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終章 別たれる人々 2


 ティティアンナに再び背負われて戻る道すがら、ダイは急に胃の座りの悪さを覚えた。
「ティ、ティティ……下ろしてください」
「え? ど、どうしたの?」
「気持ち悪い……」
「え!? だ、大丈夫?」
 床の上に下りたダイは、口元を押さえて頷いた。そのまま腰を下ろして壁を背にもたれるダイを、ティティアンナが腰を手に当てて見下ろす。
「もう。だからハンティンドンさんに会うの後にしておけばよかったのに……! 自業自得よ」
「すみません」
「大丈夫? 立てる?」
 顔を覗きこむティティアンナに、苦笑を返す。
「……もう少し休ませて貰ってもいいですか? あと……できればお水欲しいです」
 胸焼けに似た不快感。冷たい水でも流し込めば少しはましになるだろう。
「わかったわ」
 ダイの依頼を二つ返事で引き受けた彼女は、階下の厨房へと駆け出した。
 その背を見送ったダイは後頭部を壁につけ、頭上に設えられた窓から外を見上げる。
「……天気、いいなぁ」
 時刻は昼下がり。雲ひとつ無い空が広がっていた。外はきっとぽかぽかと暖かい。庭で食事を取ればさぞや気持ちよかろう。
 きらきらと陽光に輝く、蒼穹。
 そこに、男の瞳の色を思い浮かべ、ダイは無意識に手を伸ばした。
「……なにやってんの?」
 広げた指の狭間から見えた主人の姿に、慌てて手を引っ込める。
 壁を支えに、ダイは立ち上がった。
「マ、マリアージュ様……」
 簡素な普段着に身を包み、髪を軽く纏めただけのマリアージュは、胡乱な目でダイを見つめ返していた。


 玉座の間には、女王とその近習だけが集っている。
 彼が入室するや否や女王は立ち上がり、両手を広げて階段を駆け下りた。
「兄上!」
「……セレネスティ」
 その華奢な身体を抱きとめると、自然に笑みが零れた。
「元気でしたか? 先日は挨拶もろくにせずにすみませんでした」
 セレネスティが、デルリゲイリアの新しい女王が誰なのかを確かめに来たとき。
 中庭での予想せぬ再会には本当に驚いたが、あの時の自分には誤魔化しながら応対するだけの余裕に欠けていた。結局、言葉も交わさぬままに立ち去ることになり、後になって申し訳なく思ったものだ。
 面を上げたセレネスティは、笑って首を横に振った。
「仕方ないよ。僕も驚いたから。下手に誤魔化すよりも、あぁしたほうがよかったんだ。ねぇ、ディータ……ディトラウト兄様」
 ディトラウト・イェルニ。
 名を呼ばれ、ようやく祖国に戻ってきたのだという実感を得る。彼はそっとセレネスティの身体を押し返し、距離を取った。
 その場に、跪く。
 身内としての抱擁は終わりだ。これ以後は、女王と家臣としての再会だった。
「申し訳ありません。失敗いたしました」
「そうだね。残念だよ、宰相」
 報告に、セレネスティは落胆の色を隠さなかった。指先を顎に押し当て、思案の素振りを見せる。
「失敗の懲罰は後で考えるとして……。でもま、元々我侭で人の言うことを聞かなさそうって言っていたじゃないか。そんなこともあるよ」
「時間を無駄にしました」
「同じだけ時間を掛けて、国土を荒らし、幾万の兵の命を無駄にするよりもいいよ。やってみる価値はあった。そうだよね?」
 そう言って、女王は鷹揚に微笑んだ。


「あんたね、こんなところで何やってんのよ。熱あるんじゃないの?」
 開いた口が塞がらない様子で、マリアージュは呻いた。
「えぇ……まぁ」
「ばっかじゃないの!? こんなところでふらふらせずに部屋で大人しく寝てなさいよ!!」
 言葉を濁すダイに、愚かも此処に極まれりとマリアージュは怒声を上げる。
 さらに怒鳴られる前に、ダイは慌てて話題を逸らした。
「でも、マリアージュ様こそ、こんなところでどうなさったんですか?」
 此処は別館だ。主人である彼女が足を踏み入れることなど皆無に等しい。
 ダイの問いに、マリアージュは鼻を鳴らして応じた。
「目が覚めたって聞いたから、散歩ついでにあんたの様子、見に来てあげたに決まってるじゃない」
「……はぁ、ありがとうございます」
 不遜に生返事をしてしまったものの、わざわざ自分の様子を案じて足を運んでくれたのかと思うと、胸中がじわじわ温かいもので満たされる。
「で、寝台から抜け出て、何やってるの、あんたは?」
 手水かと首を傾げるマリアージュに、ダイは頭を振った。
「いえ。……ハンティンドンさんと、お話をしに行っていました」
 マリアージュの、顔が強張る。
 彼女は探るようにダイを見つめた後、そっと息を吐いて肩を落とした。
「……話は聞いたわよ」
「はい」
「事実は伏せておくことになったわ。それは聞いたの?」
「はい。聞きました」
 そう、と呟いて目を伏せるマリアージュに、ダイは問いかける。
「マリアージュ様は私を疑わないんですか?」
 ヒースと、繋がっているのではないか、と。
 話を全て聞いたというのなら、ローラと同じように疑ってもおかしくはない。
 面を上げたマリアージュは、不快そうだった。
「疑ってほしいわけ?」
「……いいえ」
「ならそんな愚かしい質問をしないで頂戴」
 憤怒を押し殺した叱責に、ダイは苦笑して頭を下げる。
「もうしわけ、ありませんでした」


「何はともあれ、帰ってきてくれて嬉しいよ。そう思うと、失敗してよかったのかな」
「そのようなこと、みだりに口にしてはなりません」
 寛容と甘いことは異なるのだ。失態を、決して安易に許容してはならない。
 叱責だったというのに、女王は嬉しそうに微笑んだ。
「そうそう。そんなふうにね。また傍にいてくれると思うと、本当に嬉しいんだよ」
 そして絹の手袋に包まれた手を、彼の目の前におもむろに差し出す。
 セレネスティは囁いた。
「……また、付き合ってもらうよ。地獄の果てまで」


「顔を上げなさい」
 マリアージュの言葉に従って面を起こし、ふらつく身体をどうにか両の足で支えた。
 ダイを見返す彼女の目に、同情の色も状況への悲嘆の色もない。
 胡桃色の双眸は、静かな決意だけを湛える。
「あんたは私を選んだ。それだけで十分よ。それに……いなくなった男のことを考えていても、仕方がないわ」
 だけど、と一拍置き、マリアージュは続けて言った。
「あんただけは……付いてくるのよ。最後まで」


 地獄の果てが、どこにあるのかはわからない。
 最後に自分達は、一体どこへと導かれるのか。


 男は忠誠を誓いし君主の手の甲に唇を押し当て、女は晴れて国主となった主人を見据えた。
 そして二人は受諾する。
 各々が選び取りし、女王の命を。



『御意に、我が麗しの女王陛下』




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