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第六章 交錯する政客 2


 先日も対峙したあの渡り廊下に、今日になってヘルムートが現れた。たったひとりで。
 一通の口上書を置いて引き返した彼は、渡り廊下と本館を隔てる扉の前で、マリアージュの返答を待っている。
 その姿を窓越しに一瞥し、マリアージュは尋ねた。
「どういうことだと思う?」
 読み終わった手紙をロディマスに手渡す。その白い紙面に視線を走らせた彼は、不可解だと言わんばかりの顔をした。
「……君に本館へ来い、だけだったら、ふざけるな、で終わるんだけどなぁ。……ダイの化粧鞄を持ってこい、か」
「鞄持ちとして女官一名のみ随行を許す。それ以上は敵意ありと見做す。……どの口がそんなことを」
 露骨に顔を歪めたアッセが毒づいた。
「なりません。これは罠です」
「……アルヴィー。あんたはどう思う?」
 遠巻きにこちらを眺める魔術師を、マリアージュは振り返って尋ねた。アルヴィナは思案した後に、間延びした声で応じる。
「そうですねぇ。引き籠っていることに飽きているなら、行ってみても損はないかと思います」
「アルヴィナ」
「だってこのままここにいるわけにはいかないわ。違って? 騎士団長様」
 水と食糧はまもなく尽きる。官たちの疲労も限界だ。
「……ダイは城の外に出たんだったわね?」
 マリアージュはアルヴィナに問うた。ダイが王城の外に出たと知れたのは昨日の昼過ぎだ。アルヴィナはダイに魔術で目印を付けている。追跡を阻む〈トリエステ〉の結界からダイが出たため、気配を感じられるようになったらしい。
 初めこそセレネスティがダイを外へ移したのかと勘繰った。だが取引の返答を貰うはずだった昨日、彼女から音沙汰なかった事に加え、本館が騒がしかったことを考えると、ダイは自力で逃げた可能性が高い。
「はい」
 マリアージュに首肯した後、ですが、とアルヴィナは注釈を付けた。
「今、ダイはここにいます」
 意表を突かれてマリアージュは瞬いた。
「ここって……城に?」
「はい。城に入ってからの気配はわからないですけれど」
「それは本当なのか?」
 アッセの質問にアルヴィナは頷いた。
「えぇ」
 マリアージュはロディマスから返却された手紙をじっと見つめた。こちらを馬鹿にしているとしか思えない内容だ。アッセが指摘する通り、罠にしか見えない。
だが。
(あの子が何かしたのかもしれないわ)
 城に戻ったというのなら、そうであっても不思議ではない。ダイにマリアージュたちを見捨てるような真似はできないからだ。
「……アルヴィナ、背格好の同じ女官から服を借りてきなさい」
「……私がここを離れますと、迎賓館と捕虜たちに掛けた術が解けますが」
「そうなの?」
「それでもかまわないとおっしゃるのでしたら喜んでお供いたしますよ?」
 マリアージュはアルヴィナに頭を振った。万が一に備えて捕虜は押さえておきたいし、迎賓館の結界は保っていてもらわねば困る。
「ユマ、あんたが付いてきなさい」
 扉の傍で控えていた女官が、目を剥いて自らを指差した。
「えっ、わたし、ですか!?」
 ダイの友人でもある彼女は、女官たちの中で一番胆力がある。本館で何かが起こったとしても、取り乱すことは少ないだろう。
「陛下、私も」
「アッセ、付いてこられるのは女官一人って書いてあるでしょう。あんたは皆の面倒を見て。……ロディマス」
「はい、陛下」
「皆の様子はどうなの?」
「変わりなく」
 ロディマスは即答した。
「有事の時の行動を確認するよう徹底しているよ」
 携帯する荷の内容、指揮系統、散り散りになってしまった時どうすべきか。
 そういった諸々を。
「私のいなくなった後を任せるわ。いいわね? ロディマス」
「……御意に、陛下」
 礼を取る宰相へ満足の印として頷く。
 そしてマリアージュは裾を裁き、支度をするために立ち上がった。


 結局、セレネスティは化粧師の要請を許可した。つまり、化粧を余興として行うことを承諾した。
 しかもその場にはマリアージュを呼ぶ。無論、ドッペルガムの外務官もそこに同席する。
 今頃、官たちが慌ただしく会場を整えている頃だろう。
 女王の執務室に足を踏み入れ、ディトラウトは疑問を口にした。
「何故、許可を出したのですか? セレネスティ」
 主君は書類を裁く手を止めて、ディトラウトを訝しげに仰ぐ。
「ドッペルガムの官に叛意を持たれるのも面倒だなって思い直したからだよ」
 〈深淵の翠〉は大陸屈指の招力石産出国として台頭している。その流通を小国ながら管理し始めていた。魔術の代替品として招力石の需要が伸びている今、かの国の機嫌を損なうことはあまりよろしくない。北大陸からの輸入量には限界があるからだ。
「兄上は反対?」
「いえ。理由を伺いたかっただけです」
 セレネスティは最後の一枚に署名して、筆記具を真鍮の皿の上に放り投げた。
「化粧師とマリアージュを再会させたところで大した問題は起こらないと思うよ。あの外務官も化粧師と一緒に登城したからには、マリアージュの状況を承知しているんだろう。なのに知らないふりをしているんだ。マリアージュが広間で騒いだところで、バルニエ外務官はきっとすべてを黙殺する。マリアージュが化粧師と二人で逃げるっていう可能性もないね。迎賓館に仲間を残していけるような非情じゃないよ」
 そしてそれは褒められたものとは限らない。
 為政者は情を切り捨てることも決断の上で必要だからだ。
「余興が終わればバルニエ外務官、一人を帰す。要求は全て呑んだんだ。これ以上文句は言えまい?」
「かしこまりました」
 ディトラウトは一礼して踵を返した。セレネスティに先駆けて会場に戻り、様子を確認しなくてはならない。
「……あとね、気になったんだ」
 落とすように呟くセレネスティをディトラウトは振り返った。
「何がですか?」
「……兄上が惜しんでいた化粧師の腕」
 なにゆえ予定よりも早く、化粧師の下を訪れたのか。
 セレネスティが問い質してくることはなかった。
 しかしその自分と同じ色の瞳からは不思議がっていることが窺えた。
「……負担を……軽くすることはできるだろうとは思っていました」
 誰の、負担を。
 浮かんだ問いを打消し、主君に頭を垂れる。
「それでは、また後ほど」
 セレネスティが頷くまで待って、ディトラウトは静かに退室した。


「さっきはすみませんでした」
 危うい橋を渡って。
 ダイの謝罪の意図をファビアンは正確に読み取った。苦笑いを浮かべている。
「うん。ダイが見かけに反して過激だってよくわかった」
「……本当にすみません」
「大丈夫。結果として女王陛下には折れてもらえたわけだから」
 化粧を演じるために用意された室内では、女官たちが忙しなく準備に勤しんでいる。
 謁見の間からほど近い広間だ。壁に穿たれた大きな窓からは柔らかな光がふんだんに降り注ぐ。化粧にはうってつけの明るさだ。
「化粧を余興ですることってよくあるの?」
 ファビアンの問いにダイは頭を振った。
「正直言うと全然……」
 化粧師が職を希望する娼館の主人に腕を披露することはたまさかある。
 しかし養母の営む館で修行をし、そのまま勤めていたダイには、まったく経験のないことだった。
 だが、どうにかするしかない。
 化粧をされる者が座る椅子。道具を並べるための長机。手ぬぐい、盥、水。ダイの指定した全てのものが部屋に揃い、仕事を終えた女官たちが潮のように引き上げた。その彼女たちと入れ替わりに、よく知った顔が姿を見せる。
 椅子から立ち上がって、ダイは思わず息を詰めた。
「マ……」
(マリアージュさま)
 ヘルムートを筆頭とした騎士たちに取り囲まれながらマリアージュが入室した。国から持ち込んだ衣装の中で、最も簡素で動きやすいものを身に着け、国章の縫い取られた外衣を羽織っている。髪は編み込んで頭の高い位置でまとめられ、鈍く光を照り返す耳飾りの柘榴石がよく見えた。
 健康を害している様子はないもののひどく疲れて見える。肌に艶がない。それでも瞳は燃えるように輝いて、周囲を威嚇するかのようだった。
 離れていたのはほんの数日の間だ。
 けれどもう何年も顔を見ていないように思える。
「ダイ!」
 マリアージュの後ろから姿を見せた女官が飛び跳ねながら叫ぶ。その意外な顔にダイは目を剥いた。
「ユ、ユマ!?」
 ユマはダイの化粧鞄を抱えている。マリアージュの付き添いはどうやら彼女ひとりのようだ。
 ダイはマリアージュたちに早足で歩み寄った。ファビアンも後を付いてくる。
 ようやっと主君の前に立ち、ダイは感慨深く唇を震わせ――……。
「マリアージュさ、まっ!?」
 ばちん、と小気味よい音がした。
 マリアージュが叩いたダイの両頬を挟んだまま首を傾げる。
「生きているのね」
 ダイは嘆息した。
「えぇ、おかげさまで」
 再会の感動などあったものではない。
 ただ、マリアージュは騒ぎ立てなかった。周囲をざっと見回してファビアンに目を止め、彼女は不審そうに眉間に皺を刻んだ。
「お初にお目通り賜ります」
 ファビアンが慌ててダイの前に滑り出る。
「私はファビアン・バルニエと申します。ドッペルガムの外務官の任に就くものです。……このようにお会いでき、喜びに打ち震える思いです、マリアージュ女王陛下」
 マリアージュは手を差し出して、口づけられるのを待ちながら、ファビアンを観察し始める。
「……こちらこそ光栄だわ。……貴方、ダイと同じなのね」
 ダイと同じ――国章を賜った、女王の側近。
 肯定する代わりに、ファビアンは笑った。
「貴女の近習でいらっしゃる化粧師の方に、宿でお会いできたのは僥倖でした! 不謹慎かもしれませんが、体調を崩されていたことに感謝したい。……お陰でこのように、陛下に拝謁叶ったのですから」
 マリアージュが無言のままダイを見下ろす。探るようなその目にダイは頷き返した。
「御身が惚れ込んだというダイの化粧、僕の知る化粧と一体どのように異なるのか、拝見できるのか楽しみでなりません。デルリゲイリアとペルフィリア、二国の友好を確かめる場に居合わせることができ、私としては大変恐悦至極でございます」
 ダイが遅れて登城した理由は床に伏していたから。デルリゲイリアとペルフィリアは親しい関係を築こうとしている。そのための一環として、ダイは今から化粧をする。
 ペルフィリアがマリアージュたちにおこなった仕打ちについて、何も触れるな。
 マリアージュは決して愚かではない。ファビアンの短い会話からすべてを汲み取ったようだった。
 マリアージュがファビアンから手を引き、了解の証としてゆったりと顎を引く。
「……私も貴方とお会いできたこと、主神に感謝いたしましょう」
 ユマを振り返った彼女は、鞄を渡すよう顎で促した。化粧道具を受け取りざま、ダイは二人に素早く囁く。
「帰りましょう。皆、一緒に」
 信じていてください。
 ユマがはっとダイを見る。戦慄く彼女をマリアージュはダイを見据えたまま手を上げて制した。
 無駄話はそこまでだとヘルムートがマリアージュたちとの間に割って入る。
 ダイは鞄の革が手に馴染む感触を覚えながらファビアンと連れだって元の場所へと戻った。
 部屋の奥では長方形の作業台が出番を待っている。
 淡水色の敷布に覆われたその上に、化粧のための品々を並べ置く。薔薇水、乳液、蜜、下地剤、様々な種類の練粉、色粉。液体に近いものは瓶を明かりに透かして、中身が変色していないか確認し、中身を少し手に垂らしてなめてみたりもした。入れ物自体には〈保持〉の魔術が施されているが、念のためだ。
 ダイが準備を終えたとき、ディトラウトが姿を見せた。マリアージュに対して恭しく一礼するに留め、彼は会場の責任者らしき官と確認作業を進め始める。
「ごきげんいかがかしら、マリアージュ様?」
 まもなくセレネスティも梟を伴って現れた。席を立って迎えたマリアージュは微笑を浮かべて応対する。
「えぇ、悪くはなくてよ、セレネスティ様」
「貴女の化粧師の方にお礼を申し上げますわ。きっと楽しい座興となるでしょう」
「えぇ……きっと」
 二人は視線を交わし、別れた。
「化粧師の御方には、彼へ化粧を施していただきましょう」
 ダイに歩み寄ったセレネスティが影のように寄り添う青年を目で示す。彼はダイとの距離を一歩詰めて頭を垂れた。
 ダイは改めて青年を観察した。
 物静かで目立たぬものの、青年の顔にはディトラウトのとはまた違った端麗さがある。
「彼に化粧を……?」
「ただご令嬢にお化粧をしていただくだけでは面白みがないでしょう? それとも、ご無理かしら?」
「……いいえ」
 ダイはセレネスティを見返した。
「大丈夫です」
 女王は冷笑を浮かべ、音高く扇を閉じる。
「道具の確認を」
 その呼びかけにディトラウトが動いた。ファビアンも彼に誘われて作業台の前に立つ。不審なものがないかを確認するためらしい。とはいえダイの用いる道具を彼らが理解しているとは言いがたいが。
 ファビアンは一品ずつじっくりと観察している。眼鏡の奥で瞳が好奇心に輝いている。目新しい道具を手にした子供のようだった。
 一方のディトラウトは無表情のまま検分に徹していた。手元危ういファビアンと異なり、彼の道具の扱いは丁寧だった。瓶の取り扱い、色粉への触れ方。筆は毛先を丁寧に揃えてから然るべき場所に置いている。
 いつだったか話した道具の説明を覚えているのだろう。
 何も問題がないことを、確認した両名が宣誓する。梟が席に戻る二人とすれ違って演壇の中央の椅子に座した。青年の纏う衣装は、足元へ向けて滑らかな線を描く、中性的な外形をしている。裾に鷲が縫い取られているものの、闇夜を思わせる光沢ある濃紺の衣装は、白を身に着ける側近たちの中で明らかに異質だった。
「たのしみだわ」
 セレネスティが囁いた。
「……ですが私もつまらない余興に付き合うつもりはありません。時間を割く価値がないと判断したときは……」
 途中で、打ち切る。
 ダイは瞑目した。
 ファビアンはまだここにいる。マリアージュとも再会を果たした。彼女やユマの様子から、他の皆も無事だろう。
 条件は満たした。
『いいか? ダイ』
 ――……かならず、持ち堪えろ。
 約束の時間まで、あと半刻と少し。
 単純に化粧をするだけなら四半刻もいらない。会話を挟んでも要する時間はさほど変わらぬ。
 皆を楽しませ、且つ、時間を稼がねば。
 ファビアンにも告白した通り、詩歌や舞踏、弦楽といった芸事のように、皆を楽しませる目的で化粧を披露したことはない。
 救いは男の顔に化粧を施した経験が少なからずあることだろうか。
 粉避けの布を手に取って、ダイは梟の顔を見下ろす。
 鋼を思わせる灰色の髪に、蝋の如き滑らかな肌。血の気のない頬。色素も厚みも薄い唇。
 淡い、緑灰色の双眸。
 生身の人とは思えぬほど、その全てには温度がない。
 ダイは彼の手の温度もまたとても冷えたものであったことを思い出した。
 そう、あの、ダイを攫うために、ユマの姿に魔術で扮した――……。
 布を握り締める手が、ぎくりと止まった。
 背筋に冷たいものが伝い降りていく。
(そうだった)
 この青年は魔術師なのだ。彼は望む姿を〈上塗り〉することができる。
 部位を顔に限定して化粧の仕上がりを誤魔化すことも、おそらく。
 ダイは呼吸を整えた。
 集まった一同を見渡して宣言する。
「それでは、始めます」
 布を、勢いよく広げた。


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