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番外 すべてはあなたのためだけに 1


 親愛なるあなた。
 お元気ですか。わたしは元気です。
 ダダンから赤ちゃんを産んだと聞きました。本当におめでとう。身近なお医者さまから口を酸っぱくして言われているとは思うのだけれど、どうかくれぐれも身体には気を付けてね。忙しい身でしょうからなおさら。わたしの働く場所でも、出産したあとに身体を崩す方がとても多いのです。こちらの滋養のあるものを、と思いましたが、口に入れるものは怪しまれますね。おくるみ用の布と本を送ります。
 布は最近こちらで流行っている肌ざわりのよいもので、まだあまりそちらでは出回っていないと思います。本は医学書なので、ご担当のお医者さまか、あなたのもっとも身近な彼女に。そちらとこちらでは医療の在り方が大きく違うので、参考になるものもあると思って。
 でも不思議な気分です。あなたが子どもを産むなんて。時の流れの速さに驚きます。
 あなたと別れてからどれほど経ったのでしょう。
 わたしは近頃とみに、あなたたちと過ごした、最後の日々を思い出すのです――……。


 東大陸東部、《水の帝国》帝都。
 峻険な山脈のふもとから内海に向けた湾に向けて広がる湾港都市で、光り輝く水路が張り巡らされ、青々と茂る緑と玉砂利で歩道の整備された美しい街である。
 その街の中央やや南寄りに、皇立病院の敷地はあった。
 ただ広い敷地に並ぶ棟の中でも、年少者向けの棟は特に騒がしい。
 入院中の子どもを診ていたアリガは、廊下から近づいてくる慌ただしい足音に振り返った。同時に開けっぱなしの入り口から、少年がひとり飛び込んでくる。
 年は七つ。臓器の疾患で入院している彼は、先だって受けた手術が成功し、元気が有り余っているらしい。ここのところ毎日あちこち院内を出歩き、入院仲間の友人たちを激励して回っている。
 焦った顔の少年にアリガは呆れた声で尋ねた。
「リューヤ、今度は何をやらかしたんだい?」
「またって何だよ先生」
 窓辺に近い寝台の影に入り込んで、リューヤが口先を尖らせる。
「俺はヒマリを見舞っただけ」
「リューヤ! 待たんか! コラ!」
「うげぇ、来た!」
「……見舞っただけで、ヒノトが追いかけてくるの?」
「しーっ、先生、黙っててよ!」
「ここかっ!」
 憤怒の形相でリューヤを追いかけ現れた女は彼の担当医だ。
 光を弾く銀の髪。鮮やかな緑の目は、アリガに故郷に溢れていた、肉厚のばらの葉を思い起こさせる。肌は褐色で顔立ちも東方人とは異なっている。彼女は南大陸の出身なのだ。
 名をヒノト。アリガの親友で、この病院で名の通った腕利きの女医だった。
 リューヤががたっと立ち上がる。
「わわわわわわっ!」
「観念しろ!」
「やだ!」
 リューヤが開放していた窓の桟に足をかけ、外へ飛び出す。
 室内の子どもたちが息を呑み、アリガも目を剥いて立ち上がった。
「リュー……ヒノト!?」
 リューヤを追ったヒノトがアリガの前を横切り、その小柄な身体を窓からひょいと宙に躍らせる。
 アリガは思わず窓に飛びついた。
 ここは、二階なのだ。
「ふたりとも……っ!」
「はなっ、はなせよー!」
「大人しくせんか! 縫合の治りが悪くなるぞ、馬鹿ものが!」
 窓の外に立つ樹を器用に伝い降りたふたりが、一階の中庭でもつれ合っている。
 彼らの無事を喜ぶべきか。患者の子どもとぎゃいぎゃい騒ぐ同僚に頭を痛めればいいのか。アリガはため息を吐いた瞬間、ふたりの傍で立ちすくむ男に気づいた。
 通りすがりというには、やけにおろおろとして、リューヤたちの傍に留まっている。この辺りでは一般的な、黒髪と黄みがかった肌色。遠目にもしっかりした体躯の男だ。
 彼が天を仰ぎ、ふと、目が合った。
 男がぺこりと一礼する。
 その困ったような笑い方に既視感を覚えながら、アリガはつられて頭を下げていた。



 何のことはない。
 その男の正体はリューヤの父親だった。
「本当に、うちの子が申し訳ございませんでした」
 ウツギと名乗った彼がリューヤの頭を押さえつけて平謝りする。アリガはいえいえ、と、手を振った。
「むしろ驚きましたよね。息子さんとうちの医者が空から降ってきて……」
「うちの子の身の軽さにお医者さまが付いてこられるとは」
「え、そちらですか?」
「くそー、ヒノト、マジなに? ホントに医者かよ」
「医者じゃ。お前を治療した当人じゃよ。もっかい腹を掻っ捌かれたいか?」
「冗談やめろよな!」
「いたずらもたいがいにせんと、本当にするぞ」
「ヒノト……保護者を前に物騒なこと言うのはやめようか……」
 ウツギが笑っている。これは反応に困っている顔だ。アリガには何となくわかる。ひとまずアリガは、すみません、と、彼に謝っておいた。謝罪すれば何となくその場がまとまる点がこの辺りの文化のよいところである。
「と、いうことで、これまで彼女がリューヤ君の担当医だったのですが、あまりにも相性が良すぎるということで、今後、わたしが担当になります。アリガです」
「あ、これはどうも」
 ウツギが再び頭を下げる。リューヤがぱちぱちと瞬いた。
「え、せんせーが俺のせんせーになるの?」
「うん、そうだよ」
「妾はきいとらんが?」
 アリガの腕を引き寄せ、友人が憮然として囁く。アリガは彼女に微笑んだ。
「ここに来るまで院長から指示があったよ。経過観察だけなら、わたしでもいいからね」
 ヒノトは医学の全分野に精通した医師だ。難しい病の患者をよく割り当てられる。アリガもそう腕は悪くないと自負しているが、ヒノトには遠く及ばない。彼女が手術した患者を引き取るのはよくあることだ。
 ただ、ヒノトはそれをよく思っていない。患者を横取りされるから、ではなく、アリガがヒノトの補佐役のように扱われるのを嫌がるのだ。
 ウツギに息子の病状の経過を説明し、投薬の説明などをして帰してからも、ヒノトの機嫌はよくならなかった。
「アリガは妾の助手じゃない」
 更衣室。帰宅の準備中。
「そうカリカリしない。だいたい、君の助手は皆もう手一杯じゃないか。リューヤの病状から考えて、わたしが引き受けるのは有りだよ」
「むー」
 ヒノトが唸りながら、作務衣と白衣を洗濯籠に放り込む。
 アリガが普段着の小袖に腕を通していると、背後の長椅子に座ったヒノトが、背もたれ代わりに寄りかかってきた。
「ねぇ、着替えられないんだけど」
「……上は妾に何かあっては困るから、おんしにばかりしわ寄せがいく」
「それを理由にここを辞めるだなんて言わないよね」
 ヒノトから一歩分だけ離れ、アリガは帯を締めながら告げた。
「わたしはうれしいよ。君と一緒に仕事できるの。それに、本当に君の仕事を継ぐのは苦じゃない」
「おんしが難しいことのできん無能な医者のように記録されることがいやだ」
「わたしたちの使命は人の命を救うことだ。それにわたしの実績って関係ある?」
「ある」
 ヒノトはきっぱりと断言した。
「人の命は脆弱じゃし、自分の手が及ばぬときなぞ腐るほどある。人の命を救うための相方には、おんしを選びたいのに、紙切れに残る文面でそれを否と断じられる可能性がある。くやしいことよな。おんしは妾が最も尊敬する医師のひとりなのに。人を救える可能性が、下らん権力闘争の結果、目減りすることが腹立たしい」
 彼女はひと息に言って、ため息を吐く。
「術後経過を診るのは医師の重要な職務じゃから、それを軽んじているわけではない。おんしに任せられるのはありがたいよ」
「知っているよ、ヒノト」
「ただ、『それが軽く記録される』ことと、『おんしを軽く記録しようとする』輩がいやなのじゃ」
「うん」
 ここは皇帝の肝いりで設立された大病院だ。患者は貧しいものから富めるものまで幅広く、権力と癒着しない、公平な医療を掲げているし、運営費や人事の透明性を維持するための監査も細かく入る。
 それでも人を救いたいという使命だけを抱えた、聖人君子のみで構成されているわけではない。
 そして真っ当であればあるほど、実績になりづらい職務を振られることになり、現実との乖離から、この医院を去る医師もいる。皇帝はこの現状を知っているが、下手な粛清は医師不足を招くから、様子見しているというところだ。
 着替え終わったアリガは振り返って親友の頭を引き寄せた。
「むずかしいね」
 組織はあまねく強大化と共に力が生まれる。権力闘争は苛烈すると血を見る。アリガはそれを知っている。
 ヒノトはよく腹を立てるが、アリガからするとこのようなこと、いやがらせの範疇にも入らない。
 むしろ自分のために怒ってくれる人が傍にいる。その事実の方がうれしい。いまついている仕事が、かつて願った通りに人を救うものであればなおさら。
「リューヤのこと、頼むな」
「うん。……ところでリューヤはどんないたずらをしたの?」
「ヒマリの病室に蛾を放った」
「蛾」
「しかも何匹も」
「うわ」
「ヒマリは泡を吹いて倒れた」
「それはまずいね」
 ヒマリは今年五歳になるとある名家の箱入り娘だ。リューヤに悪気はないとは思うが、おそらく、ヒマリをそうとう怖がらせたに違いない。
「今日はうちによるか? 引継ぎのことも話す時間がほしいし」
「そうだね。そうしようかな。お館さまはいる?」
「どうじゃろう。近頃は早うに帰るがの。何か用か?」
「うん。今日のヒノトの無茶を報告しないと」
 アリガはにこやかに宣告した。アリガの顔色が目に見えて悪くなる。
「むむむ、むちゃとは?」
「あれ? 自覚なかった? 君が軽業師のように身が軽いのはわたしも知っているけれど、今日みたいに窓から飛び降りるのはだめだ。あぁいうことをほいほいされると、わたしも含めて周りの心臓が持たないからね」
「たかが二階の高さじゃろうて」
「妊婦は二階から飛び降りたりしないんだよ。ということで、お館さまには報告します」
「ひっ」
 身を引くヒノトの襟首をアリガはしっかり掴まえた。逃げてもらっては困る。
 このヒノト、妊娠三ヶ月である。悪阻で動けない妊婦が圧倒的に多いのに、彼女はそうとう軽い方らしい。平然と仕事をしている。いや、もしかするとこれから体調が急落するかもしれないが。
 とにかく彼女には安静にしていてほしいし、院内でどたばた追走劇を繰り広げるのはもってもほかだ。お館さま――つまり、ヒノトのご夫君だが、過保護な彼にこってりと絞られて反省するとよろしい。
 梅干しのごとくしおしおになった親友の腕をとり、アリガは笑いながら更衣室を出た。


 昔アリガはアリシュエル・ガートルードという名の貴族の娘だった。西の果ての小国の女王候補だった。
 そこで恋をした。一世一代の恋だった。愚かで浅はかだった自分の恋は、愛していた男を殺し、自分は血族すべてを見限って、この国へとやってきた。
 恋人の家族の無念を引き受けるために。
 彼らに殺されるために。
 彼らはアリガを殺さなかった。暴言を吐くことすらなかった。辛かったね、と、大変だったねと、愚かな小娘を労わってすらみせた。何百という罵りの言葉より、殴る蹴るの暴力より、アリガを打ちのめした。自分は、恨まれることすら許されなかったのだ。
 恋人の年老いた両親は戻らなかった息子の代わりにアリガを引き取った。自暴自棄になっていた自分に医者という道を示したのも彼らだ。
 感謝している。
 アリシュエルの恋人は医師だった。本当は次代の医師をたくさん育てて、多くの人を救っただろう人だった。アリガとして生かされた娘は、彼の代わりになることを決めた。口調や身振りを「彼」のように改め、医学書を読み漁り、恋人が教鞭を振る予定だった医師の学び舎に、補欠でどうにか合格を果たした。
 その学び舎でヒノトたち苦楽を分かつ仲間たちと出逢い、いまは人の命を守るこの仕事に使命を感じて取り組んでいる。
 これを恵まれているといわずに何と言おう。
 哀しいことや辛いことがあっても、労わってくれる人々がいて、彩に富んだ食事を彼らと囲み、笑って過ごせるこの日々は充実している。


 けれど、あぁ、親愛なるあなた。
 わかるでしょうか。
 月のように満ちるものがある一方で。
 永劫に埋まらない欠損もまたあるのです。


 病院の敷地のあちこちに、池や鑓水を擁する中庭や、小休憩のための東屋がある。
 そのうちのひとつを陣取って、アリガは昼食を取りがてら、患者たちの診療記録に目を通していた。自分たち用の食堂もあるにはあるが、騒がしいし、夏のいまの季節は人の熱気で蒸す。まだ風の通るぶん、外の方が過ごしやすい。
 祖国でいう花季に当たる季節はこの国にない。強いていうなら春と夏だ。春はまだよいのだが、夏はとにかくべたついて暑い。そして蝉の声がうるさい。それがまた暑さを掻き立てる。
 帝都で暮らし始めてそれなりの年数を経たが、慣れないな、と、アリガは日差しの眩しさに目を細めた。
 その視界に影が差す。
「ごめんください、先生」
 東屋の外に男が立っていた。逆行の中、目を瞬かせ、彼が誰なのか確認する。
「ウツギ、さん?」
「はい。リューヤの父です。休憩中にすみません、先生」
「よろしければ、こちらへどうぞ」
 アリガは卓の上に散らばる資料を雑に端へ寄せ、対面の席をウツギに勧めた。ウツギは逡巡したが、失礼します、と、断りを入れ、下がるすだれを上げて東屋に入ってきた。
「長居はしません。少しお話が」
「かまいませんよ。よくここがわかりましたね」
「ヒノト先生に教えてもらいました」
 息子を見舞った帰り道にヒノトと会ったらしい。
 最初は彼女に話したそうだが、担当医が代わったからと、アリガの居場所を耳打ちしたそうだ。
 ウツギは落ち着かなげに手を組み合わせていたが、覚悟を決めた顔でアリガと向き合った。
「……あの、リューヤのいたずらの件ですが、やつの教育がなってない自分のせいでして。よく言い含めましたんで、二度とせんと思います。最後まで見捨てずにいてやってくれませんか」
「それはもちろん……」
「自分が、男手ひとつで、しかも仕事柄、よくよく構うこともできなかったせいか、派手なことをして、人の気を引きたがる癖があるようで」
「ウツギさんは……船員、でしたか?」
「大陸間船の操舵手をしています。あぁ、無補給船じゃない方、の、ですが」
 大陸を行きかう船は二種類ある。ひとつが無補給船。商工協会が運行する魔力を動力とした高速船だ。大陸間を数日から七日程度で渡る大型船である。もう一方は港から港を渡り、補給を受けながら航行する船だった。大陸間、と、名が付くが、ひとつの大陸沿岸をぐるっと一周するだけの船も含める。魔術系の動力がないので、船員の拘束期間が長いらしい。
「自分の仕事は、まとまった給金が前払いされるんで助かるんですが、なかなか息子を見てやれません。ほっぽいたせいで、あいつの病気にも長く気づかないままでしたし……助けてくださった先生方には、本当に感謝しています。お礼が遅くなって申し訳ない」
「あの、いえ、そこまで恐縮されなくても。こちらとしては仕事ですし」
「蝶を見せたかったそうなんです」
「はい?」
「蛾です。リューヤは、蛾と、蝶の、区別がついていなかったと」
 そこでようやっと、ウツギの息子がしでかした、いたずらの件だと気づいた。
 リューヤがヒマリに見せたかったもの。
 蛾の種類は聞いている。ぱっと見は茶の翅で、瞬くとその裏側に宝石のような青緑が覗く類のものだったそうだ。ただ、胴体がふとく、ばたばたと飛び交うので、入院中の少女たちが怯えて倒れてしまった。
 アリガはふっと笑った。
「リューヤ君に悪意がないことは知っています。暗くなりがちなほかの子どもたちに、明るく振舞って元気づけようとする、やさしくて強い子ですよ。……見捨てることはありません。医者であることを差し引いても。健康にしてウツギさんの下へお返ししますから」
「……ありがとうございます」
 ウツギが安堵した顔で息を吐いて立ち上がる。
「お忙しいところ、お邪魔しました、先生」
「いいえ。……ウツギさんはしばらく帝都にいらっしゃるんですか?」
「はい。肝心なときに、息子についてやれませんでしたし、しばらく休みをとりました」
「そうですか」
 また来ます、と、丁寧に頭を下げる男を見送って、アリガは足下に落ちた影を見た。
 この国の夏の日差しは眩い。作られる影は闇よりも濃い。
 蝉がしゃわしゃわと鳴いている。
 周囲はうるさいほどなのに――世界にたったひとりで立っているような気持ちに、なる。


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