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第四章 決裂する為政者 2


「どういう」
「こちら側に来なさい」
 ディトラウトは一変して表情を険しくした。
「こちら側に来なさい、ディアナ。昨日のことでわかったでしょう。私たちには目的の完遂のためならば手段を選ばない。貴女はこのままでは殺されることになる」
「……昨日のことは……芝居、だった?」
 ダイに死の恐怖というものを、わからせるための。
 あれだけ真に迫っていたというのに――!
「貴女は私の言葉にひとつ頷いて見せるだけでいい。そうすれば貴女は生き残る。私が貴方を生かす」
「なに、を」
「ディアナ」
 その呼びかけは、魔術の呪に似ている。
 男が耳に心地よい声でダイの真名を囁くたび、心の臓を強く握られたかのような錯覚を覚える。泣きたくなる。窒息しそうになる。悲しみで。あるいは、まだ心の奥底に凝っている恋情で。
 ダイは膝を折るまいと、もう左の手で格子を握りしめた。利き手はディトラウトに囚われたままだった。
「なんの、ために」
 感情に飲み込まれかける理性をどうにか保ち、ダイは男に向けて必死に言葉を絞り出した。
「何のために私を欲しがるんですか? 私は単なる化粧師です。ディトラウト、貴方に益のある人間とは思えない。そんな人間を引き入れてどうします?」
「どうもしませんよ。貴女は何もしなくていい。私の傍にいるだけでいい」
 ディトラウトがダイの手を強く握りしめる。
「私が貴方を欲しがる理由? そんなものは一つだけだ」
 彼は凪いだ瞳で囁いた。
「……――愛しているからだ」
 貴女を、と。
 一音一音に、哀切を滲ませて。
 ダイは面を上げて男を見た。彼の瞳の蒼は、ただ静かだった。けれど熱情が昏く灯されていた。そのかがやきを見つめ、幾度も幾度も男の言葉を胸中で反芻し、ようやっとその意味を理解して、ダイは泣き笑いに顔をゆがませた。
「…………えぇ?」
「後悔している」
 ディトラウトは告白した。
「あの時、どうして、貴女にマリアージュを選ぶことを許したのか。そのまま捨て置いたのか。……わたしは、あなたを、やはりこちらに連れ帰るべきだった」
「嘘」
「嘘ではない」
 いつだったかのやり取りを繰り返す。
 ダイは男を見上げてゆるりと首を横に振った。
「いいえ、嘘です。貴方は、明確な理由がなければ、事を起こしたりしない。愛だとかそんな曖昧な感情で動いたりしない。情なんかで、動かない。それに……」
 ダイは格子に額を押し当てて呻いた。
「私たちに情をかけたことなんて一度もないって、貴方は言った」
「あの時それを否定したのは他でもない貴女だ」
 ディトラウトがダイの手首の内側に口づける。布越しの感触に驚いてダイは顔を上げた。視線の先ではディトラウトが嗤いに目を細めている。
「曖昧な感情で口づけたりなどしませんよ」
 深く、と言われ、彼の甘い舌の感触を思いだし、体中の血液が沸騰しかける。
 ディトラウトがダイの手首から唇の位置をずらす。彼の乾いた唇がてのひらに触れる。柔い肉を、食んでいく。
「ディト、ラウト」
 制止の意味を込めて、ダイは男を呼んだ。しかし彼はかわらずダイの手を探り続ける。てのひらの皺の一本一本、肉の厚み、指や爪のかたちまで。
「ディトラウト、やめてください」
 男の舌が少女の手の輪郭を辿る。くちびるがそのすべてを愛撫する。
 男のひやりとした手。それに反して熱い吐息。
「やめて」
 喉から絞り出した声は震えていた。
 ダイは花街の生まれだ。男女の色事があわれもなく眼前で繰り広げられる場所で育った。だから、たとえばディトラウトがこの扉を開き、彼の唇が腕を伝って衣服を暴き、余すことなくその下に触れていく様を、生々しく想像することができた。
 ディアナが震える。
 官能に。
 そして、歓喜に。
「やめて」
 ダイは繰り返した。
「やめて……やめて。おねがいです。やめてください。やめて――……ヒース!」
 ぴたりと。
 ディトラウトの動きが止まる。
 彼はダイの手から唇を離し、正面に向き直った。その姿は白くかすんでいた。目に膜が張っている。涙。頬を伝い、口内に入ったそれがひどく苦い。
 しゃくりあげ始めたダイの頬に、ディトラウトの手が触れる。
「貴女を死なせたくない」
 微かに薬の匂いのする男の手からダイは顔を退けた。こちらを気遣う彼の表情に嗤いがこみ上げる。
「私だけですか? マリアージュ様は? 私よりもうんと長くあのひとの傍にいたくせに。一片の情もないんですか? それなのにたった半年だけしか一緒にいなかった私は、愛しているから……助けたいって? 誰が信じるんですかそんなこと!!」
「ディアナ」
「呼ばないでください!」
 力の限り叫び、ダイは息を吐いた。
「貴方が私を本当に愛してくれていたとしましょう。でも私は貴方が嫌いです。貴方がここにいるかもしれないとわかって、マリアージュ様が貴方の所在を確かめたいとおっしゃるから付いてきた。私は貴方になんて会いたくなかった! 会いたくなんてなかった!! 二度と会いたくなかった!!!」
 うそつき、と。
 ディアナが言った。
 男がここにいることに、こんなにも悦び震えている。今すぐ骨が軋むような強さで抱き寄せて欲しいと思っている。その首に腕を回して髪を掻き乱したいと思っている。
 たった半年で恋に落ちたのは自分の方だ。愛していると告げられて、嬉しさに泣き出すほどに愛おしい。
『ヒースに会いたい?』
 マリアージュの問いに、ダイはわからないと答えた。本当にわからなかった。
 わからないように耳を塞いでいた。
 真実は少し心の奥に耳を傾ければすぐにわかる。
 あいたかった。
 ずっとあいたかった。あぁ、あいたかった。あいたくてあいたくて、夢に見た。夜に雨が降る都度、呼び覚まされる決別の記憶が辛くて泣いた。彼の甘い声を渇望していた。
 厭うための理由など、本当はどうでもよかった。そんなもの見つけられないほうがうんとよかった。
 男がこいしくてこいしくて、いとおしくて。
 気が、狂いそうだっただけなのだ――……。
 ディトラウトの右手がダイの頬を追う。ダイは首を振って撥ね退けた。しかしなおもしつこくその指先が。
 彼のその手を押さえて、想いすべてをねじ伏せて、ダイは宣言した。
「私が貴方に組することはありません、ディトラウト。拘束なりなんなりすればいい。けれど私から首を縦に振ったりはしない。私はマリアージュ様を裏切りません。決して」
 ディトラウトの右手から力が抜け、ダイは何気なく視線を落とした。ダイの手当をするために、彼は手袋を脱いでいる。その手の甲から袖口へと走る筋が目に入り、ダイは知れず下唇を噛みしめていた。
 引き攣った、細い傷痕。かつて彼がダイを守って負ったそれ。
 また、泣きたくなる。
「ディアナ」
 ダイは顔を上げた。
 ディトラウトがダイの手首の内側にもう一度口づける。そしてその手に金属の器を握らせた。
 解放された手を引き戻す。てのひらの中に収まっている器は、親指の先ほどの小さなものだった。
「定期的に塗り直しなさい。治りが早くなります。……手首が傷んだままというのは貴女も困るでしょう?」
 ダイは俯いて器を見つめた。彼の言葉はまったく正しい。けれど素直に頷くことは躊躇われた。
「もう一度だけ来ます」
 男の気配が遠退き、ダイは面を上げた。
「先ほどの件、考えておいてください」
「ヒース」
 扉から退いたディトラウトが眉間に深く皺を刻む。
 ここにきて彼が初めてみせた、こわばった表情だった。
「そんな男はもういない」
 彼は言った。
「とうの昔に――……墓の下だ」
 掠れた声で囁くその顔は、かつて彼自身がダイの首に手を掛けたときと同じように、泣き笑いに歪んでいた。


 見れば見るほどセレネスティは麗しい顔立ちをしている。
 彼女の兄と同じ涼しげな目元に、長い睫が扇状に影を落としている。彼女の頭から背までを覆う薄布は露草色。その輪郭を柔らかく見せる絹綾ものの端には、銀糸で花の透かし模様が縫い取られていた。薄布の縁(ふち)はさらに蒼玉の鈴で飾られている。しゃらり、しゃらり。玉同士の擦れ合う音がセレネスティの一挙一動に、舞姫の如き優美さを添えていた。
 並んで初めてわかるが、彼女は決して小柄ではない。それでもセレネスティはどことなく儚げで、華奢な印象を他者に抱かせる。
「どうかなさいまして? マリアージュ様」
 視線に気づいたセレネスティが訝しげに首を傾げた。
「いいえ、なにも」
 マリアージュは愛想笑いを張り付け、籐の椅子の上で身体の位置を調節した。
 王城の東棟に位置する貴賓室。侍女たちが茶器に紅茶を注いでいる。窓を大きくとった室内は解放感溢れ、風が卓上に並ぶ菓子類の甘い香りを鼻先に運んだ。
 セレネスティと共に朝食をとり、街を見学していたマリアージュは、いましがた帰城して休憩に腰を落ち着けたところだった。
 円卓を挟んで腰掛けるセレネスティの背後には黒衣の青年とヘルムートが控えている。同様にマリアージュもロディマスとアッセを従えていた。双方の護衛の騎士たちは部屋の外で待機している。
「いい眺めだね」
「えぇ」
 ロディマスの囁きに、マリアージュは頷き返した。
 窓の向こうにはペルフィリア王都の城下町が広がっている。大橋、水門、大聖堂――マリアージュは訪ねた場所をひとつひとつ視認した。ほとんど馬車で乗り付けるだけに留まったもののとても興味深く、特に港はデルリゲイリアには存在しない施設だ。停泊する無補給船を生まれて初めて目にしたときは興奮した――まったく、肝心なときにダイは不在だ。彼女もはしゃいだだろうに。
「素敵な街並みですわね、セレネスティ様」
「お褒めいただき光栄ですわ」
「この街は聖堂を中心にして作られているのかしら?」
 賞賛を受けて微笑むセレネスティに、マリアージュは問いかけた。
 建物の配置がきちんと統制されているという感想は、王都に足を踏み入れたときから持っている。俯瞰するとその様子をよりはっきり見て取れた。祖国の城下における祈りの場とは、利便性に富む位置に点在する礼拝堂である。対してペルフィリア王都では市街の中心に大聖堂が据えられていた。小さな城にも匹敵する規模のその場所から、ペルフィリアの主だった通りは放射状にのびている。
「教会を中心とした小さな町が、ペルフィリアの起源です」
 セレネスティは解説した。
「他大陸から商人たちが入り栄え始めた頃に、メイゼンブルが――当時はスカーレットでしたが――領主を置いたのですよ。景観も美しく、貴族もよく立ち寄った」
「存じています。かつては遊覧の街であったと」
「えぇ……私たちのいるこの街が、ペルフィリアのすべての始まりです」
 薄い笑みを口の端に浮かべ、彼女は解説を続ける。
「スカーレットがこの街に領主を置いた頃、道らしい道はスカーレットに繋がる一本のみでした。この街の近隣を除く土地の大半が泥炭地であるためです。技術がなければ緩い地盤の上に街道を敷くことができません。結果として当時の村々は、それぞれ孤立した状態にありました。――それらを結びつけた存在が、スカーレットから遣わされた執政官たち」
 彼らは自国の技術を駆使して道を敷き、ペルフィリア中を旅してまわった。辿り着いた先では農民たちの教育に腐心した。それらは決して慈善事業からではない。農耕の技術を向上させて、作物の収穫高を上げんとする、領主の思惑があってのことだ。
 遊覧の都に集う人々の腹を満たすためには、他大陸からもたらされる珍しい果物や茶葉ではもちろん足りない。肉や麦の安定した供給地を近隣に必要としていた。
「……そして、聖女シンシアに仕える教師たちです」
 シンシアは魔の公国スカーレット――後におけるメイゼンブルの聖母とも呼ばれている。主神と並ぶ信仰の対象である。宣教師たちは聖女を祀る礼拝堂を各地に建て、聖女への信仰と魔の公国の威光を確かなものにしていった。知識とは力であり権威である。それをどんな形であれ分け与えたスカーレットを、そしてその母たる聖女を、素朴な農民たちは素直に崇めた。
 ペルフィリアを訪ねる前に、マリアージュも学んだ歴史である。
「ペルフィリアの民にとって聖女は深いよりどころなのですね」
 自国の礼拝堂にも聖女はいる。祈りの際には主神と聖女を並べて口にする。
 デルリゲイリアでも聖女は、確かに信仰されているのだ。しかしそのあり方はペルフィリアのものと異なっているように思えた。
 色付いた玻璃から差す光を一身に受け、慈愛の微笑を湛える聖女の像。それをこの国の大聖堂で目にしたときマリアージュは違和感を覚えた。自国における聖女はもっと気安い存在に思っていた。国境をひとつ隔てただけで、こうも違うのかと驚嘆した。
「私の前の代の王が出産に際し崩御され、内紛によって国が荒れたとき、民人の心を支えたのも聖女でした。――……いつか聖女が救いの手を差し伸べてくださる、と」
 古き古き時代。まだスカーレットが影も形も成していなかったころ。
 人々は戦に明け暮れていた。その最中で略奪を受けた彼らは、飢餓から逃れるために、今度は蹂躙する側に回る。終わりのない負の連鎖。混沌の最中にあった大陸に射した光が、後に聖女と呼ばれる娘、シンシアだった。
 彼女は魔女だったという。その人の身に余る魔で彼女は民人の傷や病を癒してまわった――その時と同じように、今度は主神を通じて、聖女はいつか我らを救おう。ペルフィリアの民はそう互いを励まし合ったのだ。
「辛い時代を無事に越えたことを、皆は聖女に感謝しています」
「民人は貴女にも感謝していますでしょう、セレネスティ様」
 マリアージュは言った。
「内紛の折には焼き討ちにあったというこの街の美しさを取り戻したのはセレネスティ様ではなくて? この街だけではありません。人の心を蘇らせ、ペルフィリアはいまや大陸でも名だたる国家です。……セレネスティ様が即位されてから、たったの五年で」
「もう、五年です」
 セレネスティが微笑む。
「荒む民人を宥めることは簡単でしたのよ、マリアージュ様。皆に麦粥を与える。仕事を与える。そして最後に寒さ凌ぐ家を与える。それだけでした。ただ皆は聖堂で自分たちを見守る聖女に、より深く感謝をした――……姿も知らぬ、名も知らぬ、執政官たちよりも」
 尽力したものは、彼らであっても。
 セレネスティの笑みは完璧だった。しかし言葉の端々に滲む自嘲の響きを、マリアージュは聞き逃さなかった。
「それが私の民の可愛らしさというものです。子供は親の苦労など、その立場にならねば、なにひとつわからない。そのようなものでしょう?」
 もっとも私もまた、親ならざる身ではありますが、とセレネスティは冗談めかして言った。
「私もそういった苦労を負うのね」
 女王と民の間には壁がある。女王は背負う人々の名も顔も知らない。民は女王をただ遠くに仰ぎ見る。努力しなければ互いの行き来は難しい。理解となるとまた然り。
 口を突いて出た言葉はセレネスティに向けてというより、心中が声になった独白のようなものだった。しかし彼女はそう取らなかったのか、律儀に返事をマリアージュに寄越した。
「そうでしょうね。……けれどその苦役を限りなく減らすことはできましてよ」
 マリアージュはセレネスティを見据えた。どのような、と笑顔で問うには、どこか剣呑な空気が漂っていた。
 今まで沈黙していたロディマスが主君に代わって会話を繋ぐ。
「賢君と名高いセレネスティ女王に助言いただければ、我が国としても大変励みとなります」
 セレネスティが薄く笑う。嘲りを押し殺すためだけに吊り上げられた薄い唇を眺めながら、彼女は本当に兄に似ているのだとマリアージュは思った。
「助言ではなく、提案がありますの、テディウス公」
 いつの間にか、窓が閉じられている。
 部屋に差し込む西日は、いっそう眩いものとなっていた。濃さを増した陰との境が、絨毯に鋭く刻まれている。
 セレネスティが軽く片手を挙げた。
 それを合図に彼女の前へ進み出た梟が、どこからか取り出した紙を卓の上に広げる。縁を銀で箔押しした紙。角に捺印されたペルフィリアの印章。国同士で交わされる公式文書である。
 それをマリアージュに提示して、セレネスティは微笑んだ。
「此度、マリアージュ様ご自身にご足労いただいて、私は確信いたしましたのよ」
 新しい、朋友を得られると。


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