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第三章 試される虜囚 4


 ダイが行方不明になった。
(なんでそんなにいなくなったりするわけ!?)
 マリアージュは胸中で毒づいた。アッセに付き添われながら廊下を駆ける。視界の隅に入るペルフィリアの衛兵たちが忌々しい。蹴り出したいぐらいだ。
 関係者を集めた部屋に到着し、番兵が扉を開けると同時、ユマの訴えが周囲に弾けた。
「わたしじゃない!」
 絹裂く悲鳴のような声だった。
「わたしじゃない! わたしじゃない!! どこにもダイを連れていったりしてないよ……!!!」
 彼女は同僚たちに寄り添われ、長椅子に腰掛けていた。身を捩って泣きじゃくる姿は痛々しい。顔を覆う両手は涙に濡れていた。泣き通しなのだろう。
「ずっとこの様子だよ」
 ロディマスがマリアージュに歩み寄って耳打ちする。
 彼は一足先に晩餐会に暇(いとま)を告げ、ダイ捜索の指示を兵たちに与えていた。主賓であるマリアージュ自身は抜けられなかった。晩餐会が腹立たしいほど和やかに進行したためである。
「鎮静剤は?」
「さっき与えた。効くまでにもう少し時間がかかる」
「陛下」
 マリアージュにようやく気づいたらしい。女官たちが一斉に立ち上がる。
 アッセが引いた椅子に腰を下ろして、マリアージュは静かに問うた。
「事情を説明なさい」
 ――……ユマたちの話は、珍妙極まりなかった。
 支度を終えたダイはユマと連れだって大広間へ向かった。ここまではいい。だがその直後に今すすり泣いているこのユマが、騎士と一組になってダイを迎えに現れたのだ。
「つまりユマが二人いたってこと?」
 この場にいるユマの潔白は行動を共にしていた騎士が証明している。その後の彼女はずっと同僚たちに付き添われていた。ダイと顔を合わせる暇はまったくなかった。
「信じたくないですが……」
「そうとしか考えられません……」
 ダイの更衣を手伝っていた女官たちが代わる代わる述べる。二人に挟まれるユマの目に再び涙が溜まり始めた。
「報告ご苦労。ユマ、下がりなさい。リノ、ジェン。あんたたち二人はユマに付き添うように。アッセ、外の兵に三人を送らせなさい。代わりに外を見ていて」
「かしこまりました」
 同僚たちに慰められながらユマがのろのろと歩き始める。そのやつれた顔に、マリアージュは声を掛けた。
「あんたのせいじゃないわ、ユマ」
 ダイの友人でもある女官は、息を詰めて振り返った。何か言いたげに唇を戦慄かせる。マリアージュは嘆息し、冷淡に命じた。
「その顔、鬱陶しいわ。次に私が呼ぶまでにどうにかなさい」
 ユマは黙したまま一礼し、出口へと歩き始めた。
「それにしても、ユマが二人って……一体、何がどうなっているのよ?」
 ダイを誘拐した何者かは確かにユマだった。姿も声も一分の狂いなく。女官たち二人はそう断言している。
 しかしそんなことはあり得るのか。
 不測の事態にこめかみが痛む。このまま眠って目覚めたら、すべては夢であった、とならないだろうか。
 あぁ、と唸るマリアージュの耳に、軽やかな声が回答を届けた。
「それはもちろん魔術だと思いますよ、陛下」
 扉口に向かって首を捻り、声の主の姿を探す。すぐに見つかった。アルヴィナは女官たちと入れ替わりに入室を果たしたばかりだった。
「どんな魔術よ?」
「姿の上塗り」
「姿の上塗り?」
 鸚鵡返しに問うマリアージュに、アルヴィナは首肯した。
「外見を変える術。……その名前の通り、姿を上から塗り替える術ですよ。ダイが何の疑いもなく付いていっちゃったんだもの。ダイたちの目に相手はユマとして見えていたんだと思います」
「それって誰でも使える魔術?」
 マリアージュは念のために質問した。ダイの友人である魔術師は、一般的な術者の枠から外れている。彼女が気軽に行使する術が、伝説級に難解なものであることも多い。
「皆に訊いてみましたけど、誰も使えないみたいですねぇ。近年だったらメイゼンブルの宮廷魔術師ぐらいだったろうって」
「かなり腕のいい魔術師じゃないと無理ってこと?」
「そういうことですね」
「ところでアルヴィナ、ダイ捜索の首尾はどうだったんだい?」
 アッセが口を挟む。魔術師は常に浮かべる柔和な微笑を初めて消し去った。
「だめでした」
「魔術で追跡したんじゃないのかい? 君ならできるだろう」
「この城には……というより西大陸の古いお城には、トリエステの術が施されていますから、殿下」
 聞き慣れぬ単語を訝る反応を気取って、アルヴィナが素早く補足する。
「無魔の魔女。聞いたことおありでしょうか。濃密な魔を集めて周囲の魔術一切を無効化する呪いを負った、昔むかぁしの魔女のことです。彼女の呪いを応用した、探知や盗聴の類を防ぐ魔術が、お城には使われています」
 いかな魔術師といえど、術の範囲内にいる人間の動向は、まったく感知できなくなる。魔術師による諜報活動を防ぐためのもので、ペルフィリアの城に限ったことではなく、デルリゲイリアのそれにも施されているらしい。
「アルヴィナにもできないことあるのね」
「魔術師は万能じゃありませんもの」
 アルヴィナは自嘲めいた笑みを零す。彼女にしては珍しい表情だった。
 マリアージュは椅子の脇息に肘を突いて瞼を押さえた。
「……あの子を連れて行ったのは、ペルフィリア?」
 ロディマスが応じる。
「十中八九、そうだろうね」
 ダイの行方不明が確定した時点でペルフィリアには捜索の協力を要請している。先方は人員を貸してはくれたものの、対応にはなおざりな雰囲気が漂っていた。それがダイの誘拐はペルフィリア――しかも上層――側によるものと示している。害を成す者が外から現れたと見做しているならば、ペルフィリアはもっと真剣にダイを取り戻そうと動くだろう。警備の穴は国家の恥辱だからだ。
 それにしても、だ。
 ダイを攫う理由がわからない。
「何のために?」
 脳裏に“あの男”の姿を浮かべつつ、マリアージュは宰相の意見を求めた。
「……もしかしたら君への単なる嫌がらせかもしれない。……“間者”は君たちの仲を知っているんだろう?」
 アルヴィナを気に掛けたのか、ロディマスは代名詞を用いた。彼女がミズウィーリ家に短期で雇われ、“あの男”と面識があることを宰相は知っている。公式には行方不明とされるミズウィーリ家の元代行が、ペルフィリアの間者であったと判れば、アルヴィナも胸を痛めるとロディマスは思ったのかもしれない。
「とりあえず……。今日は皆に休んでもらって、朝を待とう、陛下」
「ダイをもう探さないってこと?」
 無言で首を縦に振るロディマスに、マリアージュは綿の詰まった腰当を投げ付けた。
「あんた、ダイがどうなってもいいわけ!?」
「そんなはずない! どうにかなっていいなんて思うものか……!」
 宰相は珍しく怒鳴り返した。日頃穏やかな分、迫力がある。
「申し訳ありません、陛下」
 マリアージュが顔を強張らせると、ロディマスは恥じ入る表情で謝罪した。
「……もちろん全員に、というわけじゃない。何人かは引き続き見回りに当たらせる。でも誰もかれもがくたくただ。慣れない旅に疲れ果てている。僕らは今からが勝負なのに」
 マリアージュたちは物見遊山の為にこの国を訪れたわけでは決してない。外交が主目的なのだ。
「予定はそのままっていうこと? ダイがいなくても?」
「彼女は君の側近だ。第一の。けれど化粧師だ。外交の席には不在でもかまわない。彼女ひとりの為に予定を潰されれば、何も知らないペルフィリア人たちが、憤慨する」
 ロディマスはマリアージュの前に回って跪いた。彼の熱い手がマリアージュのそれを握り締める。
「僕らはセレネスティ女王のご機嫌伺いに来た弱小国だよ。周囲はそう見ている。間違ってもいない。僕たちの矜持はどうであれ」
「予定の中止を言い渡せるのは、セレネスティだけ。……そうね」
 マリアージュは敗北感から苦いものを感じ、ロディマスの手を強く握り返した。
「その通りだわ」
 たとえ対等な国同士であろうとも行事は執り行われるだろう。
「残酷なことをいうようだけれど、誘拐犯がダイを殺すつもりなら彼女はもう死んでいる。それだけの時間は経った。僕らに出来ることは体力を温存し、明日に備えることだ」
「……じたばたしても、始まらないっていうことなのね……」
「まさしく」
 マリアージュは力強く微笑むロディマスを見下ろした。彼の手が何気なく目に入る。骨ばったそれは白の手袋に包まれ――微かに、震えていた。
 ロディマスは慄いているのだ。
 この事態に。
(……こわいわよね)
 マリアージュはロディマスの手を握り返す。
(……わたしだって、こわいわ)
 油断したつもりはなかった。けれどダイは連れ去られた。
 ここは、敵地だ。それを改めて認識する。
 マリアージュは視線を感じて面を上げた。アルヴィナが軽く片目を閉じる。マリアージュの緊張を和らげようとするかのように。
 マリアージュはふと笑い、ロディマスの指を強く握って、祈った。
(ちゃんと――……生きてなさいよ、ダイ)


 迎賓館から延々と廊下を歩き、階段を上下した後に辿り着いた部屋に、ダイと見張りの兵たちを残して、ユマに扮していた青年は姿を消した。
 背後で両手首を拘束されたダイは、床に胡坐を掻いていた。その体勢で放置され、どれほど経っただろう。時を計る気にもなれない。身体はぎしぎしと強張り、腹は緊張感なく空腹を訴えていた。
 両隣を固める番兵たちはダイの呼びかけに一切反応しない。まるで蝋人形のように、ぴくりとも表情を揺らさず、沈黙を保ち続けている。
 幾度目か知れぬ溜息を吐き、ダイは改めて部屋を観察した。
 迎賓館のきらびやかな内装と異なり、装飾一切を取り払ったその部屋は、寒々とした印象をダイに与えた。
 室内を縦半分で割るようにして、濃い色の絨毯が敷かれている。その先には階段があり、演壇へと続いていた。
 壁の中央には紋章を縫い取った一枚の旗。鷲と剣を組み合わせた意匠はペルフィリアの国章だ。その一枚がこの部屋で唯一色鮮やかに、暗がりに浮かび上がっていた。
 このような造りに、心当たりがある。
 謁見の間。
 ぎっ、と背後で、蝶番の軋む音が響いた。
 石膏さながらだった兵士たちが、ダイの後方に向けて敬礼する。来訪者は絨毯を踏みしめて、ダイとの距離を徐々に詰めた。
「ふぐっ!?」
 うなじを掴まれた次の瞬間、床に押し付けられ、ダイは顔をまともに打ち付けた。星がちかちか視界を飛んで身悶える。このまま気絶できないものかと真剣に願った。
「芋虫みたいだよねぇ」
 聞き覚えのある柔らかな声が、遠のきかけた意識を引き戻す。
 ダイは這いずりながら身体を捻って面を上げた。
 今しがたまで無人だった演壇の上、国旗の前で、一人の少女が笑っている。
 薄布の下で輝く黄金の髪。象牙色をした卵型の顔。そこに整然と並ぶ眉、唇、そして蒼の眼。
「セレネスティ女王陛下」
 ダイの呼びかけに、こつりと、靴音が被さった。
 向かって右の紗幕の陰から、セレネスティとよく似た面差しの男が姿を現した。
 国章刻まれた上着を重く揺らめかせ、彼は妹の隣に並ぶ。感情の色見られぬ端整なその顔を、ダイは息を詰めて見つめ返した。
 見間違えるはずがない。
 その顔かたちを、その色合いを。
 その、眼差しを。
(……ヒース)
 セレネスティは振り返ることなく、あにうえ、と男に囁いた。
 ――……わかっていたことだ。
 男とあまりに瓜二つの、女王の顔を見たときに。この目で確認するまでもないことだと。
 ヒースと名乗り、デルリゲイリアに潜入し、マリアージュを女王候補に仕立て、ダイを花街から引き抜いた男。
 彼が、女王セレネスティの兄、宰相。
 ディトラウト・イェルニだ。
「乱暴に招待してごめんね。ちょっとお話があって」
 セレネスティの声音は明るい。悪びれた様子もない。
「ちょっとっていう割には、たいそう強引なご招待ですね」
「大したものだね。普通はこういう状況だったら、口もきけないと思うけど」
「お話がおありなのでしたら、だんまりよりもおしゃべりの方がいいかと存じますが?」
「いうね」
 セレネスティは可笑しそうに肩を震わせた。
「度胸があって口が立たないと、側近って務まらないのかな。ねぇ兄上?」
「セレネスティ。本題に入りなさい」
 ディトラウトは無駄な時間など全くないと言いたげである。
 セレネスティは白けた顔で肩をすくめるとダイに向き直った。
「さて、最初の質問だけど……マーレンの話だ」
「マーレン? ……襲われた件なら話せる限りのことをお話しましたが?」
 襲撃者を捕縛するまでの経緯はゼノに語りつくしてある。ダイだけではない。ダダン、アルヴィナ、そしてアッセも同様だ。これ以上語るべきことなど何もない。
「調書は読んだよ。でも直接聞いておきたい」
「不審者を見かけて、私たちの一人が見回りに出ました。もう一人、念のために付いていきました。二人の戻りが遅いので、私が様子を見に出かけ、襲われた」
「……君たちを襲った二名のほかに、誰もあの場所にいなかった?」
「いたら報告してますよ」
 苛立たしさを滲ませてダイは言葉を吐き捨てた。捕まった二名とダイを含むデルリゲイリアの四名があの場にいた全員だ。
 いや。
 違う。
『もう一人潜伏している可能性があるってことですか?』
『そういうことになるわねぇ』
 ダイはアルヴィナによって存在を仄めかされた魔術師を思いだした。にわかに肌を粟立たせる。
 話すべきか。話さざるべきか。
 ダイが迷っていると、セレネスティが低く毒づいた。
「あれらだけか」
 地の底から響くような、ぞっとさせる声音だった。
「ご協力ありがとう。それじゃぁもうひとつの本題に移ろう」
 セレネスティが笑顔に戻る。ダイは視界の端に足を認めた。その主を仰ぎ見る。ダイを誘拐した、あの青年だった。感情篭らぬ緑灰色の瞳にぞくりとする。
 傍に片膝を突いた彼は、ダイの目の前に紙を広げた。縁を銀で箔押しした公式文書だ。
 ざっと目を通したダイは下唇を噛んだ。怒りが腹の内で煮える。
 書面に記された内容は、おおまかに述べれば、以下のようなものだった。
『自治権は認める。ただしデルリゲイリア城内にはペルフィリアの官を常駐させ、城下の職工の子女の三分の一はペルフィリアに移住。双方とも、半年ごとに人員を入れ替える。他、資源、人材、以下おおよそ五十項目はペルフィリアの統治下とする。詳細については別紙を参照』
「……なんなんですか? これは」
「友好条約の内容だよ」
「どこが!? 敗戦国に押し付けるような内容じゃないですか!」
「そう」
 セレネスティは冷やかに嗤った。獲物を前に舌なめずりする獰猛な獣を彷彿とさせる、愛らしい造りの顔に不釣り合いこの上ない表情だった。
「君たちはねぇ、負けているんだよ。この国に来た時点でね。適当な官を名代にすればいいものを。体裁を整えてやっただけで、女王本人がのこのこやってくるんだ。鼠取りに鼠が入るようなものだよ。あまりに馬鹿で笑わせてくれたから、お礼に今日は盛大に歓迎してあげたよ。友好的にね」
「……私に、何をしろと?」
 彼女たちは無意味なことに労力をかけるような人間ではない。少なくともヒース――ディトラウトはそうだ。
 ダイを連れてきたからには、何か役割があるはずだ。
「察しがいいのは嫌いじゃないよ。……君はマリアージュ第一の側近だろう? だから君の力を借りたいんだ」
 セレネスティは一拍置き、冷えた声でダイに命じた。
「この条件を、マリアージュに、呑ませろ」


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