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序章 宵闇の奸計


 敵に回してはならない人間に盾突いたのだと気づいた時には、全てが遅かった。
「がっ……!」
 衛兵が低い呻きを上げ、血飛沫を纏いながら視界の外へと消えていく。
 最後の護衛が切り伏せられた時、エドモント・チェンバレンはゆっくり歩み寄ってくる男を、壁際で震えながら見返すことしかできなかった。糖蜜色の髪に蒼の眼を持つその男は、年の頃二十代前半。同性として羨むというよりもむしろ、恐れを抱くほどの美貌の持ち主だった。限りなく白に近い淡水色の上着の裾を翻して闊歩する彼は、血と脳漿がぶちまけられたこの陰惨な部屋に、場違いなほど浮いてみえる。だがそんな部屋にあって足元を汚すこともなく、男はエドモントの前まで辿り着くと、立ち止まってにこりと微笑んだ。
「ごきげんよう。ご無沙汰しております、チェンバレン卿」
 男は涼しい顔で挨拶を述べる。その口調はこの状況に全くそぐわない。舞踏会で鉢合わせしているのではと錯覚させるほどに穏やかだった。
「き、きさ、きささ、ま」
 何故ここに――……。
 震えて歯が噛みあわず、喉の奥に引っかかった問いを、唾と共に飲み下す。
「何故ここに? 女王の従僕である私が、いてはおかしいでしょうか?」
 エドモントの胸中を読み取った男は、心底不思議そうに睫を震わせた。
「これは、陛下が……?」
「えぇ」
彼がエドモントの問いに首肯する。
「あの方は身内にはお優しい方ですが、それでも裏切り者を見逃すほど甘くはありません」
「わ、わたしが、いつ、陛下をうらぎっ……ひぃいいいいいいいいいいぃいい!!!!」
 エドモントは腿に迸る耐え難い激痛に悲鳴を上げた。いつの間にか跪いていた男の手が、無造作に鋼を突立てている。助けを求めて宙を掻いた手は、何も掴むことなく、膝上を縫いとめる刃がエドモントに逃げることすら許さなかった。
「閉口しましたよ」
 短剣をぐっと押し込んでいきながら、男は言った。
「貴方が私に寄越してくださった、いらぬ客人たちには。仕事に差し支えて大変でした。特にあの時が一番酷かった。五人、いえ、六人でしたか。襲われて荒野に放り出されたときには、必ず首謀者の息の根を止めて差し上げようと思ったものです」
 こうして叶えることができてうれしいですよ。
 男が喜色に顔を綻ばせる。
「しらない! しらない! しらない!」
「本当に知らない?」
 おや、と男は瞬く。勘違いしましたか? 男の蒼の眼がそのように問う。
 そうだ、知らない。エドモントは全力で首を振った。自分は知らない。声を枯らして繰り返す一方で、脳裏には子飼いの暗殺者を集め、この目の前の男の抹殺を図った時のことが甦っていた。
 女王セレネスティが最も信頼を寄せる忠臣にして宰相、そして兄でもある男、ディトラウト・イェルニ。
 彼の姿が城内から消えて二年を過ぎて、その行方はエドモントの下にもたらされた。
 何ゆえ隣国デルリゲイリアに潜入していたのかまではわからない。だが周囲を護衛で固めることを常とするこの男が、隣国においては単独で動いていた。
 彼を消し去る絶好の機会。
 そして放った刺客達はしかし、エドモントに何の知らせもなく消息を絶ったのだ。
 半年前にディトラウトがペルフィリアに戻り、全てが失敗に終わっていたことをエドモントは知った。
「おかしいですね」
 ディトラウトが腿を抉(えぐ)りながら首を傾げる。
「ウィシャートは確かに貴方の名前を告白しましたが」
 その名にエドモントは息を詰めた。女王の近くに潜り込んでいた、エドモントの同胞の一人。ディトラウトの行方を最初に嗅ぎつけた男が他ならぬ彼だった。
「うぃ、うぃしゃーとは」
「まぼろばの地ですよ」
 ディトラウトは端整な顔をエドモントの耳元にそっと寄せ、娘を口説いているかのような甘さで、皆がお待ちですと囁いた。
 皆。
 その一言に、自分が最後なのだと知る。
「あ、あ」
「私へ刃を向けることはすなわち、陛下に牙を剥くこと。ご存知ないわけではないですよね?」
「あ、ああぁひぃいいいぃい!!!!!」
 足の奥深くに捩じ込まれていた刃が勢いよく引き抜かれた。立ち上がったディトラウトはその噴出した血を器用に避けながら後退する。入れ違うディトラウトの近衛二人が、エドモントの脇を固めて、乱暴に立ち上がらせた。
 窓に嵌め込まれた玻璃がエドモントの苦痛と恐怖、血と涎に汚れ塗れた顔を映し出す。
「チェンバレン卿」
 引き攣った自分の顔に呆然となっていたエドモントは、ディトラウトの呼びかけに我に返った。
「陛下より伝言です。……まだ、訊きたいことがある。再会できることを楽しみにしている」
 宴の予告にも似た、死の宣告。
「貴方も、楽しみにしていてください」
 冴えた月のように美しく、血をも凍らせる冬の息吹より冷たい男の微笑に、エドモントは今殺して欲しいと項垂れた。


 制圧の終わった屋敷の廊下には、死体が折り重なっている。
 その中を玄関に向かって進みながら、ディトラウトは汚れた手袋を血溜まりに捨てた。白のそれは蝋燭の明かりに照らされながら、赤黒い色を吸って沈んでいく。
 その傍らで、影が揺らめいた。
「死ねぇええええぇえぇ!!!!」
 掠れた声音で紡がれる、男の呪詛。
 嘆息し、歩みを止める。振り返ったディトラウトの眼前で、脳天を裂くために振り下ろされていた刃は、差し込まれたもう一本のそれと火花を散らした。殺意を纏う剣は弾き返され、その主は即座に四方からの刃を受けて沈黙する。
「ディータ、立ち止まるなよ」
 ディトラウトを凶刃から守った剣の主人は、鋼の切っ先を床にこつりと落とした。
「その綺麗な顔に傷でもついたらどうすんの? お前に何かあったら俺がぶち殺されちゃうんだって」
 この上ない呆れ顔の男を、ディトラウトは見返した。
「守るのはあなたの役目だ、騎士団長」
「えぇ、えぇ。そうでしょうとも。でも守りやすくしてほしいものだね、宰相閣下」
 そう言って男は、盛大に溜息を零した。
 短く切り揃えられた髪は肉桂を思わせる赤みの強い栗色。紫水晶に似た瞳は人懐っこい輝きを宿す。背は中背のディトラウトよりもやや高く、肩幅も武を嗜む者らしく広かった。芯のある体躯をディトラウトと同じ色合いの兵服で包んでいる。
 ゼノ・ファランクス。精鋭を集めた、ディトラウト専属の近衛騎士団の長が彼だった。
 ゼノの視線を無視し、ディトラウトは歩き始める。
「レジナルドは見つかった?」
「残念無念だね。見つからない。こちらが動く前に移動している。妻子は捕えたんだけどね。人質としての価値はないだろう」
「情報を聞くだけ聞いたら処分しておいてください」
「処分? 尚早でないの?」
「ゼノ。奥方についての資料は目を通しましたか? 牢番と内通でもされれば厄介だ。別に部下を信用していないわけではありませんけれどね」
 なるほどね、と肩をすくめるゼノを視界の端に入れ、ディトラウトは次の質問に移った。
「レジナルドへの追手は?」
「無論。けどこっちに内通がいる可能性が高い。ここまで徹底して逃げられてるとね」
「またあぶり出しですか」
「陛下に殴り殺されないように気を付けとかないとなぁ俺。おお主よ。聖女よ。我を救い給え」
 ゼノが演技掛かった仕草で天を仰ぐ様を生ぬるい目で一瞥した後、ディトラウトはさてどうすべきかと思索に耽った。
 エドモントの息子、レジナルドは風采上がらぬ、野心ない平和主義者と見做されている。しかし真実は父を隠れ蓑とし、セレネスティを廃するために立ち回る狡猾な青年だ。今回のチェンバレン伯爵家の制圧は、現当主のエドモントよりも息子のレジナルドを押さえることが目的だった――遺憾ながら、失敗に終わってしまったが。
 これからエドモントを含むチェンバレン一家は拷問に掛けられる。彼らがレジナルドの逃走経路を把握しているとは思えないが、手がかり程度は掴めるだろう。
 今後の事後処理について思考を巡らせながら、玄関広間から一歩踏み出した、その時だった。
「ディータ!」
 ゼノの鋭い警告に、反射的に身を伏せる。そのまま転がるようにして屋敷の外へ飛び出したディトラウトは、首筋を浚う鋭い熱に顔をしかめた。
「ゼノ!?」
「くっそ、やられた!」
 低く毒づいたゼノが駆け寄ってくる部下たちに指示を飛ばし始める。
「マーク、近隣の住民を叩き起こせ。男手を集めて消火に当たらせろ! 残りは非難させろよ。レニー! 伝令を出せ。城門は開けるな。無理に通そうとするやつがいたらひっ捕らえとけ!」
 火の粉を纏いながら、男たちが飛び出してくる。内部で作業していた部下たちだ。噴煙に咳込む彼らの怒号が、炎の爆ぜる音に混じり響く。玄関に着けていた馬も高く嘶き、土を蹴りながら逃げ出す機会を窺っているようだった。
「魔術師がいたのか」
 ディトラウトはゼノの横に並び、炎を噴き上げる屋敷を見上げた。ただ油を撒いて火を放っただけでこうはならない。
「招力石かもしれないよ。やれやれ……」
 木造の部位が少ない屋敷では、すぐに空気を吸い尽くして鎮火するだろう。しかしレジナルドの足跡に繋がるような手掛かりは焼失してしまう可能性が高い。
 ぱりん、と澄んだ音を立てて玻璃が割れ、手のように伸びた炎が夜空を一時明るく染め上げる。
 ディトラウトは闇に吸い込まれていく火の粉を見送った。
 遠い昔、同じようにして、業火の熱に身を晒した夜のことを思い返しながら。


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