BACK/TOP/NEXT

第六帖 さやけくこひたもう 3


 閉まらぬよう扉を肩で支えながら、筋状の光が示す旅行鞄を引き出した。二日程度の荷物が入るキャメル色の鞄だ。その中には一泊二日の着替えと洗面用具、化粧品が入っている。
 両親に事情を話さなかったわたしには、今夜泊まる場所がない。和真くんに電車賃と宿代を渡したせいもあって、お小遣いも残り少ない。大学の友人たちには大抵、和真くんと旅行することがそれとなしに伝わっていて、宿をお願いしづらかった。ご家族と暮らしている心美ちゃんの家に転がりこむのも、と気が引ける。
 琴乃ちゃんには――……変なお願いをすると、事情を追及される。あのひとは、気になったことを放っておけるようなタイプではない。
 消去法でいけば、頼れるのはたったひとり。
(暁人さん)
 そんな大それた願いごとをするほど、ずうずうしくはないつもりだ。
 けれどその件は別として、朝に約束した限り、連絡をする義務がわたしにはある。
 わたしは携帯電話を取り出して彼の番号にコールした。一回、二回、三回、軽やかな音はふいに途切れ、留守番電話に切り替わる。忙しいのだろう。
 彼にはまた、連絡すればいい。
 わたしは携帯電話を鞄にひとまず荷物を抱えると、今宵の宿を探して雑踏に紛れた。


 目覚めたとき、窓から差し込む陽に照らされて、フローリングは金色を帯びていた。
 腕時計の針は夕刻を示している。目元を擦りながら上半身を起こし、暁人はミネラルウォーターのボトルを手に取った。喉を潤しながら、途切れた記憶を追う。露子たちを見送って帰宅し、家事を始めとする雑務を片づけ、一息吐いたところで寝入ってしまったらしい。まさか昼すらとばしてしまうとは。空腹を訴える身体に閉口しながら、のろのろと立ち上がり、暁人は鍵と財布、携帯電話を手に取った。それらをまとめてポケットにねじ込み、あくびを噛み殺しながら部屋を出る――冷蔵庫に、何も入っていないことはわかっていた。
 本当は、買い物は昼前に済ませようと思っていた。にもかかわらずごろごろと横になり、そのまま意識を飛ばしたのは、睡魔に襲われたというよりも、単純に不貞腐れていたからにすぎない。
 露子が、恋人の手を取っていってしまったから。
 危険だと、露子の身を案じる一方で、暁人が暴挙に出た四年前のあのときは、関係をあっさり切り捨ててみせたのにと、彼女をどこか恨みがましく思う自分がいる。
 彼女はいつも、暁人の思うようにならない。近づいたと思った瞬間、まるで風に煽られる雪のように遠のいてしまうのだ。
 客観性、公平性に欠く自分が、一体どこまで露子の現状に踏み込んでいいのか、考えあぐねる。今日のことも一種の賭けのようなものだった。しつこく関わろうとする自分が、嫌われてしまっていないことを祈るばかりだ。
(そうだ、連絡……)
 携帯を引き出すと、表面で青緑のランプが瞬いていた。フリップを開き確認した画面には、三件の不在着信の文字がある。
 いずれも、露子からだ。
 エレベーターが階下に到着し、軽い衝撃が暁人の足元から伝わった。歩き出しながら発信を押し、携帯電話を耳に当てる。エントランスのガラス戸を潜りながら応答を待ち――……暁人は着信音らしきメロディが、コール音に重なっていることに気が付いた。
 通話を一度切る。音楽が止む。再度、発信する。一拍遅れて、電子音が。
 暁人はふと、エントランスから伸びる細い通路に目を向けた。宅配ボックスと郵便受けが並ぶ暗がりに、ほっそりとした女の脚が白く浮かんでいる。光沢感ある花柄の布地がその柔い曲線に絡みついていた。
「……つゆこ?」
 いつからそこにいたのか。
 旅行鞄を枕代わりに、娘が眠り込んでいた。


 暁人さんのマンションまで来て、彼が留守であることを確認して――……。
 こともあろうに、わたしはそのまま宅配ボックスの影で眠り込んでいたらしい。
 気がついたときには暁人さんの部屋のベッドの上。
 そして早々に彼の説教が待っていた。
「あんなところで寝るなんて、危ないでしょう!」
「ごめんなさい……」
 リビングの絨毯の上に正座しながら、暁人さんのお小言を受ける。彼から怒鳴りつけられるなんてことは初めてで、わたしはしょんぼりと肩を落とした。
 俯くわたしに溜息を吐いた彼は、わたしの頭に軽く手を置いて立ち上がる。
「とりあえず、何か飲む? スポーツドリンクか、水ぐらいしかないけど。コーヒーならできるよ?」
「あ、えと……お水で」
 世話をかけてばかりの彼の手を、一番煩わせなさそうなものを、わたしは選んだ。暁人さんは了承に頷き、キッチンに入って戸棚を開く。
 空のグラスを二つシンクの上に置いた彼は、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルと、なぜかレモンを取り出している。
 何をしているのだろうと身を乗り出すわたしの視線の先で、暁人さんは丁寧に洗ったレモンの半分をタッパーに入れ、冷蔵庫に戻した。手際よく輪切りにした残りのレモンを、スーパーマーケットで買うような透明度の高い氷と共にグラスの中に放り込み、水を静かに注いでいく。
「はい」
 差し出されたグラスの中、レモンと氷がくるくると踊って輝いていた。
「すごい! レストランみたい!」
 感嘆するわたしに、暁人さんは苦笑を零した。
「兄さんがよくやるんだよね。普段は酔い覚ましに塩とかペッパーいれるんだけど、今日はレモンだけ」
「お酒のあとに飲むの?」
「あと寝起きとかね。頭が結構すっきりするんだよ。どうぞ」
「……いただきます」
 お水は舌にまろやかで、レモンの爽やかな香りが鼻先を抜ける。
「それで……話はついたの?」
 うっとりとしていたわたしは、ふいに投げかけられた問いに、咳むせそうになった。
 暁人さんは素知らぬ顔でグラスに口を付けている。水を飲み下すたびに、彼のなめらかな喉がゆるやかに震える。端整な顔。長い睫。どこか遠くを見ているかのような、謎めいた眼差し。わたしの目は、古い映写機のように彼の動きひとつひとつを、脳裏に刻み付けながら追っていく。
 暁人さんはグラスを置き、わたしの顔を下から覗き込んだ。
「つゆこさん?」
 わたしは紅潮していく面を慌てて伏せる。
「……ちゃんと、お話できました。わかってもらえました。お付き合いする前みたいに戻るには、時間はかかると思いますけど……」
 でも次に大学で会ったら、ちゃんと笑って、おはようって、言える。
 きっと彼も同じように挨拶してくれるだろう。
「心配かけて、すみませんでした……」
 頭を下げたわたしに、暁人さんは微笑む。
「よかったね」
「はい」
 頷き返したわたしは、駅の出来事を思い出した。
「……そういえばアキさん、どうして朝、あそこにいたの?」
 わたしの問いに、彼はぐ、と低い声を漏らし、言葉を詰まらせる。
「……調べた」
「しらべた?」
 復唱するわたしから、暁人さんは気まずげに視線を逸らした。
「君から、この旅行のことは訊いてたから」
「はい……」
「出かけるにしても、君のことだから家に無断で出てくるはずないだろうし。おばさんにそれとなく話題を振って、日にちと時間を聞き出した。知り合いと顔を合わせない遠方に出るなら、あの駅で絶対見かけるだろうって思ったから」
 和真くんと待ち合わせた駅では、複数の沿線が合流する。特急の発着する大きな駅へ向かうには、あそこで私鉄から旧国鉄へ乗り換える必要がある。
 テーブルに肘を突いた手に顔を伏せて、彼は前髪をくしゃりと乱した。
「ごめん。勝手なことして」
「アキさん」
 わたしは暁人さんの表情をそろりと覗いながら、首を横に振った。
「しんぱい、たくさんかけて、ごめんなさい……」
 顔を上げた暁人さんはそのまま頬杖を突き、何かを探るような目でわたしを見た。頼りなく揺れるその双眸は、許しを請うているように思える。でも、何に。勝手に母に連絡を取り付け、わたしの予定を訊き出したことに?
 けれどそれはわたしを案じてのことだ。和真くんとのことがあって、わたしはこのひとの前でたくさん泣いてしまった。だから、放っておけなかったのだと思う。
 もしわたしが親ないし琴乃ちゃんあたりに相談できていれば、暁人さんも必要以上に踏み込もうとはしなかっただろう。
 わたしは微笑んだ。気にしてないですよ、あきひとさん。そんな思いが伝わればいいと思った。暁人さんも、笑った。その顔が甘くて、かわいらしくて、胸の奥がぎゅうと詰まった。
「露子さん」
 暁人さんは唐突に身を起こすと、わたしの傍らを指差した。
「……その荷物」
「え? あ」
 彼が示唆したものはソファーに置かれたわたしの荷物だ。キャメル色の旅行鞄。
「えっと……今日はその、皆でお泊りするっていう、ままに、してあったから。その準備をして、出かけたんですけど……」
「あぁ……そうだね」
「あ! アキさんもしかして母に」
「いや、何も連絡してないよ」
 暁人さんは壁掛け時計を一瞥した。針は午後七時半を指している。
「家まで送ろうか」
「いえ、あの、それだと、嘘がわかってしまうので……」
「……そっか。そうだった」
「別のところに、お泊りしようと思っています」
 暁人さんはこつこつと自分の頭を叩いて、呆けてるな、と独りごちた。
「どこに泊まるの?」
「漫画喫茶に。個室を借りようと思っています」
 行ったことはなかったけれど、あそこなら一泊ぐらい問題ないと友人に聞いている。シャワーやブランケットも無料で貸し出ししてくれるのだとか。ここに来るまでの道すがら、綺麗めの店舗をいくつか確認しておいた。
 暁人さんが不快そうに眉をひそめる。
「女の子ひとりで?」
「大丈夫だと思うんですけど……」
 飲み会のあとに終電を逃した子たちがあそこで夜明かしするらしいけれど、問題が起こったという話は聞かない。
それでも暁人さんは納得できない様子だった。
「友達の家は?」
「その……事情が事情だけに、難しくて。わたしと和真くんのごたごたを、みんな知らないですし。琴乃ちゃんも……話すと」
「あぁ、うん。それはわかる。じゃぁホテルは?」
「お小遣いがないです」
「それぐらい出すよ」
「いつ返せるのかわからないからいいです」
「いや、貸すんじゃなくて、出す」
 今からビジネスホテルを予約しようといわんばかりだ。
「余計に駄目ですよ!」
 軽く腰を上げる暁人さんをわたしは慌てて押し留めた。
 本当は、もう一つ、選択肢がある。
 具合が悪くなったと自宅に連絡し、帰ることだ。心美ちゃんに少し協力してもらうことになるけれど――……一番穏便なやり方で、懐も痛まない。
 それでも、口に出さなかった。
 わたしは目を伏せて、結露滲むグラスをじっと見つめた。氷が溶けて、透明な液体がガラスの底を満たしている。ふやけたレモン。彼の指に丁寧に触れられた。それがとても、羨ましい。
 沈黙をやり過ごしながら、わたしはひとつ、賭けをしていた。
 暁人さんが、次に、何を口にするのか。
 迷惑をかけたくないと嘯きながら、真実は彼の手が差し伸べられることを待っている。
『ひでぇ女』
(そうだね、和真くん)
 わたしは本当に酷くて浅ましくて。
 いやしいおんなだ。
 長い沈黙を挟み、暁人さんは言った。
「うちに泊まる?」
 わたしは瞠目し、彼の顔をそっと窺った。
「ただし、家主のいうことに従ってもらうことが条件だけどね」
「いいんですか?」
 わたしの声弾んだ問いかけに、暁人さんは苦く笑う。
「露子さん、言っておくけど。男の部屋に泊まるんだ。わかってる?」
 一度痛い目に遭っているでしょうと、彼は自嘲混じりに囁いた。
「……アキさん……」
 わたしの呼びかけに、暁人さんは首を傾げる。
「本当に泊まる?」
「お願いします」
「……わかった。じゃぁ、荷物、奥に運んでおいてくれるかな」
「奥って……寝室?」
「うん。そっち使って。僕はこっちで寝るから」
「え! わたしがこっちで寝ますよ!」
 さすがにベッドまで奪うわけにはいかない。リビングに鎮座するソファーの幅はわたしが寝るには十分すぎるほどだけれど、暁人さんにとっては手狭なはずだ。
「露子さん」
 立ち上がった彼は腰に手を当て、わたしを半眼で睨め付けた。
「家主のいうことをきくのが条件って言ったよね」
「……おっしゃいました」
「僕がこっちに寝る。君はあっち。内側に鍵があるから、ちゃんと掛けてね」
「はい……」
「うん。いい子だ」
 暁人さんは空になったグラスを引き取り、流しを片づけ始めた。わたしは慌てて立ち上がる。それぐらい、手伝える。
 キッチンに踏み込んだわたしを、彼は振り返った。
「そうだ、露子さん、晩御飯は食べたの?」
「え?」
 訊き返した瞬間に、ぐぅ、とお腹が鳴る。
 あまりにタイミングの良すぎる、ある意味、わたしの気持ちを全く酌んでくれていないお腹の返事に、暁人さんは小さく吹き出した。
 あまりの恥ずかしさに、顔が一瞬にして沸騰する。スカートの裾を握り、ふるふると戦慄くわたしに、彼は微笑んだ。
「ビザでもとる? 僕も夕食、まだなんだ」


 好きに選んでいいといわれて、二種類のピザをハーフアンドハーフで注文した。生地はクリスピークラスト。サイドメニューとして、シーフードサラダとコーンポタージュを付ける。飲み物は隣のコンビニに降りて調達する。二人でデザートを選ぶことが、なんだか面映ゆかった。
 マンションに戻り、テーブルの上を片づけにかかる。雑誌を纏めてラックに放り、空のDVDケースを戸棚に直して――……。
「アキさん」
「何?」
 わたしの呼びかけに応じて、暁人さんが着替えを取りに入っていた寝室から顔を出す。
「どこかに、引っ越しするんですか?」
 わたしは戸棚の下に放り出されたままの段ボールに触れた。中には、多くのビジネス書や辞書類が収められている。改めて見ると、カーテンの影に折りたたまれた段ボールが隠れていた。そういえば寝室にも、蓋の空いた段ボール箱がいくつか積まれていた気がする。
「あぁ、違うよ」
 暁人さんはわたしの傍らに膝を突いた。
「引っ越しを、辞めたんだ」
 何気なさを装った返答。
 けれどわたしは身体のこわばりを隠し切ることができなかった。
「……ここは二人で暮らすには手狭だったから。引っ越すつもりだったんだけど、取りやめたんだ。だから荷解きをしてる」
 最悪だ、と思った。
 浮かれて、忘れてしまっていた。彼が婚約を解消して、苦しんでいることを。
 段ボールの縁を握りしめ、沈黙を埋めるための言葉を探したけれど、もともとの口下手が手伝って、何も思い浮かばない。
 そして一度だけ目にした菫さんの姿が、急に脳裏に像を結んだ。うつくしい、華のあるひと。彼女は、当然この部屋で堂々と、幾度も夜を明かしたに違いない。あの手触りのよいシーツの上で、暁人さんの腕に抱かれながら。
 かつてない生々しい想像が駆け巡り、羞恥と嫉妬に、目が眩んだ。わたしは本当に浅はかだ。わたしはかつて彼が恋人と過ごしただろう部屋で眠らなければならない。
「露子さん」
 暁人さんが、労わるようにわたしの顔を覗き込む。
「菫のことなら気にしなくていい。僕はもう、なんとも思っていないんだ」
 わたしが失言を後悔してぼんやりしているのだと勘違いしたらしい。
「ごめんなさい」
 わたしは頭を振って呻いた。ごめんなさい。わたしは、あなたを案じたのではないのです。ただ、自分をかわいそうに思っただけなんです――……。
「アキさんは……菫さんのこと、好きでした?」
 わたしの問いに、暁人さんは微笑んだ。
「結婚してもいいか、と思う程度にはね。今となっては、よくわからない」
「……そうですか」
「気にしなくていいよ。彼女を憎む気持ちも何もないんだ。先方のご両親には申し訳ないことをしたとは思うけれど……ものすごく謝ってくれたしね。その上、結婚の支度にかかった費用も、ほとんどこっちに戻してくれて。……まぁ、いい勉強になったかなってところ」
「そうなんですか?」
「うん。平気じゃなきゃ、こんなふうに普通に話したりできないよ」
 彼の言うとおり、わざと明るい声音を装っている風ではあるけれど、話しぶりは平静だった。不快感や心痛を押し殺しているようには見えない。
 ほっとして、わたしは笑った。それは暁人さんがかなり立ち直っていることに対する安堵を表すためであったし、彼の心からうつくしいひとの面影が薄れていることに対する歓喜からでもあった。
 同時に、いやしくてたまらない自分への、自嘲でもあった。
 わたしは片づけを再開するべく、床に纏めて置いていたCDケースを手に取った。すべて洋楽で、知らないバンド名ばかりだった。
 俯いた拍子に、髪が頬に零れ落ちる。
 煩わしさから耳にかけなおそうと何気なく手を上げ――……暁人さんの、指が、触れた。
 その指先が頬を滑り、零れていた髪を、そっとわたしの耳に掛ける。肌を掠める彼の手を追いかけるようにして、産毛が一瞬のうちに逆立った。
 その真剣な目が怖くて。
 視線を合わせることができない。
「アキ、さ……」
 まともに名前を呼ぶこともままならぬわたしに、暁人さんはゆったりと微笑む。
「髪の毛、食べてたよ」
そして彼が立ち上がるのを見計らったかのように、チャイムが響き、夕食の到着をわたしたちに告げた。


BACK/TOP/NEXT