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第五帖 浅ましけれどゆえに 1


 九月。
 カレンダーをめくったばかりだというのに、蝉の声は蜩のそれを除いて八月に置き去りにされ、俄かに秋めいてきた。日に日に昼は短くなって、風もぬるくなりつつある。
 和真くんもシフトが変わったらしく、わたしがいる時間帯の部室に、よく顔を出すようになっていた。
 その彼が、言い忘れていたけど、と前置いて告げる。
「前に言ってたところ、予約してあるから」
「……え?」
 一体、何の話?
 話が見えず、わたしはきょとんと目を丸める。
 和真くんは小さく吹き出して補足した。
「旅行のだって」
 九月末の連休に予定を組んだ、ふたりだけの遠出。
 黙りこくるわたしに、彼は首を傾げる。
「どうしたんだよ。なんかぼっとしてるけど」
「え、あぁ、うん……考えごと、してたの」
 ごめんね、とわたしは微笑んだ。
 まさか、旅行のことをすっかり忘れていたとは言えない。
「考えごと?」
「今日の……晩御飯」
「なぁんだ。飯のことか」
 ほっとした様子で表情を緩める和真くんから逃げるように、わたしは手元に視線を落とした。裁縫用の針が滑り落ちかけている。わたしは摘まむ指先に力を込めて、繕いものに集中するそぶりを見せ、会話の続きを無言で拒んだ。
 旅行のことなど、頭から消え去っていた。あと一か月を切っているというのに。
 その動揺が手元に表れ、舞台衣装の縫い目はがたがただった。
 演劇サークルにおけるわたしの主な役割は、こういった衣装の確保や修繕にある。秋に控えている様々な催し物に備え、最近のわたしは空き時間にサークルの部室を訪れて、せっせと作業に勤しんでいた。
 けれど今日はもう、帰った方がいいかもしれない。
 否、ここで過ごすことを、当分やめたほうがいいのかもしれない。
 この数日、ちっとも修繕になっていない。糸はよくほつれ、ひっかかり、縫い目は均等とは程遠く、わたしは同じ個所を縫い直してばかりいる。衣装を駄目にしてしまうのではないかと不安になるほどだった。
 わたしは嘆息を零して、糸切り鋏に手を伸ばした。
 その手に、おとこのひとの指先が触れる。
「露子」
 間近で響いた和真くんの声にぞっとして、わたしは思わず手を引いた。
「え、あ、なに? ごめんね。びっくりして……」
 拒絶ではなく驚いただけだと和真くんに主張する。
「体調でも悪いのかよ?」
 案じるように問いかける彼は、強張った表情のままだった。
「まだ風邪、治りきってないとか?」
「えっと……うん」
 そういうことにしておこう。
 わたしは頷きながら裁縫針を片づける。膝の上で畳んだ衣装は、持ち帰るつもりで紙袋に入れた。
 隣の椅子から鞄を取り上げ、立ち上がる。
「それじゃぁ、わたし帰るね……」
 そして挨拶を述べた瞬間、顔に影が差した。
 すぐ傍に、和真くんの顔がある。
 彼とキスをするとき――……。
 わたしの身体はいつもいつも、強張り竦む。このひとはこわくない。このひとはわたしの、おつきあいしているひと。わたしは身体に言い聞かせて、ようやっと彼の唇を受け入れる。
 この二月ほどは、暗示を掛けなくてもよいぐらいには慣れていた。
 だから油断していた。
 我に返ったときにはもう、わたしは和真くんの胸に手を付き、顔を逸らしていた。
「……つゆこ?」
「……風邪が……移ったら……」
 慌てて口にした言葉は、言い訳としか響かなかった。
 和真くんは色を失くして立ち尽くしている。わたしは彼をまっすぐ見ることもできず、下唇を噛みしめたまま、どう弁解すべきか考えあぐねていた。
 耐えがたい沈黙を打ち破ったのは、賑々しい笑い声と足音だ。
「あれ、露子、来てたの?」
 加奈ちゃんががらりと引き戸を開けて顔を出す。その後ろには心美ちゃんと健太くんの姿も見えた。
 その三人の間を縫うように、和真くんが廊下へ飛び出す。
「かずまくん」
 わたしの制止は、彼に届かなかった。
 異様な雰囲気を、皆は察したらしい。健太くんは和真くんを追いかけるために踵を返し、加奈ちゃんと心美ちゃんは血相を変えて駆け寄ってきた。
「どうしたの? 露子。和真となんかあったの……?」
「また喧嘩でもした?」
 椅子の座面にへたり込み、追及に沈黙を返すばかりのわたしの顔を、心美ちゃんが覗き込む。
「もしかして、今度の旅行のこと……?」
「ちがうの……」
 わたしはゆるりと首を横に振り、溜息を吐いた。
「わたしが……」
 説明を試みたけれど、うまく言葉にならない。
 優しい友人たちに、わたしはなんと述べればいいのかわからない。
 触れてくる和真くんに、嫌悪を覚えた、だなんて。
「……露子」
 呼びかけてくる加奈ちゃんを、わたしはゆっくり見上げた。彼女はきつく眉根を寄せて、睨むようにわたしを見ている。
 刺すような眼差しだった。
「和真、今度の旅行すごく楽しみにしてるんだよ。本当にあんたのこと好きなんだよ。わかってるの?」
 わかっている。
 和真くんがわたしのことを、とても大事にしてくれていること。今回の旅行だって、怖気づくわたしに代わって、懸命に段取りを整えてくれたこと。
 わかっては、いる。
 加奈ちゃんは大きく息を吐いた。
「一体、何が原因で喧嘩してるのかわからないけど、たまにはあんたのほうから追いかけてあげないと、和真がかわいそうだよ」
「加奈」
 心美ちゃんが鋭く呼ばわり、加奈ちゃんを制止する。
 不快そうに口元を歪めた加奈ちゃんは、くるりと反転してわたしたちに背を向けた。
「加奈ちゃん」
「和真たちの様子見てくる」
 彼女はそっけなく言い置いて、そのまま部屋を出て行った。
「露子」
 虚脱感に襲われるわたしの手を強く握り、心美ちゃんが微笑む。
「加奈は別に和真の味方ってわけじゃないよ。二人に上手くいってほしいんだよ。一番心配してるの、あの子なの。許してあげて」
「うん……大丈夫」
「あのね、露子」
 わたしの手を覆う彼女の指先に力が籠り、わたしはのろのろと面を上げる。
 わたしを正面から見据え、心美ちゃんは躊躇いをみせながら口を開いた。
「露子は本当に、和真のことが好き?」
 好きだと。
 わたしは以前のように、答えることができなかった。
「和真のことが本当に好きならいいよ」
 心美ちゃんはわたしの頭をそっと撫でて言った。
「でも、最初は違うよね。ただ友達として、和真のこと、好きなだけだったよね。露子は優しいから、和真のことを傷つけたくなくて、付き合いにOKを出したんだろうなって思ってたの」
 労りに満ちた柔らかい声が紡ぐ内容に、わたしは緩く首を振った。
 違う。
「この前、あんなにはっきり好きっていうし、上手くいっているみたいにみえたから、あぁ好きになれたのかなって思っていたけど……」
 違う。
「ねぇ露子。無理に仲良くする必要もないし、和真に気を遣うだけの付き合いならやめておきなよ。男の子が怖いなら、今は別れるとかいう選択でもいいんだよ。そりゃ和真がちょっと舞い上がって大騒ぎしてるから、言い出しにくいのはわかるけど」
 ちがう。
「本当に好きならいいよ。でも相手を傷つけたくないだけの付き合いは、優しさじゃないよ」
「ちがう」
 わたしの声は震えている。けれど蜩の啼きに混じることなく不気味なほどの確かさで、室内に反響していった。
「やっぱり和真のこと、ちゃんと好きだったの? ごめん。私の思い過ごし……」
「そうじゃないの」
 心美ちゃんの発言を言葉半ばに遮って、わたしは否定を繰り返した。
「そうじゃない。そうじゃないの」
 駄々をこねる子供のように首を振り、わたしは堪えきれずに涙を零した。噛みしめる下唇から血が滲み、鉄の味が舌先に広がる。ひとつ零れた涙は次を呼び、次第にわたしはしゃくりあげるより他、何もできなくなった。
 きつく眉根を寄せ、目を瞑り、手を震わせるわたしの背を、友人の手がゆっくりと擦(さす)る。しかしながらわたしに、その優しい慰撫を受ける資格などないのだ。
 わたしは和真くんの気持ちを慮って、付き合い始めたわけじゃない。
 彼のことが好きだったから、付き合い始めたわけでもない。
 わたしは――……。
 綾野さんの言葉がよみがえる。
『自分の欲求が満たされないからって……』
 他の男のひとで、穴埋めを。
 和真くんで、穴埋めを。
 しようとした。
 ――……好きでもないのに付き合って、なのに逐一怖がって、暁人さんに婚約者がいたことが悔しくて、そのあてつけに彼女らしく振舞って、期待だけ持たせて。
 そうして今度は拒絶して、傷つけた。
 太陽みたいに明るくて、温かくて、優しい和真くん。
 その彼を、利用するだけ利用した。
 そんな自分が、醜くて醜くて。
 涙が出た。


 心美ちゃんに弁解も出来ぬまま大学を出たわたしは、真っ赤な鼻を啜りながら駅に向かって歩いていた。自分がどんなひどい顔をしているかは、お手洗いで確認してわかっている。すすり泣いた後の瞼は腫れあがり、まるで赤のアイカラーを塗したみたいな有様で、下瞼にはもろもろになったマスカラがこびり付いていた。化粧を全て落とさなければならなかったわたしは、とても人前に出られるような様相ではない。アルバイトがないのは幸いだった。
 身体はまるで他人のもののように重く、足取りは遅々としていて、ちっとも前へと進まない。
 秋とはいえまだまだ熱いアスファルトが、サンダル履きの素足をちりちり焦がす。それが痛くて、痛くて、わたしはまた泣き出しそうだった。
 溜息が幾度も零れ、わたしはその都度、涙の塩分にさらされて痒み疼く目尻を擦る。
 ぼやけた視界に、すれ違う人々の軽やかな足取りが過(よ)ぎり、笑い声が弾けては消えていった。
 どうして皆、そんなに楽しそうに 歩けるの。
 周囲を取り巻く雑音すべてが煩わしいと、感覚を遠くへ追いやったわたしは、ふいに腕を男のひとの手に捕らわれて、声にならぬ悲鳴を上げた。
「露子さん」
 間近で響いた低い声が、警戒にとがるわたしの神経を撫でつける。
「……アキさん?」
 わたしの手首を強く握りしめたまま、スーツ姿の暁人さんはほっとしたように微笑んだ。

 たまたまわたしを見かけた暁人さんは、スピードを落としてクラクションを鳴らしたらしい。軽い、挨拶のつもりで。
 けれどわたしは気付かぬまま、夢遊病者の如くふらふら道を彷徨っていた。
 不穏な様子を見て、放っておけなかったのだろう。

「取引先から戻る途中なんだ」
 助手席にわたしを座らせ、暁人さんが説明する。
「なんだか、様子がおかしかったから……」
「ごめんなさい」
 仕事に関係ない人間を車に乗せるのは、まずくないだろうか。
 それでもわたしは彼の傍から、動くことができなかった。
「大丈夫」
 運転席に着いた彼はわたしの謝罪を受け流し、車を静かに発進させた。
「……ごめんなさい」
 わたしは繰り返した。その声はエンジン音に消え入りそうなほどか細かった。聞こえなかったのかもしれない。暁人さんは何も言わず、慎重に車を進めている。ブレーキも緩やかで振動もなく、目を閉じれば走行していることが嘘のように思えるほどだった。
 ほどよく空調の効いた車内はひんやりとしていて、水槽の内部を思わせた。中は水に代わって静寂で満ちている。
「何か困ったことがあるなら……相談にのるよ」
 暁人さんの囁きが、その静けさを波打たせた。
「この間、甘えさせてもらったし……君も……甘えていいんだよ」
 予断なく運転を続けながら、彼は顔を歪める。
「こういうのは……不謹慎かな?」
 わたしはシートに深く沈み込んだまま、羽毛のように優しく、糖菓子のように甘い声を紡ぐ、暁人さんを眺めていた。
 ステアリングを握る大きな手。シンプルな腕時計がはまる手首。しっかりとした腕。スーツに包まれた幅広い胸と肩。記憶にあるより――精悍さを増した横顔。
 暁人さんを構成するひとつひとつをたどるわたしの脳裏に、友人の問いが閃く。
『露子は本当に、和真のことが好き?』
(ううん、心美ちゃん)
 わたしは目を伏せた。
 わたしが好きなのは、このひとだ。
 わたしが好きなのは、わたしのせんせいだった、このひとなのだ。
 四年前の冬。幼いわたしは、とうとうこのひとに、好きを告げることができなかった。
 それどころか、わたしのことを好きだという彼の言葉をどうしても信じることができなくて、その熱情に慄いて、わたしは逃げ出してしまったのだ。
 今なら、言えるだろうか。
 言葉にできるだろうか。
 あなたが、すきです、と。
 信号待ちのために車を停め、ラジオのチューナーを操作していた暁人さんが、わたしをゆっくりと振り返る。
 訝りに首かしげる彼を、わたしはじっと見上げた。あきさん。あきさん。あきひとさん。縋り付きたい衝動を、シートベルトが押し留める。その一方で堪えきれずに指先を、ギアに戻された暁人さんの左手にそうっと伸ばした。
 わたしを見返す暁人さんの目が、ゆっくりと細められる。
 握り締めるどころか触れることにも躊躇を覚えたわたしの爪先は、彼の皮膚の上ぎりぎりを彷徨い滑るに留まった。
 沈黙に、喉が震える。
 触れたい。
 触れてほしい。
 抱きしめたい。
 抱きしめてほしい。
 あきさん。
「暁人さ……」
『誠実にならなきゃなぁって思うんですよ』
 口を開きかけたわたしは、不意に耳に入った言葉に、動きを止めた。
『それってまるでミムラさんが不誠実みたいじゃないですか?』
 ボリュームの絞られたラジオショー。ノイズ混じりに響く男のひと二人の会話が、不思議と私を惹きつける。
『実はね。女の子に声かけるとき、適当に、ドラマの台本みたいな甘いセリフ掛けているだけで終わっていたんじゃないかなって最近思って』
『意味深ですねぇ』
『特に今回の舞台は、主人公がヒロイン以外に尽くすことで、ヒロインへの愛を貫いていくでしょう。そりゃね、お前だけは特別だって、お前だけを愛してるっていうのは簡単ですけど、ヒロイン以外に対しても誠実さや思いやりを持つっていうのは、難しいな。僕はそれができているのかなって、今回の舞台で思ったんです』
『なるほど』
『実際のところ恋愛って、どれだけ相手とその周りに対して誠実でいられるか、にかかっているような気がするんですよ。世界は僕と相手、二人だけで閉じているわけじゃないんだな、と。この話は世界がヒロインを裏切ることで終わる悲恋ですが、胸を張って恋愛するために、周りに対して真摯であれ、と主人公に諭したヒロインの想いは、決して間違ってないと思うんです。そのヒロインの想いに報いたからこそ、きっと主人公は声を大にして彼女を愛していると言い、狂うことが許され、こんなにも人の心を打つんだと思います。僕もそうありたい』
『なんだか深い言葉ですね』
 しみじみと応じるパーソナリティは、さて、と話を区切った。
『もっと深く話してみたいですがタイムアップ。残念です。ミムラさん、最後に一言どうぞ?』
『すみませんでした』
『何の謝罪?』
『色々語りすぎたかな、と』
『いえいえ、ここではたくさんおしゃべりしてくれませんと!』
『そうですね』
 笑い声が漏れた一拍後、パーソナリティが続く。
『本日のゲストはミムラ・トウマさんでした。ミムラさんが主演の舞台、月帰葬は来週月曜、楽園座にて公演初日です。それではThank you for listening. サクライ・タカスミがお送りいたしました。また来週』
 BRCFM radio-show, now we announce one pm…
 ぽーん、という軽やかな時報が車内に響いた。
 信号が青に変わり、暁人さんは正面に向き直る。低く唸りをあげるエンジン音。残暑燻る街並みが、窓ガラスの向こうに流れていく。
「お昼食べた?」
 ハンドルを切りながら、暁人さんが尋ねた。
「どこかに食べに行く?」
 わたしは手を膝の上に戻して微笑み、首を横に振った。
「お仕事さぼっちゃだめですよ、暁人さん」
 前を向いて、フロントガラスの向こうの見慣れた景色を見つめる。
「駅で降ろしてもらっていいですか? もう、大丈夫ですから」
 何か言いたげな彼に、わたしは腫らした瞼を細めて笑みを作る。
 僅かに眉をひそめたものの暁人さんは何も言わず、わたしの希望通りに駅に向かって進路を採った。


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