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第二帖 葵ならず 4


20XX/12/19 16:11
From kotokotoqueen@XXXX.ne.jp
Subject 忘年会のこと
『ツユ、あんた本当に来ないの? アキちゃんが会いたがってるよ。ちょっと顔見せだけでもいいからおいでよ! 怒るよ!ヾ(。`Д´。)ノ彡』


 何度目かわからない幼馴染からのお誘い。苦笑して、ごめんなさいと断りの文句を携帯に打ち込んでいく。その間、ビルに出入りする生徒たちの邪魔にならないよう、脇に避けるわたしに、自動ドアを潜る友人たちがすれ違いざま、また来週と手を振った。
 暁人さんが家庭教師に来なくなってから、わたしは塾に通い出した。渋る両親を、来年は受験生だからと説き伏せて。高校と塾の課題両方をこなすことには骨が折れるけれど、学校の異なる友達も得て、新しい生活はまずまずの滑り出しだった。
 メールを打ち終え、携帯を鞄にしまいなおして、階段を下りる。こつこつこつ。ローファーの踵が冬の乾いた空気を震わせる。
 家に帰るにはまだ早い時刻だった。駅前のショッピングセンターを見て回ろうかと考えかけたわたしは、ふいに視界に現れた人影に、息を呑んだ。

 ――……そのひとは、飾り気ない茶のトレンチコートのポケットに手を突っ込み、首に巻いた灰色のマフラーに鼻先を埋め、少し気だるそうに立っていた。

 空からいつの間にか零れ始めていた粉雪は徐々に量を増し、アスファルトの端を縁取ろうとしている。薄水色だった空は雪吐く雲で厚く覆われ、息苦しい鉛色に塗り染められていた。その下で往来する、人、人、人。けれど雑踏はわたしの耳に届かず、不思議な静寂が場を満たしていた。
 吸い込む冷気は気管支から水分を奪い取っていくばかり。からからに乾いた喉がひどく痛んで、わたしは喘いだ。きぃんという音叉めいた耳鳴り――……あぁ、これと似た光景を、わたしは覚えている。
「久しぶり、露子さん」
 既視感に眩むわたしに、そのひとは微笑んだ。
「塾に通い出したって、義姉さんから聞いた。たまたま、近くを通りかかって……」
「あぁ、そう、なんですか」
 琴乃ちゃんの、おしゃべりめ。わたしは胸中で毒づく。
「……年末、兄さんたちから食事に誘われてるけど、露子さんは来ないんだよね」
「宿題が、忙しくて」
 わたしは弁解し、暁人さんに微笑み返した。
「せんせいは、行くんですよね?」
「僕はもう先生じゃないよ」
 今までになく、強い拒絶だった。
 立ち竦むわたしに、暁人さんは目線で駅の方角を指し示す。
「帰るんだよね。途中まで一緒に行こう」


「塾はどう?」
「んー追いかけるのが精一杯って感じです。でも楽しい先生が多いので」
「そう」
 暁人さんとお話するのは久しぶりで、わたしの声音は固かった。彼はそれを知ってか知らずか、当たり障りのない話題を振ってくる。とつとつと返答しながら、わたしは脳裏でちらつく一つの光景を、意識の奥へ封じ込めようと必死だった。
 実を言えば、暁人さんの姿を見るのは、挨拶のときが最後ではない。
 塾が遅くなった日の夜、わたしは街中で彼を見かけていた。
 そのときの彼は――……。
「露子さん?」
 忘我の域から引き戻され、わたしは元気よく返事する。
「はい。あ、と、ごめんなさい。何の話でしたっけ?」
「クリスマスだよ。友人とパーティーするって?」
「あ、そうなんです。塾で出来た友達と……せんせ……アキさんは?」
「仕事だね。残念ながら」
「そっかぁ。大変ですね。わたし、てっきり、さやかさんとデートかと思ったのに」
 暁人さんが足を止め、わたしを強張った顔で凝視した。
「……なんで、さやかが出てくるの?」
「え、だって、お付き合いしてるんですよね」
「彼女は友人だ。前にも言った」
「でもキスしてましたよね」
 わたしの指摘に、暁人さんが色を失って押し黙る。
「……前、街で見かけたんです。偶然。やっぱり、彼女さんだったんじゃないですか」
「違う」
「アキさん、そんな否定しなくても」
「違う。彼女は友人だし、あれは……僕が望んだものじゃない」
「でも」
「つゆこ」
 いつだったか、聞いた。
 こころを抉るような、切なく鋭い、声。
 わたしの手首を捕らえて、暁人さんは言った。
「僕が好きな子は、君だ」
 苦しそうに、彼は白い呼気を漏らす。
「君なんだ」
「うそつき」
 わたしは反射的に否定した。
「嘘じゃない」
 暁人さんの目は、怖いくらいに真剣だ。
 わたしは震えて、なんで、と、呟いた。
「そんなの、どうやって信じろっていうんですか、せんせい。せんせいは、いつだって、せんせいだった。必要以上の、おしゃべりもなくて……。いつも線引きしてた」
「当たり前だよ。僕は君の家庭教師だったんだ。ご両親から君を預かっている身だった。その垣根を、越えることなんて出来なかった」
「お話、してないんだから、せんせいはわたしのこと、何も知らないはずです」
「知ってるよ。一杯知ってる。義姉さんから、ずっと、君のことを聞いていたんだから」
 わたしが、暁人さんのことを、琴乃ちゃんからずっとずっと、耳にしていたように。
「だから、会いたいって、思った。家庭教師の引継ぎの話だって、あのひとに頼まれる前に、僕から言い出したんだ。会いたかった。……会って、すぐに好きになった」
「こどもだったのに?」
 初めて出逢ったとき、暁人さんは大学三回生。わたしは、中学二年生。高校二年のわたしから見ても、あの時分の子たちは、とても幼いと思うのに。
「子供じゃない。君は最初から、僕にとって大事な女の子だった」
「信じられません」
「どうして?」
 掠れた声で、暁人さんが詰問してくる。
 わたしは喉を鳴らして嗤った。
「だってせんせい、わたしたちの間には、勉強しか、なかった」
 結婚も出来る年になれば、意図せずとも男女の色ごとは耳に入る。恋から遠い娘であるわたしは相談役として最適だったらしい。友人たちの可愛らしく、ときに生々しい駆け引きを、よく聞かされていた。
 暁人さんとの間には、そういったものは一切なかった。時折、琴乃ちゃんを通じて私生活が重なる。それだけだった。
 それが、苦しかった。同時に、ほっとしてもいた。わたしの部屋で過ごす、筆記具の音だけが響く時間をわたしは愛した。何者にも邪魔されぬ――……弱くて幼いわたしは、その時だけしか独占できなかった。
「勉強以外があれば、信じるの?」
 暁人さんの問いに、わたしは沈黙で返した。急に、悲しくなってしまったのだ。わたしは、このひとのことが好きなのに。そのひとが、わたしのことを好きだと、言ってくれているのに。どうして頑なに拒んでいるのだろう。
 黙りこくるわたしの手を、暁人さんが乱暴に引く。
「せ、んせい!?」 


 そうして彼はわたしを誘拐したのだ。


 鍵が回り、金属音が響く。
 セピア色に塗られたドアを開き、暁人さんはわたしを押し込んだ。人の気配を察知して、間接照明が自動で灯る。柔らかい橙色に照らされ浮かぶのは、元はクリーム色と思しきフローリング。
「靴、脱いで」
 彼の指示に従うわたしの背後で、鍵を掛け直す音がする。
 暁人さんは靴を脱ぎ捨て、わたしの手首を掴むと、短い廊下を進んでいった。擦り硝子の扉を開け、ダイニングに踏み込む。壁際を本棚で埋めた部屋にはソファーとテーブル、そしてテレビが設えられている。暁人さんは脱いだコートを鍵束と共に、床に積み上げられた経済雑誌の上に投げ捨てた。
 彼はまだ、立ち止まる気配を見せない。
「アキさ」
 わたしの呼び声は、引き戸を開く音にかき消された。
 視界に飛び込んできたものは、ベランダに続く硝子戸だった。街の景色が、星瞬く夜空のように映りこんでいる。明滅するテールランプの赤を受けて顕になる家具の輪郭。それはここが寝室であることを示していた。
 乱暴に、引き戸が締め切られる。
 音に驚いて振り返ったわたしの顔に、影が差した。
 生まれて初めて受けた口づけは、冷たく。
 凍えた唇はふいを衝いて触れた氷のように、なかなか離れてくれなかった。
 抱かれる肩の骨がきしみ、わたしは顔をしかめた。間近にある暁人さんの長い睫を見る。解けた雪が水滴となって、涙みたいに、彼の目もとを濡らしていた。
 目が合った彼は、唇の角度を変え、わたしの身体を正面から抱き直した。その腕の中は、あたたかい――……頭の芯が解かされて、ぐずぐずになってしまいそうなほどに。
「……信じた?」
 唇を離して、暁人さんが問う。いまだ、睫の重なる距離のまま。
 奪われた空気を求めて喘ぎ、麻痺した思考から視線を彷徨わせてばかりのわたしに、業を煮やしたのか。彼はわたしをベッドの上に引き倒し、ゆっくりと体重を掛けた。
 その瞳が、わたしを、わたしだけを捕らえている。
 そこに宿るかつて見たことのない色の意味を、幼いわたしは理解できない。けれど得体の知れぬ予感に、肌が粟立っていった。
「どうして僕が、家庭教師を辞めたか、その本当の理由を教えようか」
 わたしの頬にそっと手を添えて、暁人さんは言った。
「仕事のせいじゃない。いくら仕事が忙しくても、続けようと思えば続けられた。今までだってそうやって、時間を作ってきたんだ。けど、もう、耐えられなかった。君と、密室に何時間も、二人きりでいる。そのことに」
「……あきひとさん?」
 名前を呼ぶと、暁人さんは嬉しそうに破顔した。
「露子さん。僕はね、君に先生と呼ばれる資格なんてないんだよ。もっと汚い人間だ。君のことが好きだった。君のことを夢の中で繰り返し犯した。すました顔の下で、何度も、こんなふうに」
「いっ」
 肌蹴られたコートを掻き分けて、衣服の下に滑り込んだ手が、わたしの胸のふくらみを強く握る。わたしは遅まきながら、自分の身に起ころうとしていることをようやっと悟って、愕然と暁人さんを見上げた。
 細く吐息した彼は手を引いて、わたしの頭をそっと胸に抱える。シーツの上に散らばる乱れた髪を掻き集め、彼は赤子に対するようにわたしの頭をゆっくりと撫でた。
「さやかのことがあった後、彼女かと訊いてきた君が、嫉妬してくれたのかもしれないって、早とちりした。そう思ったら、駄目だったよ。箍が外れたみたいにどんどん想像が膨らんで、君のことを生徒としてだなんて見られなかったし、あれだけ我慢できていたのに、触れたくて……君のことを傷つける前に、辞めるしか、なかった」
「……うそだ」
「嘘じゃない……なんで、信じてくれないんだ?」
「だって、そんな、素振りもなかった」
 彼と出逢ってから、私語を交わした回数など限られている。彼の声は問題を読み上げるときも、わたしの名を呼ぶときも、一定の温度を保っていた。
 三年間だ。
 決して少なくない時間、彼は冷淡ともとれる態度を貫き通してきたのだ。わたしは彼の携帯のメールアドレスすら知らない。
 それを、今更。
「僕は、家庭教師だったんだよ」
「それが、何」
「君のご両親から受けた信頼を、崩したくなかった。君を大事にしたかった。君を慈しむ、君の周りごと、君を大事にしたかったから、家庭教師である限りは……何もしないって、決めてた」
 それも、時々揺らぐことがあったけれど。
 自嘲するように付け加えられた言葉は、いつのことを指しているのだろう。
 大学祭で、露店で買った色んなものを、二人で分け合って食べたときのことだろうか。
 それとも、琴乃ちゃんの新居でのお食事会の帰り、手を繋いで、夜道を歩いたときのことだろうか――……。
「家庭教師を辞めれば、君と、別の関係を築けるって、信じてた。馬鹿みたいだ。君が僕のことを好きなのかどうかも、知らなかったのに」
 暁人さんは手を止めて、苦しそうに細めた目でわたしを射た。
「僕が勘違いしたあのときから、君は、僕から離れようとしてたんだって、バイトを辞めるときになって気づいた。最後の挨拶のときも、ほとんど目を合わせなかったね。慌てた。食事会に関しても、君からの返事は忙しいの一点張りだって義姉さんから聞いて、あぁ、避けられてるって、わかった」
「それは……」
「……それは?」
 暁人さんの追及に、わたしは口を噤む。
 暁人さんが、わたしのことを好きだなんて、想像すらできなかった。それほどまでに、彼はいつも紳士で、硝子の向こうに立つひとみたいに、遠かった。
 彼は、家庭教師が終わったら、離れていくひと。ずっとそう言い聞かせてきた。
 暁人さんが、好きだったから。
 自分の手で追いやってしまったほうが、まだ、悲しまなくて済むと思って。
 彼を、遠ざけた。
 けれどそういった弁解は、喉の奥に張り付いて出てこない。
 暁人さんは嘆息すると、もういい、と低く言った。
「……あきひとさん……?」
 彼の唇が、髪に触れる。
 一回、二回、三回。
 徐々に、位置をずらしながら。
 手が、頬を撫で、首筋を伝う。もう一方の手が、わたしの背を掻き抱き、彼の脚が、わたしの下半身を、拘束した。
「……アキさん」
 唇が、わたしのそれと重なり、舌が、口内に潜り込む。
「……っ!」
 息苦しさに、どんと胸を叩く。その手首を、掴まれる。背後に押し込まれる。幅広い彼の肩が、わたしのそれを圧迫し、歯列を舐めた舌はそのまま生ぬるい呼気と共に首筋を伝った。
「や、だ」
 指が衣服の裾から忍び入って、胸のふくらみを探る。
「やめて、アキさん」
 もう一方の手が、スカートの襞を割り、蟲の這うような緩慢さで、腿を撫ぜた。
「アキさん」
 視界が白く濁って。
「やだ、やだ、やだ」
 わたしは、涙を零しながら懇願した。
「やめてお願いっ!!!」
 動きが、止まり。
 体温が、遠のいた。
 わたしは泣いた。胎児のように身を丸め、解放された両手で顔を覆って、しゃくり上げた。どうしてこんなことをするの。どうして。わたしの問いは声にならず、ただ嗚咽に呑みこまれる。
 好きだといえばよかったのか。たった一言、そう告げればよかったのか。けれどこの期に及んでもまだ、わたしの喉は暁人さんへ恋情を紡がず、溢れかえる涙に呼応するように、ただ引き攣るだけだった。
「……ごめん」
 熱の引いた静かな声で謝罪し、彼はわたしの頭をそっと撫でる。
「……何か、飲み物でも、買ってくるよ」
 やがてその気配はベッドから遠退き、引き戸の向こうに消えていった。
 玄関が閉じられる。続く施錠音。わたしはベッドの上で身を起こし、窓に映る衣服乱れた自分の姿をぼんやりと見つめた。
 どれほど長く、そうしていたのかはわからない。
 わたしは震える指で衣服を整えると、ふらりとベッドから降り立った。


 差し込み回した鍵のあまりの手ごたえのなさに、ドアノブに手を掛けることが躊躇われた。
 指先の感覚が麻痺する。目の前が眩み、床が抜け落ちたように、足を地につけているという実感が消失した。
 呼吸を整え、意を決して、扉を開ける。
 その先に、並んでいたローファーの姿は見当たらない。
 靴を脱ぐことももどかしく、ペットボトルのドリンクが入ったビニール袋を揺らし、寝室へ。勢いよく引き戸を開け放った向こうでは、整えられたベッドだけが鎮座していた。
 人影は、ない。
 気配も。
 痕跡すら。
 荒い自分の呼吸だけが、しんと静まり返った部屋の空気を震わせている。ベランダには知らぬ間に雪が積もり、窓は薄氷を纏ってきしりと張り詰めて見えた。
 暗い夜。雪に遮られネオンの灯りすら見えない。
 暁人はその闇目掛けて、買ってきたペットボトルをビニール袋ごと叩き付けた。
 バン、という破裂音を響かせ、嵌め込まれた硝子が衝撃に戦慄く。容器が歪んだのだろう。飲み口から零れ始めた透明な液体は、とくとくと音を立てながら床に広がっていった。
 暁人はその場に腰を落として、目元を覆った。
 泣くことすら、出来ぬまま。

 電柱に設置された白熱灯の下で、雪がふらふらと舞い踊っていた。
 白く煙ったアスファルトの上には、コートの前を掻き合わせて帰宅するひとびとの、足跡がくっきりと刻まれている。
 足元を滑らせぬよう誰もが慎重に行く道を、わたしは何者かに追われるように息を切らして駆けていた。
 怖かった。
 暁人さんのことが、好きだった。好きな、はずだった。
 けれど怖かった。怖くて、たまらなかった。
 幼いわたしは、友人たちから耳にしていた、ひとと身体を重ねるという行為が自分にも降りかかる可能性を失念していたのだ。
 わたしの好きは、彼の好きとは違う。
 わたしの恋は、憧れと同質のものだった。今しがたわたしを組み敷いたひとと、手を繋ぐだけで幸福になれた。それ以上は、わたしの中に、なかったのだ。
 だから、好きだと、言葉にならなかった。彼に、届かなかった。届ける必要も、なかった。
 この時、わたしがもう少し大人だったなら、彼に感じていた狂おしさは、決して憧れなどではなく、確かに恋の片鱗だったのだと、思うことが出来ただろう。
 けれどわたしは混乱ゆえに、彼への想いが、単なる憧憬に過ぎなかったのだと、思い込んだ。
 わたしは逃げた。
 恋を自ら、殺して逃げた。
 十七の冬のことだった。


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