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第二帖 葵ならず 2


 出逢って三年も経てば環境も変わる。暁人さんは大学を卒業し、社会人になった。それでも彼は、以前より頻度を落としたとはいえ、変わらず訪ねてきてくれる――わたしの家庭教師だ。
 まだまだモラトリアムな学生であるわたしは、暁人さんの忙しさを理解できない。けれど携帯が頻繁に震える様を見ていれば、その度合いは知れるというものだ。なのに彼は貴重な休日を、一月に一度はわたしのために割いてくれる。
 わたしは今、近隣でも有名な進学校に通っている。決して成績上位者ではないけれども、どうにか落ちこぼれと呼ばれずにすんでいるのは、もちろん暁人さんのおかげだった。
 本当なら就職した時点で辞めてよかった家庭教師のアルバイトを、どうして彼が続ける気になったのか。疑問に思って尋ねてみたことは幾度かある。
 暁人さんと出会う前のわたしでは考えも及ばなかった偏差値の高い高校に合格してしまい、最初の考査の結果に倒れそうだったわたしが、心配でならなかったと答えることもあれば、高等数学はいい息抜きになると嘯くこともある。
 そのどちらも本当で、嘘のような気がしていた。
 彼の真意はどこにあるのだろうと、端整な横顔を眺めながら思う。
 わたしの視線に気づいたのか、暁人さんが面を上げて首を傾げた。
「終わった?」
「あ、まだです」
 わたしは目元を朱に染め、ノートに向き直った。暁人さんが書き記した復習用の問題が、あと一問残っている。
 暁人さんは目を通していた参考書を閉じて微笑んだ。
「それが終わったら、少し休憩しよう」


 家庭教師と生徒として過ごす時間、原則として私語は挟まない。それは暁人さんがこのアルバイトを引き受けてくれたときからの厳格なルールだ。
 休憩のときですら、わたしたちはお手洗いへ行ったり、お茶で喉を潤して身体をくつろげたりする程度で、おしゃべりに興じる、ということは少なかった。例外は指折り数えられてしまう。わたしが暁人さんの大学祭へ行くことになったときの遣り取りもそのひとつだ。
 だから休憩中、空いている時間はないかと出し抜けに訊かれたわたしは、とてもびっくりしてしまった。
「家庭教師の時間は、ちゃんとカレンダーにまるをつけてますよ?」
 空き時間はしっかり確保している。暗に告げたわたしに、暁人さんはゆるりと首を振った。
「そうじゃなくて、他の、空いている時間。一緒に出かけよう」
 わたしは絶句して、彼を見つめ返した。
 暁人さんと知り合って三年になるけれど、大学祭の一件を除けば、外出に誘われたことなど一度もない。彼は優しいけれど、わたしとは必要以上に馴れ合わない。
 誘いに対する喜びよりも、懐疑のほうが先に立った。
「ごめん。言い方が悪かった」
 暁人さんは苦笑して言った。
「ほら、この間の結婚式のとき、新居に遊びに来て欲しいって、兄さんたちから誘われてたよね?」
「え、あ、はい」
「それで、四人でご飯食べようって兄さんが。露子さんの空いている時間を訊いてきてほしいって言われたんだ」
「あ、そういうこと、ですか……」
 わたしは納得して学生鞄を手元に寄せた。考査の予定や家庭教師の日取りを書きこんだスケジュール帳を引っ張り出す。
 本当は大して埋まっていない予定なんて、確認せずともわかっていた。わたしはただ、スケジュール帳に逃げ場を求めた。暁人さんの思惑を図りかねる一方で、もしかしてと期待した自分の浅はかさを悟られたくなくて。
「ご飯って、お昼ご飯?」
「まだ決まってない。予定が合えば平日の夜でもいいけど、結構難しいかな」
 暁人さんも遥人さんも、そして琴乃ちゃんも、勤め人だ。残業だって入るのだから、平日はやはり難しいのかもしれない。学生であるわたしが、一番自由が利く。
「九月末の実力考査の日以外なら、日曜日は今のところ予定ないですし、せんせいたちに、合わせます」
 日曜に行われる県一斉考査の日取りは、暁人さんも把握している。
「じゃぁまた連絡する……けど、大丈夫?」
「え、何がですか?」
「兄さんのこと」
 暁人さんの問いの意味が、わからない。
「どうしてですか?」
「いや……結婚式のとき、怖がってるみたいに見えたから」
「あ、あぁ……すみません。あれは、違うんです」
「違うって?」
「わたし、遥人さんが怖いわけじゃなくて、その、大きな声に、びっくりしてしまって……」
 予測付かぬ大仰な動作と、空気をびりびり震わせるような声量。
 慣れぬわたしは反射的に慄いてしまう。
「遥人さんに、申し訳なかったです」
「あぁ、なるほどね」
「でもびっくりしただけで、怖くはなかったですよ。本当です。だって、せんせいにとっても似ていたもの」
 暁人さんはひどく驚いた様子で息を呑んだ。
「似てる? そんなこと初めて言われた」
「そうなんですか?」
「うん。実際、似ているところの全然ない兄弟だと思うよ。顔もそんなに似てないし、性格も違うし、一緒に歩いていても、大抵他人に間違われる」
「……そうなんですか?」
「うん」
 きっぱりと頷く様を見ていれば、暁人さんが心から似ていない兄弟なのだと思い込んでいることがわかる。そのことが、とても不思議だった。
「たとえば?」
「たとえば……えぇっと、笑い方とか」
「笑い方?」
「はい。わらったお顔が、そっくりでした」
 少し、目を細めて、どこか困ったように、照れたように。
「なにそれ」
 そう言って、相好を崩すその顔が、ほら、そっくり。
 わたしはそっと付け加える。
「あと、やさしいところが、そっくりです」
 わたしの些細なところまで見て、気を回してくれる、やさしさが。
 暁人さんは色を消し、眉根をきゅっと寄せた。
「……むず痒くなるね、それ」
 その面映そうに身体を揺する彼が、ひどく可愛らしかった。


 暁人さんと出逢って三年。
 彼は変わらずわたしの家庭教師で。
 そしてわたしの、いとしい男のひとだ。
 本当は、一歩前へ進みたいと思っているけれど、できなかった。
 高校生にもなれば、友人たちの色艶ごとが耳に入る。けれど友人たちのように秘めた想いを口に出すことは躊躇われた。
 言葉は意図せずして空気を変える。わたしは、暁人さんにとって、面倒な女の子になることを、恐れていた。
 一緒に過ごす間、必要以上のことを話さない。外で会うこともない。家庭教師と生徒、それ以上でもそれ以下でもない。
 そのことに安堵してもいた。
 わたしの知らぬ暁人さんの世界を知れば、きっと子供の自分を呪いたくなって、苦しいだろうから。
 早く大人になりたいって思うだろうから。
 そうしたらきっと、暁人さんはわたしの手の届かないところへ、行ってしまうだろうから。
 暁人さんはきっと、わたしを姪か何かのように思っている。面倒を見なければならない、幼子のように思っている。
 わたしはその優しさに付け込んで、暁人さんを引きとめようとする、臆病者だった。


*


 暁人さんの采配で決まった成川家でのお食事会当日は、乾いた風が心地よい秋晴れの日曜日だった。
 駅で待ち合わせた暁人さんか、開口一番に言う。
「それを付けてくれているところ、初めてみた」
 わたしは反射的に両鎖骨の狭間を手で覆い隠して、首を傾げた。
「そうですか?」
 わたしの手の下で肌を冷やす首飾りは、暁人さんと歩いた大学祭で、わたしが物欲しげに見つめていたものだった。縁を銀で細工した瑠璃色の。その年のクリスマスに、彼が贈ってくれたのだ。売れ残りが知人を経由して回ってきたのだと暁人さんは述べていたけれど、本当のところはわからない。ただ、おもちゃだった鎖が、一向に黒ずむ気配を見せない繊細なものに換わっているところをみると、たまたま手に入ったものをわたしに押し付けたわけではないようだった。
「うん。よく似合うよ」
 わたしは照れくさくなって、俯いた。黄緑色のワンピースに、首飾りの藍色は確かによく似合っている。
「露子さん」
 呼び声にそろりと視線を上げると、暁人さんが微笑んでいた。
「いこう」
 そうしていつしかと同じように、彼はわたしの手を引いた。
 些細なふれあいの中で知るそのぬくもりは、わたしの中で雪のように降り積もる。
 そして溶けた傍から細胞のひとつひとつに染み透り、わたしを彼の存在で満たしていくのだ。


 最寄り駅で待ち合わせた暁人さんに連れて行ってもらった琴乃ちゃんの新居は、大通りに面した新築のマンションで、茶色の外観が太陽の光を照り返していた。手入れ行き届いた植木の肉厚の葉は瑞々しく、管理人室から帽子を脱いで挨拶してくれた老人の笑顔も優しい。
「いらっしゃいツユ!」
 玄関を開けるなり飛び出してきた琴乃ちゃんが、わたしをぎゅうぎゅう抱きしめた。
「相変わらずかわいーわねぇ! そのワンピース悩殺ものよ! でももっと丈短くしなさい!」
「え、えぇ?」
「こら琴乃、客にセクハラすんな」
 げし、と琴乃ちゃんの背中を蹴り付けるのは遥人さん。あまりに遠慮のない行為にわたしはぎょっとなった。
「露子ちゃんいらっしゃい。まぁ上がれ。アキもお迎えご苦労」
「はいはい。テンション高いね、二人共。もう酔っ払ってんの?」
 暁人さんの指摘の通り、わたしの頬に擦り寄る琴乃ちゃんの呼気がお酒臭い。
 腕を組んだ遥人さんが胸を反らして主張する。
「失礼な。小瓶を一本引っ掛けただけだ」
「一瓶は引っ掛けたっていわないんだよ。この不良夫婦」
 嘆息を零した暁人さんは琴乃ちゃんと遥人さんを廊下の奥へと押しやって、靴を脱ぐようわたしに目配せした。わたしは急いで玄関の扉を閉め、サンダルのストラップを外す。そして昨日のうちに苦心して爪に色付けた裸足をスリッパに入れ込み、わたしは暁人さんたちの後を追いかけた。


 海老とムール貝のパエリヤ。明太子とクリームチーズのパスタ。トマトのガーリック焼きと、かぼちゃの肉詰め、じゃがいもの冷製ポタージュ。
 ダイニングのテーブルを処狭しと埋める手料理は、どれも最高の味だった。
「これ、全部遥人さんが作ったんですよねぇ……」
 琴乃ちゃんは万能選手だけれども、料理だけは苦手としている。消去法でいけば、調理者は遥人さんだった。
「すごく美味しいです」
 わたしの感想に、遥人さんは嬉しそうに目元を緩めた。
「おお。ほらもっと食え。じゃないといつまでたっても抱き心地よくならねぇか……っ」
 ごす、という鈍い音が響いて、遥人さんが押し黙る。
「やだわ、ダーリン食べすぎじゃないの腹痛?」
「兄さん、胃薬持ってこようか?」
「……おまえらな……」
 ぎりぎりと歯を食いしばって、遥人さんが暁人さんと琴乃ちゃんを睨み付ける。
 一体何が起こったのかはわからないけれど、剣呑な場を収めたくて、わたしは慌てて話題を振った。
「えぇっと、凄くお上手なんですけど、遥人さんは、もしかしてコックさんとかなんですか?」
「あ? あぁ……そう」
「ハルは地中海料理のレストランのシェフなのよ」
「わぁ、すごい!」
「今度一緒に冷やかしに行きましょうよ!」
「やめてくれ……琴乃が来たらマジ、仕事にならんし。暁人に連れてきてもらいな」
「え」
 わたしは息を詰め、隣の席に着くひとの顔を窺った。彼は黙々とパスタを口に運び、遥人さんの提案を黙殺している。
 暁人さんは、やはり、わたしと二人で出かけたくはないのだと思う。それはわたしをかなしくし、ほっとさせもした。
 奇妙な沈黙が苦しくて、口を開く。
「今日はよかったんですか? えっと……日曜日なんて、かきいれどきなんじゃ」
「いや。夜間営業の店だから、一番忙しいのは金曜だな。厨房方は俺一人じゃねぇし、平気だよ」
「そうなんですか。……お休みの日までこんなに一杯料理して、しんどくないですか?」
「全然。むしろ露子ちゃんがそんなふうに美味そうに食ってくれりゃぁ作ったかいがあるよ。琴乃も暁人も、なんもいわねぇもんな」
「兄さんの料理が美味しいなんて、今更じゃないか」
 フォークをお皿の上に置いて、暁人さんが言った。遥人さんが呆けたように目を瞠る。
「お前の口から久々に聞いたなそのセリフ。ガキの頃は美味い美味いって言ってくれてたのに最近とんとご無沙汰だったしなぁ」
「というか、半分言わせてたんじゃないか。今でこそ本当に美味しいけど、昔は酷かったよ。卵焼きも殻が入ることなんてしょっちゅうだったし」
「うるせぇよ」
「せんせいのご飯、遥人さんが作ってたんですか?」
「あぁ」
 わたしの問いに、遥人さんは煙草を咥えながら頷いた。
「両親が共働きだったから」
「そうなんですか?」
 わたしの追及を、琴乃ちゃんが遮った。
「実はアタシもアキちゃんに聞いていろいろ知ってんのよ、ハル。例えば砂糖と塩を間違えるとかいう漫画みたいなことしでかしたこととか」
「それはいつの話だよ!?」
 遥人さんが口元を引き攣らせて叫び、琴乃ちゃんは嗜虐的に微笑んで、様々な失敗談を並べ立て始めた。面白おかしく語られるそれらに、わたしは堪えきれず笑ってしまう。
 遥人さんは渋々ながら弄られ役に甘んじ、笑いが収まりかけては暁人さんが冷静に話を混ぜ返す。
 合間で口にするお料理は全部美味しい。
 初めて四人でとった食事は、今まで幾度もそうしてきたかのように、笑いに満ちていた。


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