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第一帖 はだれゆき 2


「やーなつかしいわぁ!」
 手を額にかざしてひさしを作り、琴乃ちゃんが喜声を上げる。キャラメル色のレザージャケットに大判花柄のトップス、ジーンズパンツにショートブーツという出で立ちの琴乃ちゃんは、モデルみたいにスタイルがよくて、雑誌から抜け出してきたかの如く華やかだ。
「アタシも来ようと思ってたところだったの。おさそいありがとねぇ、ツユ」
 琴乃ちゃんに、わたしはふるふると首を横に振る。
 暁人さんの大学の、大学祭。両親は中学生のわたしがひとりで行くことに難色を示し、琴乃ちゃんと一緒なら、という条件を付けた。こうやって暁人さんのお誘いに応じられたのも、琴乃ちゃんのおかげだ。かく言う彼も、わたしの両親に誘った旨をきちんと告げていたのだから抜け目ない。わたしがこっそり冒険することはできなかった。
 琴乃ちゃんは懐古に目を細めながら大学を闊歩し、「大宮先輩だ!」「琴乃クイーンだ!」と訳のわからない合唱を受け止め手を振っている。わたしはその影に隠れるようにして、ちょこちょこ後を追いながら、溢れる活気に圧倒されていた。
 琴乃ちゃんの母校でもある大学は、わたしでも耳にしたことのある有名な大学だ。けれどわたしはその大学が国内有数の難関校であり、入学するためには恐ろしい倍率を戦い抜かなければならず、卒業するにも苦労を強いられ、履歴書に書くだけで、ほうと大人が息を吐くような場所だとは知らなかった。
 父が琴乃ちゃんの代役として暁人さんを認めたのは、なにもわたしの力説に負けたばかりではなかった。むしろ琴乃ちゃんと同じ大学の出身であり、その成績もお墨付き、という点が大きかったのだ。
 勉学に苦しむ生徒たちが日頃の羽目を外す大学祭は、祭り独特の熱狂が渦巻いて、人々を酔わせる。呼び込みの声と舞い散るチラシ、ひと集めの大道芸。ブラスバンドの音色と、露店でソースの焦げた甘酸っぱい匂い。太陽のひかりを、きらきら反射するりんご飴と、ビーズのアクセサリー。列を成す、老若男女。
 笑いに包まれる空間を進みながら、わたしは早くも、やってきたことを後悔していた。
 わたしはただでさえ小柄で雑踏の中に埋もれやすい。琴乃ちゃんから逸れないように必死だった。物珍しい大学祭を眺め回して楽しむ余裕など露ほどもなく、たくさんの人たちに声を掛けられる琴乃ちゃんは、わたしのせいで自由になれない。
 きらきら輝く琴乃ちゃんが、急に遠いひとになったみたいで、それも寂しかった。
「あ、アキ!」
 唐突に琴乃ちゃんが声を張り上げ、ぶんぶんと手を振る。わたしは彼女の視線の先を追い、人の群れを押しのけ掻き分けやってくる、暁人さんの姿を認めた。
「アキちゃんお出迎えが遅いわよ!」
「メールじゃなくて電話にしてくださいって言ってるじゃないですか先輩」
 わたしたちの前で立ち止まった暁人さんは、肩を落として呻いた。
「バイブじゃ気づかないんですよ」
「どっちも着メロにしておけばいいじゃなぁい」
「方々から誘いのメールがばんばん入ってくるんですよ。だから学祭中メールはあんまりチェックしないって、先輩も知ってるじゃないですか」
「ふふん。でもまぁよくここわかったわね」
 彼女は一体いつ暁人さんに連絡をとったのか。門を潜るときに携帯をいじっていたから、多分そのときにメールを送ったのだろう。そこから随分移動している。琴乃ちゃんは適当にぷらぷらと歩いていて、待ち合わせ場所に向かっていたというような風ではなかった。その間、居場所を暁人さんに連絡していたような様子もない。
 この広い構内でよく、と感心する琴乃ちゃんに、暁人さんは呆れた目を向ける。
「そりゃぁ先輩、目立ちますからね……」
 方々で大騒ぎですよ、先輩が来てるって。
 ぼそぼそと暁人さんは注釈をつけ、わたしは琴乃ちゃんを振り仰いだ。彼女は自信ありげににこにこしていて、本当に、このひとは大学で一体何をやらかしてきたのだろうと今更ながら思う。
「まぁいいわ。はいアキちゃん」
 唐突に肩を掴まれたわたしは、暁人さんのほうに追いやられた。
「ツユをお届けにあがったわよ。あんたぐらいよアタシをダシに使う奴は。ツユのご両親から聞いたんだから」
 琴乃ちゃんにぐいぐいと背を押されながら耳にした言葉に、わたしはぱちくりと瞬く。
 琴乃ちゃんを、ダシ……両親からお話って、なんのこと?
「先輩、露子さん痛がってますよ」
「すっとぼけるのもいい度胸」
「すっとぼけていませんよ。あれだけ先輩にこき使われまくったんですから、一回ぐらい貸しを返してもらってもいいだろうって思っただけです」
「やだアキちゃん、こき使うだなんて人聞きの悪い! そんな口の悪い子に育てたつもり、おかーさんにはありませんよ!」
「誰が母ですか」
 はぁ、と嘆息した暁人さんは、わたしの顔を覗きこんで微笑んだ。
「こんにちは」
「こ、んにちは」
 わたしは下げたポシェットのベルトを握り締め、俯き加減で応じる。わたしの気のない返事に暁人さんは小さく首を傾げ、何かを問いたそうな顔をした。
 彼が口を開くより前に、琴乃ちゃんがその肩をばん、と叩く。
「ぐ……」
「じゃぁね、アキちゃん! 終わるころにまた電話してちょーだい。ツユを迎えに行くから」
「……叩かないで下さいよ……」
「ツユ」
「え」
 琴乃ちゃんはわたしを見下ろし、にんまりと口端を吊り上げた。
「アキちゃんにいっぱい奢ってもらいなさいよ。お財布だと思って好きに連れまわしなさい」
「え、琴乃ちゃ」
「じゃ、またあっとでねぇ」
 ひらひらと手を返して、琴乃ちゃんは颯爽と歩き出す。その姿は人の波に呑まれ、すぐに見えなくなった。
 事態が上手く飲み込めず、呆然と立ち尽くすわたしの肩を、暁人さんの指がとんとんと叩く。
「露子さん、少し休めるところに行こうか」
「え?」
「先輩と歩いて、疲れたでしょう。あのひとの動き、気まぐれだから」
 いこう、と促され、私はおずおず頷いた。
 暁人さんの言う通り、確かにとても疲れていた。


 暁人さんが案内した場所は、学生食堂と思しきスペースの一角だった。作務衣姿のお兄さんが、クーラーボックスを前に下げて、タピオカミルクティーを売り歩いている。暁人さんは彼からそれをひとつ買って、席で大人しくしているわたしの前に置いた。
「あ、お金……」
「いいよ」
「でも、せんせい」
「露子さんに何か買わせたなんて万が一知れたら僕が先輩に殺される」
 頬杖を突き、げんなりした様子で呻く暁人さんに、わたしは小さく噴出した。彼の視線が動いてわたしを捉えたので、慌てて目を逸らし、ストローに口を付ける。
 ミルクティーは甘くて、優しい味がした。
「せんせい、誘ってくださってありがとうございます」
 喉を潤したわたしは、遅ればせながらお礼を述べた。暁人さんは驚いたように目を見開き、うんと頷く。
「どういたしまして。露子さんこそ、お誘い受けてくれてありがとう」
「せんせい、お友達のお手伝いはいいんですか?」
「あぁ、大丈夫。今日僕が必要な分はもう終わったから。あとはほかの面々で回せるし。忙しいのは明日かな。二日目のほうが手伝い多いんだ」
 暁人さんはわたしがミルクティーを啜る様を見つめていた。その眼差しは、静かで、問題集を解くわたしの傍らにいるときのそれと、同じものだ。
「……迷惑じゃなかったですか? 琴乃ちゃんに、わたし押し付けられて」
「どうして?」
 可笑しそうに暁人さんは笑う。
「誘ったのは僕だよ。さっきの先輩との会話、聞いてなかったの?」
「……琴乃ちゃんが、わたしを、届けにって……」
「露子さんが大学祭について羨ましそうにしてたっていう話を、先輩から聞いていて、今回よんであげられないかなって考えていたんだ」
「……そうなんですか?」
 彼は首肯した。
「受験勉強ばかりじゃ飽きるだろうし、高校に入ったらどうせ進学についての話ばっかりになるんだから、大学の雰囲気を見ておくのも悪くないよ。……日頃の雰囲気とは程遠いけど」
 つまり、暁人さんは大学という場所をわたしに見せたかったのだ。そのために、わたしの両親と琴乃ちゃんに手を回した。家庭教師という域から逸脱しない理由に、なんだか暁人さんらしいと納得する。
「どこか見たいところある?」
 首を傾げる暁人さんに、わたしはうーんと唸った。テーブルの上には門のところでもらったパンフレットがあるけれど、眺めてみても興味が湧かない。説明文だけではどういったものか理解できなかったのだ。
「食べたいものとかは?」
「……よくわからないです。見てたらおいしそうって思うんですけど」
「なるほどね。じゃぁお勧めのところを幾つか廻ろうか。歩くのは大丈夫?」
「あ、大丈夫です」
 大学は広いって聞いていたので、わたしは動きやすい服装を選んでいた。服に気を取られて琴乃ちゃんと逸れでもしたら大変だからと思って。
 暁人さんはわたしの手元からパンフレットを引き寄せて、頁を繰った。指が文字を辿っていく。それは彼の癖らしかった。教科書を開くときも、彼は同じようにして指先で情報を追う。
「あーきーひーとー!!」
 暁人さんを見つめていたわたしは、間近で響いた知らぬ声に驚いて、身体を震わせた。
「あきひと! いないと思ったら何してんのこんなところで!」
 テーブルの間を縫って、三人の男女が駆け寄ってくる。
 暁人さんを呼ぶのはショートカットが似合うかわいらしい女のひとで、くりくりとした目をひどく怒らかせていた。その後ろを、色白の女のひとと苦笑いを浮かべる男のひとが、付いて歩いている。
「メール送ったのに見てないの!?」
「さやか、学祭中は電話にしか出ないって言わなかったっけ?」
 パンフレットを閉じて、暁人さんはショートカットの女のひとを見上げた。
「でもメールチェックはしてるでしょうが!」
「そりゃメールのみの回覧があるからね」
「なら」
「個人的用件のメールは後回しにするって前もって言ってある。失礼だのなんだのっていう話は聞かない」
「あ、のねぇ……」
 さやかさん、と呼ばれたひとは、そこでようやくわたしの存在に気づいたらしかった。胡乱な表情でわたしを見下ろす。
「……どちらさま?」
「君、クイーンと一緒にいた子でしょ」
 さやかさんの背後から、男のひとがわたしを指して声を上げる。その手を隣にいたもう一人が、ぱちんと叩き落とした。
「だいすけ、人を指差すなんて失礼よ」
「あ、悪い」
「暁人、あんた大宮先輩にまたこき使われてんの!?」
「違うよ」
 暁人さんは細く息を吐いた。
「彼女は僕のバイト先の子で」
「それって大宮先輩が家庭教師してたっていう子でしょ? 暁人が引き継いだっていう。先輩が勝手に連れてきた子を、あんたが預かってるわけ?」
 さやかさんが怒りとも呆れともつかぬ目をした。
「大宮先輩って本当に勝手よね。面倒になるなら子供なんて、連れてこなければいいのに」
「さやか」
 暁人さんが鋭い声を飛ばす。
 わたしが立ち上がったのは、それと同時だった。
 その拍子に傾(かし)いだ椅子が壁にぶつかり、がつ、という鈍い音を立てる。わたしは息も吐けず、足元を見つめて下唇を噛み締めていた。
「さやか、その言い方、ちょっと酷いよ。謝りなよ」
 さやかさんをたしなめたのは、彼女の友人らしい女のひとだ。
「つぐみ」
 彼女はさやかさんを睨みつけて腰を折り、わたしと目を合わせる。
「ごめんね。さやか、ちょっと苛々することがあって。来てくれて嬉しい。今日は大宮先輩と二人で来たの?」
「……そうです」
 どうにか答えたわたしに、つぐみさんは優しく微笑む。
「そう。来てくれてありがとう。みんな頑張って準備したの。楽しんでくれると嬉しいなぁ」
「……はい」
 惨めだった。
 邪魔者扱いされることもそうなら、そのお友達に、こうやって慰められることも。
 二人揃って、わたしを邪険に扱ってくれたほうが、いくらかよかった。
 暁人さんが椅子から腰を上げた。
「どいて。邪魔」
 今まで聞いたことのない暁人さんの冷ややかな声に、わたしは驚いて面を上げる。
 彼は三人を睨み据えていた。
「暁人」
 さやかさんが狼狽し、許しを請うように呼びかける。けれど暁人さんはそれを無視し、わたしの手を取った。
「勘違いしてるようだけど、彼女は僕が誘ったんだよ。先輩は僕のために彼女を連れてきてくれただけだ。わかったら、そこをどいて」
「おい暁人」
「だいすけ、今日はもうそっちに顔出さないから。また明日」
 暁人さんはわたしを先に行かせて、男のひとに言い置いた。
「あぁあと、変な憶測並べて噂にしたら、僕と先輩が報復に行くから」
「……りょーかい」
 だいすけさんはぶるりと身を震わせて、犬を追い払うような仕草をする。視界の端へと消えていく彼の顔は、こころなしか青ざめていた。
 暁人さんはわたしをぐいぐいと引っ張って食堂を抜け、人の流れの中に飛び込む。
 露店の並ぶ煉瓦通り。わたしの手を引いて進む彼は方々から声を掛けられていて、顔の広さを窺わせた。付け加えて言えば、そのひとたちの三分の二は、女のひとである。
 考えてみれば、暁人さんもとても綺麗な顔立ちをしているひとなのだ。もてるのだろうな、と先ほどのさやかさんの態度を思い返す。
「せ、せんせい」
 わたしの声はか細く、雑踏にかき消されてしまいそうだった。けれど暁人さんはそれをきちんと拾い上げ、わたしを振り返る。
「ごめん。歩くの早かったね」
「……そうじゃ、ないんです。あの……」
 わたしは言葉を切って、懇願した。
「門まで、送ってもらえますか? わたし、帰ります」
 門まで辿り着けば、駅までそう遠くない。自宅までひとりで帰れる。
 暁人さんは笑みを消し、わたしの腕を強く引いた。人通りない学舎裏手の木陰まで来て、わたしの顔を覗きこむ。
「さっきはごめん。不快な思いをさせて。もうあぁいうことはないから」
「それは、いいんです」
 わたしは首を横に振った。
「やっぱり先生は、お友達のところに行ってあげてください。たいして来たいわけじゃなかったんです。ごめんなさい。帰ります」
 本当は、わくわくしていた。
 昨日の夜は、今日はどんな一日になるだろうって思って、期待で眠れなかった。生まれて初めて訪れる大学。そのお祭り。わたしの知らない、暁人さんの顔。
 ――……そんなもの、知らないほうがよかったのだと、ようやく知った。
 琴乃ちゃんも暁人さんも、頭が悪くて反応も鈍くて顔の作りも十人並みなわたしとは違う。今日わかった。琴乃ちゃんは幼馴染でなければ、わたしみたいな人間とは一生縁遠いひとなのだ。そしてそれは暁人さんも同じだった。
 さやかさんが、苛立った気持ちが、少しわかるのだ。
 さやかさんは多分暁人さんが大好きで、わたしだったらそんなひとが、自分を差し置いてちんちくりんの子供と一緒にいたら、腹が立ってしまう。さやかさんは可愛かった。耳を飾るピアス。甘すぎないレースのワンピースとファーのついた茶色のブーツが似合っていた。大きな目を縁取る睫に丁寧に塗られたマスカラ。グラデーション綺麗なグリーンのアイシャドー。グロスに艶めく唇。施された化粧には隙がなく、男の子に好かれたいと鏡と睨めっこする早熟なクラスメイトの子たちを思い出した。
 さやかさんだけじゃない。つぐみさんも、暁人さんに声をかけるたくさんの人々も、とても可愛くて――……。
 そのひとたちから視線を注がれるたびに、わたしはちいさくちいさくなっていく。
 今すぐこの場から逃げ出したくて申し出たわたしに、暁人さんは責めるような眼差しを向ける。
 それがまた、とても辛くて、わたしはとうとう堪えきれず、固く閉じた瞼の端からぽろりと涙を零した。
「ごめん」
 暁人さんが慌てる。わたしが泣くと、彼は困ってしまう。それがわかっているのに、雫が次から次へとぽろぽろと零れ、わたしは嗚咽を堪えるために唇を引き結ぶことだけで精一杯になってしまった。
 背伸びをした服を着てくればよかった。そうしたら子供に見られなかったかもしれない。格好が駄目なら、せめて心だけでももう少し大人であれば、こんなふうに泣かずに、暁人さんを、困らせたりすることもなかったのに。
 違う。
 そもそも来ようと思ったことこそが、まず間違いだったのだ。
「ごめん。ごめんね。嫌な思いをさせて」
 暁人さんが必死に謝罪する。ちがう。ちがうんですよ、あきひとさんはわるくないんですよ。わたしが。わたしが。声にならず、わたしは喉を引き攣らせて、しゃがみこむ。
 泣き終わったらやっぱりひとりで帰ろう。泣きはらした目を見せたりなんてしたら、琴乃ちゃんはきっと暁人さんを怒る。
「ひとりでかえります。かえります。かえります」
 それだけか細く呟いて、わたしは膝をぎゅうと抱えた。意固地となるわたしに呆れて、暁人さんが立ち去ってくれればいいと思った。そんな考えこそが、とても子供だった。
「露子さん」
 暁人さんがわたしの前に腰を落とす。
「露子さん。顔を上げて」
 わたしは、鼻を啜りながら顔を伏せたまま。
「露子さん」
 ふいに、暁人さんの両手がわたしの頬を挟み、顔を上向かせた。
「つゆこ」
 こころをえぐるような。
 鋭利で、切ない声だった。
 わたしの顔を覗きこんだ暁人さんは、顔を辛そうに歪めて言った。
「……帰りたいなら送るよ。でも、できれば、一緒に見て廻ろう。楽しいよ。楽しくする」
「わたし、よく迷子になるんです」
 鈍臭くて、服の裾でも握っていなければ、すぐに。
「だから、足手まといです」
 わたしの手を握り締めて、暁人さんが囁く。
「ならないよ。手を繋ぐから」
 初めて触れるその温かさに息苦しさを覚えながら、わたしは呻いた。
「……アキさんに、めいわくがかかる」
「あきさん?」
 暁人さんの怪訝そうな声に、わたしははっとなって口を噤む。むかしむかし、まだ暁人さんが先生ではなかった頃、琴乃ちゃんが語る彼のことを、わたしはそうやって呼んでいた。
 そろりと暁人さんの様子を窺う。彼はわたしと目を合わせ、ふんわり笑った。
「最初も、そう呼んでたね」
「……琴乃ちゃんが、アキちゃんって、呼んでたから……」
 かわいいお姉さんかと思っていた。ずっと。
「ごめんなさいせんせい」
「いいよ、アキで」
 暁人さんはわたしの手を引き、立ち上がらせて言った。首を傾げるわたしに、彼は繰り返す。
「その呼び方でいいよ。今日は君の先生じゃないんだから」
 そして手を繋いだまま歩き出した。
 木陰から連れ出されながら、わたしは尋ねる。
「じゃぁ……保護者?」
 いや、と暁人さんは肩をすくめた。
「祭りに浮かれている、男のひとりじゃないかな」


 もとの賑やかな通りにわたしを引き出した暁人さんは、缶ジュースを買って私の目元に当てた。ほどよく冷えた温度が厚ぼったい瞼に心地よい。お礼を言って受け取り、わたしはオレンジの甘酸っぱい味で乾いた喉を潤しながら、暁人さんの案内に従った。
 結局、帰りそびれてしまったけれど、そう思っていたことなど、すぐに忘れてしまった。
 暁人さんはわたしに甘いものを買い与え、オーケストラサークル主催のコンサート会場に押し込んだ。音の洪水に圧倒され、頭を真っ白にされること小一時間。管弦楽の余韻に浸りながら移動し、次はゲストとして呼ばれている芸能人の公演会場へ。若手芸人のコントに笑ってお腹を空かせたわたしは、ソースとマヨネーズと鰹節の匂いがそそるお好み焼きを暁人さんと分け合って食べた。
 写真展も面白かった。壁と天井を海の写真で埋め尽くした展示場では、水中にいるような気分を味わった。
 時間は飛ぶように過ぎていく。日が傾き始め、そろそろ暁人さんは手伝いに戻らなければならないのだという。琴乃ちゃんに連絡をとり、待ち合わせの門まで歩く途中、わたしは露店の隅できらりと光るものに目を止めた。
 親指ほどの卵形の硝子球を、細い銀で装飾した、首飾り。
 深い瑠璃色に金の粒子を張り付かせた不思議な色合い。それを縁取る針金はレースみたいに繊細で可愛らしい。
 ほう、と見とれるわたしの横から、暁人さんがその細工を覗き込む。
「ほしいの?」
 訊かれて、わたしは慌てて否定した。
「きれいだなって、思っただけです」
「でも」
「アキさん。わたし、あれ食べたい」
 暁人さんの注意を引くためだけに指した場所は、焼き鳥の露店。
 場が沈黙する。
 そそっかしさに、わたしは泣きたくなった。
「本当に食べたいの?」
「……たべたいです……」
 引っ込みがつかなくて、わたしは繰り返し主張した。
「そこで待ってて」
 動くなと指示し、暁人さんが列に並ぶ。ほどなくして戻ってきた彼の手には、塩胡椒たっぷりの鶏の串焼きが握られていた。
「ありがとうございます」
「うん」
 礼を述べるわたしに頷きながらも、暁人さんはその串を手渡そうとはしなかった。
「座って食べよう。落とすよ」
 この頃にはわたしがいかにとろくさい娘なのか、彼も理解したようである。
「でも琴乃ちゃんが」
「いいよ。ちょっとぐらい待たせても」
 そしてわたしも、琴乃ちゃんを堂々と粗末に扱う後輩はこのひとだけなのだと気づき始めていた。
「おいで」
 校舎の壁にくっついた非常階段にわたしを座らせ、暁人さんはその横に並ぶ。差し出される焼き鳥の匂いは香ばしく、一口齧ると肉汁溢れて、とても美味しかった。
 たいしてお腹が空いていなかったこともあって、わたしはそれをゆっくりと食していく。
「僕も貰っていい?」
「いいですよ」
 わたしは笑って頷いた。許可を請う必要なんてないのに。これを買ってくれたのは、暁人さんだ。
 お肉も残り一つとなった串を、暁人さんに差し出す。
 暁人さんの手が伸びて、わたしの手首を取った。
 いつも文字を辿る指が、わたしの皮膚薄い場所を柔く包む。驚きに瞬くわたしの手を、暁人さんはそのまま口元へ近づけた。
 薄い唇が、肉を食む。
 舌が、零れる汁を追って、串を這い、握る私の指先を、掠めた。
 彼の、滑らかな顎から首にかけての線が蠢き、まるい喉仏が身震いする。
 その動きに、わたしは見惚れた。
 同時に、指先の皮膚の湿り気に、慄く。
 わたしの指を汚したものは、わたしの汗腺から滲み出たものでもなければ、先ほどまでわたしが食していたものから零れた雫でもない。
 暁人さんの指がわたしの手首を撫ぜて離れる。指先についた脂を舐め取るその横顔に、わたしは無意識に呼びかけていた。
「アキさん……」
「ん?」
 暁人さんがきょとんとわたしを見つめ返す。
「あぁ、ごめん。全部食べたら駄目だった?」
「……いえ……おいしかったですか?」
「うん。……おいしかった?」
「はい」
「そう。ならよかった」
 暁人さんの微笑は優しく、清くて、そのことに妙な気恥ずかしさを覚える。熱を持ち始めた頬を見られたくなくて、わたしは俯いた。
 暁人さんが立ち上がり、わたしに手を差し伸べる。
「それじゃぁ行こう。これ以上待たせたら、本気で先輩に殺される」
 冗談めかしに言う暁人さんがおかしくて、わたしは少し笑った。
 けれどその手は取らずに、並んで歩く。暁人さんの訝りは、沈黙で受け流した。
 わたしはただ、忙しなく脈動する心臓を押さえつけることに、必死だった。
 十五歳、秋。
 この狂おしさの意味を、わたしはまだ、知らなかったのだ。


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