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第四章 決裂する為政者 1


 ダイは何かの拍子に迷子になって、帰ってこられなくなっただけではないのか。
 マリアージュが就寝前に抱いていた希みは呆気なく砕かれる。身支度を手伝うために現れた女官たちの中にダイの姿はなかった。
 マリアージュは黙ったまま衣服を改めた。女官たちもまた、マリアージュの髪を結い、肌に白粉を叩く間、必要以上のことは一言も口にしなかった。
「おはよう、マリアージュ」
 支度の終わる頃合いを計って現れたロディマスは、女官たちに退室を促して朗らかに言った。
「多少は眠れた?」
「えぇ。多少は。そっちはきちんと寝たの? ひどい顔よ」
 マリアージュは宰相の顔色の悪さを非難した。あまりにひどい。それをきちんと整えられた衣装がさらに際立たせている。ペルフィリアの官たちにこれから売りに行く顔とは到底思えない。
「ダイがいればもうちょっと見られた顔になるでしょうにね。あの子、肝心なときにいないわ」
「そもそもダイがちゃんとここにいれば、僕の美貌が損なわれることはなかったわけだ」
「自分で美貌とか言わないでよ気持ち悪い」
「それは失礼いたしました。……さて、そろそろ本題に入ろう」
 笑いに肩をゆらした後、ロディマスは表情を引き締めた。二人きりであることを確かめて彼は話を続ける。
「まずはダイの件だけれどね。無事に彼女は見つかったって、皆には話すよ」
「皆って……セレネスティたちに?」
「違う。デルリゲイリアからの官たちに、だ」
 詰る言葉を吐き出しかけるマリアージュを手で制し、ロディマスは瞳に苦渋の色を宿して解説する。
「さっき、皆の様子を見てきたんだ。ただでさえ緊張しているところに、ダイが行方不明になったと聞いて、誰もが恐慌状態に陥りそうだ。とても仕事ができる雰囲気じゃない」
 マーレンの事件に続いて起こった事態に、彼らは心身ともに委縮しているようだった。次は自分の身に危険が及ぶのではないかと。
「だから、昨日の件は単なる情報の行き違いだったということにする。ダイは具合が悪くなって部屋に引き返した。慣れない場所での勝手の違いに焦った侍女はダイの世話にかかりきりで連絡が遅れてしまっていた。その間にダイが行方知れずということで、大騒ぎになっていた。ダイはまだ寝室で休んでいる、というかたちに」
「ダイが戻ってきたって言ったら、あの子の顔を見たいって言い出す官もいるんじゃないの? あの子の寝室から皆をずっと閉めだしておくつもり?」
「それは問題ないよ。アルヴィナがどうにかすると言っている」
「アルヴィナが?」
「魔術を使ってね。ほら、ダイが誘拐された時に相手が使っていたっていう術……」
「姿の上塗り?」
「そう。それを使って」
 ダイが眠っているように見せかけるのだという。
 〈姿の上塗り〉を技量の要する術だと説明したアルヴィナ自身はなんなく使いこなせるらしい。ちなみに他人に掛ける場合は一人か二人が限界だそうだ。
 ダイの代役はユマが務める。犯人に勝手に姿を勝手に使われたこともあり、ダイが誘拐されてもっとも動揺している侍女である。何か役目を与えられたほうが、彼女の気は休まるに違いなかった。
「ダイをもう探さないってことなの?」
「探すよ。それをするのは騎士たちだ。彼らにはアッセから状況の説明がある。皆の警護も気を引き締め直して担当してもらわないといけないからね」
「ペルフィリア側にはどう説明するつもり?」
 ダイを見つけたとするにしても、それは内輪だけで終わる話ではない。ダイ捜索の初動でペルフィリア側には助けを要請しているのだから。
「昨日、手を貸していただいたことへの謝辞は述べる」
 それだけに留める、とロディマスは答えた。
「あとは様子を見る。相手がどのような反応をするのかね。何か目的があってダイを捕えたはずだ。相手からこちらへの働きかけは、かならずある」
「目的、ね」
 こちらを脅す材料とするためにダイを攫ったのなら反応はあるだろう。
 けれどもし“あの男”が、ダイを手に入れたがっただけだとしたら。
 マリアージュは目を伏せた。
(そのときは、私が取り返せばいいことよ)
「相手の反応を探る以外に、すべきことはまだあるよ、陛下」
 宰相の言葉に我に返り、マリアージュは面を上げた。ロディマスは二本の指を立てて見せ、そのうち一本をゆっくりと折り曲げる。
「昨日も話したけど、組まれている予定をこなすことだ。当初の目的をきちんと完遂する」
 すなわち、出逢うペルフィリア人たちそれぞれの取る立場、その立場をとる理由を把握し、彼らとできる限り、友好な関係を築いていくことだ。
 今回の訪問が無事に終わって何かしらの条約が二国間で結ばれる運びとなれば、少しでもこちら側に有益となるよう働きかけられるペルフィリア側の人材が必要だ。その発掘を怠れば、この旅は無駄なものとなる。
「常にセレネスティの周りにいる人間、招待されている人間、ひとりひとりを探っていく。逆に招待されていない者の噂にも耳を傾けていこう」
「わかったわ」
「そして、僕らがすべきもっとも重要なこと」
 ロディマスはもう一本の指を折って微笑んだ。
「生き残ろう。かならず」
 事がダイ一人で終わるとは限らない。マリアージュ自身襲われる可能性も十分にあるのだ。他の者たちに関しても同様のことがいえる。
 マリアージュは衣装の裾を握り、宰相へしかと首を縦に振った。
 叩扉の音が響き、扉が開く。女官たちがアッセ率いる騎士たちの到着を告げる。彼らは朝食会への迎えである。
 女官たちの見送りを背に、マリアージュはロディマスの腕をとって、控室を後にした。
 迎賓館は物音ひとつせず、鳥のさえずりからも隔てられている。陽にさらされ改めて顕になる、藍と白を基調とした廊下。その色彩は迎賓館の装飾を洗練されたものに見せる。しかし冷え冷えとした印象をマリアージュは抱いた。
 そう思う原因は、青が寒色だからだ。それをマリアージュに教えた人間はダイだった。マリアージュの輪郭にはあまり似合わぬ色だという。目元に用いることのほとんどない色。
『いいですか? マリアージュ様』
 化粧が終わった後のダイの口癖が耳に蘇る。
『いつものように偉そうに、胸を張っていてください。背筋を伸ばして。それだけで、女王らしく見えますし、化粧も映えるんですから』
 マリアージュは思いだし笑いに口元を緩め、立ち止まって背後を振り返った。付き従う者たちが怪訝そうにマリアージュを見返す。緊張からか、彼らの顔は一様に強張っていた。とりわけアッセは、ダイの捜索の疲れからか、表情に精彩を欠いている。
 皆の腐抜けた顔は、見るに堪えない。
 マリアージュは一同を黙って見渡した。
 ――おまえたちの主君は、ここにいる。
 気弱になる必要が、どこにある?
 皆が表情を引き締め直して背筋を正す。
 そのことを確認して、マリアージュは踵を返した。
 番兵たちが廊下を区切る扉を次々と開けていく。それらを通り過ぎるにしたがって、廊下に並ぶ兵たちが数を増した。まるで檻の中へいざなわれているかのようだった。
 最後の扉が開かれる。溢れる光の中に、ヘルムートに付き添われたセレネスティの姿がある。
 ――容易く食らわれる側には回るまい。
 マリアージュは強く、一歩を踏み出した。


 ダイを殺そうとした割には、ぞんざいに扱うつもりはないらしい。
 ダイは盆の上に載った朝食に唾を嚥下した。
 固焼きの麺麭、玉ねぎと肉の汁もの、小ぶりの林檎。量こそは多くないものの、囚人への食事としては非常に豪華だ。空腹に一晩喘いだ後のダイの目に、きらきらと輝いてみえる。
 うっかりよだれをこぼしそうになる。口元を手の甲で拭い、匙を握る前に深呼吸した。
 毒の混入を疑う警戒心は、ダイも持ち合わせている。
 食器はあいにくと木製。金属の変色による毒の判別はできない。この独房は裏町の宿よりはるかに清潔で、鼠や虫を用いた実験もできそうにない。
 腹の虫が降伏を迫る。
 ダイは溜息を吐いて、匙を手に取った。
 朝食の味は普通だった。むしろ美味だった。初めはおっかなびっくりだった食事の手も次第に勢い付いていく。気が付けば皿の上は舐めたようになっていた。
 気分がすぐれなくなることも、急激な睡魔を覚えるといったこともない。
 本当に何もない、ただの朝食だったようだ。ダイを生かしておくつもりらしい。
(どういうつもりなんだろう)
 そもそもダイを誘拐したことからして解せない。
 マーレンの話を聞きたいだけなら、こんな方法を選ばずともよかったはずだ。あの『友好条約』の交渉役としてもダイは役者不足である。
「別に私を通さなくても、マリアージュ様を直接脅せばいい話ですよねぇ」
 マリアージュが襲われるところなど想像したくもない。しかしセレネスティの立場からすると、よほど効率良さそうなのだ。
(やっぱり、私はマリアージュ様への人質?)
「でもなんとなく、すっきりしないなぁ」
「何がですか?」
「何がって……」
 返事をしかけたダイは、はた、と我に返った。血の気引きながら、扉をかえりみる。
 二人の男が鉄扉の窓からダイの様子を覗っていた。一人は見覚えのない兵士。もう一人は他でもない――……。
「ディトラウト」
 名を呼ばれたペルフィリア宰相が片眉を上げ、目で隣の兵に何事かを促した。
「膳を」
 兵が空になった食器を示唆する。ダイは重ねた食器を盆ごと給仕口に差し込んだ。兵はそれを引き取って、静かにその場を離れる。
 ディトラウトの視線が彼を追う。
 永遠にも思える、けれどわずかな沈黙。
 兵の靴音が消えて一拍のち、ディトラウトが口を開いた。
「よくあれだけ綺麗に平らげられますね」
「は?」
「食事ですよ。毒が入っているかと疑わなかったんですか?」
 男の小馬鹿にした口調に、ダイはむかっ腹を立てた。
「入っていたんですか?」
「入っていません」
 彼の声はからかいに笑っていた。
 ダイは鉄扉から一歩退き、改めて男を見上げた。その白皙の美貌が格子の縦縞を挟んで見て取れる。昨日の夜に相対したときより、彼は表情に富んだ顔をしていた。
 しかし、その心中は計り知れない。
「何しに来たんですか?」
「つれませんね」
「そういわれるだけの自覚は?」
「ありますよ。無論」
 ややおいて、ディトラウトは座ってください、とダイに言った。
 逡巡するダイに、彼は言葉を重ねる。
「座れ」
 ダイは大人しくその場に腰を落とした。
 また来るのでは、と予感はしていた。しかしこれほど早くの登場だとは思わなかった。
 正直、困惑している。
 顔を伏せるダイの耳に衣擦れの音が届いた。
 膝を突いたディトラウトの姿が給仕口越しに見える。
「手を」
 と、彼は言う。
「怪我したほうの手です。貸してください」
「なにを……」
「いいから貸しなさい」
 質問に答えるつもりはディトラウトにはないらしい。
 ダイはどうにでもなれという気分で、言われた通りに手を彼に差し出した。
 給仕口の縁に手首を載せる。右手だけを外に出す形だ。立てた片膝に空いた手で頬杖を突く。
 きしっ、と金属の擦れる音がした。かたん、ことん、と硬質の音が立て続けに響く。
 この男は、一体何をしているのだ。不可解さもここに極まれりである。
 募る苛立ちに男を詰問しかけたダイは、唐突に手首を掴まれて開いた口を驚きに閉じた。
 包帯が、解かれる。
 昨夜、梟によって巻かれたそれは、音もなく外に滑り落ちた。傷口に置かれていた布も取り除かれる。
 内側の手首には、薄く、薄く、赤い筋が走っている。
 たとえ切り落とされるまでいたらなかったとしても、もう少し傷が深ければ出血過多で落命していただろう。
 想像に背筋を粟立たせていたダイは、手首にぬるりとした感触を覚えた。
 薬臭さが、鼻につく。
 粘液が、糸を引く。
 しろく、やわらかい、それを、男はダイの手首に塗り広げていく。
 丁寧に。
 丹念に。
 薄い皮膚の上を、余すところなく。
「ディト、ラウト?」
 ダイの呼びかけに、男は答えなかった。
 患部に擦りこまれているものは毒ではあるまい。ディトラウトは素手でそれに触れているのだから。
(じゃぁ、なに)
 ダイの手首を切り落とせと命じた少女を唯一無二の主として戴く彼が、わざわざ牢屋まで足を運ぶ理由がわからない――わかりたくもない。
 軟膏はぬるく、とろみを帯びている。それを纏う男の指先が手首に浮き出る血管を辿る都度、なんとも云えぬむず痒さがさざめき広がっていく。
 男の指は冷たかった。
 肌刺すように。ダイの皮膚にその感触と温度を刻み込んでいくように。
「私を捕えた理由はなんです?」
 ダイは額を扉に押し付け、喘ぐように尋ねた。
「セレネスティは、話したでしょう?」
 ディトラウトはダイの手首に包帯を巻き始めた。それは皺もなく真新しい。眩い白が暗がりに存在を主張している。
「あのふざけた友好条約をマリアージュ様に呑ませろっていう役ですか?」
 ダイは鼻で嗤った。
「私を馬鹿にするのもいい加減にしてください。その程度のことで私だけを誘拐するなんていう、七面倒くさいことするひとじゃないでしょう貴方は」
 彼の仕事ぶりは知っている。ミズウィーリ家でずっと見てきたのだ。その戦略は合理的で無駄がない。いささかも。
「マリアージュ様たちとまとめて捕えるほうが簡単だったはずです。貴方たちの女王様のお名前でご都合よろしい場所に、私たちを招待するだけでいいんですから」
 たとえば、女王とその側近たちのみの懇親会といった名目で呼び出せばいい。ペルフィリア側としてもさほど労力を割かずにマリアージュやダイを確保できる。その後、マリアージュを直接脅せばいいのだ。
 さきほども考えた――マリアージュの目の前でダイを痛めつけたほうがよほど効果的だ。マリアージュがセレネスティの要求を呑む可能性も高くなるだろう。
「それをせずに、私だけ、を牢屋に放り込んだ理由は? 大体、どうしてお忙しいはずの貴方がこんなところに? 内通者になるように懐柔しろとでも、貴方の女王様から命令されましたか?」
 勢いのまま口から出た言葉に、ダイははっと息を呑んだ。内通者。いままでで一番しっくりとくる答えだ。
 しかしディトラウトからは失笑された。
「内通なんて器用な真似、貴女にはできないでしょう」
 返す言葉がなかった。まったくもってその通りである。自分は嘘が全て顔にでる。
「いいところは突いていると思いますよ。懐柔という点については、あながち間違いでもない」
 包帯の角を結び合わせてダイの手を解放し、ディトラウトは立ち上がった。ダイもつられて腰を上げた。手当されたばかりの手で肩近くの格子を握る。
 その指を、男の手が包んだ。
「何故、貴女だけを、捕えたか。――……陛下は私の願いごとを、かなえてくださっただけですよ」
「願い、ごと?」
「えぇ」
 ディトラウトが格子から剥がしたダイの手を引き寄せる。その指先に彼は自身の顔を押し当てた。
 てのひらに触れる男の頬は、かさついて、ひやりとしている。
 幼い子供が母親に身を寄せているかのような安らかな顔でディトラウトは息をひとつ吐く。
 そして蒼の瞳をゆるめて笑った。
「貴女を、欲しいという、私の」
 願いごとを。


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