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第四帖 紺碧と冷えた銀 5


『不肖の娘が、誠に申し訳ないことをした』
 両親が泣いて頭を下げる姿を、菫は初めて目にした。
 たった二週間の間に話し合いが四回持たれ、その都度、彼らは請願する。どうか娘を許してやって欲しい。チープなソープオペラの一幕に似たその光景を、菫は他人事のように眺め続けた。
『許すも何も、僕は怒ってなどいません』
 暁人は菫の不義に寛容だった。それはもう、互いを婚約者として捉えていないが故のことなのだと知っていた。
「本当に、やめるの……?」
 零れた問いは、自分のものと信じられぬほどにか細かった。
 実家の和室は冷えていた。設定温度は二十八度。クーラーを効かせすぎているとはとうてい思えないが、双方の両親が退室し、二人だけでは広さもてあますその部屋は、とにかく寒かった。菫は凍えていた。
 一方の暁人は平然とした面持ちで冷めたコーヒーを啜っている。菫の問いに対しても、不思議そうに瞬いただけだった。何故そんなことを訊くのだと言わんばかりに。
「ここまで来て? 本当にやめるの?」
「うん」
「式まであと二か月もないのに……?」
「そうなっても仕方がないことをしたっていう自覚はないの? 君」
 暁人は呆れたそぶりもなく、あくまで冷淡だった。今までの淡白さがひどくかわいいものに思えるほど、彼は部外者然とした態度を崩そうとしなかった。
 それがひどく、勘に障った。
「……あ、暁人だって、他の女の子に抜かしてたりしたんじゃないの……?」
 二年、菫の恋人であった男は、浮気できるような器用さを持ち合わせてはいない。それは菫にもわかっていた。だがそう詰問したくなるほど、暁人はあまりにもあっさりとしすぎていた。
 普通ならば、菫の不貞に憤ったり、軽蔑してみせたりするのではないだろうか。
「この間だって、わたしが泣いてるのにほったらかして……別の子をやけに大事そうに気にかけてたじゃない」
 あの日、母に責められてすすり泣く菫を置き去りに、暁人はその場に同席していた娘の方へと歩いて行った。兄夫婦の友人だというから、労わる必要はあったのだろう。
「かわいい子にかまけていたのは、暁人だって同じじゃない!」
 だからそのように叫んだのは、半ば八つ当たりに過ぎなかった。
 しかし暁人は至極真面目に肯定した。
「そうだよ」
「……え?」
 彼は空のカップを皿に置き、大儀そうに立ち上がる。
「この数か月、君みたいな真似をしたことはないにしろ、彼女に気を取られていたことは認めるよ」
 傍らの鞄を手に取って、暁人は空いた片手でネクタイを緩めた。
「だから今回のことは僕にも責があるとは思う」
「どういう、こと?」
「君が言ったんだよ。そう……婚約者がいたっていうのに、僕はあの子にずっとずっと、心奪われていた」
「あき、ひ」
「ごめんね、菫」
 テーブル越しに伸びた男の手は、ひどく優しかった。
 おそらく、今までで一番労りに満ちていた。
「もっと早くに終わらせるべきだった……始めるべきでは、なかった」
 その一言で、彼はやはり、自分を愛してなどいなかったのだと、今更のように知った。
 打算で男を選んだ自分と、暁人は同類だった。互いの間に横たわっていたものは、愛ではなかった。なんの情もなかった。
 そんな綺麗なものでは、なかった。
 そのことが、どうしてこんなにも悲しいのだろう。
 畳みを、踏みしめる音がする。
「まって」
 男の影を縫いとめるように、藺草の上に爪を立てる。
「暁人、待って」
 菫の指の狭間から擦りぬけた影は、開いた戸の向こうに消えていく。
「まって」
 たん、という小気味よい音と共に閉じられた襖めがけ、菫は下唇を噛みしめながら、手元の座布団をヒステリックに投げつけた。




 八月も終わりに近づいた日曜日、ベッドのヘッドボードの上で携帯電話がメロディを奏でた。番号を知ってから初めての、暁人さんからの電話だった。
 ベッドの上で劇の衣装をちくちく繕っていたわたしは、針を慌てて針山に挿した。
『ごめん。今少し外に出て来られる?』
 緊張にこわばるわたしの耳を、彼の密やかな声が撫でる。
「そと?」
『君の家のそと』
 唐突な要請に驚きながら、わたしは窓を開けた。幾何か勢いの削がれた夏の斜光がわたしの頬を照らし、吹き込むぬるい風がカーテンをばたばた叩いて揺らす。
『大丈夫?』
 反射的に目を伏せたわたしを、暁人さんが慮る。
 彼は通りの電柱の影で携帯電話を耳に当て、軽くわたしに手を振っていた。


 シャープペンの芯が切れたので、コンビニに行ってくる。
 ありきたりな嘘を母に吐いて、わたしは外に出た。
「アキさん」
「ごめん。すぐ終わるから」
 お仕事帰りなのだろうか。日曜にもかかわらずスーツ姿の暁人さんは、わたしを自宅から引き離す意図のないことを示した。
「大丈夫です。あの、コンビニまで行っていいですか? 母から牛乳を頼まれていて」
「もちろん」
 コンビニまで徒歩五分。そう遠い距離ではない。
 とはいえ、自宅傍の通りを暁人さんと歩くことに、妙な気恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。
 誰かに目撃されたら、わたしは彼のことをなんと説明すればいいのだろう。
「この間はごめんね」
 要らぬ心配に気を遣るわたしに、前を向いたままの暁人さんがそう話を切り出した。
「ひとりで帰して」
「いいえ。あの、最初からひとりで帰るつもりでしたし。気にしないでください」
 ――……綾野さんと暁人さんとの三人で、見知らぬ男のひとと歩く菫さんと鉢合わせした、あの後。
 場は混沌としていて、暁人さんにわたしを送る余裕などありはしなかった。理由を説明する術を持たぬわたしは赤く泣き腫らした瞼を見せぬため、友人たちに急用ができたと嘯いて先に帰宅したのだ。
「体調は大丈夫?」
「え?」
「義姉さんから聞いたんだ。熱が出てたんだって?」
「あぁ……ただの夏風邪です」
 あの出来事の意味を考え、数日間悶々とした挙句、わたしは情けないことに熱を出した。病名は夏風邪。すぐ治りますよ、との医者のお墨付き通り、体調が整うのは早かったけれども、バイトを除けばこの二週間、家でごろごろしてばかりいる。
 近所に住む大宮のおばさん経由で知ったのか、琴乃ちゃんからも体調不良を案じるメールが届いていた。
「もう、大丈夫ですよ」
「よかった」
 そう言って笑ったきり、暁人さんは黙りこくった。
 わたしの身体の具合を確かめるためだけに、訪ねてきてくれたわけではないだろうに。
 侵し難い沈黙が、鈴虫の音を引き立てる。その合唱に拍手を打つかのように、街灯がぱちぱちと明滅した。明かり不安定な生活道路を、蜻蛉がついと横切っていく。その赤い尾が、残照滲む群青色の空に鮮やかだった。
 その中を、ふたりで歩く。
 いつものように、ひと、ひとり分の距離を空けて。
 コンビニに到着しても、暁人さんは何も言わない。先に用事を済ませるようにと目で促し、店員が近隣の住民と顔見知りであることを慮ってか、店の外で待っていた。
 買い物を終えたわたしは、なかなか話を切り出さぬ暁人さんを、コンビニに面した公園のベンチに座らせた。防犯として橙の街灯が配置された園内は明るく、ベンチはその影にあった。
 膝の上で組んだ手に視線を落とし、暁人さんはしばらく黙考する。
 そして意を決したようにわたしを見上げ、静かに告げた。
「婚約の話はなくなったよ」
 わたしは、息を呑んだ。
「一段落するにはもう少し時間がかかるけどね……」
 結婚は、再来月の予定だったはずだ。
 それをこんなぎりぎりになって取りやめる。ことの重大さをわたしもわからぬわけではない。
 ただ、解せない。
「なんで、それをわたしに……?」
 告げようと、するのか。
 暁人さんはほろ苦く笑った。
「巻き込んでしまったから……報告だけでも、と思って」
 泣きそうだ、と思った。
 暁人さんが、泣きそうだ、と。
 その瞬間、わたしは無意識に暁人さんに手を伸ばしていた。
 わたしは、こわかったはずだ。おとこのひとが。だから和真君と必要以上に触れたりしなかった。彼にも、たくさん我慢してもらっていた。
 なのにわたしは今こうして、暁人さんの髪に指を差し入れ、足を一歩前へと踏み出している。サンダル履きの素足が彼の革靴の先に触れ、こびり付いた砂の感触をわたしに伝える。面を上げた暁人さんの瞳には、困惑の色と、わたしの影が映っている。
 なにを、したかったのだろう。
 胸が詰まり、わたしは立ち尽くしたまま、紡ぐべき言葉を見つけられずにいた。泣かないで、とも、泣いていいよ、とも。かといってこの距離を縮めることも、後ずさることもできないでいる。
 わたしには、お付き合いしているひとがいて、わたしは暁人さんにとって、兄夫婦を間に挟んで言葉を交わすだけの、女の子に過ぎなくて、わたしは、おとこのひとがこわい、はずで。
 わたしは――……。
 暁人さんの綺麗な茶色の双眸が、ゆっくり瞬きを繰り返しながら、わたしを見ている。
 ややおいて、彼は足を竦ませるわたしの腹部に、とん、と額を押し当てた。
 手に提げていたビニール袋が、音を立てて地面に落ちる。衝撃で口の歪んだらしいパックから中身が零れ、土に黒く染みを作った。
 それにも構わず、わたしは暁人さんに、僅かばかり身を寄せた。
「アキさん」
 彼の短く切られた髪が、わたしの手のひらを柔らかくこすり、くすぐっている。
 色あせた青いベンチの背を見つめながら、ふるえる指で、その髪をそっと撫でた。
「……ないてるの?」
 伸びた腕が、わたしの腰を引き寄せる。
「ううん」
 否定が返ってきたけれど、涼風が肌を撫でる中、暁人さんの目元触れる腹部は、とてもとても、熱かった。
 頭上では、澄んで、明るく、染み透るような藍色をした、夏の終わりの夜空が広がっていた。


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