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第四帖 紺碧と冷えた銀 3


 新居に入れる家具をカタログを眺めながら吟味していた菫が、ふいに口先を尖らせた。
「暁人? 聞いてる?」
「うん。ちゃんと聞いてる」
 頬杖を突いたまま暁人は肯定した。上の空だったつもりはないし、振られる話題に生返事で応じたわけでもない。それでも菫は先ほどから会話の隙間を埋めるように、同じ問いを繰り返している。
 菫がカタログに目線を戻し、暁人もそれに倣った。逆さから覗き込んだ紙面には、キャビネットやクローゼット、ベッドといった、落ち着いた色調の家具たちがカラー刷りされている。使うときを思わせるよう、美しい部屋に配置された姿で撮られたそれらは、しかしながら暁人に何の感慨ももたらさなかった。
 式が近づけば近づくほど、暁人の中で菫との将来はぼやけ、曖昧なものとなっていた。準備をないがしろにするわけではないが、積極的ではないともわかっている。暁人のその機微を、婚約者は敏感に感じ取っているようだった。
 式の前日となっていた入籍日を早めたいと菫が言ったときも、君の両親の希望だろうと突っぱねた。もともと親たちをおもねる傾向にある暁人の主張に、菫は納得したものの、ごねられていたら、自分は彼女に対してどのように告げただろうか。
 正直に口にするか。
 共に生活する姿を、全く想像できないと。
 暁人は菫と同棲生活のようになることを避け続けてきた。二人の生活がどのようなものになるのか予想がつかないというのは、当然のことと言える。
 それでも結婚の話を菫に持ちかけた折、漠然としたイメージはあったのだ。けれど今は全てが遠く、霧の向こうに追いやられてしまったかのようだった。
 代わりに脳内で像を結ぶのは、そっと落としたように微笑む少女の姿だ。
 隣を歩く彼女の姿ならばいくらでも思い浮かぶ。麦わら帽子から零れる黒絹のような髪や、その狭間から覗く白い首筋や、握ると柔らかくて温かい、小さな手や。そういった彼女を構成するパーツを、目を閉じれば手の届くところに感じることができた。
 ――……引き返すべきだ、と本能が告げていた。
 全てを投げ出すべきだ。そうして、彼女を奪うといい。男がいても、構うものか。
 けれど、彼女は泣くだろうな。あの時のように。
 一方で、うらぎるの、と理性は言う。祝福してくれた友人たちや両親たちや、新しい生活の門出に向けて支度を手伝う人々や、何より――……。
「暁人、これは?」
 菫が、微笑みながらカタログの一角を示した。
 彼女を伴侶に、と選んだのは自分だ。
 それが、打算にまみれていても。
 その責任は、とらなければならないのではないだろうか。
 どれ、と暁人は菫の示す先を覗き込みながら質問に応じた。
 新居に合うか、予算的にはどうか。そういったことを。
 そこに自分が立つ姿を、一切思い描けぬまま。




 旅行の場所と日程は、とんとん拍子に決まっていった。
 九月後半の連休を利用した一泊二日。ひとりで暮している加奈ちゃんのアパートに、心美ちゃんと泊まるということにして。戦々恐々としながら外泊の許可を求めたわたしに、両親は拍子抜けするほど寛容で、友達との時間を大切にしなさいと言う二人を前に、罪悪感で押し潰されそうなほどだった。
 友人たちは和真くんに協力的だ――加奈ちゃんなんて、全部任せてと胸を叩いてみせる。
 三人が張り切れば張り切るほど、わたしはひとり、慄いていた。
 かといって理由もわからぬこの恐怖を、誰かに相談することも叶わなかった。大学の友人たちには話せない。琴乃ちゃんもわたしにお付き合いしているひとがいるとは知らない。
 唯一、暁人さんだけが。
 けれどどうして彼に相談できるだろう。
 ――……仕事と結婚の支度で忙しい暁人さんは、近頃あまり姿を見せない。


「水着のバーゲンを見に行くよ、露子」
 だしぬけに、加奈ちゃんが言った。
 お盆が過ぎたばかりの部室に、人の姿はまばらだ。影を切り裂く鋭い光の筋のなか、土埃が躍り揺らめいている。扇風機が低く唸りながら首を振り、生温く気だるい空気を掻き乱していた。
「わたし、水着持ってるよ?」
 アルバイトの予習――わたしのバイトは塾講師だ――を中断し、わたしは鬼気迫る様子の友人を見上げた。
 彼女が呆れ混じりに問い返す。
「あんた、来週行く海に、何の飾り気もない水着を着るつもりなの?」
 水着、そんなに簡素だったかな。月初めに皆で市民プールに行って以来、出番のないスイミングウェアを思い浮かべる。スタンダードな型をした紺の地に、小さなハイビスカスがプリントされたそれ。
「露子の水着、確かに大人しいかもだけど、結構かわいくなかった?」
 わたしの隣で英語の問題集を解いていた心美ちゃんが口を挟む。
「突然バーゲン行こうって…何かあるの?」
「……おねーちゃんが働いてるとこ、ブランドものがかなり安いのよ……」
 ちょっと遠いけど、と加奈ちゃんは付け加えた。
 曰く、県境の駅にあるその百貨店で、他店に先駆けて夏物のセールが行われているらしい。加奈ちゃんのお姉さんの情報によれば、わたしたちがよくお世話になっている近場より、なぜか一割も二割も低価格であるとのことだった。
「露子も心美も午後から暇でしょ? かわいいの探しにいこうよ! 和真が喜ぶようなやつ」
 最後の一言に苦笑いを浮かべつつ、わたしは心美ちゃんと頷き合って、いいよ、とその提案に賛同した。
 気分転換に、日頃と違う場所に出向くのも、悪くはなかった。


 買い物先としていつも選ぶ場所は、通学経路の商店街、琴乃ちゃんの家に近いショッピングモール、塾傍の百貨店。
 遠足感覚で電車を乗り継ぎ、遠路遥々訪れたデパートも、店内軒を連ねるブランドや並ぶ商品自体は慣れた場所のそれらと変わらない。
 ただ……。
「あ、本当に安いね」
 びっくりするぐらい、低価格だった。
 値札を返しながら呟くわたしに、加奈ちゃんが声を張り上げる。
「でしょ!? いつものとこと千円ぐらい違うよね」
「不思議よねぇ……。あ、露子これにしたら? かわいいよ」
「え?」
 加奈ちゃんに相槌を打った心美ちゃんが、ドレープのかわいいAラインの水着を押し当ててきた。柄なしのチョコレート色で、白いお花のクリップでパレオを留めるようになっている。
「かわいい!」
 いかにもわたし好みのシンプルでかわいいデザインだ。
 心美ちゃんはいつもセンスがいい。誕生日プレゼントといった類も、はずした物を相手に贈ることはまずない。
「この花紫外線に当たると色変わるんだって」
「へー! あ、露子こっちは!」
「か、かなちゃん……露出度の高いものは、あんまり……」
 ビキニの水着は遠慮したい。さすがに。
「えーなんで? 和真を悩殺しないの?」
「しないよ……」
「加奈、あんまり騒がないの」
「だって露子は口下手なんだからせめて身体で攻めないと」
 加奈ちゃん、それはどういう意味なの。
 とてもきわどいデザインを選び始める友人の姿に、わたしはそっと後ずさる。
 心美ちゃんが腰に手を当て、呆れ顔で息を吐いた。
「加奈、あんた自分の好みを押し付けるんじゃないの」
「だってねぇ」
「だって、じゃないでしょ」
「じゃぁ露子はどんなのがいいわけ?」
 何故、買う前提で話が進んでいるの、二人とも。
 ウインドウショッピングの心づもりで来たわたしは、友人たちの会話に腰が引けてしまう。
 困惑するわたしを置いて、彼女たちは水着をどんどん陳列棚から抜き出していった。
 結局どれかを選び取らなければならない雰囲気になり、わたしは思いがけぬ出費に苦笑いしながら、心美ちゃんが最初に薦めてくれた水着を持ってレジに向かった。


 友人たちがこんな風に、おせっかいを焼くのにも訳がある。
 旅行が決まってから、わたしは再び和真くんと距離を置くようになっていた。彼が暇な時間と重なる様に入れたアルバイトを口実に。
 また少しずつぎこちなくなり始めたわたしたちを、加奈ちゃんはいつも案じている。目の前で生まれたカップルには上手くいって欲しいという、彼女の想いはとてもうれしい反面、わたしをよく疲れさせた。
 鏡に向かって息を吐いた唇にリップクリームを塗り、にっこりと笑顔を作って化粧室を出る。友人二人は喫茶店へと先に向かい、席を押さえてくれている。通路を進む歩調に合わせるように、水着の他にもつい買ってしまった戦利品の入った紙袋が、かさかさとわたしの脇でリズムを刻んだ。
 エレベーターホールで立ち止り、何気なく各階の案内板に目を向けたわたしは、その前で往生する和装の女性に気が付いた。
 身長はわたしと同程度。涼しそうな絽(ろ)の夏物に、朝顔の描かれた黒帯を締めた初老の女性は、何やら困り顔をしている。
「どうかなさったんですか?」
 わたしの問いに、婦人は弱々しく微笑んだ。
「お店の場所が、わからなくて」
 隣に並び立って、わたしは表示を覗き込む。
「何のお店ですか?」
「お茶屋さんなのですけれど」
「一階はご覧になりました?」
「見て回ったんですけれどねぇ……」
 このお茶なんですよ、と彼女は紙袋から空っぽと思しきお茶の缶を取り出した。外に布を張った、高級そうな設えをしている。
 それを拝借し、底の表示シールを探る。発売元となっている店舗は、確かに掲示板のどこにも見当たらなかった。
「ここのデパートで合っているんですか?」
「娘がね、ここでいつも買ってきてくれるんだけど……」
「お店が……移転してしまったとか?」
「いいえ。このお茶を買ってきてくれたのは、つい一週間前よ。……私の不注意で、中身をひっくり返してしまって、この通りなの」
 缶を軽く振って見せる婦人に、わたしは微笑んだ。
「わたしも時々やっちゃいます。訊きにいきましょう。どこで売っているか、直接訊いたほうが早いですよ」

 ところがだ。

「申し訳ありません。当店にそちらの商品をお取扱いしている店舗はないようです」
 それがサービス係のひとの答えだった。
「お店が潰れてしまった、とかではなくてですか?」
 わたしの問いに、係のひとは困惑した様子だった。
「その店舗が当店に入っていた記録はありませんね。ただ……」
 言葉を切って、彼女は地図をカウンターの上に広げる。
「ここから十分ほど行った商店街に、お問い合わせの店舗の支店がございます。そちらでお買い求めいただいていたのではないでしょうか?」
「多分、私に店の場所を説明するのが、面倒だったんだわ。あの子ったら」
 ここですね、と赤丸のつけられた地図を眺めながら、婦人が苦笑する。
「道、結構複雑ですね」
 わたしの指摘に婦人は頷いた。
「そうねぇ……どうしようかしら……。このあたり、詳しくないのよね……」
「行けそうですか?」
「そうね……。ひとりで……あぁ、でも待っていたほうが……」
「誰か、お連れの方が?」
「今は用事で席を外しているのよ。戻ってくるのは……あと一時間ぐらいかかるかしら」
「一時間」
 それはかなり長い時間だと瞬いたわたしに、彼女は相手が別行動をとる間に用事を済ませるつもりだったのだと説明した。
「……一緒に行きましょうか?」
「え?」
 わたしの申し出に、婦人が目を見開いて振り返る。驚かれるのも無理はない。逆の立場ならわたしも同じ反応をするだろう。
「あ、いえ、わたしもそれほど、この辺りには詳しくないんですけれど……それでもよければ」
 わたしも自分自身に驚いていた。いくら婦人が困っているからとはいえ、件の店までの同伴を提案するなんて、人見知りの気があるわたしにとって、普段の素行を逸脱している。
 理由は、わかっていた。
 ――……わたしはきっと、逃げ出したかった。
 和真くんとのことについて心配する、友人たちから。
 和真くんとも暁人さんとも関わり合いのない誰かの傍に、ほんのひと時だけ、いたかった。
「じゃぁ、お願いしようかしら」
 申し訳なさそうに請う婦人に、わたしは笑顔で頷いた。


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