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第一帖 はだれゆき 1


 そのひとは、飾り気のない黒のダッフルコートの両ポケットに手を突っ込み、首に巻いたバーバリーチェックのマフラーに鼻先を埋め、少し気だるそうに立っていた。
 空からふらふら舞い落ちる灰雪は量を増し、より粒子細かいものに移り変わろうとしていた。鈍重な鉛色だった空は、高みで風に煽られる粉雪により霞み、水で薄く薄く溶いた墨の色をしている。縁を白く飾ったアスファルトの上でくるくる踊る雪を見れば、確かに風はあるはずなのに、防音壁に囲まれているかのような、不思議な静寂が場を満たしていた。
 わたしは、雪積もる日特有の、肺腑を洗う厳寒な空気が好きだ。
 けれどこのとき、吸い込む冷気は気管支から水分を奪い取っていくばかりで、からからに乾いた喉は、わたしに引き攣った痛みを与えた。きぃんという音叉めいた耳鳴りに、喘ぐような吐息が混じる。ぼんやりしていたわたしは結果として、凍えているそのひとをかなりの間、玄関先に立たせっ放しにしてしまったのだった。



さやけくこひたもう



「成川暁人(なりかわあきひと)」
 母が、そのひとの名前を読み上げて、困ったわ、と手を頬に当てた。
「琴乃ちゃんの紹介してくれた子が、まさか男の子だったなんて」
 母のいう琴乃ちゃんとは、わたしの家庭教師のお姉さんだ。大学四年生の彼女は、もともと気心知れた幼馴染――わたしにとって、姉のようなひとで、週に二度やってきては、わたしの書架をしげしげ眺めてその陳列内容に文句を言ったり、大学生活の輝かしさについて力説したり、わたしのノートの角に落書きしてみたり――……もちろん、手厳しくわたしの苦手教科の監督もしていた。
 その琴乃ちゃんが体調を崩してしまい、少しの間だけ家庭教師をお休みすることになったのだ。
 彼女が代役にと紹介してくれた、大学の後輩にあたるひとが、今、わたしと母の前で眉間に皺を寄せている暁人さんだった。
「僕のことを、先輩は何て言っていましたか?」
「頭のいい、教えるのが上手な後輩だって……」
 歯切れ悪く応じる母に、彼は質問を重ねる。
「それだけでは、僕を女の子だと、勘違いしたりしないでしょう?」
 沈黙した母の代わりに私が答えた。
「……琴乃ちゃんは、アキちゃんって、呼んでたの」
 アキちゃんは本当に頭がよろしくて、顔も可愛いもんだから、もうむかついてむかついてね。でもアタシの知り合いの中で一番無害で、教え方が上手なやつなの。アキちゃんが教えるなら、あんただって数学で満点とれるわ。
 ――以上が、琴乃ちゃんが電話口でまくし立てた“アキちゃん”についての説明だ。
 家庭教師の代役として紹介される前から、アキちゃん、というひとのことは聞いていた。
 かわいいこなのよ。いじめたくなるの。あんたとおなじぐらいにかわいいの、ツユ。
 そんな感じであったので、わたしはもちろん、母もすっかり、アキちゃんを女のひとと勘違いしていて、家庭教師の代役として現れた真面目そうな青年に、すっかり困惑してしまったのだった。
「話の行き違いがあったみたいですし、不都合があるならこのお話はなかったことにしてください」
 暁人さんは言った。
「大宮先輩には、僕の方から言っておきます。驚かせてしまって、申し訳ありませんでした」
「あら、いえいえ、そんな……こちらこそちゃんと確認もせずに、ごめんなさいね」
 深々と低頭する暁人さんに、母が慌てて謝罪する。まったくだ。勘違いしたのはわたしたちで、暁人さんこそこんな雪の中、無駄足を踏むことになってしまった被害者なのだ。
 暁人さんが母から履歴書を引き取る。琴乃ちゃんの紹介ということで必要はなかったのに。きちんとしたひとなんだな、と思った。
「おかあさん」
 鞄の中にするりと姿を消す、暁人さんの経歴を綴った紙を目で追いながら、わたしは母に呼びかけた。
「おかあさん、わたし、アキさんにべんきょう、みてもらいたい」
 母が瞠目してわたしを振り返る。母の表情の意味するところは理解できる。わたしも言い出した自分にとても驚いていた。
 わたしはおおよそ、両親に逆らったことがない。父も母も、遅くにできた一人娘のわたしをとても可愛がってくれていて、家庭教師を雇うことにしたのは、夜に塾へ行かせることがしのびない、というなんとも過保護な理由からだった。友人たちが集会する塾たるものに、興味が湧かないわけでもなかったし、お嬢様と揶揄されることもあるけれど、わたしは両親の意向に従っている。
 その家庭教師にしても、おんなのひとがいいと父が主張し、琴乃ちゃんが買って出てくれるまで、探すのに難儀していた。
 それを知っていて、わたしは暁人さんを引きとめようとしている。
「だって琴乃ちゃん、アキさん、とっても教えるのが上手だって言ってたから……」
 母と暁人さんの視線を受け、わたしの弁解の声が、語尾にかけて細っていく。
「そうねぇ」
 膝上の握りこぶしを黙って見つめていたわたしの耳朶を、母の明るい声が打った。
「せっかく来て戴いたんだし、今日、お願いしていいかしら。もちろん、お礼は出すから」
「え? いいえ……」
 母の依頼に、暁人さんは当惑した面持ちでゆるりと首を横に振る。
「礼は」
「だめですよ。アルバイト、というお約束ですからね」
 母は辞そうとする暁人さんを押し留めてゆったり微笑むと、窓の外を見た。
 光を孕んで仄明るい地上に対し、天はますます暗くなる一方で、雪の降り止む気配はまだないようだった。
「この天気では、帰るのも一苦労でしょうから。少し、うちの子に付き合ってあげてくださいな」


 わたしの部屋をぐるりと見回した暁人さんは、それ以上観察するのは失敬と思ったのか、黙ってわたしの勧めた席に着いた。
「大宮先輩には数学って聞いてますけど、その科目で間違いないですか?」
「まちがいないです」
 わたしは答えながら教科書とノートと筆記用具を取り出し、テーブルの上に並べる。少し考え、ハンガーも出して、カーペットの上に丸めてあった暁人さんのダッフルコートとマフラーを取り上げた。
 男のひと用のコートは大きくて、わたしの腕にずっしり重い。手間取りながらそれをハンガーに引っ掛けて、衣装箪笥の取手に吊るす。
「ありがとう」
 暁人さんがここにきて初めて微笑んだ。その雪解けのような表情に、わたしは緊張を解いて微笑み返す。父を除けば賑やかな同窓の男の子しか知らぬわたしにとって、父のような壮年とも違う、大人の男のひとの冷淡な表情は、やや怖くもあったのだ。
 暁人さんはじっとわたしの動きを追っていた。おませな同級生の女の子たちとは違い、色事と縁遠いわたしは、こんなふうに男のひとに間近で見つめられることなどまずない。わたし、なにか、おかしなことをしたかしら。逸る胸に息苦しくなって、わたしは暁人さんを見つめ返し、小さく首を傾げてみせる。すると暁人さんはついと視線を外し、テーブルの上に置かれた教科書にそっと触れた。
「……僕も家庭教師は、初めてなんだ」
 母を相手に堂々としていたときが嘘みたいに、暁人さんはもごもごと口を動かす。
「なので、やりかたとか、よくわからないんだけど……よろしく」
 わたしはその時ようやっと、あぁ、暁人さんもとても緊張していたのだと知った。
 大人びた所作は背伸び。落ち着いて聞こえた声は、本当はすこし震えていたのだということ。冷静に見えた顔は、笑顔も取り繕えぬほど余裕なかった証――……まだ少し強張りの抜けぬ上気した顔を見つめながら、かわいいかもしれないなどと、指余る数、年嵩の男のひとをつかまえて抱いた大変失礼な考えに、わたしは口元を綻ばせていた。
「よろしくおねがいいたします、せんせい」
 暁人さんも微笑み、小さく頷いた。


 これがわたしと、わたしがただひとり、あいしたひととの、であいだ。


「わからないところがあったら何でも訊いて」
 そう言われたのだけれど、暁人さんはわたしの勉学を見る間、すんなり回答を教えてくれたりはしなかった。
 家庭教師の時間中、わたしは学校の課題に取り掛かり、わからぬところあれば琴乃ちゃんに質問していたものだった。けれど暁人さんは、まず自分の力で解くことを要求した。そっと教科書を捲り、回答を導くに参考となる箇所を示してくれたりはするのだけれど、わたしが唸っても呻いても机に突っ伏しても、肝心の答えに関しては知らん振り。あぁ、なんて薄情なひと!
 どうにかこうにか解答欄を埋めきって初めて、暁人さんはわたしの手元を覗き込む。琴乃ちゃんなら放置していた正解の箇所についても、暁人さんは、どういう考え方をして解答を導いたか、論理立てて説明することを要求する。それができないと、もう一度解いてみてと、似たような問題を提示した。それで、まぐれで解いたのか、それともきちんと理解しているのかを推し量るのだ。
 誤っている箇所は、まず、定理の確認から――ここは何の方程式を使えばいいと思う? わたしは教科書を捲り、これじゃないかな、あれじゃないかな、などと憶測を述べる。
 しどろもどろで説明するわたしに、暁人さんはうんと頷き、いい考えだ、それはこっちの考え方をした方が早く答えられる、そう、それでいいんだよ、等々、必ずひとこと付け加えた。
 こんな風に、自分で考えて答えを出させるという基本方針を徹底して貫く一方で、ひとたび教えるとなれば、とても丁寧でわかりやすかった。物分りの悪いわたしに、暁人さんは一生懸命言葉を噛み砕いて説明する。わからなかったことが、暁人さんを通すとするするとわたしに浸み込んでいく。
 こんなに勉強が、楽しかったことって、今までにない。
 暁人さんから受けた初授業の後、わたしは興奮気味に両親に訴え――そして彼は晴れてわたしの家庭教師……の代役、なった。
 といっても、その注釈はすぐになくなったのだけれど。
 少しの間だけのお休み、という約束のはずだったのに、体調不良が案外長引き、琴乃ちゃんは就職する春になって家庭教師の辞職を両親に申し出たのだ。暁人さんの続投はすんなりと決まった。最初は渋い顔をしていた父も、暁人さんがわたしの志望校のランクを一つ上げるという成果を出したことで、彼への態度を軟化させた。
 母は今時珍しい好青年という評価を早々に打ち、暁人さんが来る日は決まってご馳走を作りすぎる。
 わたしの暁人さんへの感想は――ふしぎなひと、だ。
 怖いわけではないのだけれど、近寄りがたい。暁人さんと過ごす時間は、琴乃ちゃんのときとは違って、余計なおしゃべりを挟まない。成績も上がろうというものだ。わたしに教科書の図面を指で辿り示す、その横顔は涼しげで、学校の先生たち以上に、とても大人に見える。
 隙がなくて、このひとのどこが一体可愛いのか、琴乃ちゃんに問い質したいぐらいだった。
 確かにわたしもこのひとを、可愛いかもしれないと、一度は思ったのだ。
 でも一緒に過ごせば過ごすほど、暁人さんは水の向こうに立つひとみたいに、輪郭曖昧で、静かで。
琴乃ちゃんの後任が若い男のひとだなんてと、友人たちは皆色めきたったけれども、艶めかしいことは何ひとつだってないのだった。
 そんな調子で、季節は廻り、夏を過ぎて。
 秋に、なった。


「来週と再来週は申し訳ないんだけれど、お休みさせて」
 わたしは大きく瞬いた。暁人さんが家庭教師になって、もうすぐ一年になろうとしている。その間このひとが、お休みを申請してきたことなんて皆無だ。
「どうしたの、せんせい。ご用事ですか?」
「学祭の準備も本格化してきたから抜けられそうもなくて」
「がくさい」
「大学祭」
 わたしはカレンダーを見つめ、そんな時期なのか、と納得した。そういえば琴乃ちゃんも同じようにお休みを取っていたことを思い出した。琴乃ちゃんみたいに出し物や活気付く大学の様子をお話するわけでもないから、すっかり忘れていたのだ。
「大学祭って、色んな出し物したりするんですよね」
「サークルやゼミごとに有志でね」
「先生も何かするんですか?」
「僕の友人たちがそれぞれショーをやったり喫茶店をしたりするんだ。僕はその裏方。何せ、人手が足りなくて」
「お手伝いがいないんですか?」
「逆。かなりいる。でも経営学部だから店舗関係が本格的でいくら人がいても足りなくて。模擬みたいなものも兼ねているんだ。もちろん、そうじゃなくてサークル紹介みたいなのとか、展示ブースとか、色々あるよ」
 暁人さんの説明を聞きながら、わたしは琴乃ちゃんが語った大学祭の様子を思い出していた。大学生活最後のお祭りは大盛り上がりで、去年わたしは琴乃ちゃんのお話に聞き入りながら、自分も大学生になった気分を味わったのだ。
 わくわくするわたしを、暁人さんがじっと見つめる。
「……あそびにくる?」
 暁人さんの提案に、わたしは息を呑んだ。
「いっていいんですか?」
 もちろん、と彼は笑う。
「制限あるわけじゃないから。受験勉強の気晴らしにおいで」
 暁人さんはバックパックから大学ノートを取り出し、その最後のページを裂き取った。几帳面な字でさらさらと何事かを書きこんでいく。
 暁人さんの携帯電話の番号だった。
 母が預かっている履歴書には記されているそれを、わたしはずっと知らなかった。
「当日来たら電話して。迎えに行く」
 ノートを閉じながら、ただし、と暁人さんは付け加える。
「ちゃんとご両親には許可を取ってね」
 頷くわたしに微笑んだ暁人さんは、いつも通りの家庭教師の顔になる。教科書がテーブルの天板を滑る音に我に返り、わたしは慌ててノートに視線を落とした。
 どきどきした。
 暁人さんと初めて交わした、勉強以外についての会話に。
 そして手元にある、『せんせい』ではない暁人さんに繋がる、数字の羅列に。


 ずっとずっと、興味があったのだ。
 生真面目に仕事を遂行する『せんせい』として以外の。
 琴乃ちゃんがわたしに語っていた、暁人さんの姿に。


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