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番外 すべてはあなたのためだけに 2


 アリガの住まいは病院借り上げの集合住宅の一室だ。一階には来客用を迎えるための畳敷きの部屋があって、開け放たれた障子戸から潮風が入ってくる。休日の昼さがり。りりり、と、魔除けの風鈴が鳴る室内で、久々に顔を見せたカイトが座卓を前に胡坐をかき、麦茶を一幅するなりアリガに尋ねた。
「義姉さんは、今年の夏も帰ってこないの?」
「うん。経過を見守りたい患者も多いから」
「またそれかよ」
 アリガの決まりきった回答にカイトは不満を隠さない。
 カイトはアリシュエルの恋人だった男の実弟だった。この国でアリガの過去を詳細に知るふたりのうちのひとりである。アリガをあの西の国からこの東の果てに連れ帰り、「彼」の他の家族に引き合わせてくれた当人だった。
「きついのかもしれないけどさ。母さんたちには、せめて年一は顔を出してやってくれよ。もうこっちまではさすがに来られないし」
 アリガが医療の学び舎に入り、帝都で就職を決めてしばらく、カイトの両親はアリガに会いに来てくれていた。けれども年齢もそこそこ年嵩だし、昨年はとうとう足を悪くした。日常生活に支障はなくとも、長旅はできないとのことだった。
 わかっているよ、と、アリガはカイトに告げた。
「年明けには顔を出すって言ってもらっていい? とにかく今年は年末までだめなんだ」
 ヒノトが子を授かっていることを知る者は多くない。いまはぴんしゃんしている彼女も、ある日、突然うごけなくなるかもしれない。自分の後見となってくれているカイトの両親はここから馬車で片道三日の距離の領地に住んでいる。さすがに七日も空けられない。
 カイトはため息を吐いた。
「手紙はまめに出してくれよな。あれで楽しみにしているんだ」
「うん。……不義理してごめんね」
「義姉さんは、俺と会うのもきつい?」
「んー、半々、かな」
「半々なんだ」
「会えるのはうれしい。でも、カイトは年々、ロウエンに似てくる」
「そう? 全然わからないけど、義姉さんが言うなら、そうなんだろうな」
 初めて会ったときから年を経た彼は、アリガが愛した恋人に酷似している。年が「彼」が死んだときに近いからかもしれない。しかし目のかたちや、表情の作り方や、所作には大きな違いがあって、そういった些細な差異をアリガは懸命に探している。カイトに恋人を重ねて見ないように。
「彼」は「彼」で、かわりはいない。
 アリガも麦茶に口を付けて、カイトに問いかける。
「カイトはわたしと会うの、しんどくないの?」
「昔はきつかったかな。いまは全然」
 一拍おいて、彼は言った。
「俺……父さんたちもだけど、兄さんにすっごく会いたかった一方で、多分、覚悟していたんだよな」
「覚悟?」
「永遠に会えない、覚悟」
 彼は開け放たれた障子戸の向こう、縁側から続く庭を見つめている。
「俺を兄さんのところに迎えに出したのも、このままだと誰も兄さんに会えなくなるって焦ったんじゃないかと思う。ほら、虫の知らせってやつ」
「それは、あっちの内情がよくなかったから?」
「それもあるけど。単純に距離かな……。めちゃくちゃ遠いだろ。手紙はよく来たけど、兄さん、本当に帰ってくる気配が全然なくてさ。だから、会えただけ俺はいい方で、父さんたちは、やっぱりこうなったのか、みたいな感じだったんだよな」
「……そうなの?」
「そりゃ、兄さんを失って、たまらなく悲しかった。でも義姉さんと会って、あぁ、兄さんは本当にあっちが楽しくて、幸せで、単に戻ってこなかっただけなんだって思ったんだ。ほら、手紙だと、何とでも言えるしさぁ。でも義姉さんがいたから……。義姉さんは、兄さんが幸せだった証なんだって。だから、会って辛いっていうのは、いまはないな」
 父さんたちもそう思っているよ、と、カイトは笑って言った。
「義姉さん、兄さんのことは、忘れていいんだ」
 厳かな声音で囁いたカイトをアリガは凝視した。
 彼は座卓を挟んで対面に座るアリガを真っ直ぐ見据えていた。
「義姉さんがたとえ兄さんとは別の誰かを愛しても、俺たちは義姉さんの家族だ。ずっと」


 ――ありがたいと思う。
 でも、「彼」を忘却した自分に、彼らから家族と呼ばれる資格は、あるのだろうかとも、ずっと思っている。


「先生!」
 往診のために病室へ入ると、リューヤがぱっと破顔して手を振り、見舞いに来ていた父親が振り返った。
「先生、こんにちは」
「こんにちは、ウツギさん。リューヤ、調子はどう?」
「早く退院したい」
「なら、大人しくしていようね」
 抜糸も済んでいないのに、痛み止めがきいているからと、ほいほいあちこち歩く少年に、アリガは苦笑した。傷を見るよ、と、言い置いて、彼の服を捲り上げる。
 冬ならもう少し早く退院させてもよいのだが、この時期はよく傷が膿むので、経過観察を長めにとっている。ただし、ヒノトの仕事だ。縫い口はきれいで腫れもなかった。術後のきれいさに定評のある彼女が、子どもの身体に負担がかからないよう、細い糸で丁寧に縫ったことが窺える。
「お薬の数を減らそうね」
 助手の医師や看護師たちの報告に間違いがないことを認め、アリガは言った。
 リューヤが衣服を直して尋ねる。
「液体のやつ?」
「粉の方」
「えー……」
「窓から飛び降りたり、廊下を走ったりしなければ、液体の方もすぐ飲まなくてすむようになるよ」
「……もうしねーもん」
「それはよかった。明日の朝に抜糸しようか。それから安静にしていれば、五日もあれば退院できるよ」
「五日かぁ」
「一応、そのつもりで準備しよう。ウツギさんも、そのおつもりでいてください」
「……おきれいですな……」
「……ハイ?」
 ウツギからの予期しない返答に、アリガは真顔で首を捻った。リューヤが苦虫を噛み潰した顔で父を呼ぶ。
「とーさん」
「う、うん?」
「退院の日にち、六日後でいいかって。そうだよね、先生」
「そうだね……」
 うん。そういう話だった。
 ウツギは顔を真っ赤にした。
「あぁ、はい。失礼しました。別のことを考えていまして」
「いえ、それはいいんです、けれど。大丈夫ですか? のぼせました?」
 窓は開いているし、風は通っている。それでもこの夏の時期、のぼせるときはのぼせる。
 失礼、と、アリガは断りを入れ、ウツギの首にふれた。体温は高いが、発汗はしている。脈は少し早いだろうか。
「隣の寝台に横になってください。空いていますから。看護師に氷嚢をもってこさせます」
「いや、大丈夫ですので」
「だめです」
 アリガはきっぱり言って、リューヤに尋ねた。
「リューヤ、飲み水ある?」
「あるよ。父さんに飲ませればいい?」
「そうだよ。かしこいね。ウツギさんは、半刻、横になってください。それで何もなければおかえりになっていただいて結構です。いいですね」
「いや、本当に、大丈夫なんです!」
 病室から出かけたアリガの腕をウツギががっしと掴んで叫ぶ。
「先生が、おきれいだと、見とれていただけなんです、すみません!」
 その声は廊下まで響き渡った。
 病院は娯楽の少ない場所である。多くが寝台に縛り付けられ、動き回れる人間もせいぜい散歩を許される程度だ。
 ということで、患者の父親から唐突に告白されるという事態は、退屈で仕方がない人々のかっこうの話題として、矢のように院内を駆けていった。


 仕事終わり。ヒノトの自宅の夕食の席で、アリガから事の次第を聞き出した彼女は、ばんばんと卓を叩いて笑った。
「あははははははは!」
「笑いごとじゃないんだよ」
「すまんすまん。それはそうなんじゃが、ウツギどの、そうとう慌てたんじゃな。そこを想像するともう笑うしかなくて……。おんしも驚いたろう」
「そうだね……。きれい、なんてひさしぶりに言われた」
 故郷にいたころは、頻繁に容貌を褒められたが、東に来てからはほとんどない。
「おんしはきれいだと思うが、この辺りの者らの好みから外れるのじゃろうて。妾も言われたことがある。妾を褒めてくれるのは、だいたいが他大陸の人間を見慣れている者らじゃの」
「ウツギさんは大陸間船の操舵手なんだって」
「なるほどな」
 おもしろがる顔でヒノトが果実水を口に運ぶ。アリガはふてくされて振舞われた冷酒をひと息にあおり、彼女の隣に移動してその膝上に頭を落とした。
 ヒノトが器を卓に置き、アリガの頭を撫でる。
「すまんな。からかいすぎたか?」
「いいよ別に」
 ヒノトはアリガの詳細な過去を知るもうひとりである。彼女はアリガと似た出自を抱えてこちらに来ており、色々あって互いの事情を知った。自分たちは医療の学び舎で寮の部屋が同じだったのだ。
「……この間、カイトが来たのだけれど」
「うん」
「ロウエンを忘れても、自分たちは家族だ、なんていうのよ」
「うん」
「実はね。ずっと、義父さまたちにも言われているの」
 医師としてようやく独り立ちしたとき、彼らは言った。ロウエンのことはもういい。あなたの人生を歩きなさい。――だから、怖くて、顔を出せずにいる。本当は大切にしなければならないのに。
「……あの人たちは、わたしにロウエンを、忘れて欲しいのかしら」
 庭で蛙が鳴いている。ヒノトの住まいはそこそこの大きさを持つ西方風の邸宅で、広い庭を持っている。今日の夕食はその庭に面した畳敷きの一室だった。りりん。りりん。魔除けの風鈴が蛙の合掌に混じる。蚊帳を通した向こうに魔術の燐光に似た、蛍の光が飛び交っている。
 西の花季の夜はどのようなものだっただろうか。
 故郷の記憶はすでに儚い。鮮烈な記憶はいくつかしかなく、それをかき集めて自分は生きている。
 死にたかった。けれどだれも殺してはくれなかった。さりとて自死を選ぶこともできなかった。彼は自分に最後に言った。あいしている。生きて、と。
 時が経つほど、自分がいかに愚かな小娘だったかを思い知る。自分は多くの者たちの人生を変えた。たとえば自分を次期女王と恃んで仰いでくれていたものたちの。たとえば、自分が陛下と仰いだ紅茶色の髪の女王候補の。彼女に追随するものたちの。ロウエンを慕っていた者たちには深い傷を残した。その罪深さより彼の恋しさが勝ってしまう自分は、何と無責任な女なことか。
 ならば彼との思い出を掻き抱いて、生きるしかない。
 彼のように振舞う。そうでなければ彼が消えてしまうから。医師になる。彼が昔かたった仕事の中身を少しでも理解するため。この国で命を救うために奔走する。彼がしたいことだと言っていたから。
 そうしなければ、彼が時とともに薄れていきそうで。
 こんなにも必死なのに。
 彼を同じく愛したはずの家族が、彼を忘れろという。
「アリガに幸せになってほしいだけなのだろうよ。本当に忘れて欲しいわけではない。過去に縛られることをよししない者の方が多いからな。妾なら、余計なお世話じゃというが」
「ヒノトはわたしをあまやかすのね」
「前を向いて歩き出せる幸せもあれば、過去に浸って生きる幸せもあるというだけであるもの」
 赤子のころから一緒だった、たいせつなぬいぐるみがあった。
 寝ても覚めても一緒に連れまわしていたから、ぼろぼろになって、ある日、取り上げられてしまった。
 いつまでもそのようなもの、抱いていてはなりません。もっとあなたにふさわしいものがほかにたくさんあります。
 けれど自分はそれを大事に抱きしめていたかったのだ。
 ヒノトがアリガの髪を撫でて続ける。
「所詮、人の数だけ幸せと不幸がある。おぬしがしたいようにすればよい」
「前言撤回。ヒノトはわたしに厳しい」
「そうか? ……妾はいつだってアリガの味方よ。仕切り直したいというのなら、国を出る手配だってどうにかする。ただ、妾はきっと頭がおかしくなるぐらいさびしくなるぞ」
「あなたにはあなたのご友人たちがいるでしょう」
「それでも妾がこの上なく孤独だったとき、わらわの傍にいたのはおぬしひとりよ」
 医療の学び舎の数年間。夜を共に過ごした。今日のように。
「命を懸けた恋など、そうそう捨てられはせん。そのために生きる生を見守ろう。新しい出会いを受け入れるのなら祝福する――どのような未来を選び取っても、わたしだけはあなたを肯定する、アリシュエル」
 うん、と頷きながら、アリガは目を閉じる。
 友人のぬくもりは、あたたかい。夏であっても心地よい温度だった。
 それは東に来なければ得られなかったものなのだ。
「さて、リューヤのことじゃが」
 ヒノトが空になった杯へ果実水の瓶を傾ける。
「担当を変えるか?」
「そこまではいいよ」
 アリガはごろりと仰向いて友人の顔を見上げた。
「ほどなく退院だし」
「ウツギどのは放置か?」
「相手が真剣に話して来るなら考えるけどね。……まぁ、ただ褒められただけだし」
「公衆面前で言われたも同然なのに、褒められただけと言うか」
「社交辞令で言われ慣れているもの。花束や宝石と一緒に親の前で告白されるなんてよくあったよ」
「……おんしを口説くの、大変そうじゃな」
 ヒノトが呆れた顔をして天井を仰ぐ。
 アリガはようやく笑えた。


 リューヤは無事に退院した。付き添いのウツギは少々、気恥しそうな顔ではあったが、アリガが微笑んで挨拶すると、安堵した様子で礼を述べて息子を連れ帰った。
 日は流れ、夏は暑さを増し、ヒノトが仕事を休むようになった。睡魔が猛烈にくるようになったという。起き上がれたと思った瞬間に眠気に襲われてふらつくことがあるとのことで、ご夫君に軟禁されている。アリガは彼女の仕事を引き継いだり、彼女の助手の相談にのったりと、することに事欠かない。
 リューヤは時折、父親と通院してくる。術後の経過は順調で元気いっぱいだ。付き添いのウツギの方が夏バテしているようで、顔色がよくないように見えるほどである。ただそういった人々はたくさんいて、増えた外来患者の多さに追われてアリガは夏を越した。
 夜の合唱団が蛙から鈴虫に切り替わり始めたとある日、早番を終えて職場を辞しかけたアリガは、入院棟の前をうろうろしているリューヤを見つけた。
「リューヤ」
 アリガの声掛けに少年の細い身体がびくりと震えて振り返る。
「どうしたの、今日は通院の日じゃないよね」
「あー、えーっと……その、ヒマリ、は?」
「違う病院に移ったよ」
 術後経過を診て、別領地の医院に転院した。もともと、そういう話だったのだ。
 ふとアリガはリューヤが握りしめる秋桜を認めた。
「……お見舞いだったの?」
「……別の病院ってどこ?」
「ごめんね。それは言えないかな」
 アリガの回答にリューヤが下唇を噛みしめる。
「ひとりで来たの? リューヤ」
 力なく頷く少年にアリガは苦笑した。
「途中まで送ろう。先生も帰るところだから」
 どうせ帰り道だ。この皇都の治安は悪くないが、大人として知人の子どもを放置したいとは思わない。
 アリガが促すと、リューヤは悄然としたまま歩き出した。
 日の傾きも早くなったな、と、黄みを帯びた陽射しに目を細める。東の果ては、故郷より季節がくっきり移ろう。きちんと整備された通りを往来する人々に紛れて歩き、路傍にススキが見られるようになった人もまばらな小道に出ると、リューヤがぽつりと呟いた。
「先生はさぁ、好きってわかる?」
「どういう好き?」
「好きは好きだよ」
「特別な好きなら知っているよ」
「どういうやつ?」
「ずっと、傍にいたくて、たまらなくなるようなもの」
 アリガが正直に答えると、リューヤはふぅんと呟いた。
「……先生は、そういう人、いるの?」
「うん、いるよ」
「……せんせー、結婚してたっけ?」
「してないよ」
「じゃあ、そいつといつかするの?」
「したかったな。もうできない。死んでしまったから」
 リューヤがはっと目を瞠る。アリガは微笑んだ。
「かなしいね。好きな人が唐突にいなくなったら」
 初恋を失った少年は唇を引き結んで顔を歪めた。
 かなかな、と、ひぐらしが鳴き始めた。


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