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第二帖 葵ならず 1


「皆さん、リボンをしっかり握ってくださいね!」
 司会のおねえさんが、マイクを片手に声を張り上げる。澄み渡った空の下、緑溢れる英国風の中庭に、色鮮やかなリボンが幾本も筋を作っている。
 その端を握り締める女の子たちの顔は皆、笑えてしまうぐらいに真剣だ。
 司会のおねえさんが、合図に手を振り上げた。
「それでは、引っ張ってください! せぇの……っ!」


 日差し鋭い夏の日に、小さなゲストハウスを借り切って、幼馴染が式を挙げた。柑橘色の夕焼けが海をじりじり焦がしながら水平の彼方へ沈む姿を楽しめる海辺のそこで、わたしは新しい夫婦の門出を祝う。招待客は新郎新婦の親族と勤務先の上司、近しい同僚友人知人。わたしも招かれたひとり。
 招待客の未婚女性が老いも若きも参加したブーケトスは、花束をくじ引きみたいに引き当てる様式だった。
 わたしの手元にはリボンだけが残る。淡い淡い桃色の。朝の星占いのラッキーカラーだったのだけれど、どうも外れだったみたいだ。
 ウエディングブーケを引き当てたのは、二十歳半ば頃のお姉さんだった。適齢期のひとにきちんと渡った花束は、きっと彼女に幸運を授けてくれる。
 胸を張って胸中で負け惜しみ、わたしは四ヶ月前の春の日を思い返した。


「アタシ、結婚するの」
 桜のはなびらが緑の新芽に押し出され、ひらひらと地面に吸い込まれ始めた四月の半ば、琴乃ちゃんは、話があると言ってわたしを喫茶店に呼び出した。
 お勧めのケーキセットをわたしに奢った琴乃ちゃんは、いつになく緊張した面持ちで、神妙にそう告げたのだった。
「けっこん?」
 幼馴染にして姉同然の琴乃ちゃんとは互いの家に泊まりあうこともしばしばで、知らないことなんてないと思っていたのに、わたしは彼女に彼氏さんがいることも知らなかった。
 琴乃ちゃんの言葉の続きが、愕然となるわたしに更なる追い討ちをかける。
「成川(なりかわ)琴乃になるの」
 わたしは椅子をひっくり返しながら起立した。血が抜き去られたのではと錯覚するほどに、身体が末端から冷えていく。
 ――……なりかわは、あきひとさんと、おなじみょうじだ。
 目玉が転がり落ちんばかりに瞠目し、わたしは呆然と立ち尽くした。
 成川暁人さんは、琴乃ちゃんの大学の後輩。そしてわたしの家庭教師だ。破天荒なところのある琴乃ちゃんを、制御できる唯一の男のひと。
 仲がいいとは、思っていた。暁人さんをアキちゃんと呼ばわり、方々へ連れ回す。その琴乃ちゃんの傍若無人ぶりに暁人さんは溜息を吐きこそすれ、逆らうことはない。
 その二人が結婚する――……。
 祝福すべきなのに、喉が張り付いて上手く声を出せない。
 唇を戦慄かせて沈黙するわたしをしげしげと眺め、琴乃ちゃんはふいに噴出した。
「ツユ、アタシはね、アキちゃんの義姉になるのよ」


 琴乃ちゃんから家庭教師の役を引き継いだ暁人さんと出逢って、三年目。
 わたしはようやっと、二人の関係を知るに到った。
「将来のお義姉さんだったから、容赦がなかったんだ……」
 大学時代は女王とまで仇名されていた琴乃ちゃんを、色んな意味で御すことができていたのはこの暁人さんただ一人。単なる先輩後輩にしては、近すぎるように思えた関係は、暁人さんが琴乃ちゃんの彼氏さん――本日の新郎さまの、実の弟であるが故だったのだ。
 ようやく納得したわたしの呟きに、暁人さんがげんなりした様子で訂正を入れる。
「露子さん、それ将来の義弟だから容赦がなかった、の間違いだと思う」
「え、そうですか?」
「そうだよ……」
 大仰な溜息を吐く彼に、わたしは忍び笑いを漏らしかけ、感じた視線に息を呑んだ。
 円卓を挟んだ対面の席で、優しそうなご婦人がにこにこ笑ってわたしを見ている。
 暁人さんの、お母さんだった。
 同席できる友人をこの場に持たぬわたしは、なんと暁人さんの隣、つまり新郎の親族席に名札を用意されている。暁人さんのご両親から好奇に満ちた目を向けられるたびに、わたしは気恥ずかしさを覚え、パーティードレスの裾を握り締めて俯いていた。
 大体、どうして成川のひとたちと。わたしは披露宴の余興に笑いさざめく大宮のひとたちを見つめた。おじさんやおばさんのことはよく知っている。従兄弟のひとたちとも遊んでもらったことがある。彼らと同席したほうが、うんと気楽に違いない。
(多分、人数の関係なんだろうな)
 現状の理由に見当を付け、わたしはこっそりと溜息を吐いた。
 ご両親に祖父母、叔父一家までいる琴乃ちゃんの親族に比べ、新郎側はご家族以外全く列席していない。わたしも座るテーブル席に、成川夫妻と暁人さんの姿があるだけだ。
 全体の比率で見れば、新婦のお客さまと新郎のそれは同数で、決してどちらかに偏っているわけではないのだけれど。
「どうかした?」
 俯くわたしを気に掛け、暁人さんが問い掛けてくる。
 わたしは他人の癖に親族席に腰掛ける自分が、周りにどう見られているのか気になって、上手く彼に笑い返すことができなかった。


「暁人じゃ役者不足だったか?」
 披露宴も無事お開きとなり、引き出物の紙袋を提げて、帰途に着く間際。
 会場の出口でお客様を見送っていた琴乃ちゃんの旦那様が、わたしの顔を覗きこみ、そう尋ねた。
 ぐいと近づく綺麗な顔に、わたしは思わず息を詰める。年は琴乃ちゃんより幾つか上と聞いていた。地毛と主張できる程度の茶に染めた髪と切れ長の眼。暁人さんと比べ僅かに上背があって、そのしっかりとした骨格の身体を白い正装に包んでいる。
 動作のひとつひとつが大きく、けれどしなやかで、猫科の猛獣を連想させるひとだった。
「おい、聞いてんのか? 話し相手が暁人じゃ、不満だったかって訊いてんの」
 黙りこくっているわたしに、新郎さまは苛立ったようだ。量増す男のひとの声に、わたしの喉はますます萎縮する。
 そんなわたしの様子に気づいたらしい。会社の上司らしきひとに挨拶していた琴乃ちゃんが、戻ってくるなり旦那さま――遥人(はるひと)さんの脚に回し蹴りを食らわせた。
「ちょっとハル、アタシのツユに何勝手に話かけてんのよ!」
 唖然となるほど、見事なドレスの裾裁きだった。
「琴乃! お前もいきなり旦那に蹴りいれるたぁいい度胸だな!」
 攻撃された部位が痛むのか、遥人さんが顔をしかめて主張する。琴乃ちゃんはさらりと無視して、わたしを遥人さんから引き離した。
「あーよしよし、つゆこ。怖かったねぇ。凶暴な獣には近づいちゃだめなのよ」
 わたしを力強く抱きしめて、頭を撫でてくる琴乃ちゃんからは、ふわりと甘い匂いがする。
「何怖いこと言われたの? ツユ」
「怖いことは、言われてないですよ」
 わたしは苦笑した。
「成川の皆さんの席に、ひとりで座ってたわたしを、心配してくださったんです」
 なのにわたしときたら、声を出せなくなってしまっただなんて。いくら男のひとに慣れていないからといっても、わたしのとった態度は褒められるべきではない。
 肩を落とすわたしの背後に、慣れた気配が寄り添う。誰何の声を上げる間もなく、そのひとは慰めるようにわたしの髪に触れた。
「露子さん、別に兄さんを庇わなくていいんだよ」
「せんせい」
 横並びに立った暁人さんはわたしと目を合わせ、髪飾りの位置を調節した手を素早く引いて、微笑んだ。
「そろそろ送迎バスが出るって。行かないと」
 指摘を受け、わたしは周囲を見回した。いつの間にか人影も疎らになっている。廊下に屯している人々は、お迎えを待っているか、このまま二次会に参加するかのどちらかなのだろう。わたしみたいに送迎バスに乗るひとたちは、とっくの昔にこの場を後にしていたらしい。
 焦るわたしの手から、暁人さんが荷物を掠め取る。
「えっ?」
「持つよ。重いでしょ」
 わたしの腕を痺れさせていた紙袋は、引き出物の入った大きなもの。重量あるそれを軽々と提げてエレベーターへと歩いていく暁人さんに、わたしは慌てて声を掛けた。
「ま、待ってせんせい……」
 けれどわたしの制止を、暁人さんは聞き入れない。
「いいから早くいけば?」
 立ち尽くすわたしの肩をぽんと叩いて、琴乃ちゃんが言った。
「遠慮せずに持たせておけばいいのよ」
「え、でも」
「いいから。気を付けて帰るのよ、ツユ」
 わたしの反論を、彼女は笑顔で封じ込めた。
「次は新居への引越し手伝いにきて頂戴」
「琴乃、お前ドサクサに紛れて雑用依頼すんなよ」
 嘆息した遥人さんが、琴乃ちゃんに素早く裏拳を入れる。痛い、と叫ぶ新婦さまからわたしに目を移した彼は、困ったように少し眉根を寄せた後、優しげに微笑んだ。
「引越しの片付けが終わった後でいいからさ。遊びに来いよ、露子ちゃん。暁人と四人で、飯でも一緒に食おうぜ」


 駐車場でエンジンを蒸かし、送迎バスがのろまな乗客を待っている。
「ごめんなさい、せんせい」
 送迎バスの傍でわたしの荷物を提げて佇む暁人さんに、駆け寄りながら謝罪する。彼はゆるりと首を横に振って、わたしに紙袋を差し出した。
「電車に乗らなきゃいけないんだっけ?」
「いいえ。送迎バスのターミナルに、車で迎えに来てくれるみたいです」
 バスから降りて自宅の最寄り駅まで、地下鉄で三駅。別にたいしたことのない距離だけれど、両親は迎えに行くと言って聞かなかった。
「よかった」
 暁人さんが、ほっと息を吐く。一体、何が、よかったのだろう。わたしは首を傾げて彼を見つめた。
「こんな重たいものを持って、階段を上り下りさせでもしたら、露子さんが倒れてしまう」
「わたし、そんなに病弱な子じゃないですよ、せんせい」
 運動神経はよろしくないけど、体力には自信があるのだ。
 わたしは笑いながら、紙袋を引き取るべく手を伸ばす。
 だけどその指先は宙を掻いて、わたしは引き出物を遠ざけた男のひとを、驚きの目で仰いだ。
「せんせい?」
 わたしをじっと見下ろす暁人さんは、何故か拗ねたご様子で、口の端を曲げている。
 ――……わたし、なにか暁人さんの、不興を買うようなことをしたかしら。
 首を捻りかけたわたしを急かす様に、運転手さんが昇降口から顔を出した。
「あの、そろそろ出発しますが」
「あ、すみません」
 今度こそ紙袋を奪い返して、わたしは暁人さんに頭を下げる。
「せんせい、ありがとうございました」
 暁人さんは口の端を緩めて小さく頷き、また再来週、と手を振った。


 バスのシートに腰を下ろしたわたしは、暁人さんの言葉を、大事に胸に抱いて反芻する。
 また、さらいしゅう。
 彼が、勉強を教えに来てくれる約束になっていた。


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