蝉の声
蝉の音が鬱陶しい。
時刻は既に夕刻を回って、日差しも随分柔らかくなったが、刺すような黄色い日差しは確かに夏のものだった。
教室は静まり返っている。遠くで運動部の掛け声が聞こえていた。夏の地区予選が終わって、野球部は早めに練習を切り上げるようになったから、おそらくあの喧騒は別の部のものだ。吹奏楽部の合奏の音を、窓から吹き込む夏の風が運んでいる。その風にあおられて翻る黄ばんだカーテンは、教室の床に揺らめく陰を刻んでいた。
叶は外を椅子に腰掛けて、目の前の机に突っ伏して眠る少女を見つめていた。正確には、机の上に投げ出された手を見つめていた。十六の少女のものとは思えないかさついた指先。それは必死に自らの居場所を確立するためにもがいた少女の勲章のようなものだった。ハンドクリームを常に携帯して、荒れが少しでも治るように気をつけていることは知っている。気恥ずかしいといって手を隠すこともしばしばだ。けれど叶は、いつからか、心外にも、この手が好きであるらしかった。
少女は頬の下に、ノートと教科書を広げている。夏期講習の復習をしている最中に、そのまま寝入ってしまったようである。叶はそっと少女の前髪を指で払いのけた。日ごろの労働と勉学から来ているであろう、疲労の色がそこにはあった。
触れた指先がどこかにかすったらしい。少女が身じろぎする。眉根を寄せて、暑苦しいのか苦悶の表情を見せる。その表情が男として思いがけずそそられるもので、思わず天井を仰ぎ見た。
(やだやだ)
この少女が好きだとかそういう感情は、自分にはない――ないと、思うのだ。
けれど時折、こんな風に何かが胸中で頭を擡げる。この少女を蹂躙したいという欲求。この少女を独占したいという欲求。
(……女の子には困っていないはずなんだけどなぁ、僕)
事実、自分はよくもてる。それは自他共に認める厳然たる事実だった。自分たち兄弟は恐ろしく見目がよくて――まるで火に引き寄せられる蛾のように、同年代の少女たちが引き寄せられてくる。
そもそも、自分は多少年上が好みだという自覚もある。さして、周囲の少女たちに興味も持てない。
だというのに――。
時折、この少女を前にして覚える、胸中を支配する胸苦しさは、なんなのだろう。
ぎゅっ……
「っ!?」
突如手を握られ、いや、掴まれて、叶は文字通り飛び上がった。その拍子に、腰掛けていた椅子が大きな音を立てる。少女を起こしたかと思ったが、彼女は叶の手を捕獲したまま、すやすやと寝息を立てていた。
さて、この少女が起きたとき、どのようにして言い訳しよう。
もともと叶はこの場にいたわけではない。部活が終わって、机の中に宿題を置き去りにしていたことに気がついて、取りに来た。そうしたら誰もいない教室の窓際の席で、少女が居眠りをこいていた。ただ、それだけなのだ。
起きたときこの場に叶がいれば、絶対少女は喧嘩腰で顔をしかめるだろう。どうして、 あんたがいるのよ、と。
(まぁいっか)
叶は少女の手を握り返して、外を見やった。夏らしい熱気が外には立ちこめ、変わらず蝉時雨が響いている。
こんな風に、時折少女の無意識のわがままを聞いてやる余裕があるのも、少女を前にして覚える様々な欲求も。
おそらく、この気の狂うような夏の暑さのせいなのだろう。そんな気がした。