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第六帖 さやけくこひたもう 4


 就寝の挨拶を告げ、言われた通り鍵をかけて、寝室の明かりを落とす。借りたベッドにわたしが横になってからも、暁人さんは起きていたようだった。擦りガラス越しの照明は限りなく絞られていたものの、ガラスの触れる小さな音がしばらく響いていた。
 目を閉じると、目まぐるしかった今日のことが思い出される。和真くんはあれからどうしただろう。大学で顔を合わせてくれるだろうか。さっきまでは大丈夫と思っていたのに、急に自信が薄れてくる。加奈ちゃんとも話がしたい。おそらく心美ちゃんに仲立ちを頼まなければならないだろうけれど。
 つらつらと思考を巡らせ、うとうととしかける都度、暗闇から伸びた女性の腕がわたしを揺り起こす。夢うつつの縁を彷徨うわたしに幻影は囁く。ここは、あなたの眠るための場所ではないのよ――……。
 けれどわたしも昔、この部屋で、今横たわる、ベッドの上で、組み敷かれたのだ。
 あのときはただ恐れしか抱かなかった手の力強さを恋しく思って、わたしは寝返りを打った。
 リビングはいつの間にか静かになっていた。サイドボードに置かれたデジタル時計は、深夜を示している。滅多に目覚めることのない時間は、静寂に満ちていて、車のクラクションが時折思い出したかのように遠くで響いていた。
 眠ることに諦めを付けたわたしはベッドから這い出て、足音を殺しながらリビングへ歩み寄った。鍵を外し、そろそろと引き戸を開く。侵入者を威嚇するように、冷蔵庫のモーター音が大きく吠えた。
 わたしは委縮する身体を引き戸の向こうに滑り込ませ、ソファーの傍に両膝を落とした。
 暁人さんは腕を床に投げ出して、規則正しい寝息を立てている。
 テーブルの上にはお酒の瓶とロックグラス。溶け残った氷が、間接照明の橙色を柔らかく照り返している。
 わたしといるときには、一切、お酒を口にしなかったのに。
 瓶は小さく、量も少ない。けれど度数はかなり高いように思えた。
(……かわいいかお)
 くたりと脱力して眠るその様子が、柴犬を連想させる。
 わたしは間違っても起こしてしまわぬように注意を払いながら、緩やかに上下する暁人さんの胸の上に頬を寄せた。
 眠るひとの身体はあたたかい。規則正しい心音と呼吸音が、わたしの瞼を重くさせる。目覚める前に早くこの場を離れるべきだとわかっているのに、手足が動かない。ともすれば、この場で眠ってしまいそうだった。
「アキさん……」
 このひとが、家庭教師をしていたころには考えられないほど、近くにいる。
 それが幸福で、切なかった。
「アキさん。アキさん。……あきひとさん」
 暁人さんは、反応を示さない。
 わたしは満足して顔を離し、寝室に戻るべく、立ち上がろうとした。
 その時だった。
「え?」
 腕を強く引かれ、視界が反転する。何が起こったのか確認する間もなく背に衝撃が走った。おおきな手が枷のようにわたしのそれを掴み、長い脚が、わたしの身体をソファーに縫いとめる。
「君はもう少し、危機感というものを持った方がいいよ」
「あきひとさん……」
 彼はわたしをその手足で閉じ込めたまま、冷やかに目を細めた。
「男はね、好きでなくても、女の子を食べてしまうことぐらい、なんともなかったりするんだよ」
 艶を帯びた、低く掠れた声。
 それが意味するところをはき違えるほど、わたしはもう子供でもない。
 瞬くたびに熱を宿してゆく瞳を苦しそうに歪め、彼はわたしを解放した。ソファーから降りて、顎で寝室を示す。
 早く、戻れということだろう。わたしがもたもたと身体を起こす間も、暁人さんは絨毯の上に腰を落としたまま壁をじっと見据え、一瞥すらくれようとしなかった。
「……アキさん」
 丸まった広い背中は、わたしを拒もうとする意思に溢れている。わたしは彼の肩に触れた。指先から、緊張が伝わってくる。
「暁人さん……」
 わたしの呼びかけに、彼は振り向いた。苦しそうだった。好きでもない女の子に欲を覚える。それは、どれぐらい抗いがたいものなのだろう。
「早く行って」
「アキさん」
「僕は君を、傷つけたくないんだ」
 震える指でわたしの髪を梳き、彼は言った。
「二度と。嫌なんだ。君を大事にしたい。傷つけたくない」
「わたし、アキさんなら、いいですよ」
 羞恥心を追いやり、勇気をかき集める。
 暁人さんなら――……。
 否。
 わたしはきっと、暁人さんしか、受け入れられない。
 信じられないといわんばかりに、彼はわたしを凝視する。
 わたしは微笑み、その背中を抱きしめた。
 彼の好むシトラスの匂いで肺腑を満たしながら、その肩に頬を摺り寄せる。
「……あのとき」
 四年前の、あの時。
「逃げて、ごめんなさい。ちゃんと、お返事できなくて、ごめんなさい。わたしも、アキさんのことが、好きでした。ずっとずっと……好きでした」
 幼いわたしはそれが憧憬なのか恋情なのか判別がつかず、暁人さんを傷つけた。ずっとずっと後悔していた。どうしてわたしはあのとき、彼にきちんと、好きだと告げることができなかったのだろうと。
 あのとき、きちんと想いを打ち明けていれば、暁人さんはわたしに乱暴を働いたりしなかった。きっと真綿で包むみたいに、大事にしてくれた。
「今も、ずっと」
 だから、和真くんでは駄目だった。
 冬の日。薄墨色の空。踊る雪に取り巻かれ、鼻先をマフラーに埋めて、少しけだるそうに、わたしの前に現れたひとは、そのときからずっと、ずっと、わたしの胸の中に棲み続けていた。
「だからいいですよ。こんな、ずっと未練たらしくて、重たい子でも、いいっていうなら、アキさんなら……使い捨ててくれたって、いいんです」
 暁人さんがわたしに与え続けてくれた優しさに、それで報いることになるのなら。
 彼の存在を、この身に刻み付けることが、できるなら。
 それでも。
「つゆこさん」
 彼の手がわたしの目尻を拭う。指先を濡らした滴を見て、驚きに瞬いた。
 泣いていた。
 いつの間にか。
「ひとの話、聞いてた?」
 暁人さんが苦笑する。
「僕は君を大事にしたいって言ったんだ。使い捨てになんて、しないよ」
 つまり、安易に手を出すつもりはないということだ。
 少なからず失望を覚えたわたしは、彼の身体から離れるべく腰を浮かせる。
 そして気を緩めていたわたしを嘲笑うように、再び腕を痛みが襲った。
「っつ!」
 思わず漏れた呻きは、二人分の体重を受けたソファーのきしみにかき消される。
 痛みはそう長くは続かなかった。仰向けに縫いとめられたわたしを満足げに見下ろした暁人さんは、拘束の手をすぐに緩め、そのあたたかな指先でわたしの顎をついと掬った。
「どうして君を大事にしたいと思うのか、その理由は訊かないの?」
(りゆう?)
 考えたこともない。
 周りにいるひとを、常に大切にする。それが彼だ。
「まさか、僕がやさしいから、なんてこと思ってる?」
「……ちがうの?」
 暁人さんが、ふ、と笑う。
「僕は別に、誰にだって優しさを安売りしているわけじゃないんだよ」
「じゃぁ……どうして?」
 わたしの問いかけに、彼は煮詰めた蜜よりもどろどろに甘い声を吐いた。
「あいしているからだよ、つゆこ」
 何を言われているのかわからずに、思考が停止する。
 わたしは反射的に呻いていた。
「うそつき」
 暁人さんが苦笑する。
「君はいつも、僕の想いを否定する」
「アキさんが、わたしのことを好きなはずない」
「どうしてそう思うの? どうして、否定しようとするの」
「だって……菫さんがいたのに」
 彼には婚約者がいた。二年も付き合っていたのだという。
 彼は可笑しそうに喉を鳴らした。
「君だって同じだろう? 恋人がいた」
「わたしは、和真くんとお付き合いする前から、アキさんが好きだったんです!」
 和真くんに恋情を持っていたわけではない。
 わたしの主張に、暁人さんは噛みあってないね、と呟いた。
「君に好きだと告げたのは僕が先だと思うけど?」
「あっ……れは」
「僕の勘違いだったとでもいいたいの? 三年間、君に会うためだけに時間を捻出し続けた。家庭教師であり続けた。即物的な欲求をねじ伏せ続けてきた。その行為を、君は全部否定したいの?」
「アキさん」
「君がこどもだったから? くだらない理由だ」
 くだらないけれど、大事なことだった。
 だから彼はあの頃、わたしが大人になるまで待ってくれようとしていたのだ。
 当時の彼と年の近くなった今だからわかる。彼は本当に、わたしのことを大切にしてくれていた。
「ごめんなさい……」
 わたしは素直に謝罪した。わたしがここにいるのは、決して四年前の暁人さんを否定するためではない。
 ただ、今の彼は果たしてどうなのか。
「アキさんは、いつからわたしのことが好きなんですか?」
「最初に言ったよ」
 暁人さんは笑った。
「出逢ったときからだ」
「前のことじゃありません」
 わたしが尋ねているのは、今回のことだ。
 暁人さんは嘆息混じりに呟いた。
「だから、出逢ったときから、変わらず君のことが好きだったんだよ」
「……この四年間もずっと?」
「そう」
「信じられません」
「どうして?」
 暁人さんは心底不思議そうだった。
「君はさっき、僕のことをずっと好きだったって、いってくれたのに? どうして僕も同じだったって可能性を考えないの。ずっと好きだったと」
「だったら、どうして菫さんと結婚しようって思ったんですか?」
 暁人さんは決して軽い気持ちで行動するようなひとではない。結婚も考え抜いた上での決断だったはずだ。
 暁人さんは微かに顔を歪めると、わたしを引き起こしてソファーの上に座らせた。
「君との関係を取り戻せると思えるほど、僕は楽天家ではなかったよ」
 小さな笑みを浮かべ、彼は目を伏せる。
「今日、説明した通り、菫のことは嫌いではなかった。結婚しようと思える程度には。僕は心から愛した女性でないと結婚できないなんて思うような、ロマンティストじゃない。付き合って、何も問題がなかった。ここで手を打ってもいいだろう。言い方は悪いけど、そう思った。……失望した?」
 ほんの僅かに怯えを滲ませて問う彼に、わたしは否定を返す。
「いいえ」
 同じだった。
 和真くんのことは嫌いではなかった。付き合おうと思える程度には。そんな、わたしと同じ。
 暁人さんは、同じ。
 そのことに、安堵こそすれ、失望する理由などない。
 わたしの反応に緊張を解き、暁人さんが微笑んだ。
「がむしゃらに誰かを思う熱情は、もう僕の中になかった。……君が奪っていってしまったままだったから」
「わたしが……?」
 首を傾げるわたしに、彼はゆっくりと頷いた。
「君と再会したとき、四年前に引き戻された気分だった。君への想いは、少しも色あせていなかった。結婚の支度を進めながら、僕は菫よりも君にうんと気を取られていて……彼女とああいう風に終わったのも、ある意味、当然の結果だったんだろう。むしろ、もっと早くに終わらせてやるべきだった。彼女には、悪かったと思っている」
 そして、と彼は続けた。
「感謝してもいる。婚約を破談にできた。そのことに、とてもとても、感謝している。婚約がなくなったと報告しにいったとき、僕に泣いているのかと君は訊いたね。あのときね、僕は泣いていたんじゃない。笑っていたんだ。これで堂々と……和真とかっていう男から、君を奪い返せるってね。嬉しくてたまらなかった」
 夕暮れどきの公園で、嗅いだ草いきれが鼻腔の奥に蘇る。
 指で梳いた彼の髪の感触も。
 わたしの腰を抱いた、あついあつい、彼の手も。
 こどものように丸まっていた肩も。
 全て、喜びに、戦慄いていたというのだろうか。
「君の相談に乗りながら、僕は虎視眈々と、君を奪う機会を狙っていた。弱った君に付け入ろうとしていた」
 汗ばんでひやりとした、暁人さんの手が。
 わたしのそれを包み込んで、かたくかたく、握りしめる。
「僕は君が思うほど、優しくも善人でもない」
 足元に跪く彼の声は、震えていた。
「それでも君は、僕のことを好きだっていってくれるの……?」
 わたしはゆっくりと暁人さんを見つめ返した。
 自分は醜くて卑怯なのだと、暁人さんは言う。
 すべてを語ったうえで、わたしに今ならまだ引き返せると選択肢を与える。
「わたしもね、アキさん」
 わたしは暁人さんの手を握り返した。
「アキさんが思ってるほど、きれいでもなんでも、ないですよ」
 暁人さんが好きなのは、きっと無垢なわたしだ。
 過去、彼をただ慕っていただけのわたしだ。
 空を漂う雪のように、地の何物にも穢されていなかった、こどものわたし。
「きっと失望しますよ」
「しないよ」
「じゃぁわたしも、しません」
 わたしは泣き笑いに顔を歪めて、暁人さんを見下ろした。
「大好きですよ、暁人さん。……だいすき」
 暁人さんの手が載せられた、ソファーのスプリングが小さく軋む。
 そうっと重ねられる唇にくすぐったさを覚え、わたしは照れから俯いた。
 暁人さんが、わたしの頬を両手でそっと包み込む。彼は鼻先をくっつけたままくすくす笑い――そのまま、表情を消した。
 次の瞬間、わたしの身体は強い力でソファーに沈められ、スプリングが悲鳴を上げていた。
 逃げ場を求めて宙を彷徨うわたしの手が、彼のそれに囚われる。
 暁人さんは箍が外れたようにわたしを掻き抱き、唇を貪った。あまりに性急すぎて、息苦しさに喘ぐわたしを、焼けつくような彼の舌が追いかけてくる。熱に晒されたバターみたいに、触れ合ったところから融けていくような、破滅的に甘い口づけだった。
 わたしはきっとこれから、暁人さんを失望させていくだろう。
 彼を離さないためだけに、人を傷つけたりもするのだろう。
 己の醜さに塗れていくのだろう。
 それでも。
「だいすき……」
 今、掻き抱いている、暁人さんへの想いだけは。
 彼に告げるに足る、清らかなものであると信じたかった。


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