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第五帖 浅ましけれどゆえに 2


 サークルの部室に向かって歩くわたしを、追いかけてくる声があった。
「露子!」
 足を止めて振り返る。
 心美ちゃんと、加奈ちゃんだった。
 薄煙に空覆われる今日は肌寒く、駆けてくる友人たちは薄手の上着を羽織っている。色鮮やかなその裾が、雨の気配をはらむ風にはためいていた。
 手首を拘束された加奈ちゃんが、力強く歩く心美ちゃんの重石となって、ふたりの歩みは遅々としている。ようやっと追いついた彼女を前に、わたしの身体は緊張に震えた。俯いたままの加奈ちゃんから浴びせかけられた痛烈な批判が、意識の隅を過ぎったからだった。
「ほら、加奈」
 心美ちゃんにせっつかれた加奈ちゃんが、観念した様子で頭を下げる。
「昨日は……ごめん」
「大丈夫」
 わたしは微笑んだ。いいの。いいんだよ、加奈ちゃん。あなたが謝る必要はどこにもない。
 全てはわたしの弱さのせいだった。
「加奈ちゃんの言うとおりだと思うから。わたし、和真くんにひどかったね」
 でも、もう大丈夫。
 わたしは決然と言った。
「和真くんとちゃんとおはなしするから」




 物事には、順序というものがある。
 和真くんと話もつけずに、暁人さんに想いを告げていいはずがない。それは誠実ではない。和真くんに対しても、暁人さんに対しても。
 和真くんと、話し合いがしたい。
 しかし彼は以前とは逆に、わたしから距離をとり始めた。メールをしても電話を入れても応答がない。バイトのシフトはわたしの空き時間と重なる様に組み替えられていた。かといって“痛い目”を一度経験しているわたしは、彼のアパートで待ち伏せする勇気もない。大学の構内を熊のようにうろついて、和真くんの居場所を尋ねて回り、会ったら探していると伝えてくれるよう、友人たちに依頼することしかできなかった。
 和真くんがわたしのことを厭うようになったのだとしても、責めることはできない。
 溜息を吐いて帰宅の途につこうとした矢先、わたしは駐車場に停まるオレンジ色のマーチとその主をようやっと見つけた。
「和真くん」
 駆け寄るわたしの姿を認めた和真くんは、顔を強張らせて視線を逸らした。
 車体に寄り掛かる彼の目は泳ぎ、気まずげで、軽く指先を握りこんだ手がドアに張り付き震えている。
 わたしは深く息を吸った。
「和真くん、ごめんね」
 和真くんは弾かれるように面を上げ、訝りの目でわたしを射る。
「この前は、ごめんね」
「……いいって、もう」
 謝罪を繰り返すわたしに、彼は苦笑を漏らした。
「風邪、今日は大丈夫なのかよ?」
「え……うん」
 彼のいう風邪はもうとっくの昔に治ってしまっている。
「今から帰るのか? 俺も帰るんだ。乗れよ、露子」
「かずまくん」
 助手席を顎で示して鍵を開ける彼の背に、わたしは呼びかけた。
「話があるの」
 車のキーを握る手が、かすかに震える。
「車ん中で聞くよ」
 運転席に着いた彼の瞳には、鬱屈とした雨雲が映りこんでいた。


 水滴がフロントガラスにぽつぽつと輪を作り始める。
 手慣れた動作でワイパーのスイッチを入れる和真くんの顔には色がない。その欠落を悲しく思った。彼はいつも笑ったり怒ったり、あるいは好奇心に満ちて、忙しかった。あらゆる感情に溢れる彼のことが、わたしはとても好きだったのだ。
「話ってなんだよ?」
 視線を感じたのか、和真くんは居心地悪そうに身じろぎする。
 わたしは胸元を握りしめて、呼吸を整えた。
「お友達に戻ろう、和真くん」
 ワイパーが、規則正しく窓の水滴を拭っている。
 和真くんの表情に、変化はない。
 ただステアリングを握る手に、静かに力が込められていった。
「ごめんなさい」
 沈黙に耐えきれず、わたしは謝罪した。
「ごめんなさい、和真くん。ごめんなさい」
「……どうしてだよ?」
 笑い損ねたような奇妙な表情に口元を引き攣らせ、彼はわたしを一瞥する。
「どうしてだよ。俺たち、上手くいってたじゃん。ちょっと喧嘩したぐらいで、なんでだよ?」
「わたし、和真くんをどうしても友達以上に思えない」
 わたしは息を継いで続けた。
「だめだったの。和真くんを好きになろうとしたけど駄目だった。友達としてなら、大好きだよ。でも、駄目なの。キスしたり、そういうこと、和真くんとは、やっぱりできない」
 彼に触れられるその都度、嫌悪感を押し殺す。その異常さに、もっと早く気付けばよかった。
「できてただろ? ちゃんと、できてたじゃねぇか」
「もうできない」
「なんでだよ!」
「わたし、今、好きなひとがいる」
 和真くんの顔が、文字通り凍り付いた。
「すきなひとがいるの。そのひとのことが好きなの」
「……なんだよ、それ。ほかに好きなやつがいんのに、俺と付き合い始めたってのか?」
「もう、会えると思っていなかったの。諦めなきゃいけなかった。じゃなきゃわたし、おばあさんになっても、恋なんて到底できそうになかったから」
 なのに、また出逢ってしまった。
 暁人さんと、また、出逢ってしまったのだ。
「和真くんは男の子の中で一番好きなお友達だった。だから、好きになれるかもって思ったの」
「好きになってくれたんじゃなかったのかよ。最近、本当にうまくやってきてたろ、俺たち」
「違うの」
 わたしは否定にゆるく首を振った。
 自分がいかに浅ましくあざといか、告げるのは腰が引ける。
 けれどわたしは和真くんにこれ以上嘘を吐き続けていくことはできない。
 彼に――そして暁人さんに、形は違っても、好きという点においては同じひとたちに、わたしは少しでも誠実でありたい。
 そうでなければ、暁人さんの前に立つ資格など、ないだろうから。
「わたしの好きなひとに、婚約者がいたの」
 わたしは和真くんを見据えて言った。
「そのことが辛くて、悲しくて、悔しくて……さびしくて、わたしは和真くんを利用した」
戦慄(わなな)く手でステアリングを切った和真くんは、車のスピードを緩やかに落として路肩に停車した。
「ごめんなさい」
 蹲るように身を伏せて黙りこくる彼に、わたしは鸚鵡の一つ覚えのように謝罪を繰り返した。
 ごめんなさい。ごめんなさい。本当にごめんなさい――……。
 雨がワイパーの音をかき消すほどに激しさを増し、窓の外は灰色に濁っていた。横を過ぎ去る自動車のヘッドライトが、わたしたちの姿を思い出したように照らし出す。まだ日が落ちるには早い時刻だ。けれど世界は夜に似た影に没していた。
 和真くんは、長い間、動かなかった。
 まるで死人(しびと)のように、ぴくりとも。
「かずまく」
 わたしが伸ばした手を、彼は勢いよく身を起こしながら振り払った。
「どうしていまさら、そんなこと言うんだよ!?」
 鼓膜を痺れさせる怒声に威圧され、わたしはドアに張り付いた。
「別に俺はお前にほかに好きなやつがいたってかまわなかったよ!! 最初っから……最初っからお前が俺のこと、友達としてしか見てないことなんて知ってたんだ!!! それでもよかったんだ!!! 他に好きなやつがいようが構わなかった!! 黙っておいてくれりゃよかった!!! そんでもって、この間みたいに、俺にすり寄ってくれりゃよかったんだよ!! なんでいまさら暴露すんだよ!! なんでいまさら、好きになれないなんていうんだよっ……!!!」
 和真くんは、泣いていた。
 大きく見開かれた血走る両の目から、ぼろぼろと涙を零していた。
「わた、わたしは……」
 ひどく狼狽しながら、わたしは呻く。
「わたし、これ以上、和真くんを傷つけたくなかった……」
 わたしは和真くんに想いを返してあげられない。たとえ付き合い続けていったとしても、彼を傷つけていくだけになるだろう。いつも明るくて、おおらかに笑っていた彼の顔を、曇らせていくだけに違いない。
「違うだろ」
 わたしの抗弁に、和真くんは冷やかな笑みを浮かべた。
「自分が、楽になりたかっただけだろ」
 その一言に、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受ける。
「楽だろ。全部ぶちまけて。謝って、すっきりしたろ? 俺のためとかいうんじゃねぇよ。……嘘、吐くんじゃねぇよ!!!」
 ステアリングに拳を叩きつけて、和真くんは吠えた。
「俺のためっていうなら、最後まで嘘吐き通せよ!! 彼女面して、俺の隣に座ってろよっ!!!」
 和真くんは素早い動作でサイドブレーキを下ろし、ギアをドライブに変えてアクセルを踏んだ。わたしの身体に、ぐん、と慣性の力がかかる。
「かずまくん」
 わたしは和真くんの腕に縋って問いかけた。
「和真くん。どこへいくの……? 和真くん?」
 彼は答えない。
 瞳に暗い翳を宿したまま、アクセルを踏み続ける。
「かずまく……」
 ――……その、張りつめた横顔を。
 いつだったか、見たことがあると、ふいに思った。
 年の瀬を控えた、四年前の冬。雪がちらちら舞い始めた、塾からの帰り道。
 トレンチコートに身を包んだ暁人さんの……。
「かずまくん」
 わたしは懇願した。
「和真くん。降ろして。ねぇ……和真くん!」
 けれど幾度呼びかけても、彼はわたしに見向きもしない。
 一体どこへと向かっているのか。角をいくつも曲がり、見慣れぬ通りを突き進む。街並みは雨の帳に覆い隠され、方角に見当を付けることすら難しい。
 わたしは和真くんの腕を強く、揺さぶった。
 その瞬間。
 タイヤの摩擦音が轟いて、窓に津波のような飛沫が跳ねた。
「きゃあ……っ!!」
 シートベルトに圧迫され、上げた悲鳴が短く途切れる。
 咳込みながら様子を覗った隣の席では、和真くんが蒼白な面持ちで前方の赤信号を見つめていた。
 信号無視をしかけて、急ブレーキを踏んだらしい。エアバッグが膨らむほどではなかったにしろ、危なかった。横断歩道を誰も歩いていなかったのは幸いだった。
 安堵に吐息し、シートに身を埋めかけたわたしは、すぐ左手に歩道を認めた。
 和真くんは顔を強張らせたまま、信号を睨み据えている。
 震える手で急ぎシートベルトを外し、荷物を肩にかけ、勢いよくドアを押し開く。水と風が獣の咆哮のようにわたしを襲う。吹きすさぶ雨。その勢いに一瞬怯んだものの、ぐずぐずするわけにはいかなかった。
「露子!」
 伸ばされた和真くんの手から逃れ、悪天候の下に躍り出る。
 水滴が跳ね回る道を、わたしは無我夢中で駆け出した。
「……!!!」
 和真くんが背後で何かを叫んでいる。しかしながら後続車が打ち鳴らしたクラクションにかき消され、わたしの耳に明確な意味を持つ言葉としては届かなかった。
 一息に一区画分を駆けぬいたわたしは、ビルの軒下で立ち止り、天を仰いだ。頬に張り付く髪を煩わしく思いながら、番地の標識を探す。ビル名の下にようやっと見出したその小さな文字は、ここがわたしのテリトリーからかなり離れていることを示していた。
 バケツの底が抜け落ちてしまったかのような豪雨は、勢い衰えることを知らない。
 冷えからうまく噛みあわぬ歯が、粗末な楽器のようにかちかちと鳴った。感覚を失った指先をすり合わせながら、身体を温められそうな場所を必死に探す。けれど残念なことにコンビニエンスストア一軒すら見当たらなかった。
 わたしはその場に屈みこんで膝を抱えた。もうくたくただった。通りには誰の影もなく、わたしのはしたない様を咎めようとするひともいなかった。
 わたしは携帯に付いた水滴を拭って、アドレス帳を開いた。誰かに助けてほしかった。ううん。助けてほしいひとは、決まっていた。
 縋るように通話ボタンを押してすぐさま、後悔する。
 柔らかい声が、耳朶を擽った。
『もしもし?』
 どうして、電話なんてしたんだろう。
 どうして、暁人さんに、電話なんてしたんだろう。
 彼は仕事中で、忙しいのに。
『もしもし? 露子さん? どうしたの? 急に』
 暁人さんの声には困惑と驚きが入り混じっていた。当然だろう。日頃メールのやり取りもなく、電話も一度しかかけたことのないような人間が、こんな時間に前触れなく――……。
 わたしは口元を抑えた。
 でなければ震えてしまいそうだった。
「ごめ……なさ」
 喉が凍えて委縮し、声が裏返ってしまう。
 電話の向こうで、息を呑む気配があった。
『どうしたの。何があったの?』
 焦燥の滲む、掠れた声。
 熱がせり上がり、鼻の奥に突き当たる。骨がきしむようなその痛みに堪えるべく、わたしは固く目を閉じた。
「ちが……ごめんなさい。慌てて……ま、間違えて……ボタン押してしまって」
『……本当に?』
 はい、とわたしは肯定した。けれどそれが嘘だと彼にもわかっていただろう。涙ぐむわたしの声は、絶え間ない雨音でも隠し切れぬほど、湿っていた。
 ようやく気持ちも落ち着き始め、わたしはもう一度深呼吸して微笑んだ。
「ごめんなさい。お忙しいところ、邪魔して……。お仕事、がんばってくださいね」
『つゆこさ』
 わたしは通話を断ち切り、頭を壁にもたせ掛けた。なめらかに磨かれた石壁が温かく感じられ、それだけ自分の身体が冷えていることを知る。
 誰にも、もう、頼るわけにはいかない。
 少しずつ冷静になっていく脳裏の片隅で、わたしはそう思った。
 和真くんから、逃げたのは自分。
 わたしはまた、失敗したのだ。
 恋を終わらせることに、失敗したのだ。
 その恋情が、わたしのものではないにしても――……。
 誠実でありたいと願っても、所詮は欺瞞に過ぎなかったのだ。
 この醜悪さに、吐き気がする。
 綺麗な恋はどこにあるの。
 ただ好きなひとを愛しく想うだけなのに、どうしてこんなにすれ違って苦しいの。
 携帯電話が着信音を奏で始める。表面に、暁人さんの名前が浮かび上がっている。しばらく黙考したわたしは結局通話ボタンを押すことなく、握りしめていたメタルフレームを鞄の中に放り込んだ。
 音楽が、ふつりと途絶える。
 けれど雨は止まない。
 わたしは鞄を肩にかけなおして歩き出した。
 行く先曖昧な、暗い道を。


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