第六帖 さやけくこひたもう 2
旅行鞄をコインロッカーに押し込んで、百円玉をスリットに落とす。
かこん、かこん、かこん、がちゃり。身軽になったわたしは引き抜いた鍵を鞄のポケットに入れ込んで、携帯電話を取り出した。
指が自動的に動き、検索したメールを画面に表示する。
――……露子さんへ。
『メールありがとう。迷惑じゃないよ。いつ電話してくれても構わないし、できることがあれば遠慮なく言って。なんだってする。ひとりで抱え込まないようにね』
もう諳んじるほどに見返したそれは、先日のお礼にと打ったメールへの、暁人さんからの返事だった。
短いけれど、労りのこもった文面に、わたしが泣き止むまで抱きしめ宥めてくれた腕の温かさや、話に耳を傾けてくれたときの真剣な眼差しが思い出されて、心がとても満たされる。
助けてとわたしが一言請えば、彼はきっとその通りにしてくれるのだろう。
それでも、甘えられなかった。
自らの問題すら解決できないままで、あのひとの傍にいたいと望む自分を許せない。
携帯電話を握りしめて、祈る。
神さま。
今日こそ、逃げてばかりのわたしにさよならさせてください。
ほんの少しだけ、ひとと向き合う勇気をください。
今度こそ、きよらかな恋ができるように。
まっさらな気持ちで、暁人さんに向かい合えるように。
約束の時間まで、もう間もない。
意を決したわたしは、肩に掛けた鞄のベルトを握りしめ、待ち合わせ場所へと急いだ。
暁人さんが事情を知った日、わたしは和真くんにメールを打った。旅行には必ず行く。だから無為なメールも加奈ちゃんを巻き込むことも、これ以上やめてほしい、と。
以来、和真くんからの連絡はぱたりと止んだ。落ち合う場所と時間を記したメールを最後にして。
朝七時半、売店前。早朝にもかかわらず、指定された場所は足早に往来する人々で賑わっている。
彼らの邪魔にならない柱の陰で、和真くんはスポーツバッグを提げて待っていた。
目の下に濃く隈を作った顔に、かつての快活な面影はどこにもない。行楽地へ行くというより、自殺に向かうと表現したほうがしっくりとくる陰鬱さだった。
彼をこのようにしたのは、わたしだ。
「……おはよう和真くん」
挨拶するわたしを瞳に映した和真くんは、スポーツバッグの柄の部分を握りしめ、一歩踏み出した。
「荷物、それだけなのか?」
わたしは首肯した。
「わたし、旅行にはいかない」
和真くんのスニーカーが、磨き上げられたタイルをゆっくりと踏みしめる。
「……約束と違うんじゃねぇのか?」
「そうだね。ごめん。旅行のお金なら払うよ。……でもね、和真くん。わたしは今日、旅行にきたんじゃないの」
和真くんがわたしの前で立ち止まる。彼の顔がすぐ頭上にあった。
その暗い目をまっすぐ見上げて、わたしは言う。
「今日はお話するためにきたの」
和真くんは聞く耳持たず、問答無用にわたしの手を取った。
「来い」
わたしはその手を振り払った。
「わたしの話を聞いて」
「いいから来いよ!」
彼は怒声をわたしに浴びせ、スポーツバッグを地に叩きつけた。空気の破裂する音が構内に轟き、ひとの歩みを一瞬止める。けれど怯むわけにはいかなかった。きっとこれが、和真くんと向かい合うことのできる最後のチャンスなのだ。
わたしは彼の腕に縋り、お願い、とその堅強な身体を揺さぶった。おねがい。ちゃんとはなしをさせて。
和真くんは往なしたわたしの手を掴み、スポーツバッグを肩にかけなおした。彼はそのまま改札に向け、力強く歩を進める。どうにか踏みとどまろうとしても無駄だった。半ば引きずられるようにして、わたしの足はずるずる和真くんの後を追っていた。
おそらく、たくさんのひとたちの注目を集めているのだろう。背中にざくざくと視線が刺さり、遠巻きに囁き合うひとの姿が見える。生来、目立つことが苦手なわたしにとって、それらは拷問に等しい苦行だ。
鼻の奥で競り上がる熱を必死に堪えながら、わたしは叫んだ。
「和真くん!」
和真くんは答えない。徐々に近づく改札を前に、あぁ、とわたしは目を閉じる。
その刹那。
わたしの身体が、後方へと大きく傾いだ。
瞠目したわたしの視界に、驚愕する和真くんの姿が映りこむ。わたしのやや後方に目線を向ける彼との距離が、瞬く間に遠ざかった。一体どうなっているの。どうにか踏みとどまり、体勢を立て直したわたしは、肩を包む男のひとの手の感触に、改めて息を呑んだ。
あたたかく、おおきな、その。
あぁ、これだけで。
どうしてだれのものだか、わかるの。
(アキさん)
振り仰いだその先で、険しい眼差しに目を細めるそのひとは、わたしの身体を背後に押し込めた。
「痴話喧嘩をするなら場所を選ばないと、注目されるよ」
「何だよお前?」
噛み付くように唸る和真くんに、わたしから手を離した暁人さんは、軽く肩をすくめる。
「とおりすがり?」
そんなはずない。
偶然で、彼がここに、いるはずない。
暁人さんのシャツの裾を震える手で掴んだわたしの肩を、彼が子供をあやすように軽く叩く。
その手の大きさ。その手の感触。その手のぬくもり。
それだけで、満たされる。
何故、このひとがここにいるのかは考えなかった。ただわたしは幸せに眩んで、今にも泣きだしてしまいそうだった。
わたしから身を引いた暁人さんは、無言のまま和真くんとの間に立ちはだかっていた。その顔に表情はなく、本当にわたしたち二人の問題にしゃしゃり出てきただけの通りすがりに見える。暁人さんは無言のまま首を傾げ、和真くんの言葉を待っている。一方の和真くんは第三者の介入に慄いた様子で、スポーツバッグのベルトを固く握り、下唇を噛みしめていた。
続く沈黙。
好奇心からか足を止めていたひとたちも、ついと視線を逸らして通行人の列に紛れていく。
わたしは暁人さんを見上げた。冷静さを取り戻すと、彼がここにいる理由を改めて疑問に思う。まさか出勤途中に鉢合わせしたというわけではないだろう。マホガニーブラウンのシャツにジーンズを合わせた彼は、明らかに休暇のさなかにある。だとすれば、わたしを案じてわざわざ来たのだろうか。それでも、和真くんとの旅行についてはお話した覚えがあったけれど、時間までは伝えていないのに。
暁人さんはわたしと視線を合わせると、その目元を和らげた。どこか冷たさすら滲ませる端整な顔が、一息に甘くなる。わたしのせんせいだった頃、彼はときどきそうやってわたしを見た。
暁人さんはわたしに手を差し伸べた。おいで、とも、いこう、とも、彼の唇は何も紡がず、淡い微笑に緩んでいる。
彼の手に、わたしのそれを重ねるだけでよかった――……和真くんとの関係を、終わらせたいだけなら。
「行くのかよ」
和真くんがぽつりと呟いた。
はっとなって向けた視線の先で、彼は足元を睨み据え、落とした肩を震わせている。
「たのむよ、つゆこ」
か細い声で、和真くんは懇願する。
「……今だけは……ついて、きてくれよ……」
和真くんの目は、わたしのそれ以上に歪み、潤んでいた。白目は充血し、細い血管が網のように浮き出ている。
張りつめた顔で、鼻を啜り、背を丸めて下唇を噛みしめる彼が、急にちいさなちいさな、男の子に見えた。
横をゆっくりとすり抜けるわたしに、暁人さんは瞬きを繰り返す。
「大丈夫」
わたしは微笑んだ。
「わたし、彼とお話するためにここ来たんです」
どうしたら、恋をきれいに始めて、きれいに終わらせられるのか。暁人さんと再会してから、わたしはいつも考えている。
わたしを心配そうに見つめる、このひとのことが好きだ。このひとが一番愛しいひとだ。たとえこのひとと恋人になれなくても、彼の前に立つわたしは、きれいなわたしでいたかった。
自分勝手さで始まった和真くんとの関係を、ぐずぐずのまま切り捨ててしまうようなわたしでいたくなかった。友人ひとりすら大切にできず、どうして暁人さんを大事に想えるだろう。
「帰ってきたら、連絡します」
不安そうな眼差しでわたしを見下ろしていた暁人さんは、息を吐いて身を引き、微苦笑を浮かべた。
ごめんなさい。ありがとう。わたしは笑みを深くして和真くんに歩み寄り、その手を取る。汗ばんだ彼の手は震えて、わたしに緊張を伝えた。
いこう、和真くん。それがあなたと対話するための、条件になるというのなら。
和真くんはわたしの手を握り返した。やわく、やわく。まるで握り締めると、わたしの手が砕け散ってしまうと言わんばかりに。
地下鉄に揺られて都内に入ったあと、東京駅で特急に乗り換える。海辺に敷かれた線路をひた走る列車から見える水面は、秋らしい黄金色の日差しを受け、白く煌めいていた。うんと高くなった蒼穹に、小さな丸い雲がうろこのように連なっている。泣きたくなるほどにうつくしい、秋晴れの空だった。
和真くんはわたしを指定席に座らせてから、ひとことも口を開く気配を見せなかった。かといって、威圧的にわたしを縫いとめるわけでもない。通路側の席をわたしに選ばせてくれた彼は、凪いだ目でただ海を見つめ続けていた。
和真くんとまともに会うことがなくなって、一月が経とうとしている。草臥れた彼の横顔はかつての闊達さを失った代わりに、わたしが覚えているそれよりも、うんと大人びて見えた。おかしなことだ。つい先ほどまで、彼のことを幼子のように見ていたのに。
列車に乗って二時間と少し。目的地が近いことを告げるアナウンスに、和真くんが腰を上げた。
特急を降りたあと、在来線を乗り継いでたどり着いた場所は、小さな砂浜だった。真夏は賑わいを見せるに違いない海辺も、海水浴のシーズンが終わって人通りまばらだ。秋に入り、ひとの流れは高原のほうにあるのだろう。
和真くんは国道と浜辺を繋ぐ石造りの階段に腰掛けた。頬を撫でる風が心地よく、規則正しい潮騒も耳に優しい。しかしそのすべてが不快だとでもいうように、和真くんは顔をこの上ないほどにしかめていた。
「……なんで、来たんだよ……」
両手の上に顔を伏せて、彼は呻いた。
「駅に行かなきゃ、付きまとわれるとか思った? キモかっただろ、俺。完璧、ストーカーじゃん……」
くぐもった声には後悔が滲む。彼は正気だった。わたしのよく知る、優しくて友達思いのひとだった。
「なんで加奈ちゃんを巻き込んだの?」
わたしはワンピースの裾をさばいて、彼の傍らに腰掛けた。
「加奈ちゃんは関係なかったのに。あとでちゃんと、加奈ちゃんに謝って」
和真くんがゆっくりと面を上げて、わたしを見た。
「……それだけか?」
「……それだけだよ」
わたしを捉える瞳には、困惑と疑念がないまぜとなって浮かんでいる。唖然とした様子で凍り付くことしばし、ふいに鼻で吹き出した彼は、湿った声を震わせた。
「なんだよそれ……」
「ごめんね、和真くん」
「謝るなよ。悪いのは俺だろ」
「でも、最初に和真くんを利用したのは、わたしだった」
彼の想いを、ないがしろにしたのはわたしだった。
彼女というよりも、友人として、ひととして、褒められたことではない。
「わたし、ちゃんと謝りたかったし、許してもらえないならそれもしかたないけど、でも、できるならまた、友達でいてほしかった」
お付き合いする前の和真くんは、わたしにとって一番好きな男の子の友人だった。ひとの前に率先して立つ姿と、誰もの心を明るくする言動は、ひとの後ろに隠れていることの多いわたしにとって、とても憧れだった。逆に彼もまた下手に物事を騒ぎ立てることのないわたしの傍を気に入ってくれていた様子だった。
わたしたちは、とてもよい、友人だったはずだ。
そこからまた、やり直したかった。
「……気持ち悪くねぇのかよ」
「和真くんのことを?」
「そう」
「……だって、正気じゃなかったんでしょう?」
わたしの問いに、和真くんははっと息を詰めた。充血した双眸が、ようやっとわたしに向けられる。不思議そうに瞬いた彼は、やがてその顔をくしゃくしゃにした。
「露子はさ、そういうとこ、すごいよな」
すごい、と彼は称賛を繰り返した。
「普通さ、そういう風に思わねぇよ。こういうことするやつなんだって、ドン引きするだろ。弱くて、最低の人間だって、思うだろ。なのにお前は、余裕あるときの優しくできる俺がさ、本当だって、信じようとするんだ」
和真くんは言葉を区切り、抱えた膝に赤くなった鼻先を押しつけながら、寄せては返す波に目を凝らした。
「俺、お前が俺の方見てないのなんてずっとわかってたよ。手ぇ繋ぐときも、キスするときも、いっつもいっつも嫌なの我慢してくれたのもわかってた。彼女らしく振舞おうとしてくれてるときも、いっつも、すごく我慢してたの、知ってたよ。……誰か別に好きなやつ、いるんだろうなって、思ってたよ」
ずず、と鼻を啜って、彼は呻く。
「でもさ、それでもいいって思ったんだ。お前は俺の彼女だったんだからさ……。お前の気持ち無視して、全部奪っちまえばいいって思ったんだ。ひどいのは、お互い様なんだよ」
「かずまく」
「ごめん。露子。怖い思いさせてごめん。お前にしたこと、全部、取り消せればいいのに」
だったらやるなって話だけどさ。
泣き笑いに顔を歪めて、彼は自嘲した。
「わたし、和真くんと遊んでて、楽しかったよ」
「うん」
「好きって言ってもらえて、嬉しかった」
「うん」
「ごめんね、和真くん」
好きになれなくてごめんね。
傷つけてしまってごめんね。
あなたを貶めるような真似をして――……。
「あれがお前の好きなおとこ?」
和真くんが誰を指しているのかは明白だった。
「うん」
頷くわたしに、和真くんは海を見つめ、そっかと言った。
「次はあいつに、こういうところに連れてきてもらえよ」
昔、きれいな海辺をすきなひとと、ゆっくり歩けたら素敵ねと、話したことがある。まだお付き合いを始める前、サークルの友人たちとでとった、食事の席でのことだった。
それを和真くんは、覚えていたのだろう。
ざ、と波がひときわ高く盛り上がり、砂浜を広く湿らせる。吹き付ける風は冷えていて、夏には眩しい水辺の輝きも、すこし色あせみえた。代わりに深みを増した青が遠くで天と入り混じっている。
とても、美しかった。
「ずうずうしいけどさ。最後にキスしていいか?」
わたしは和真くんを見つめた。膝を抱える腕に力を籠め、緊張した面持ちでわたしを見つめ返す目には、怯えが見えた。わたしは、小さく微笑み、答える代わりに身体を倒して唇を寄せた――彼の頬に。
和真くんはきょとんと目を丸めて、唸るように言った。
「ひでぇ女」
けれどその顔は、以前のような、屈託のない底抜けに明るい笑顔だった。