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第六章 交錯する政客 3


 化粧する対象としてわざわざ梟を推挙した理由は彼が魔術師だからに違いない。
(だいじょうぶ)
 ダイは手を清めながら自らに言い聞かせた。
 梟は確かに姿を“上塗り”できる。しかし今回は人の目がある。彼とて印象をがらりとは変えられない。
 自分はただいつも通りに、落ち着いて化粧すればよい。
 梟の顔を覗き込むダイに、観客席から声がかけられる。
「何か話したらいかがですか?」
 ダイは唇を引き結んで声の主を振り返った。ディトラウトだ。彼はセレネスティと並んで最前列に腰掛けている。
 退屈といわんばかりの挑戦的なその目に俄かに対抗心が湧いた。
「ご期待にお応えいたしまして」
 彼ににっこり笑いかけ、ダイは声を張り上げる。
「化粧は白粉を叩いて紅を引くだけ、と思っていらっしゃいませんか? もちろんそれだけでも構いませんが、色の足し引きを用いて、そのひとのなりたい姿へと導いていく。仕方によっては印象を覆すこともできる……それが化粧です」
 声がひどく反響する。伴奏を付けてほしいと、ダイはやけくそ気味に思った。
「大事なことは化粧をされるご本人が、一体どんな自分になりたいか。……今回は、この方を女性に見せること、が要点です。……ところでどのような女性になりたいか、ご希望はございますか?」
 質問を受けた梟は不快そうにダイを見上げた。話しかけるな、ということらしい。
 だが、知ったことか。
「守りたくなるような可憐な女性、それとも妖艶さ漂う艶のある女性?」
「……お好きなように」
 梟はそっけなく応じた。
「では、印象は後ほど決めることにして……まずはお肌の状態を確認いたしましょうか」
 ダイは梟の顔を覗き込んだ。
「女性の皆さまが羨ましくなるような滑らかなお肌です。が、少し乾燥しているようですね。たっぷりと……薔薇水を付けておきましょう」
 肌が渇いていると色粉がうまく載らない。浮いてきてしまうのだ。
「男性を女性に見せる決め手とは、一体何だと思われますか? 外見の何を以って性の区別をつければよいのでしょうか。……輪郭? 目の大きさ? 唇の厚み? ……色々考えましたが、“瑞々しさ”だと、私は思っています」
 手を動かしながら解説する。
「潤んだ目元、濡れたような唇、手に吸い付くような、しっとりとした肌」
 ダイは身体を起こして広間に集う男たちを見た。
「恋人にどんなとき女を感じるかを思い出していただければわかりやすいでしょうか?」
 マリアージュの隣でヘルムートが愉快そうに口の端を曲げる。ファビアンは苦笑いを浮かべ、ディトラウトは無感動である。セレネスティは軽く眉をひそめただけだった。
「その“瑞々しさ”を再現するためには、ただ白粉を叩くだけではたりません。前もって肌を柔らかく保っておくことが美しく化粧を仕上げるための秘訣なのです。……乳液も馴染ませておきましょう」
 とろみのある乳白色の液を伸ばしていく。肌が水分を吸ってふっくらとし、頬の高い場所に光の輪が射した。
「皆様、もしよろしければ、もっと前へいらっしゃいませんか? どうぞ私の手元を確認してください」
 ふと思い立ってダイは観客席に呼びかけた。梟も衆目の下では〈上塗り〉の術を行使しにくいに違いない。魔術につきものの燐光を隠し辛くなる。
 ダイは作業台の上を打ち見して、燻した玻璃の小瓶を二、三、手元へ引き寄せた。中身は肌色の液体だ。練粉よりも薄付きだが、肌にとにかく艶が出る。
 ダイは観客へ小瓶を振って見せた。
「それでは次へ……こちらで肌色を補正していきます。えぇ、粉じゃないんですよ。液体です――まずは、一本目」
 梟の顔に広げた液体は乳白色。
「こちらは下地。後に付ける色の付きと持ちをよくしていくものですが、それだけではありません。ほら、ご覧ください。肌に伸ばすと少しきらきらしています。真珠の粉です。このように光を集めて肌を明るくすれば、ふっくらと丸みを帯びているように見える」
 肌を明るくする、つまり、白く仕上げた場合、目は錯覚を起こす。白は膨張色だからだ。輪郭を曖昧にして、骨格も平坦に見せる。
「ですが肌はただ明るくすればいいというものではありません」
 薄紅の液を手の甲に採る。皆の目が一様に見開かれた。肌色からあまりにかけ離れているために驚いたのだろう。
「血色を与える仕込み色です。見た目はこんな風ですが、肌に載せると薄まります」
 ダイはその薄紅を梟の頬の高い位置を中心に塗布した。
「思い起こしてください。たとえば、湯浴みをしたばかりの女性。その、上気した、朱い頬を」
 誰かの喉がごくりと鳴った。それでいい、とダイは微笑んだ。
 化粧されるべく座するものの性別など忘れてしまえ。ここにいるものはお前たちの愛しい女だ。
「次です。今度は肌色のものを」
 ダイはこしのある平筆を引き抜いた。その先端に液をまんべんなく付ける
 梟の下瞼から顔の輪郭部へ向け、生成り色を塗り伸ばしていく。続けて頬、顎、額。上瞼といった繊細な場所は指の先で。
 梟の肌から乾燥によるくすみが抜け、血色を出したことで透明感が生まれる。
「ここでおなじみの白粉です」
 一般的に女官たちはこの白粉を塗り重ねて肌を作る。けれどダイはそれを好まなかった。少しの化粧でもけばけばしくなるからだ。
 白粉そのものを厭っているわけではない。仕上げに用いれば、肌により光を集める。
 特にダイの白粉は金剛石の粉を混ぜて光沢を出した特注品だ。付けても白くなりすぎず、細かな虹色にきらめく。
 赤子の拳ほどもある大振りの筆に粉をたっぷり含ませ、ひと刷きした。
 ダイは梟の顔に添えた手に力を加え、観衆によく見えるよう上向かせた。彼らにはその化粧の仕上がりを覚えてもらわなくてはならない。
「いかがです? 乙女の柔肌に見えるでしょうか?」
 観客たちはゆっくりと顎を引いた。
 本音をいえばもっと明るく、輪郭も柔らかく見えるよう、仕上げたつもりだった。けれど思うように発色しない。輝かない。このようなことは初めてだった。
 梟がダイを見上げる。緑灰色の双眸は霜に閉ざされた森に似ていた。うつろで、奥深い――……。
 その瞳に、熾火めいた光が、ひらめく。
 布が波打つように彼の身体の線が揺らいだ。緑掛かった銀の膜がいっときだけ透けてみえる。
 ダイは悟った。
 この魔術師の青年はこれから〈上塗り〉しようと試みているわけではない。
 彼はおそらく既に発動させているのだ。
 化粧の効果を削ぐような術を。
 人目ある故だろう。ダイの化粧がまったく消されてしまうということはないようだ。だがそれは気休めにしかならない。
 梟は中性的な面差しをした青年である。技巧さえ凝らせば顔立ち柔らかく見せることは造作ない。処女雪もかくやという彼の肌は載せる色を選ばない。灰色の髪色のこともある。淡い色味で清楚な印象に仕上げるつもりだった。
 しかし今となってはあまりに薄い色は危険である。
 ダイは筆を握り締め、色板を引き寄せた。並ぶ色彩に視線を走らせて、目元と唇に注す色を選び出す。
(考えろ)
 濃い色を用いるか。だが発色鮮やかなものはよく吟味しなければ顔を男性的に見せがちだ。柔らかさを追求して作った土台にそぐわない。
「――……どうかなさいまして?」
 セレネスティの優しげな問いが反響する。
 ダイは我に返った。広間はいつの間にか静まり返り、ダイの次の動きを待っている。かなり長く思索に耽っていたらしかった。
「いいえ」
 ダイはゆるりと頭を振った。
「……ただ、考えておりました。この方にはどのような女性になっていただこうかと」
 ダイは微笑み、筆を置いた。
「今、ようやっと決まりました」
 指で掬い取る。
 血の色。西日の色。デルリゲイリアの紋でもある薔薇。その色。
 紅(あか)を。
 それを、青年の目尻に勢いよく塗り付ける。
 ダイは宣言した。
「……誰をも魅了する傾国の美女となっていただきたく存じます。――……かの有名な、滅びの魔女のような」
 ここにいる者たちで知らぬものはいないだろう。この世ならざる美しさと謳われる美姫。歌劇でも頻繁に取り上げられる傾国の女。
 魔の公国崩壊の引き金を引いたという、“魔女”。
 彼女に似せて化粧を施すその目的は、魔術師である梟への当て擦りである。
 かの魔女の髪は燃え盛る炎の色をして、それがまた妖艶さを掻き立てたという。赤は緑の補色でもある。鮮やかな紅は梟の瞳の緑灰色を引き立てる。虚ろと思えた目が輝いて見え、肌も息を吹き返したかの如く艶を増した。
 次に極細の筆を手に取って墨壺に浸す。手の甲で発色と量を調節し、梟の睫の生え際を縁取った。魔によって印象薄められた灰色が彼の瞳の色と相まって睫の長さを強調する。
 眉。
「失礼。鋏を入れます」
 小さめのそれで、細く、短めに整える。あるべきものの欠落は、傾国の美女に相応しい、異質な妖艶さを醸し出す。この余興が終わったあとは――それこそ〈上塗り〉で補正してくれればいいだろう。
 ダイは色板を鷲掴んで手元へ寄せ、唇に添える紅を選びにかかった。
 筆先ですくった色は葡萄酒色。濃い、濃い、濃密な昏い赤。蜜を混ぜて光沢を出す。唇に注せば瑞々しく、厚み増したように見せる。その狭間から覗く歯や舌先の動きに、男が女を覚えることを知っている。
 頬へは煉瓦色を。こちらはほんのりと、しかしながら広範囲に。楚々とした印象を目指して作った肌色を小麦色に近づけ骨格を強調したものに切り替える。
 額と鼻筋、顎先に白の色粉を加える。その部分だけ高く見せて骨格を強調する効果がある。
 そして最後に。
「セレネスティ女王陛下」
 ダイは梟から離れてセレネスティの前に片膝を突いた。
「申し訳ございません。陛下の紗をお借りしても?」
 セレネスティは結った髪の上に夜を思わせる濃紺の金紗を被せている。
 確か彼女はダイたちが到着した初日も、それと似た質感の薄絹で頭を覆っていた。
 セレネスティは貸与を請うダイの手を忌々しげに見た。
「陛下」
「いい、宰相」
 口を開くディトラウトを制止して、セレネスティは頭の金紗を掴み取る。その挙動は乱暴ながらもどこか優雅だった。
「ありがとうございます」
 ダイは薄絹を提げ持って引き下がった。広げたそれを梟の頭に勢いよく被せる。
 濃紺の透かし織りが梟の貌を縁取る。糸と糸の隙間に覗く灰かぶりの髪を眩い銀に変える。そして彼の身に着ける夜色の衣服と同化し、男性ならではの幅広い肩の線を綺麗に消した。
 上向かせた梟に頬を寄せ、ダイは皆に宣言する。
「完成です」
 時間も、申し分ない。
 ――……観客たちは固唾を呑んだまま石膏のように固まっている。
 ダイは梟の手を引いた。導かれるまま立ち上がった彼は周囲の反応に眉をひそめる。そのわずかな動きすら、悩ましげな媚態に見えた。
「ふ……はは」
 最初にセレネスティが静寂を揺らした。彼女は扇で口元を隠すことすらせずに哄笑を上げる。ようやっと笑いを収めたとき、彼女は眦に涙を浮かべていた。
「あぁ……失礼いたしました。いえ、感動いたしましたのよ。本当に、女性に見えるのですもの」
 目尻を指で拭いながら、セレネスティは弁解した。
「女官たちの化粧と一緒にしてはいけませんわね。誠によい腕ですこと。……ダイ、といいましたね。ご苦労でした。そして感謝いたします。許可くださった、マリアージュ様にも」
「こちらこそ」
 マリアージュがセレネスティに応じる。
「セレネスティ様を楽しませることができたようで光栄ですわ」
「いやぁそれにしてもすごいですねぇ!」
 ファビアンが席から腰を上げて、覗き込むように梟を見つめた。
「ほんっとに女性に見えますね。もっとごつごつした女装が出来上がると思っていたんですが」
 皆が首を縦に振って、彼の意見を肯定する。興奮したような囁きが波紋のように広がり、会場内にはいつしか拍手の渦が生まれていた。
「――……さて」
 ぱちり、と。
 ペルフィリアの女王が扇を閉じるその音で人々に我を取り戻させる。立ちあがった彼女は一同を悠然と見回した。
「とても名残惜しいですが、楽しい時間とは終わるもの。そろそろ散会いたしましょう。マリアージュ様とダイ師範は迎賓館へお戻りください。……バルニエ外務官、別室にお茶の用意を整えさせますので、どうかそちらでおくつろぎくださいな。我が兄、イェルニ公がお相手を務めます」
 ドッペルガムへの義理は果たした。茶番はここまでだと、セレネスティはファビアンへ主張したいらしい。
 ファビアンが視線を寄越し、ダイは小さく頷き返した。
「お心遣い誠に有難うございます、陛下」
 ファビアンは胸に手を当ててセレネスティに向けて一礼した。
「ですがそれには及びません。これ以上、ご多忙な皆様のお時間を割いてはならぬでしょう。帰途に付きたいと思います――……デルリゲイリアの、皆様と共に」
 ペルフィリアの者たちがその発言の意図を探る視線をファビアンへ一斉に投げかける。
「……どういうことかしら?」
 一足早く硬直から抜け出したセレネスティが一分の隙もない微笑で小首をかしげる。しかしその目は剣呑だった。
 ファビアンは素知らぬ顔で朗らかに言った。
「あぁ、決して他意はございません。お気を悪くなさらないでください。もちろんセレネスティ女王陛下を初め、ペルフィリアの皆様には厚遇していただいたと、我が主君へは重々伝えるつもり――」
「そのような意味ではありません」
 セレネスティはファビアンの口上を鋭く断じた。
「……デルリゲイリアの方々と、今、お帰りになられると? バルニエ外務官」
「はい」
 ファビアンは大きく頷いた。
「デルリゲイリアの皆様もまた今日の午後お帰りになる予定であると、ダイ師範からお伺いしております」
 ダイにセレネスティからの視線が突き刺さる。
 彼女に先んじてダイは口を開いた。
「最後にご挨拶ができ、さらにはこのような場まで設けていただいて、光栄の極みにございました。……ユマ! 皆の帰宅の準備は済んでいますか?」
「え……あ」
「済んでいるわ」
 困惑するユマに代わって、マリアージュが前に進み出る。
「あとは馬車の支度だけ」
「……馬の用意を整えるにはしばらくかかりますわ、マリアージュ様」
「あらセレネスティ様、すぐに終わりますわ。お借りしている方々をお返しいたしましょう。彼らに支度を急がせればよろしいのです。簡単でしょう? 陛下の従僕たちは優秀ですもの」
 二人の女王は薄い笑みを浮かべて向き合った。
 マリアージュが話を合わせてくれたことはありがたい。しかしダイは焦れていた。そろそろのはずだが、報せがこない。ファビアンも明るく取り繕ってはいるが、内心では冷や汗をかいているだろう。
「やはり今しばらく私の相手をしてはいただけませんか? 外務官」
 ファビアンに歩み寄るディトラウトもまたにこやかな笑顔だった。
「かねがねドッペルガムのお話を伺いたいと思っていたのです」
「それはなにも閣下だけではございません」
 会話に割って入りながら、ダイは二人と距離を詰めた。
「わたくしめも同様でございます。おそらくここにいる皆がバルニエ外務官のお話を伺いたいとお思いでしょう。いかがでしょうか。……外務官のお話を皆で聞きながら、馬車の準備を待つというのは?」
「ですが貴女がたにはご自身の支度があるのではないですか? 師範。迎賓館に一度、お戻りになられては?」
「我が君は帰り支度は既に全て終えていると仰せになりましたよ、閣下。馬丁を急がせた方が良いと思いますが?」
 ディトラウトがダイを見据える。ダイも彼を仰ぎ見た。
「さて……急がせなければ、どうなるのですか?」
 何をたくらんでいる、と、ディトラウトが言葉の裏で糾問する。
 報せは、まだ、訪れない。
 ダイは唾を嚥下した。
「急がなければ――……」
 ダイが口を開きかけたとき、扉の一枚が勢いよく開いた。従僕の利用する小さな扉だ。だが神経を尖らせていた者たちにとって、その開閉音はやけに大きく響いて聞こえた。皆が一斉に新たな来訪者を振り返って迎える。
 驚いたらしい官は一瞬立ち止まったものの、すぐに平静を取り戻して宰相の下を訪れた。
 耳打ちされたディトラウトが顔色を変える。
 彼は報告を終えた官を下がらせてダイを見た。
「――……民をお待たせすることになるかと、存じます」
 先ほどの続きを述べて、ダイは彼に微笑んだ。
「宰相」
 セレネスティがディトラウトを呼ばわった。
「何があった?」
 彼は首を横に振る。
「陛下、ここでは」
「言いなさい」
「ですが」
「いいから、言え」
 躊躇を滲ませながら、ディトラウトは述べる。
「民衆が城の前に……いえ、大通りに集っているようです、陛下」
「民衆が?」
 セレネスティの柳眉が大きく歪んだ。
「何のために?」
 ディトラウトが答える。その目をダイに向けたまま。
「帰国されるマリアージュ女王、並びにデルリゲイリアの方々を……見送るために」


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