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第六帖 さやけくこひたもう 5



 乗客が一斉に開いた扉から降車する。
 日曜の朝、駅のホームは平日には及ばないとはいえ、動きに制限がかかる程度には込み合っていた。その上、ここのところ寒波が押し寄せたせいか、皆、必要以上に着ぶくれしている。わたしも例外に漏れず、キャメル色のもこもことしたコートを着込み、白いマフラーを巻いている。階段を下りるたび、たんたんたんと小気味よい踵の音を響かせるブーツにも、暖かなファーが付いていた。
(間に合うかな)
 腕時計を確認しつつ、わたしは歩を速めた。約束の時間まであと五分。多少の遅刻を暁人さんは咎めたりしないだろう。でもわたしは待つ側でいたかった。それでなくとも、行動の早い暁人さんを何かにつけて待たせがちなのだ。
 今日はバスロータリーで待ち合わせたあと、一緒に琴乃ちゃんたちの家に向かう予定だった。遥人さんが新作料理に挑んでいて、その試食をしてほしいのだという。
 個別に向かってもかまわないはずなのに、琴乃ちゃんに招待される都度、暁人さんが待ち合わせを提案してくれることがうれしかった。たとえ僅かな道のりでも、彼と二人で歩く時間はとても至福だ。
 改札口を抜け、駅を出る。呼気が濁り、眼前を染めて霧散した。ひらり、と視界を白いものが過ぎる。ひらり、ひらり、ひらり。雪だった。
 色煉瓦の敷き詰められた通りを行く大勢が、肩をすぼめ、地を見つめて歩いている。その中からわたしの目は、すぐさまたったひとりを見出した。


  そのひとは、シンプルな黒のコートに身を包み、その手を両ポケットに隠し収めて、どこか眩しそうに雪舞う空を仰ぎ見ていた。


 生成り色の雲広がる空のそこここに、澄んだ青色が覗いている。宙を踊る雪の量はそれほどでもなく、長くは降り続かないだろうことを予見させた。ただ、空気は、張りつめ、乾いて、わたしはうまく彼の名を呼ぶことができなかった。
「露子」
 わたしに気付いた暁人さんが、微笑んで向き直る。
 あぁやっぱり、今日も待たせてしまっていた。
 わたしはひとの間を縫い、彼に駆け寄った。
「ごめんなさい。どれぐらい待ちました?」
「ううん。さっき着いたばかりだよ」
「本当に?」
「うん。ほら、濡れてないでしょう?」
 暁人さんは発言を証明せんと、自らの肩口を指し示した。確かに、黒のコートに雪が付着した痕跡はない。到着したばかりというのは、本当のようだ。
「空をずっと眺めてましたけど、何かいるんですか?」
 わたしの問いに、見てたの、と彼は照れ臭そうに笑った。
「特に何があるってわけじゃ……そういえば露子と初めてあった日も、雪が降ってたなって思っただけだよ」
「そ、そうなんですか……」
 思いがけぬ返答に、今度はわたしが羞恥に頬を赤らめる番だった。
「あ、あのね、アキさん。今日わたし、早く帰らなきゃならないの」
 慌てて話題を逸らすわたしに、彼は首をかしげる。
「どうして? 何かあるの?」
「な、何にもないんだけど。琴乃ちゃん家にアキさんと行くことが、お父さんにばれちゃって……」
 暁人さんとお付き合いしていることを、父はまだ知らない。とはいえ、薄々何か感じるところがあるのか、わたしが暁人さんと会うことを匂わせると、とたんに子供みたいにむくれるのだ。やけに門限を早めようとあれこれ画策してくる。
 ちなみに母は、わたしたちのお付き合いに諸手を上げて賛成したひとりだった。暁人さんといる限り、多少の門限破りを大目に見てくれるどころか、父に誤魔化す役まで請け負うわたしの共犯者である。そもそも父には内緒に、というのも、母の発案だった。
「あぁ、いいよ。じゃぁ早く兄さんのところを切り上げよう」
 暁人さんの反応はあっさりしたものだった。
「……どうかしたの?」
 じっと見上げるわたしに、彼が訝りの表情を浮かべる。
「……前々から思ってたんですけど、アキさんって、どうしてお父さんたちに対して丁寧なの?」
 暁人さんが、わたしと少しでも一緒にいたいと思ってくれていることはわかっている。
 ただ彼は共有する時間を延ばすために、わたしの両親の意向を無理強いに捻じ曲げることは絶対にしない。どうしても遅くなるときは、彼からも母に連絡を入れようとする。
「……嫌なの?」
「ううん。不思議なだけです」
 普通はもう少し――……こっそり旅行に出かけないか、というように、唆したりするのではないだろうか。和真くんのように。
 わたしの両親を大切に思ってくれていることは嬉しい。けれどそれが、不思議だった。
 暁人さんは曖昧に笑って、また今度、と嘯く。
 はぐらかされた。
 むくれて尖らせたわたしの口先に、彼は軽く口づける。
「あああ、アキさん……!」
 お付き合いを始めて分かったことだけれど、暁人さんはひとの往来を気にも留めず、度々わたしに触れようとする。あまりにさりげなく不意を衝いてくるので、わたしには避ける術がない。
 今のわたしは、熟れた林檎もかくやというほどに赤くなっているだろう。
 耳から煙を吹きながら俯くわたしの髪を撫でて、暁人さんは笑った。
「君を大事にしているひとたちとは、仲良くしていきたいよ」
 少しだけ恨めし気に、彼を見上げる。
「わたしも、アキさんのお父さんたちにまた会いたいです」
 思い返せば、暁人さんのご両親とお会いしたのは、琴乃ちゃんの結婚式のときの一度きりだ。ずいぶん前のことだから、きちんと挨拶できていたかどうかも定かでない。
 けれどちゃんともう一度お会いして、きちんと暁人さんの傍にいてもふさわしいと、認めてもらいたかった。
「喜ぶよ」
 暁人さんは心なしか嬉しそうだ。
「近いうちに、またね」
 頷くわたしの背後で、屹立する時計のモニュメントが、音楽を奏でる。一時間ごとに響くそのメロディに、暁人さんは瞠目した。
「しまった。そろそろ」
「本当ですね」
 かなり長い間立ち話してしまっていた。今頃琴乃ちゃんが、まだかまだかと足を踏み鳴らしている頃だろう。
「じゃぁ行こうか」
「はい」
 愛しいひとから差し伸べられた手を。
 わたしはそっと握り返した。
 そして歩き出す。
 道に薄く刷かれた雪の上に、二人分の足跡を並べて。


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