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第二章 惑う従者 1


 窓から一望した中庭で、薔薇の蕾が綻び始めている。
 もうそんな時期かと、王城の深部へと続く回廊を足早に進みながら、ディトラウトは息を吐いた。
 この半年は、不在の間に山積していた事柄を処理するだけで過ぎていった。いつ冬が終わったのかも定かでない。ここ数日も自室に詰めていて、昼下がりの日差しが目に痛く感じられるほどである。醸造酒を思わせるとろりとした黄金色が窓から差し込み、閑散とした通路にいっそう気だるげな空気を添えて、ディトラウトの疲労感を掻き立てていた。
 このあまりの人気なさに眉をひそめる大臣も多いが、セレネスティは相変わらず周囲に人を置きたがらない。女王の執務室有する区画は数名の精鋭が巡回するに留まり、在室中でさえ、扉の外に番兵の姿はほとんどない。歩み寄るディトラウトの姿を認めて直立する兵は、先客の部下だろう。彼は生真面目な顔で敬礼すると、ディトラウトのために扉を開けた。
 女王の執務室には既に、集うべき人間が揃っている。
 その中の一人、ヘルムートがディトラウトの姿を一瞥するなり、呆れの表情を浮かべて見せた。
「ディータ。お主ここ数日でいっそう生白くなっておるのではないか?」
「開口一番ご挨拶ですね、サガン老」
 ディトラウトはただ苦笑するしかない。
「そう思うならちゃんと食べんか。まったく、女房役がいなければすぐこれだ」
 そう言って、ヘルムートはこれ見よがしに溜息を吐いた。
 ヘルムート・サガン。
 その血筋から幾人もの女王を輩出した名家サガンの長老。齢六十を超えながらも全ての兵団を纏める、総団長が彼だ。一見大男のように錯覚するが、横に並べばかなり小柄な人物である。元は見事な金だったという真っ直ぐな白髪を後ろに流して首元で結わえ、洒落た鼈甲縁の眼鏡を掛けている。腰に佩いた長剣がなければ、文官に間違えられてしまいそうないでたちだった。
 しかし動きは機敏で、剣の腕もいまだ衰えていない。早朝の稽古場で若衆相手に立ち回るヘルムートの姿を、ディトラウトはよく目撃していた。
「早いところゼノを呼び戻さなきゃね」
 執務室の奥、机に頬杖を突いて、セレネスティが苦笑している。
「他の人だと兄上に遠慮しちゃうんだもんなぁ。……自己管理はしっかりしてよ?」
「その言葉、そっくり返しますよ、セレネスティ」
「大丈夫。僕には梟(ふくろう)がいるからね。ねぇ梟?」
 セレネスティの言葉を受けて、傍らに控える梟が無言のまま頷いた。
 〈女王の影〉と呼ばれる、セレネスティ近接の護衛が梟だ。密命中、ディトラウトが連絡に使っていた遣い魔の主でもある。灰色の髪に処女雪のような白い肌。淡い色彩を基調とするペルフィリア城内にあって、異彩を放つ黒ずくめの衣装を纏っている。感情篭らぬ瞳の緑灰色が、梟を構成する唯一の有彩色だ。
 ディトラウトは三人と距離を詰め、女王に持参した報告書を差し出した。
「どうぞ。そのゼノのいるマーレンからの報告です」
 一月ほど前のチェンバレン卿の一件、その事後処理についてのものである。
 セレネスティは紅茶を啜りながらその報告書の頁を一通り繰って、小さく嘆息を零した。
「思ったより時間がかかっているね」
「色々焼失していますからね。仕方がないでしょう。捕えた者たちは拷問中です。得られる情報は微々たるものだとは思いますが」
「そうだね。期待せずにおこうか」
「間者も一人あぶりだしました。ですが迂闊でした。かなり内部まで食い込んでいましたね」
「兄上がいない間にね。僕の無力さ」
「陛下の無力というより、私の無力でありますな」
 ヘルムートが無念そうに口を挟む。
「クランとの折衝に手間を掛けすぎておりました。内部への監査が甘くなり申し訳ない」
「仕方ないですよ」
 ディトラウトは彼を振り返って微笑んだ。
「むしろこの三年何事もなく、国の整備に従事できたのは、貴方の力でしょう? ヘルムート殿」
「そうそう。担当の官たちが言ってるって。有能な兵に守られているから、安心できるんだってね。サガン老、そう教えてあげるのは何回目だと思ってるの? 出来なかったことにぐだぐだ悩まないでくれない?」
 やだやだ、と首を振るセレネスティに、ヘルムートは苦笑いを返す。その様子を見つめたディトラウトは、壁に掛かった大判の大陸地図に視線を移した。
 西大陸。現在ペルフィリアはその北部から北西部にかけての広範囲を手中に収めている。この一帯で併合できていない国は実質二つ。そのうちひとつがデルリゲイリア。そしてもうひとつがクランだ。
 クラン・ハイヴ――デルリゲイリアからは南方、ペルフィリアからは西方に位置する連合国だ。三年前、周辺諸国を概ね併合し終えたペルフィリアは、北部を制覇する仕上げにとクラン地帯に手を伸ばしたが、思わぬ抵抗を受けて休戦協定を余儀なくされた。以来、二国は睨み合いを続けている。
 とはいえこの三年間、本当に何もなかったわけではなく、小競り合いは日常茶飯で、これが大事に発展せぬように文官と兵士たちは奔走していた。同時期に宰相たるディトラウトが密命により本国を離れていたものだから、セレネスティは一人で国の復興に忙殺されることとなったのである。
その隙をついて官たちに根を張った、セレネスティと反目する派閥を一掃するための先手が、今回のチェンバレン騒動の顛末だった。
「兄上、チェンバレンの次はいつ入るんだっけ?」
「近日中には」
 マーレンは今回の一件で一時的にせよ領主を失う。後任の選出は済んでいるが、その挿げ替えに領民たちの混乱がないことを、ディトラウトは祈っていた。
 筆記具の端でこつりと卓を叩き、セレネスティが報告書を閉じる。
「ゼノたち騎士を戻す。代わりが必要なら人選は任せるよ」
「かしこまりました」
「さて、ゼノたちは間に合いますかな」
 ヘルムートの発言に、ディトラウトは首を捻る。
「何にですか?」
「お隣からのお客人の到着に」
 すっかり、失念していた。
 もうそんな日付だったかと、ディトラウトは思わず毒づいた。
 即位式に立ち会ったセレネスティに礼を尽くすため、ペルフィリアへ足を運びたいと、デルリゲイリアの新女王から打診があったのは半月ほど前のことだ。使節の交換を行える程度には、体制が整ったことを知らしめる意味合いもあるのだろう。
 日数を逆算すれば、マリアージュを筆頭とした使節団は、既にペルフィリアに向けて出発しているはずだ。
「猫の手でも借りたくなるでしょうからな。ゼノが欠けているのはなかなかつらい」
「ま、そこはゼノの馬術に期待しようか?」
 くすくすと笑って、主君はひたりとディトラウトを見据えた。
「……懐かしい? 兄上」
「何がですか?」
「女王陛下との対面は、半年振りじゃないか。懐かしくないの? まがりなりにも三年も一つ屋根の下だったんだよね?」
 その揶揄の響きに、ディトラウトは肩をすくめる。
「何言っているんですか。感傷を期待していましたか?」
「うん。反応がなさすぎてつまらない」
「反応があっても困りましょうぞ陛下」
 ヘルムートが笑い、セレネスティはそれもそうだね、と頷いた。
「それにしても馬鹿だよねぇ。兄上のことで僕らが敵だってわかってるだろうに、わざわざ鼠捕りに飛び込んでくるんだから」
 経緯の仔細については省いたものの、ディトラウトの素性がある程度まで知られているだろうことは、セレネスティに報告してある。
 謝礼のためだけならば、上位の官に書状を持たせてペルフィリアに寄越すだけで事足りる。それをわざわざ、自ら出てこようとするあたりが、マリアージュらしかった。
 おそらくあの娘はとうとう、ペルフィリアの宰相について知ったに違いない。その姿を自ら確認するべく、彼女はこちらへ来るのだろう。
 何事も己の目を通さねば気がすまない。それがマリアージュ・ミズウィーリの性分なのだと、ディトラウトは密命中の後半で知った。
 セレネスティが口元を笑みで彩る。
「さぁて、噂のお客様は、今どのあたりにいるのかな?」


「まぁだ拗ねてるの? 殿下」
 もううんざりだと、マリアージュが対面のロディマスに言葉を吐いた。
「拗ねてなどおりません、女王陛下」
「でも子供みたいな顔していますよ、ロディ」
 ダイは宰相の取り澄ました横顔を、隣から見上げて指摘する。
「そんな風に拗ねていると、いつもの胡散臭さに子供っぽさが加わって、綺麗な顔立ちがすごく台無しだと思います」
 ロディマスは眉をひそめ、下唇を突きだした。
「拗ねてないし」
「やっぱり、別の馬車に蹴りだそうかしら」
 鬱陶しい、と幾度目かわからない主人の呟きが、馬車の車輪の音に混じり響いた。
 ロディマスの機嫌は、出発前からよろしくなかった。
 ペルフィリアの都に向け、デルリゲイリアを発って今日で三日目。国境に差し掛かろうかという頃合いだというのに、彼は不貞腐れたままだ。嫌がるマリアージュに対して敬語を用いるのも、幼稚な意思表示である。
「ロディ、そろそろ機嫌直してくださいよ。マリアージュ様、やるといったら本当にやりますよ」
 ダイはロディマスの腕を揺さぶった。彼がこの馬車を降りるとなると、少々問題が発生する。使節団は最少人数で構成され、馬車の数も限られている。この女王専用車以外に彼を乗せれば、皆が気おくれするのは目に見えていた。
ただでさえ慣れぬ旅暮らしを長く強いるのだ。余計な緊張を官たちに与えたくはない。
「わかってるよ」
 ロディマスは膝の上に置いた手を固く組んだ。
「言っておくけど、僕は拗ねていたわけじゃない。一日目、驚いて、二日目、怒って、そして今日、三日目、どうにか気持ちを落ち着かせようと努力していたところ。誰だって怒るよ。こんなぎりぎりで……間者の存在を知らされるなんてね」
 女王誕生の宵に姿を消した男、ヒース・リヴォート。
 彼がペルフィリア側の内通者であると、ロディマスたちテディウス兄弟に知らされたのは、かの国に向けて出立する寸前のことだった。
「文句があるならルディア夫人に言って。あんたたちに話すの、後回しがいいって言ったのはあの人だったんだから」
「もちろん伯母上には色々と物申すよ。もっと早くに知っていれば、ペルフィリア行きは反対していたのに」
「だから言いたくなかったのよ」
「だからといってそんな重要なことを言わないなんてことある? これは僕らに対する侮辱だよ……あぁ」
 宰相は項垂れ、組んだ手に額を擦りつけた。
「何より衝撃的だったのは、僕らより先に、あの情報屋のほうがこのことを知っていたっていうことだ」
「だって、仕方ないじゃない」
 マリアージュが僅かに頬を紅潮させる。
「あの男が今回の話を持ってきたんだから。説明せざるを得ないでしょ」
「いくら話を持ってきたとはいえ、通りすがりの部外者に、宰相の僕を差し置いて、よくぞ機密を話してくださいました、女王陛下。……これは僕らの信頼に亀裂を入れかねないゆゆしきことだ。わかっておられるのでしょうね?」
「……悪かったわよ」
 これ以上の口論を不毛と判断したのか、マリアージュもさすがに折れた。
 主君を言い負かしたことで溜飲が下がったのか、表情を緩めたロディマスも一転して謝罪に回る。
「うん。僕も大人げなかった。もう終わりにする」
 とはいえ、彼の笑みは強張っていた。異物を無理やり呑み込んで、強がって浮かべるもののように。
 要するに、だ。
 ロディマスはヒース・リヴォートについて知らされなかったことも無論だが、ダダンが先に事実を知り得ていた点を不服としているのだ。
 ダダンは部外者である。その上、ロディマス自身が間者ではと疑いを向けた男だ。結局それに関してはうやむやのまま、ルディアの推薦もあって、ダダンがこの旅の案内人となっていることも、気に入らない理由の一つに違いない。当の情報屋は飄々としながら仕事をこなし、使節の男たちと交友を結んでいたりなぞする。今日も借りた馬に乗って一同を先導し、騎士の一人とおしゃべりを楽しんでいた。
 終わりというのだから、ロディマスがこの件に関して蒸し返すことはもうないだろう。ただこれが禍根を後々残さぬことになればよいが、とダイは不安に思っていた。矜持を傷つけられたことに関して、男という生き物はかなりしつこい。
 気まずい沈黙から逃げるように、マリアージュが窓の外に視線を移す。
 その目が、驚きを以て見開かれた。
「あら、山道抜けたわね」
「え? あ、本当ですね」
 主人の目線を追い、ダイは瞬いた。
 ペルフィリアへと移動する方法は二通りある。一つは都から一路南へと向かい、緩衝地帯を抜けて入国する方法。もう一つは、デルリゲイリア領土の山々を東に抜ける方法である。今回の道行きには、直接領地へと出る後者を採っていた。
 馬車一台がぎりぎり通れる幅しかない山道の両脇には、針葉樹林が鬱蒼と茂っていたはずだ。が、今はもう影も形もない。狭い山林から緩やかな丘陵の続く平野に、風景が移り変わっている。
「もうここからはペルフィリアになるよ」
 ロディマスが言った。
「壁とかないの?」
「壁はないね。作っている国もあるみたいだけれど、それはほんの一握りらしい。主要な街道沿いに関所があるぐらいだ」
 ダイは外を眺めながら呟いた。
「私、街の城壁と門みたいなのを想像していました」
「私もそうだわ」
 マリアージュが同意する。
「国境って、傍目に見てもっとわかりやすいものかと思ってた」
「もちろん、わかりやすくしてある国もある」
 ロディマスが人差し指を一本勢いよく天に向けて解説する。
「城壁、とまではいかなくても、膝丈ぐらいの高さの石垣を作っているところもあるし、街道を線引きにしている国もある。知ってるかい? メイゼンブルは国境沿いに特殊な品種の薔薇を植えていたそうだよ。今はもう枯れてないそうだけれど」
「へぇ」
「そんなものを作らなくても、国境がわかりやすい例もある。それがデルリゲイリアとペルフィリアだ」
 ロディマスは立てていた指で窓の外を示した。その先には山脈がある。濃い影が落ちるそのふもとに、薄紫と濃い黄色が斑模様を作っていた。
 名も知らぬ低木の深い緑が、花々の隙間を余すところなく埋めている。その狭間を蛇行しながら流れる川が空の青を写し取り、風景に彩を添えていた。
 山に近い丘の向こうからは、細い煙が棚引いている。おそらく、かまどの煙。農村が点在しているのだろう。
『山脈の麓で――……』
 耳の奥で、蘇る声がある。
 故郷を懐かしむ男の、優しい声だった。
「僕らの国とペルフィリアは、河川と山脈を国境に定めている」
 いつの間にか窓に張り付いていたダイは、ロディマスの発言に我に返った。
「いや、だった、というべきかな。ペルフィリアも国境線がずいぶん変わった」
「他国を併合したから、ですか?」
 窓から離れ、ロディマスを振り返る。
「そう」
 宰相はダイの問いに肯定を返した。
「地図を見ればわかるけど、今じゃ西大陸北東部のほとんどがペルフィリアのものだ。デルリゲイリアとクラン・ハイヴを墜とせば、大陸の半分を手中に収めることになる」
「それってやっぱり、ペルフィリアは第二のメイゼンブルの座を狙っているってことなのかしら」
「残念ながらそれ以外、考えられない」
 眉間に皺を刻み、ロディマスは壁に背を預けた。
「クランとは停戦協定を結んでいるけど、完璧に手を引いたってわけでもないようだし、僕らの国の女王選に手を出してくるぐらいだ。侵略の意、ありってことだろう」
 マリアージュが不思議そうに首を捻る。
「王者になって、何をしたいのかしら」
「何故王者になりたいか、などという問いは愚問だと思うよ、陛下」
 ロディマスが決然と述べた。
「王者になる。それこそが目的だ」
 世界のどんな歴史書を紐解いても、覇者の座を求める明確な理由など、記されてはいない。
 あっても闇に葬られる。
 動いた一人ひとりの想いなど、歴史のうねりに呑み込まれ、ただ消えていくのだ。
「それにしてもロディマス、あんたもしかしてかなり勉強したの?」
 畳んだ扇の先に当てた口元を、マリアージュがにやりと歪めた。
「……は?」
「なんだか説明が饒舌じゃない?」
「……他国へ行くのに、知識を確認しておくのは当然だよ」
「ダダンにいいとこをとられてばっかで悔しかったんでしょ」
「悔しくない!」
「あぁ、宰相の面目が丸つぶれになっちゃいますもんね」
「ダイも! そこで! 陛下に同意しない!」
 この主従は、と男は歯噛みする。その顔がおかしくて、ダイは笑いに声を立てた。


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