BACK/TOP/NEXT

第四帖 紺碧と冷えた銀 1


 淡くくゆる花の香りを身に纏い、等身大の姿見で、今日の装いを確認する。目の覚めるような青の花が描かれたワンピース。ペチコートを縁取る黒のレースが、足元から覗いて可愛らしい。ぺしゃりとつぶれたコサージュを指先で直し、麦わら帽子を被ったわたしは、鏡面に写るもうひとりの自分に、にっこりと微笑みかけた。


 世界すべてを焦がすような夏の鋭い日差しを受けて、アスファルトがぬらりと光っている。わたしは浮かぶ汗をぬぐいぬぐい、琴乃ちゃんのマンションへ急いだ。前に借りた本を返すついでに、昼食の相伴に与かる予定なのだ。今日は遥人さんが食事を作ってくれるのだという。
 エントランスのインターフォン越しに琴乃ちゃんとおはようを交わし、開いた自動ドアを潜ってエレベーターへ。ガラス戸に密封された建物の中は、すこしひんやりとしていた。
「いらっしゃいツユ!」
 琴乃ちゃんたちには子供がいない。だから年の離れたわたしが妹であり、ときに娘のように扱われる。ぎゅうぎゅうに抱きしめられながら廊下を行く。部屋には空調が効かせてあって寒いぐらいだ。汗が冷えた身体に、琴乃ちゃんの体温は心地よかった。
 ダイニングに入ると、キッチンからいい匂いが漂ってくる。
 頭をカラフルなバンダナでくるりと包み、エプロンを身に着けた遥人さんが、キルト地の鍋敷きを手に顔を出した。
「おー、ツユッコ。よく来たな」
 白い歯を見せる遥人さんに、わたしはぺこりと頭を下げる。
「こんにちは、遥人さん」
「やめてよハル。アタシのツユを調味料みたいな呼び方すんの」
「おまえのツユって呼び方なんて、そのまんまじゃねぇか。つか、調味料じゃなくて豆製品だろ」
「普通に露子さんって、なんで呼べないの? ふたりとも……」
 テレビ前に設えられたソファーから低い声が響いて、わたしは視線を動かした。
「アキさん」
 ソファーに腰掛けた暁人さんが、首だけでこちらを振り向いて微笑む。
「こんにちは」
「こんにちは……」
 挨拶だけ述べて、暁人さんはまたテレビに向き直った。四十二インチ型プラズマテレビの液晶画面には、遥人さんが好みそうなB級アクションのハリウッド映画が映しだされている。
 キッチンに入った琴乃ちゃんが、わたしにソファーを指さした。
「ツユもあっちで待ってて」
「わたしも手伝うよ?」
「いいわよ。ツユは仕事が丁寧だけど、ゆっくりすぎるの。料理が冷めちゃう」
 ほら、と犬を退けるように手を振る琴乃ちゃんにより、ソファー席へと追いやられたわたしは、暁人さんと少し距離を置いて、カーペットの上に腰を落とした。
「暁人さんも、お昼ご飯に呼ばれたんですか?」
「呼ばれた、というか、用事があって寄ったら、引き止められたんだ」
 ソファーに腰掛けた暁人さんは、テレビから目を動かさずに答える。
「露子さんは?」
「わたしも、用事のついでに……お昼ご飯は、最初から誘ってもらっていたんですけれど」
「だから兄さん、張り切ってるんだろうな……」
 小さな笑いが、暁人さんから漏れた。
 暁人さんと再会してから一月半。その間、わたしは幾度も鉢合わせした。兄夫婦を訪ねようとする彼とエントランス前で、部屋を辞そうとする彼と玄関先で、そうして時にはこんな風に、成川夫妻宅のリビングで。
 長い間、まったく会っていなかったことが、嘘みたいに。
「座らないの?」
「え?」
 顔を上げたわたしに、暁人さんはぽんとソファーの座面を叩く。
「床に座らない方がいい。冷えるよ」
 彼はわたしの腕をそっと取って立ち上がるように促し、ソファーの上に座らせた。汗ばんだ手は、すぐに離れる。わたしが遠のいていく指先に視線を向けたときには、既に彼は目をテレビへと戻していた。
 わたしも映画の方を向く。画面下に、字幕が白く穿たれている。それを目で追わずとも、内容を大体把握できてしまう点が、遥人さんの好む映画のよいところだ。
 あまり見ない顔の白人俳優が英語で何かをわめきたて、車が爆炎に呑み込まれる。彼に支えられながら微笑む女優。スパイの逃走劇に巻き込まれた一般人女性の恋物語といったところだろうか。
「面白いですか?」
 わたしの問いに、暁人さんは苦笑する。
「あんまり。兄さんと映画の趣味が合わない」
「アキさんは、けっこうコメディとか好きそう」
「……なんでそう思うの?」
「普段すました顔のアキさんが、こっそりオースティンパワーズとか見て、大笑いしていたら楽しいと思って」
 彼は微妙な顔をして呻いた。
「すましたって……。よく知ってるね、古い映画」
「この間、琴乃ちゃんに見せてもらったから。面白かったです」
「ゴーストバスターズとか君好きそう」
「それ見ました! 面白かった!」
「女の子向けならキューティーブロンドとか、メリーに首ったけとかかな。キンキーブーツとか……トランスアメリカは面白かったけど……君向きじゃないか」
「どんな映画なんですか?」
「どれ?」
「きんきーぶーつ、と、とらんすあめりか」
「キンキーブーツは男でも履ける女性向けデザインのブーツを作って、再起を図ろうとする紳士靴工場の奮闘もの。トランスアメリカは女性になろうとする手術を控えた男の人が、今まで存在を知らなかった息子を迎えに行く話」
「……コメディなんですか? それ」
「オースティンとかとは違うけど、コメディタッチの話だよ。ドラマコメディっていうのかな。笑いどころと泣きどころを抑えてて面白いんだ」
「あ、本当にコメディが好きなんですか?」
 暁人さんは肩をすくめて、実は、と照れ臭そうに告白する。
「明るい話のほうが好きなんだ。だから、さっきは図星を衝かれてどきっとした」
 当たった、とわたしは嬉しくなって、琴乃ちゃんから借りた映画の話を続けて振った。
 ホームアローン、天使にラブソング、スクールオブロック。
 もちろんわたしはアニメーションも好きだった。トイストーリーやシュレック。今年ももうすぐ、ピクサーアニメの新作が公開される。
 楽しみだ、と告げたわたしに、暁人さんは笑った。
「面白そうだもんね。僕もたぶん見に行くよ」
「ほんとう? じゃぁ……」
 一緒に、見に行きませんか。
 わたしは息を詰まらせ、続く言葉を飲み込んだ。
 暁人さんが微笑んで、後を引き取る。
「……うん。じゃぁ、また見たら、感想を言うよ」
「……はい」
 わたしは頷き、膝の上に載せた手の指先を、そっと握りこんだ。
 四年前よりも会う機会は減ったのに、わたしはこの一月半で、暁人さんのことをたくさん知った。好きな食べ物、飲み物、衣服のブランド、仕事の内容、交友関係まで。
 家庭教師とその生徒という壁がなければ、わたしはどこまでも暁人さんと、会話を弾ませることができるのだ。
 勢いづいたわたしの舌は、つい要らぬ言葉まで紡ぎだす。
 わたしは彼と、遥人さんと琴乃ちゃんを間に挟んだ付き合いだけしか、許されないのに。
「かわいいワンピースだね」
 暁人さんが、話題を変えた。
「これからどこかへ出かけるの?」
「……和真くんと」
 わたしの彼氏であるひとの名前を、暁人さんはもう知っている。
「水族館に」
「涼しそうだね」
「……暁人さんは、この後は……?」
「僕も出る。菫とね、結婚指輪を見なければならなくて……」
 そしてわたしも、暁人さんが婚約したひとの名前を知っていた。


 弾みすぎるきらいのある、わたしたちの会話の中で。
 最も多く口に上る話題は、和真くんと菫さんについてだ。


 最初はわたしが和真くんについて話したんだと思う。いくつもいくつもいくつも、わたしが思い出せる限りの彼についての情報を、暁人さんに披露した。その後に、彼は菫さんについて教えてくれた。傍目からみれば、きっとお互いの彼氏彼女について、惚気ているようにしかみえない。少なくとも、暁人さんはそうだろう。
 わたしは和真くんについて語り続ける。語ることを作るために、最近ではデートをねだる。今日の水族館もそうだ。
 和真くんがいるのだと自分に言い聞かせなければ、四年前を後悔しそうで、怖かった。


「結婚指輪って一緒に選ぶものなんですね」
 琴乃ちゃんの家からの帰り道、駅に向かって歩きながら、わたしは言った。
「旦那様がプレゼントするのかと思った」
「それって婚約指輪のこと?」
 隣を歩く暁人さんが問う。
「婚約指輪は男の方が勝手に選んでサプライズで渡したりするね。結婚指輪は二人で選ぶ方が多いよ」
「へぇ、そうなんですか。アキさんはサプライズしたの?」
「内緒」
「えぇ? 隠さないでいいんですよ……」
 意地悪だ、と口先尖らせるわたしを、彼は可笑しそうに笑った。
「でも結婚しようって言ったとき、菫さん、喜んだでしょう?」
「そうだね。喜んだ。……なんで僕の方から言ったってわかるの?」
「アキさんなら、女の子にそんなこと言わせそうにないもの」
 やっぱり女の子の願望としては、男のひとからプロポーズしてほしいと思う。暁人さんは、そういうところを酌(く)んでくれるひとだ。
「アキさんが旦那さまなんて、菫さんは幸せですよね……」
「それを言うなら、露子さんの彼氏さんの方が幸せ者でしょう」
 微かに顔を歪めて、暁人さんは言う。
「羨ましいよ」
 その声が思いのほか真剣に聞こえて、わたしはなんと返していいのかわからず、黙り込んでしまった。
 四年前、わたしのことを好きだといった暁人さん。
 彼の中で、あの時のことはどのように消化されているんだろう。
 優しくて誠実な彼はとてももてるだろうから、子供だったわたしのことなんて、すぐに忘れていたに違いないけれど。
 暁人さんの表情をこっそり覗おうと試みたものの、距離が遠くて、断念せざるを得なかった。
 彼と、いつだったか手をつないで歩いた道を、今はひとひとり分の空間を挟んで歩いている。
 暁人さんはわたしの歩幅に合わせ、靴音をゆっくりと立てる。昼下がりの厳しい日差しがふたりの陰を色濃く刻み、アスファルトの焼ける臭いがした。塀の上から覗く植木の緑も、水分を欠いて萎びてみえる。隣の通りを自動車が排熱を纏って通り過ぎ、陽炎がぬらりと揺らめいていた。
 わたし自身の影を踏む、爪をシャーベットオレンジに塗った足が、妙にふわふわする。
「露子さん」
 唐突に暁人さんがわたしの腕を掴み、身を屈めて顔を寄せた。
「え!?」
 目深に被った麦わら帽子の下から現れた端正な顔に驚いて、ぴんと背筋を伸ばす。
「露子さん、大丈夫? 今、眩暈起こしかけてたでしょう?」
 神妙な暁人さんの問いに、わたしはようやく、この足取りのおぼつかなさの理由を理解した。
「え?……あ」
 日中で一番暑い時間帯の日差しに、わたしはどうやら意識を遠くへ飛ばしかけていたらしい。視界の焦点がうまく合わず、頭の奥が奇妙に重い。
「おいで」
 暁人さんはわたしの腕を強く引き、木陰のベンチに座らせた。どうしてこんなところに椅子が。驚いて視線を巡らせたわたしは、いつの間にかバスロータリーに到着していたことを知った。
 一度腰を据えると、例えようのない虚脱がわたしを襲った。血の気が潮のように引いていき、手足をしびれさせる。頭は熱を持ってぼんやりし、わたしは力の入らぬ唇を動かした。
「……アキさん?」
 傍にいたはずなのに、姿が見えない。噴水近い木陰は、見知らぬひとたちの声で溢れている。
 しばらくして暁人さんは、飲み物を手に戻ってきた。
「首に当てるといいよ。楽になる」
 スポーツドリンクで満たされたスチール缶は、結露に濡れてひやりとしている。
 それを助言に従って首に当て、涼んでいたわたしの耳に、軽やかな電子音が届いた。
 暁人さんの携帯電話の着信音だ。
 表示を確認した彼は苦い顔をみせる。
「菫さんが待っているなら、行ってあげてくださいね」
 電話の相手は十中八九、暁人さんの婚約者だ。
 わたしも彼も、この駅で互いの相手と待ち合わせている。わたしはバスロータリーで。暁人さんは改札口で。
「でも」
「大丈夫ですよ、わたしも和真くんがそろそろ来ますし」
 わたしは送り迎えの車が連なるタクシー乗り場周辺に視線を走らせた。和真くんのマーチはまだ見当たらないけれど、彼は時間に遅刻するようなひとではない。そろそろ来るはずだ。
「ありがとうございます」
 謝辞を述べたわたしは、ふと指を濡らすスポーツドリンクの存在を思い出した。
「あ、これ、お代は」
「いらないよ」
 暁人さんは苦笑を浮かべ、わたしを改めて見下ろした。
 細められた目。真剣な視線が、ゆっくりと、精査するように、わたしの身体の上を滑っていく。
「……やっぱり、もう少しここにいよう」
 顔色から、わたしを一人で残すことに不安を覚えたらしい。
 やさしい暁人さん。調子を崩したわたしを、置き去りにできぬほど。
 けれど彼は、婚約者とただの知り合いにすぎないわたしを、天秤にかけるべきではない。
「駄目です」
 わたしは決然と告げた。
 かつてないほど、強い語調に、わたし自身が驚いたほどだった。
「大丈夫です。和真くんももう来ますから。早く菫さんのところに行ってあげてください」
 わたしは微笑んで、暁人さんの身体を押す。腕に力が入っていたとは思えない。けれど彼の身体はあっさりと、わたしとの距離を広げてみせた。
 嘆息混じりに、彼は助言する。
「気分がましになったら、できればもう帰った方がいい」
「はい」
 わたしは素直に頷いた。そうでなければ離れないという気配を、暁人さんは漂わせていた。
 再び着信音を奏で始めた携帯電話を手に、駅内へと急ぐ彼を見送って、重心をベンチの背に預ける。
 木陰にそよぐ風を頬に受けながら、わたしはお迎えを静かに待った。


BACK/TOP/NEXT