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第一章 久闊の訪問者 5


 ロディマスと入れ替わり、女官が台車を押して入室する。
「私は納得ができません」
 茶の支度をする彼女の傍らで、アッセが困惑の表情のまま主張した。
「何故、突然ペルフィリアに?」
「何か問題でもあるの?」
 紅茶の注がれた茶器を取り上げ、マリアージュが呻く。
「何度もいうけれど、女王選出の時だって、先方の女王陛下に来ていただいていたのよ。ご自身は先に辞去されたけど、代表の方は戴冠式の時までいたわ。本当だったらすぐお礼に伺うべきところを、こっちが落ち着かないからって延期していたのを、アッセだって知ってるでしょう」
「それはそうですが、あまりにも――……」
 アッセは飲み込んだ言葉を視線に乗せてダイに向けた。唐突だと、思わないか、と。
 ダイは微笑んだ。唐突なようでいて、そうではない。ここにダダンがいるということは、マリアージュも聞いたに違いなかった。
 女王の兄として、宰相として、ペルフィリアで生きているという男の話を。
 そうなればすべてを自分の目で確認しなければ気のすまない彼女が、隣国へ向かいたいと言い出すこともわかっていた。こんなに早く段取りを付けようとするとは予想していなかったけれども。
 女官が退室し、部屋に四人残される。
 きまり悪い沈黙を破ったのはダダンだった。
「まぁそこの騎士様と理由は違うかもしれねぇが、俺もお前のペルフィリア行きにゃ反対だよ、マリアージュ」
「だから、お前は陛下を呼び捨てにするなと、何度」
「アッセ、話が進まなくなるんでちょっとやめてください」
 ここまで来て不遜な態度を崩さないダダンにも物申したいところだが、アッセにも過剰反応されては困る。
 ダイは騎士の腕を引いて強引に座らせ、ダダンに目配せを送った。
「それで、ダダンはどうして反対なんですか? ペルフィリアの女王様が来られてからもう半年も経っているんです。お礼するなら、早いほうがいいんじゃないですか?」
「普通ならな」
 ダダンは懐から新しい巻き煙草を取り出して火を点けた。
「相変わらずこの国は、平和呆けしてるようだから忠告しておいてやる。メイゼンブルが滅びて十数年。西大陸の世情はまだ落ち着いてるとはいえねぇ。この国の外じゃ、方々で領土をめぐって小競り合いしてる。そんな中、ペルフィリアは飛ぶ鳥落とす勢いで、大陸北部の覇権を握ろうとしているんだぞ。物見遊山で訪れてみろ。一捻りにされるのが関の山だ」
 煙を細く吐き出すダダンを見つめながら、彼の言う通りだ、とダイは胸中で呟いた。
 セレネスティを国主に戴いたペルフィリアは、メイゼンブルが滅びて以降、寄る辺を失って不安定だった周辺諸国を瞬く間に併合した。現在は大人しいようだが、“あの男”がこの国に潜んでいたことを思えば、裏から侵略の手が伸びていたことは明白なのだ。どんな理由であれ、ペルフィリアを訪ねるのならば、相応の覚悟が必要だろう。
「ダダン、ペルフィリアの女王ってどんな女なの?」
 灰皿の縁を煙草で叩くダダンに、マリアージュが向き直る。
「……は? 一国の女王様がなんで隣国の女王のこと知らねぇんだよ」
「荒れた国土を落ち着かせた賢君」
 ダダンの当て擦りを意に介した様子もなく、彼女は冷静な声音で即答した。
「他にもあの女王を褒め称える言葉なら色々知ってるわよ。主に、私の無能を嘆く文官が使うものだけど。私があんたに訊いているのは歴史の一頁に書かれるような表面的な話じゃない。ただ挨拶に行くだけで一捻りにされかねないだなんて警告する、その根拠よ」
 ダダンは単なる表敬訪問を、まるで戦場へ赴くかのように捉えている。それは敵対するわけでもない二国の交流に対して、あまりに物騒ともいえる見方だ。
 ダダンは煙草を灰皿の上に置き、両手を膝の上で組んだ。
「この中で、ペルフィリアの国土がどうして荒れたのか……そもそも、セレネスティがどんなふうにして女王になったか、知っているやつはいるか?」
「どんなふうに女王になったか?」
「ダイ、セレネスティは先代の直系でもなけりゃ、マリアージュのように投票で選ばれたわけでもない。公式には田舎の地方領主の長子だったとされているが、それもどこまで本当かわからん。……確かなことは、セレネスティは、誰の後ろ盾も持たんまま、どこからともなく現れ、その手で玉座をもぎ取ったという一点だ」
 六年前だ、とダダンは言った。
「ペルフィリアで女王が崩御した。若い女王で難産の末、第一子と共にあの世へいっちまった。問題は、この後でな。ペルフィリアも女王直系の継嗣を失った場合、選出される女王に条件を付けていたんだ」
 デルリゲイリアのように。
 この国では三親等以内にメイゼンブル公家の血縁を持つ少女が候補者となって女王の座を争う。マリアージュの場合、父方の曾祖母と母方の祖母がメイゼンブル公家の人間だった。
 ペルフィリアにおいても、メイゼンブルと縁ある少女が王家の養子となり、即位することになっていたのだとダダンは説明した。
「俺もドッペルガムに関わって知ったんだけどな。この条件はメイゼンブル、古くはその前身である国、スカーレットの同化政策の一環なんだ。表面的には独立の形をとらせながら、メイゼンブルの血を入れることで属国化する。そうやってメイゼンブルはこの西大陸を掌握してきた。つまりメイゼンブルが存在しているからこそ、意味のある条件ともいえる」
「でもそれとペルフィリアの国土が荒れた原因と、何のつながりがあるの?」
「まぁ聞け」
 彼は早く核心を教えろと急くマリアージュをたしなめる。
「六年前のことに話を戻すぞ。当時、ペルフィリアには二大勢力があった。一方はメイゼンブル公家の姫君を妻に迎え入れていた左大臣。もう一方は野心家の、下級貴族上がりの右大臣。こっちはメイゼンブルと縁を持っていなかった。どちらの家にも女王となるに相応しい教育を受けた姫君がいた。もしメイゼンブルが存続していたなら、誰も疑いなく左大臣の姫君が女王として即位していただろう。だが――……」
 メイゼンブルは滅んでいた。
 選出の条件は、意味を為さなくなっていた。
「……右大臣の男は思ったのさ。何故、意味を為さん条件に縛られて、我が娘が女王になれる可能性を、失わなければならないのか」
 同等の勢力を持っていれば、誰だって思うだろう。
 ダイはマリアージュと顔を見合わせた。互いの脳裏にあった姿はきっと同じだ。アリシュエルの父親、バイラム。彼もまた、何故、男というだけで玉座から遠ざけられなければならないのかと、『条件』に憤っていたものの一人だった。
「どちらの姫君を女王として即位させるか。その話し合いは口論に発展し、最後には左大臣の男が右大臣の男を殺してしまうという事態に発展した。そして右大臣家の人間は報復として、左大臣家の姫君を暗殺したんだ」
 言葉を区切って、ダダンは紅茶で喉を潤し、茶器を乱暴に皿の上に戻した。その硬質の音が、嫌に耳に残る。
「その後が泥沼だった。互いの家、そこに連なる家同士の報復合戦。やがてそれは中立派の貴族の間にも飛び火して、女王になれる可能性のある者、つまり貴族階級の女を虱潰しに虐殺しあうという事態に発展した」
 むごたらしい、悲劇だった。
「聞けば市井の落とし種があっちゃ困るということで、有力貴族が通っていた愛人の家や娼館まで焼き討ちにあったらしい。地方領主の治める村が丸ごと焼かれたりもしたそうだ。……デルリゲイリアが女王候補選出に、もう意味をなさない昔ながらの条件を固持したのは、下手を打って同じことが起こってもらっちゃ困るっていう、貴族の恐れの現われなのさ」
 がちゃ、と。
 ダイは茶器をとり落した。
 手元が、震える。
「ダイ? どうし……」
「どろぬまになるって」
 アッセの問いを遮り、ダイは呻いた。
「貴族同士で争えば、泥沼になるって……そういう、ことですか……?」
 皆、ダイの発言の意味を理解しかねている様子だった。
 行方不明になったアリシュエルの情報を求めて、ミゲルの店をヒースと共に訪ねた時。
 アリシュエルを追う側とマリアージュに報告する側、二手に分かれる算段をしていた、あの時。
 護衛のないミズウィーリ家の馬車が、バイラムの配下に襲われないかと危惧した自分達に、ヒースが言っていた。
『……同じ貴族同士で争えば、泥沼になることを彼らも知らぬはずがない』
 彼はこの、ペルフィリアの惨事を思い返して述べていたのだ。
「アッセ……知ってた?」
 マリアージュの問いに、アッセは無言のまま頷いた。
「当時、母は心を痛めていました。ですが国境に山脈を持つこの国からは手助けのしようがなく、また母自身、この国を守ることで精一杯だった」
「セレネスティは、この泥沼の争いに終止符を打った。その後のことは、お前たちも知っての通りだ」
 内紛によって疲弊した国を立て直し、賢君として名を馳せ、ついには大陸北西部の覇者となった。
 あと数年もすれば、ペルフィリアは世界有数の大国として数えられるだろう――セレネスティの下で。
 煙草を燻らせ、ダダンは言う。
「そんな女に会いに行こうっていうんなら――……」
 彼はマリアージュを鋭く見据え、警告した。
「心していけよ。でなけりゃ、食われちまうぜ、マリアージュ」


 指先から、雫が零れる。
 それは波紋を広げ、盥の中の水面に映るダイの虚像を揺らした。憂いた表情を追い払うために首を横に振り、笑顔を取り繕う。
「それでは化粧を」
「えぇ」
 道具を並べ終え、清め直した手を布で拭って、ダイはマリアージュに一礼した。返ってくるのはそっけない了承の声音。彼女がにこやかにダイに化粧を促したことはない。だが、それでいいと思っている。
 手入れが終わったばかりのマリアージュは淡いまどろみの中にいる。様々なことがあって疲れているに違いない。身体と顔を揉み解している間、彼女はずっと浅い眠りに落ちていた。
 ルディアと会うのだから、顔は明るくみえるほうがよいだろう。目元と口元にはなるべく明度の高い色を選び、唇に注す紅にだけ鮮やかなものを用意する。
 念入りに手入れされたマリアージュの肌は柔らかくすべらかで、それはダイの努力の結実ともいえる。掃除のなされぬ家が早く朽ちていくように、手入れしない肌は老いも早い。逆を言えば、磨けば磨くほど艶めく家具の如く、肌も愛せば透明感を増して輝く。下地を付け、練粉を重ねる工程に、肌が素直に応えるようになっていく。
 真珠の粉の溶かれた光集める下地をマリアージュの肌に薄く延ばし、色合い異なる練粉を二種類引き寄せた。マリアージュの肌より明るい色目を、目の下、鼻筋、額を中心に広げ、続けて馴染み色を残りの部分に用いていく。あまり塗布しすぎないように、そして境目が浮き立たないように、細心の注意を払った。
 そばかすはそのまま。超然とした美しさを称える女王とよりも、素のマリアージュと歓談することをルディアは好む。だから、少女らしさを出すために、あえて。ただ疲れが出ぬよう、目の下を念入りに明るくした。厚塗りにならぬよう苦心する。
「ダイ」
 マリアージュが薄く目を開けたのは、ダイが目元の化粧を終え、淡い色を広く、頬に入れている最中のことだった。
「はい、マリアージュ様」
「……何故、ヒースのことを黙っていたの?」
 彼女の口から零れた男の名に、一瞬だけ手を止める。
「すみません」
 色板に筆を再度付け、余分な粉を布の上に落としながらダイは笑った。
「……でも、後からちゃんと、言おうと思ってはいたんです」
 そう、とマリアージュは頷いた。
「……あんたは、ペルフィリアの宰相だっていう男が、本当にあいつだと思う?」
 ダダンはそう断言した。
 しかしこの目でしかと確かめたわけではない。
 ダイは答えた。
「会ってみないと、わかりませんよ」
 充分な量の粉を含んだ筆を、マリアージュの頬に滑らせる。頬の一番高い部位から、扇状に、やや丸く、そして広く、色を入れていく。
「お馬鹿」
 マリアージュが苛立たしげに呻いた。
「ちゃんと人の話聞きなさいよ。あんたはどう思うかって訊いているの」
 頬紅用の筆から口紅用のそれに持ち替える。
「あの人ですよ」
 色板を引き寄せ、赤を、高貴な深い紅を、その筆先ですくった。
「そう思います」
 唇を、紅で縁取る。塗りつぶす。肉感的な唇に瑞々しさと色が加わり、肌の白さが際立った。
「今日、ルディア様にご相談されるといいと思いますよ」
「相談? 何を?」
「ペルフィリア行きの件についてです。誰を連れていったほうがいいか、とか。あと交渉について、とか。挨拶にいくっていっても、それだけに終わりませんよね?」
「そう?」
「だってお金と時間と人員掛けていくんですから、この機会を生かして今後の国交どうするとか、色々決めたりするんじゃないんですか?」
 ペルフィリアの王城へは簡単に往復できる距離ではない。その上マリアージュが行くとなれば護衛や付き人の数も増やさなければならぬはずだ。それをロディマスが表敬訪問のみで終わらせるはずがない。
「あぁ、なるほどね」
「それに……今日のダダンの話を聞く限り、ペルフィリアの女王様って、すごく怖いみたいですし。うっかりしたらこっちに都合悪いことばかり決められそうで。ルディア様でしたら、上手な話し合いの仕方とか知ってそうですし」
 マリアージュを中心とするデルリゲイリアの体制は、まだ幼いのだ。安定に欠いている。その上、ヒースが本当にセレネスティの兄ディトラウトだというのなら、こちらの内情は筒抜けのはずだ。下手をすればデルリゲイリアは捻り倒される。それだけは、避けなければならない。ルディアならばそのあたりを汲んで、助言を与えてくれるだろう。
 花街一の娼館を営んでいるダイの養母も、他の経営者と交渉を行う際は必ず念入りに下準備をし、周囲に相談を持ちかけていたものだった。
 ダイは大筆でマリアージュの顔から要らぬ粉を払い落とし、粉避けの布を取り去った。軽く背を伸ばす主人に、手鏡を差し出す。
「そうね……。そうさせてもらうわ。助言を聞いておくだけでも、違うわよね」
 受け取った鏡を覗き込みながら、マリアージュは呟いた。
「それにロディマスはあんまり当てにならなさそうだし」
「そうですか? いっつも平然とした顔してますけど」
「それは多分、自分の陣地にいるからだと思うのよね。今日だってダダンの隣に私がいただけで、あんなに冷静じゃなくなんのよ」
 言われてみれば、と、ダイは頷いた。
 マリアージュがダダンの傍にいなければ、ドッペルガムの間者か否かを問いただすにしても、ロディマスはもう少し冷静且つ効果的な方策を採っただろう。
「やっぱりあいつにも駄目なところあるのね」
 マリアージュは手鏡をダイに返して立ち上がり、椅子から離れる。彼女の身につけている濃い緑の衣装がさらりと揺れる。裾から除く白い透かし編みが、赤の絨毯の上を滑っていく。その色彩は、いつだったか見た天と地を埋め尽す祝福のはなびらを思い起こさせる。
 残像を封じるように瞼を閉じ、ダイはマリアージュに腰を折った。
「いってらっしゃいませ。楽しんできてください」
「えぇ。夕食会から戻ったらまた呼ぶわ」
「かしこまりました」
「ダイ」
 扉の前で佇むマリアージュは、静謐な目をダイに向けた。
貫くような視線。彼女はいつも人を射抜く。その眼差しで。その凛とした姿で。
「……ヒースに、会いたい?」
 躊躇を見せながら、彼女は問いを口にした。その声が僅かに震えていることに、ダイは気づいていた。知っている。あの時、ヒースよりも彼女を選んだ自分に信をおいてくれているのだということ。けれど同時に、ダイがいつかあの男のもとへ駆け出してしまいやしないかと、親に捨てられることを恐れる子供のような脅えを見せること。
 ダイは微笑んだ。
「わかりません」
 それが、偽らざる本音だ。
 わからなかった。会いたいのか。会いたくないのか。あまいあまい口付けを残して消えた男。彼の指先が頬を撫で、彼の蒼が世界を塗りつぶしたあの雨の夜から、ずっとずっと泣いている少女が、自分の中に棲んでいるけれど。
 わからないのだ。
「ただ……会えたら、叩き倒したいですね」
 マリアージュはきょとんと目を丸め、可笑しそうに笑った。
 扉が閉じられて部屋に一人きりとなったダイは、窓辺に歩み寄った。
 閉め切られていた窓を開ける。飾り釦のような星が空の上で瞬いている。遠い空。その向こう。ペルフィリアは、この部屋からも見える山脈の彼方だ。
 以前、ヒースは国境の傍で暮らしていたと言っていた。とりたてて何もない土地で、東には平原が広がっていると。他でもないその話が、彼の生まれがペルフィリアであることを示していた。
 あの頃、もっと地理について学んでいれば、素性をもう少し追求することが出来ていたであろうか。
 いや、無理だっただろう。彼に誤魔化されてしまうのが関の山だったはずだ。
 知らなかった。何も。あんなに一緒にいたのに。あんなにたくさん話をしたのに。あんなに。
 あんなに、好きだったのに。自分は彼について何も知り得ていなかった。
 自分はマリアージュを選んだ。今更ヒースについて何かを知ったとしても、何の役に立つというわけではない。以前、ダイの主君は言った。いなくなった男について考えても、何にもならない、と。その通りだ。
 ただ、それでも。
(知りたいと思うのは、悪くないでしょう?)
 マリアージュと同じだ。知りたい。彼が何を思い、何を為そうと、自分たちの傍にいたのか。
 憎む理由が欲しい。
 マリアージュを見限り、自分たちを利用しようとした男を、憎む理由が。
 胸の奥に棲まう少女に、泣き止む理由を与えるために。
 急に身体の芯が痛み、ダイは窓枠を握り締めて屈みこんだ。
 そしてそのまま、ひっそりと泣いた。
 自分の選択の結果に泣くのは、これで最後だと思いながら。


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