第四帖 紺碧と冷えた銀 2
「こちらなどはいかがですか?」
宝飾店の店員が薦めてきたリングは、細いプラチナと金を組み合わせ、表面に花の意匠を精緻に掘り込んだものだった。ペアとなる男物は傍目には非常にシンプルながら、よく見れば千鳥模様が施され、角度によって輝きが変わるという凝ったものだ。すてき! と黄色い歓声を上げる菫に気をよくした店員は、微笑んで指輪の解説を始める。
「暁人はどう思う?」
「あぁ、僕はよくわからないから。好きなの選ぶといいよ」
暁人は冷たい金属の輪に、こだわりを持っていなかった。つけた注文は、男物は仕事の邪魔にならぬ簡素なものというひとつだけだ。あとは菫が予算内で好きなデザインを選べばいい。
さりげなく値段を提示しても、暁人が眉ひとつ動かさなかったことに安堵した様子で、店員は他のデザインを薦め始めた。ブルーサファイアが埋め込まれたもの。天使の羽をあしらったもの。オリーブが掘り込まれたもの。0.17カラットダイヤが並ぶもの。素材はプラチナかゴールドか。ゴールドにもさまざまな種類があるらしく、スタンダード、イエロー、ホワイト、ピンク。それらの複合か。
徐々に話についていけなくなり、年近い女性店員と盛り上がる菫を置いて、暁人は席を立った。外の空気を吸うと伝えて、接客ブースを出る。
気怠い。
許されるのならばすぐに帰宅し、眠ってしまいたいほどに。それは連日続いていた残業のせいかもしれないし、兄の家でひたすら腹に詰め込まされた昼食のせいかもしれない。あるいは、ショーウインドウの外で陽炎を揺らめかせる、茹だるような夏の暑さのせいかもしれなかった。
ふと暑気に当てられた露子の青白い顔が脳裏を過ぎり、暁人は嘆息した。
(大丈夫なんだろうか)
追いやられるようにして傍を離れたときには、彼女は幾何か調子を取り戻していたものの、血の気失せたままだった。ひとりきりで置き去りにしてよい状態ではなかった。傍に付いていてやりたかったというのが本音だ。
しかしそれを他ならぬ露子に拒絶されたのだから仕方がない。迎えに来るという恋人に、暁人の姿を見られたくはなかったのだろう。説明に困る相手だという自覚はある。
露子は、友人ではない。
直接電話で話したことも、一度きりだ。
元家庭教師とその生徒。
今は暁人にとっての兄夫婦、露子にとっての幼馴染夫婦を介して、付き合いがあるだけの知人にすぎなかった。
にもかかわらず暁人はこの一月の間、露子に会いすぎていた。誰にも告げずふらりと兄の家に寄ると、必ず彼女に出会うのだ。この四年間、見かけることすらなかったことが嘘のように。
それだけ顔を合わせていても、体調を崩した露子の身を、傍で案じることは許されない。
その資格を、あの冬の日に、粉々に砕いたのは他ならぬ暁人自身だ。
そして何より、菫がいた。緊急でもない限り、婚約者たる彼女を単なる知人の露子より優先させるべきだった。
オープンスペースのショーケースの中では、指輪だけではなく、ピアスやイヤリング、ブレスレット、ネックレスといったアクセサリーが、いつか現れる主を静かに待っている。初々しい男女が真剣な面持ちで装飾品を選ぶ様子を微笑ましく思いながら、手持無沙汰にケースの中を覗き込んでいた暁人は、視界を過ぎった鮮烈な青に足を止めた。
それは、月をモチーフにしたプラチナのネックレスだった。
ダイヤを散りばめた三日月が、月光に照らされた夜を思わせる深い青に寄り添っている。チャーム部の大きさは赤子の爪ほど。
糸のように細い鎖に繋がれた、非常に華奢な首飾り。
「プレゼントですか?」
面を上げると、ショーケースの向こうに柔和な笑みを浮かべる店員が立っていた。
彼は沈黙したままの暁人に少し首を傾げてみせ、ショーケースの鍵を開ける。そして白の手袋をはめた手で、件のネックレスを丁重に引き出した。
「綺麗なミッドナイトブルーでしょう?」
「えぇ」
店員の問いかけを、暁人は素直に肯定した。
「光が入っても奥深い色合いを保つサファイアです。ここまで深い青のものは、とても珍しいんですよ」
ビロードの張られたトレイの上に形を整えながら置いたネックレスを、店員は暁人のほうへと押しやった。その瀟洒な造りを眺めながら思う――確かに、まるで光を呑み込んでいくような、静かで深い青だ。
きっと、あの。
白く細い首に、よく映える。
かつて贈った藍色の硝子玉が、よく似合っていたように。
「これを……」
衝動的に零れた呟きを押し留めたのは、菫の声だった。
「暁人ぉ?」
振り返ると、店の奥から暁人に歩み寄る菫の姿があった。
「なかなか戻ってこないからどうしたのかって思っちゃった。何見てたの?」
隣で足を止めた菫は、興味深そうに暁人の手元を覗き込んだ。刹那、その顔がほころぶ。
「わぁ、綺麗ね!」
素敵、と手放しで首飾りを褒めて、菫は物欲しげな目配せを寄越す。
それから逃れるように上げた視線が、店員の目とかち合った。
「お包み致しましょうか?」
「いえ」
暁人は即座に断り、トレイをそっと押し退けた。
「ありがとうございました」
店員とのやり取りに、菫は実に不服そうである。暁人は素知らぬ顔で微笑んで、彼女の背を軽く叩いた。
「いこう。選び終わったの?」
「……いくつか絞り込んだわ」
菫の声は恨みがましげに暗い。接客ブースに向かいながら、暁人は苦笑した。
「今日は指輪を選びに来たんだ。ネックレスじゃないよ」
その言葉は、菫に向けたというよりも自戒に近い。
「……わかってるけど」
どことなく後ろ髪引かれる様子で、菫が口ごもる。
「すごく、きれいな青だった」
「うん」
相談ブースへの扉を開けてやりながら、暁人は同意した。
「きれいだったね……」
水槽の硝子は、触れるとひんやり冷たく、真冬の窓を思い起こさせる。
深い紺碧の向こうで、鰯(いわし)の群れがうねって、銀の幕を作っていた。限りなく絞られたボリュームでヒーリングミュージックが流れる中、人々の密やかな歓声が上がる。
わたしは息を詰めて魚がつくりだす曲芸に見入っていた。夏の行楽地としてテレビで特集が組まれていた水族館は、猛暑の影響もあってか盛況だ。若い男女。小学生の集団。子連れの夫婦。時折、興奮に弾む子供の声が、思い出したように静寂を割り、薄暗い通路に反響する。
「すごいな」
隣に立つ和真くんが、ほう、と息を吐いた。
「テレビで時々やってんのは知ってたけどさぁ。実際に見てみると違うなぁ。なんか、圧倒される」
「うん。すごいね」
わたしは水槽から離れて和真くんに微笑みかけた。
「連れてきてくれて、ありがとう」
きょとん、と目を丸めた彼は、照れ臭そうに言った。
「どういたしまして」
行こうぜ、と差し出される和真くんの手を、そっと握り返す。
その指先のぎこちなさを、宿る緊張を、悟られぬように、わたしは神経を集中させなければならない。
それでもその行為に慣れたか、と問われれば是と返す。触れるだけの口づけにも、また、二人だけで出かけることにも。
このわずか一月ほどの間に、わたしは和真くんとかつてないほど、あちこちへ赴いた。
たとえば買い物に。ゲームセンターに。観劇に。遊園地に。海に。
そして今、水族館に。
授業の合間を縫った小一時間ほどだけのときもあれば、一日がかりで出かけることもある。和真くんとは、一緒に遊ぶだけならば、とても充実した時間を過ごすことができた。彼は熱心によく話したし、わたしは聞き役に徹することが苦ではなかった。
デートを重ねた結果、わたしと和真くんの関係は、お付き合いを初めて以来、最も良好な関係を保っていた。
どこかへ連れて行ってほしいとねだるようになってから、彼はむやみにわたしが彼女だとアピールしなくなった。サークルの皆もはやし立てるようなことがなくなって、わたしとしても楽だった。ようやくカップルらしくなったじゃない。そんな風に心美ちゃんたちに、揶揄されることもしばしばだ。
「それにしてももう貧血大丈夫なのか?」
「うん。ちょっとふらっとしただけだったの。そんな大げさなものじゃないもの」
和真くんがオレンジ色のマーチをバスロータリーに止めたとき、わたしはまだ木陰のベンチで休んでいた。暁人さんのくれたスポーツドリンクの缶を、なまぬるくなってしまっても、和真くんが来ても、まだ押し当てたままでいた。そんなわたしを訝って詰問する彼に、わたしは暑気にあてられ眩暈を起こしてしまったのだと素直に答えた。
「あんまり無理しないほうがいいとは思うけど」
「いいの」
わたしは握る手の力を、ぎゅっと強めて、言った。
「いいの。きょうは、いっしょにきたかったから、いいの」
――……和真くんと一緒に遊んでさえいれば。
暁人さんのことを思い煩うことはない。
もし彼や和真くんの助言に従い、帰宅していたら、わたしはベッドの上で悶々とした時間を過ごさなければならなかっただろう。
彼と婚約者のひとが楽しげに誓約の指輪を選ぶさまを、花嫁のヴェールを彼の指が押し上げるさまを、彼の広い胸に見知らぬおんなのひとが寄り添うさまを。
油断すると溢れかえる想像に溺れてしまいそうで、わたしは和真くんの手に、縋っている。
和真くんは優しい。明るい。力強くて。真夏の青空みたいに、眩しくて。そのすべてを、わたしはとても好ましく思っている。関わり合いを持った男の子の中で、一番すきなひとを、と問われれば、わたしは間違いなく彼の名を一番に挙げる。
今はたぶん、和真くんがわたしに向けてくれる想いに、追いついていない。
それでも、もう少し、時間を掛ければ、きっと。
けれど和真くんはこの遅々とした進展に相当焦れていたのだろう。
だしぬけに、彼は言った。
「来月、泊まりでどっかいかない?」
わたしは首を傾げながら瞬く。
「サークルのみんなで?」
「違うって」
彼は苦い顔で頭(かぶり)を振った。
「二人で」
わたしは水の青い明かりが零れる廊下を歩む足を止め、和真くんを見返す。
反射的に引きかけたわたしの手を逃すまいと、彼のそれに力がこもった。
「別に、おかしいことじゃないだろ。付き合い始めて再来月には一年になるんだぜ、俺ら」
「でも外泊は」
「親にはサークルの旅行だとか打ち合わせの集まりだとかっていえばいいじゃん。心美たちに協力してもらうようにする」
な、とわたしを勇気づけるように、和真くんが笑みに白い歯を見せる。わたしが両親のことを懸念していると思ったようだ。わたしは曖昧に頷いた後、彼に手を引かれながら黙って歩いた。
旅行が単なる旅行で終わるはずがない。これはわたしたちの関係を進める、儀式なのだ。
和真くんの言い分はもっともだ。周囲のカップルの話を聞けば、付き合い始めてすぐに旅行したり、一人暮らしならば半同棲のように陥ったりもある。
半年以上、唇に触れる口づけのみで終わらせている、わたしたちのほうが異質なのだ。
ずっとわたしたちは、付き合っているとはいえないようなぎこちない男女だった。
それがここのところ、ようやっとらしくなったから。
わたしが待ってほしいと彼にこれ以上願うのは、我儘だ。
わたしは隣を歩く和真くんを見上げた。彼はよく我慢してくれた。わたしを大事にしてくれる。
そんな彼と関係を深めていくことの、一体何がこんなにも怖いのだろう。
手を繋いでいるのは、和真くんだと確かめるために、わたしは指先にそっと力を込めた。