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第二帖 葵ならず 3


 琴乃ちゃんたちの新居を辞去したのは、もう夜も大分と更けてからだった。長く顔を見せているはずの太陽も、乱立するビルの向こうに隠れてしまっている。
「またこうやって時々ご飯食べよう、ツユ」
 酒気に頬を上気させる琴乃ちゃんに、わたしは手を振り返し、遥人さんに頭を下げて、暁人さんと共に帰途についた。
「本当に。酔っ払い二人を相手にするのも疲れる」
 暁人さんが愚痴りたくなるのも無理はない。陽気な新婚は把握しているだけでもワイン三本は空けてわたしたちに絡み、DVD鑑賞会にもつれ込ませた。アクション映画で盛り上がる二人に、飲酒を強要された暁人さんの頬もまた、ほんのり朱を帯びている。
「随分遅くなっちゃったね、ごめん」
 橙色の街灯がアスファルトを照らす夜道にじっと目を凝らし、暁人さんが言った。
「大丈夫ですよ、せんせい」
 彼が謝罪する必要はどこにもないのにと、わたしは微笑み返した。
 夕方を過ぎても終わる気配のないことを悟ったわたしは、早々に両親に電話を入れていた。応じる母の声色はさして良いものではなかったけれども、琴乃ちゃんの押しと、暁人さんの家まで送るという一言に了承を示した。両親の暁人さんへの信頼は、わたしに対するそれより厚い。
 ふとわたしは、横並ぶ彼の目が、不快そうに細められていることに気が付いた。
 街灯の色に染められた横顔は拗ねた子供を連想させる。どこかでみたかお。それが結婚式のときに垣間見たものと同じだと知ったわたしは、沈黙する暁人さんの顔を覗きこみ、恐々と尋ねた。
「怒ってるんですか? せんせい」
 はっと息を詰めてわたしを振り返り、暁人さんは何事かを呟いた。けれどその声は追い越しをかける自動車が蒸かしたエンジン音に飲み込まれてしまう。
 わたしは立ち止まり、暁人さんがはっきりと答えてくれるのを待った。何か失態をしていたのなら、謝りたい。
 わたしをその瞳におさめ、暁人さんは嘆息を零した。
「前から言おうと思ってたんだけど、その、外では先生っていうの、やめない?」
「……はい?」
「なんか、恥ずかしいんだよね」
 そう言って、彼は居心地悪そうに身じろぎをする。
 でも、と、わたしは反論した。
 先生は先生だ。
 名前を呼んだら、なにか、勘違いしてしまうような気がして。
 たとえば、彼に近しい友人であるとか。
 琴乃ちゃんを抜きでも、こどもでなくなっても、彼と親しく付き合える女の子であるとか。
 言いよどむわたしに呆れたのか、暁人さんはくるりと踵を返してしまう。
「ま、って、せんせい」
 わたしの制止が届いていないのか、彼はそのまま歩き出す。
「せんせい」
 振り向く気配をみせぬ背に怯え、わたしはサンダル履きの足を必死に動かした。
「アキさ……!」
 その瞬間、暁人さんがぴたりと歩みを止める。
 驚いたわたしは足を縺れさせ、彼のほうに倒れこんだ。
 我に返ったときには、暁人さんの腕の中だ。
「ご、ごめんなさい!」
 わたしは泣きそうになりながら、彼の胸元から顔を離した。端整な顔がすぐ傍にあって、反射的に逃げ出したくなる。男のひととこんなに近づいたのは、父に背負われていた子供の頃以来だ。
 暁人さんはわたしの両手首を強く握りこみ、距離をとろうとしたわたしを引き止めた。
「せんせ……」
 放して、という訴えを、彼は無言で受け流す。
 たまらなくなって、わたしはもう一度懇願した。
「……アキさん……」
 暁人さんは、ふぅと息を吐いて手首を解放し、その指先をわたしの頬に滑らせた。
「ごめん。意地悪した」
 彼はばつが悪そうに肩をすくめる。
「大丈夫? 怪我は?」
「……ないです」
 いつも通りの淡白な声音。
 けれどその指は、わたしの頬を執拗に撫でている。
 彼がわたしの顔に触れている時間は、それほど長くはなかった。わたしのほっぺたから離れた指は、そのままわたしの手を捕らえる。暁人さんは驚くわたしの指をしかと絡めたまま、歩みを再開した。
 繋がれた手は、じわりと汗ばんでいて、熱を持っている。
「アキさん、実は酔っ払ってます?」
 普段、彼はそこまで体温の高いひとではない。こんな風に、手を引かれて歩いた、あの、大学祭の記憶と照らし合わせるかぎり。
 暁人さんはわたしを見下ろして、子供のように笑った。
「かもしれない!」
 その顔が、あんまりにも可愛くて――……わたしは、彼と出逢う前、可愛いと連呼する琴乃ちゃんに洗脳されて、アキさんってどんなにかわいいおんなのこなのかしらと、想像していたことを思い出した。
 日中は暑くても、陽が落ちればアスファルトの上を浚う風はことのほか涼しい。りりりとどこかで虫が鳴く。もうすぐ、秋なんだ。それを過ぎれば、暁人さんと出逢った季節が、また廻る。
 同じ季節を、なんども、なんども、彼と共に迎えられたら。
 そんな風に夢想してしまうほどに、繋がれた手は優しく温かで、言葉はほとんど交わさなかったけれど、夜道を行く間、わたしは幸福だった。
 そんな時間はすぐに終わりを告げると、知っていたけれども。
駅に辿り着き、切符を買うべく券売機の前で立ち止まる。
 購入を終え、わたしに切符を渡す傍ら、おつりを数えていた暁人さんの肩を、ふいに現れた女のひとの手が叩いた。
「暁人!」
 暁人さんがぎょっとした様子で振り返る。
「さ、やか……?」
 さやかさん、と呼ばれたそのひとは、ほつれた髪をピアス揺れる耳に引っ掛けて微笑んだ。
「やっだ凄い偶然! こんなところで何してんの!?」
「兄さんの新居がこの辺りなんだ。遊びに行ってた」
「なるほどねぇ……」
 納得に頷いたさやかさんは、今気づいたという風に、わたしに視線を移した。眉をひそめた彼女は、グロス艶めく唇をへの字に曲げる。
「あれこの子……どこかで」
 みたことが、あった。
 さやかさんが皆を言うまでに思い出した。わたしは一度、この女のひとに会っている。髪型も化粧も服装も異なっているけれど、大学祭のカフェスペースで、わたしに絡んできた暁人さんの友人だ。
「暁人、あんたまだこの子のお守させられてんの? お兄さんから先輩になんか言ってもらいなさいよ」
「さやか、そういう言い方ってないだろう?」
「じゃぁ何なのよ?」
「今日は四人で食事へ行って……遅くなったから家まで送るんだよ」
「家まで!? 過保護すぎるわよ。子供じゃないんだから一人で帰れるでしょ!」
「さやか、彼女は女の子だよ」
「わたしだって女の子よ忘れてない?」
「……さやか」
 疲れたように呻く暁人さんの腕を軽くとって、さやかさんがわたしを睨む。
「暁人を煩わせるのもいい加減にしときなさいよ。大宮先輩のお気に入りかなんかしらないけど。駅まで送ってもらっただけでも上等じゃない。こっからは一人で帰りなさいよ」
「さやか!」
 腕を振り払って、暁人さんが叫んだ。
「いいかげんにしろよ! もしかして酔っ払ってるのか!?」
「呑んでるのは暁人も同じでしょ。お酒の匂いがする」
 暁人さんの口元で、すんと鼻を鳴らして呼気を嗅ぎ、さやかさんはわたしを鋭く一瞥する。
「せんせい」
 慄いて後ずさり、鞄と麦藁帽子を握り締め、わたしは暁人さんを仰ぎ見た。
「あの、わたしここで大丈夫ですから。今日は有難うございました」
 彼が何かを言い出すまえに、わたしは素早く頭を下げてその場を立ち去る。
 暁人さんの引き止める声が追いかけてきたけれど、聞こえないふりをした。
 親には、家までついてくるという彼を無理やり送り返したのだと、嘘を吐いた。
 翌日、謝罪の電話を入れるところが、暁人さんらしいと思う。


 次の家庭教師の日は月を跨いだ。暁人さんの仕事の都合で、一回スキップしたからだ。
 わたしの部屋に足を踏み入れるなり、彼はわたしに謝辞を述べた。
「あの日は、ごめん」
 いつもの席に着いていたわたしは、暁人さんを見上げた。
「さやかさんのことですか? 気にしてないですよ」
「でもこれで二度目だよ」
 座布団の上に腰を落として、彼は呻く。
「でも、さやかさんの言うことは、本当だなぁって、思うから。大丈夫です」
 笑顔を取り繕ったわたしは、教科書と、参考書と、ノートを広げた。筆記具を用意する。学校の課題も。
 けれど、暁人さんは、動かない。
 わたしは目を伏せて、気になっていたことを質問した。
「……さやかさんって、暁人さんの恋人なんですか?」
「違うよ」
 即答だった。
「大学から続く友人の、ひとりだ。前にも会ったよね。だいすけと、つぐみと……。今でも職場が近くて、時々よく飲むんだ」
 わたしは面を上げて、暁人さんに微笑みかける。
「せんせい、お友達多そうですもんね」
「そうでもないよ」
「でも、呼び出しとか、よくあるんじゃないですか?」
「まぁ……」
「お仕事も大変そうですし、無理、しないでくださいね」
「うん」
「この家庭教師も、無理にわたしに付き合って、続けてくださらなくても、大丈夫ですから」
 暁人さんの顔が、凍りつく。
 その反応が不思議でならなかった。
「無理はしてない」
「本当ですか? お仕事、お忙しいんですよね。なのに付き合ってくれてるの、琴乃ちゃんに頼まれたからじゃないんですか?」
「違う。理由は前にも言った」
 かつてなく険を帯びた声音で暁人さんは唸る。その鋭い眼光に喉をならしたわたしは、彼を宥めるように微笑する。
「あ、そうですか。ごめんなさい。勘違いでした」
 暁人さんは無言だ。苦虫を噛み潰した顔で、拳を握り締めている。
 怒らせてしまったと思いながら、わたしは開いたノートを彼に差し出した。高等数学の難問。昔なら目にするだけで逃げ出していた――……。
「みてください、せんせい。これ、わたしひとりで、解けるようになったんですよ」
 暁人さんのおかげ。もうひとりでも大丈夫。
 解答を確かめた暁人さんはぎこちなく笑って、すごいね、と一言呟いた。


 わたしは子供であり続けることなんて出来ない。
 知らぬ女のひとに暁人さんを取られて、逃げるしかなかった自分が惨めで、悔しくて、はやく大人になりたいと――……自信を持って彼の腕を取れる、女のひとでありたいと。
 けれどわたしが子供でなくなれば、暁人さんはきっと、離れていく。
 だから、わたしは布石を打った。
 彼がいつわたしの手を離しても、耐えられるように。
 自ら関係に、楔を打ち据えたのだ。


 月を追うにつれ、家庭教師の回数は目減りし、四年目に突入しようかという冬の日、暁人さんはわたしの両親にアルバイトを辞める意向を示した。
 理由は、仕事が多忙になり、定期的な休みが取れなくなりつつあるため。
 母は彼を食事に招待しようとしたけれど、どうにも日程が合わなくて――というのも、わたしが部活や試験を理由に、逃げ回っていたからだけれども――暁人さんとは最後の日、挨拶を交わすだけに終わった。


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