるにあって、帰ると泣き出してしまったこと。そのわたしを引き止めて、存分に甘やかした暁人さん。一緒に聴いたオーケストラ。分け合って食べたお好み焼き。歩いている最中、ずっと繋がれていた、手の感触。
 この間の夜、寝ぼけていた暁人さんに強く抱きしめられたことをふいに思い出して、頬が熱を帯びる。
『……あぁ、あの時の。……まだ残しておいてくれたんだね』
 わたしは我に返り、無言のままかぶりを振った。
 暁人さんの電話番号。一度は消した。全部。
 ぜんぶ。
『……露子さん?』
 黙りこくるわたしを訝って、彼が訝しげに問いかける。それでもわたしは紡ぐべき言葉を、うまく見つけることができなかった。
 暁人さんは悄然と言った。
『……ごめん』
(なにをあやまるの)
 わたしが尋ねる前に、彼は続けた。
『ずっと謝りたかった。……正直言って、僕とは口を利きたくないって思われていても、仕方がないと思っていたから、こんな風に電話をもらえて、嬉しかった』
 そこでようやっと、わたしは彼との最後の記憶を思い出した。
 あの、雪の日。
 暁人さんを初めて、怖くて、こわくて、たまらないと思って。
 彼から、逃げ出した――……。
『……会って、謝らせてもらうことって、できるかな。この間のお礼も兼ねて……駄目だろうか?』
「……ふたりで?」
『……二人きりが嫌なら』
「そうじゃ、ないの」
 暁人さんの言葉を遮ったわたしは、震えながら言った。
「会うのが、いやな、わけじゃ、ないの」
 むしろ歓喜すらしている自分がいる。暁人さんに、会える。それはわたしにとって、純粋な喜びだった。あの雪の日に覚えた恐怖は、四年の月日を経てずいぶんと風化している。彼と過ごした穏やかな時間に対する懐かしさのほうが先に立った。
「でも、ふたりは」
『こわい?』
 ううん、と否定して、わたしは続ける。
「婚約してるひとがいるんでしょう? アキさん」
 ――……かつて、かれは、わたしをすきなのだと、いった。
 本当かどうかは別として、それはもう過去のことだ。わたしは彼の優しさを、愛情と取り違えぬようにしなければならない。
 だから、釘を刺した。
 自分自身に、釘を刺した。
 かれにはもう、けっこんをのぞむほど、すきなひとが、いるのだ。
『……係長に聞いた?』
「かかりちょう?」
『上司。妹尾さん。会ったんだよね?』
 聞き覚えのある名前に、わたしは頷いた。
「……わたしのこと、アキさんの婚約者だって、勘違いしてました」
『……君に申し訳なかったって、言ってたよ』
「いつ、結婚するんですか?」
『……十月、の、予定』
 暁人さんの婚約について、琴乃ちゃんは何も言わなかった。
 遥人さんと二人で、話題に上らないように、気を遣っていてくれたんだろう。
「だめですよ、アキさん。おんなのこに二人きりで会いたいなんて言っちゃ。婚約者さんに、怒られちゃいますよ」
 わたしは努めて明るく言った。
「それにわたしも……彼氏さんが、いるんです」
 誰かに自分から和真くんの存在をほのめかしたのは、初めてだった。
 わたしはいつも彼とお付き合いしていることを隠したがっていた。彼の過剰な愛情表現を見た周囲に追及されて初めて、お付き合いを肯定するような有様だった。
 それなのに彼氏がいると主張したのは、さびしい独り身だと、同情されたくないからかもしれない。
 わたしには、和真くんがいるんだって、自分にもう一本、釘を刺しておくためかもしれない。
『……君ももう、大学生だもんね』
 おかしくないね。おかしくないですよね。
 そう言い合って、わたしは改めて時の流れを実感する。
 あぁ、もうあれから、四年も経っていたのだ。
『……露子さんは、兄さんたちの家に、行ったりするの?』
「……ときどき、琴乃ちゃんとご飯を一緒に食べたりとか……あと、映画のDVDを借りに行ったりします」
『あぁ、兄さんたち、結構持ってるものね。……じゃぁ、会うかもしれないね。僕も、よく行くから』
 わたしは暁人さんに同意した。
「……会うかも、しれませんね」
 むしろ、今まで会わなかったほうが、不思議だった。
 それだけ、琴乃ちゃんたちは、わたしたちが鉢合わせしないように、細心の注意を払っていてくれたのだ。
 結局、わたしと暁人さんは何の約束も交わさず、就寝の挨拶だけして通話を終えた。
 わたしは、元家庭教師とその生徒、という彼との関係を守らなければならなかった。
 あの頃、暁人さんが、ただの家庭教師とその生徒という関係を、守り通してくれていたように。
 それが、あの冬の日、自分の恋情から逃げ出した罰だったのだ。
 季節は初夏。
 一年が、ゆっくり折り返そうとしていた。


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