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番外 すべてはあなたのためだけに 3


 ところで病院にはよく手紙や荷が届く。
 個人宛の荷物を病院宛にしている医師や看護師も多い。医療従事者は勤務時間があやふやになりやすく、家を不在にしがちだ。防犯上の意味もある。ひとり住まいのものは特にそうだ。アリガもそのひとりだった。
 学会の報せ。勉強会の誘い。学生時代に友誼を結んだ、遠方の医院にいる友人たちからの近況報告、最新の薬の試薬、取り寄せた珍しい薬草の類、などなど。
 アリガが治療に関わって完治、あるいは寛解した患者から、お礼の便りが届くこともある。
 そのようなものに混じり、一通の封書がアリガに届いた。
 秋も少し深まりつつあるころのことである。
 休診時間に入り、ため込んでいた手紙や荷物を裁いていた折、アリガはその封書を見つけた。
 淡い緑とたまご色の混じる手梳き紙で作られた、なかなかに雅な封書だ。
 この国では皇帝が姓無し――いわゆる平民の教育に腐心している。先代皇帝が国の機構を粉々にし、おびただしい知識人が殺され、多数の亡命者が出たという過去があるためだ。文字は読み書きしなければ定着しない。ということで文具は子どもの小遣いでも買える程度に抑えられているが、色付けしたり、柄模様のものが入ったりといったものは、やや値が張る。
 差出人は見知った人からのものだ。
 封を切り、封筒と同じく美しい色合いの便箋に連なる文字に目を通す。
 少し考え、アリガは机の引き出しの中から、返信用の便箋を取り出した。


 次の休みの日、残暑もすっかり和らぎ、ぽかぽかと暖かく心地よい陽気の昼下がり。
 アリガは客でざわめく茶屋の一席でウツギと向かい合っていた。
「正直、驚きました」
 と、ウツギは言葉通りの表情をして言った。
「来ていただけると、思っていませんでした」
 給仕の女中から注文していた甘芋の焼き菓子と茶を受け取りつつ、アリガは苦笑する。
「場所と時間を指定して、行く、と返信したのはわたしですけれど」
「それは、そうですが……」
「勘違いしないでほしいのですが、わたしはウツギさん、あなたに好悪の感情を、何も持っていません。でも、一回ならお話を聞いてもいいと思いました」
「それは……リューヤの父だからですか?」
「いいえ。あなた自身が誠実だと思ったからです」
 暖かい湯気を立てる茶はほうじ茶だ。それをウツギにも手ぶりで勧め、アリガは自分の分を手に取った。
「診療にかこつけて院内でわたしに私情を話そうとしませんでした。待ち伏せもなかった。きちんと選んだ便箋に、お話の要件を書いて送り、応じるかどうかの裁量をわたしに任せてくださった。なにより、リューヤ君を理由にしませんでしたから」
『先日もお伝えしたとおり、アリガさんのことを好ましく思っています』
 あのきれいな便箋には武骨な文字でそう綴られていた。
『もう少し、あなたとお話をしたいのです。お時間をいただけないでしょうか』
 実は患者やその関係者から色恋事を持ち込まれることは少なくない。患者に対する献身を、その当人ひとりのものと誤認する人は多い。診療時間に体調不良を偽って押しかけ、公衆の面前で堂々と告白するものもいる。先日のウツギの行動がそれなら、ヒノトもあれほど冗談めかしに笑ってはいなかった。そういったことを患者から繰り返されては困るから、みなその場で拒絶する。それを察して帰宅途中の者を待ち伏せする者もいる。患者の関係者――特に子どもの親は、病人についての相談と称して呼び出すこともある。
 だがウツギはそのどれでもなかった。だから一度は話を聞くことにした。誠意ある対応には同じものを返さなければ、逆にひどく激昂して騒ぎを起こすこともあると、アリガは故郷の経験上わかっている。
 アリガ自身にはひそかに護衛が付けられている。ヒノトのお館さまからの好意――というより、友人になにかあって愛する妻を嘆かせたくないからだろう。その、誰とも知らない護衛が傍に張り付きやすく、暴言や乱暴を働かれにくい大衆の場を、落ち合う場所として指定した。それでもいいか、と返信したら、かまわない、と、即座に返信がきた。
 ので、このように都の目抜き通りにある人気の茶屋で、ウツギとふたり、茶と茶菓を挟んで向かい合っているのである。
 喉を少し潤したあと、アリガはゆったり微笑む。
「それで、わたしと何をお話なさりたいのですか?」
「――叶うなら、わたしとリューヤの家族になっていただきたい」
 ウツギは眉間にしわを寄せて言った。少々、率直が過ぎて、アリガが面食らうほどだった。
「突然、自分のような男やもめに言われて、先生も困ってだと思います。でも、それを、縁が切れる前に、どうしても、お伝えだけはしたいと思って、ご無理いいました」
「……それだけですか?」
「えぇっと、はい。それだけ、なんですが」
 おいしそうー、と、隣の席の少女ふたりが、配膳された甘味を前に騒いでいる。
 前々から感じていたが、ウツギは会話が得意ではないのだろう。
「そこまで思われた、理由をお伺いできますか?」
 アリガは竹の菓子切りで菓子をひと口大に切り分けながら尋ねた。
「ウツギさんとそれほどお話しした記憶がないのですが、わたしの何をそこまで気に入ってくださったんでしょう」
「そう、ですよね……」
 ウツギは気安く異性に声を掛ける性質には見えない。異性に慣れていれば、病院で小さな騒動を起こすこともなかっただろうし、そもそもこの場で継ぐべき言葉を失うこともないに違いない。
「一目ぼれだったのではないか、と、思います。たぶん」
 何とも自信がなさそうに、もごもごとウツギは告白した。
「会うたびに、おきれいだな、と、思っておりました。お美しい方は他にもお会いしたことがありますが、先生のお顔が、頭から離れんのです。それこそ、妻と出逢ったときのように」
 アリガは菓子を口に運ぶ手をいっとき止めた。
 その反応に気づいた様子もなく、ウツギは話し続ける。
「先生のご迷惑になるのはわかっておりますから、お話するつもりはなかったんです。ただ、息子が……話した方がいいと」
「……リューヤ君が?」
『父さん、先生が好きなら言った方がいいよ』
 想いは顔を合わせているその時に告げなければ。
「自分は、船乗りですから、長く家を空けがちで、リューヤのことは妻にほとんど任せきりでした。妻はリューヤをよく育ててくれました。……妻の死は馬の事故が原因でして、突然でした。もっと、ありがとうと、愛していると、言えばよかったと、何度も後悔したことを、思い出しまして。……リューヤが背を押してくれるなら、先生が、会う機会をくださるなら、言うだけ言ってみようと。そう思った次第です」
 言葉を選びながらとつとつと語り切り、ウツギが安堵の顔で息を吐く。
 アリガは視線を落とした。かさの減った茶の水面に、己の顔の影が落ちている。
 輪郭に添って髪を切り揃えた顔は、あのころからずいぶんと年を重ねたけれど、いつも心細そうな顔をしている。
「……ウツギさんは」
 卓の上で拳を握ってアリガは対面の男に尋ねた。
「奥さまを、お忘れに、なったんですか?」
「いいえ、まさか」
 ウツギは思いがけないほど明るく笑った。
「ここのところ、毎日おもいだしますよ。リューヤが妻そっくりなものですから。日増しに似てくるので、あの子の顔を見て、妻を忘れられません」
 アリガは自分の患者となった利発な少年を思った。確かにウツギにはあまり似ていないかもしれない。
 アリガは目を細めてウツギを見た。
 微笑を浮かべて問いかける。
「……奥さまをお忘れでないのに、わたくしに声をお掛けになったのですか?」
 空気が僅かに重くなったことを気取ったらしい。
 ウツギは神妙な面持ちをして首肯した。
「そうです」
「奥さまをもう愛していないのですか?」
「いえ」
「愛しているのに、別の誰かに妻になってほしいと請うても構わないと」
「何が先生のお気に障ったのか、わからんのですが……」
ウツギは焦った顔をしていた。
「ご不快なことだったら、すみません。ただ、妻は自分と生きておりますから、先生のことが頭から離れないということは、妻も先生を気に入ったと、そう思っておりまして……」
「……どういう、意味ですか?」
「ど、どういうとは……」
 アリガはようやくそこで、十七の自分が――恋人を失って嘆く小娘が、面に出ていたことを自覚した。ほうじ茶をひと口のんで息を吐き、揺れた感情を制御する。
「詰問したようになってしまって、こちらこそすみません。……その、奥さまが、ウツギさんと、生きている、というのは……?」
「あぁ……」
 ようやく合点がいったとウツギは頷いた。
「何と申し上げますか……。肉体的に言えば、妻は死にましたが、妻の心は自分と共に生きている、と、そう思っておりまして。……妻はリューヤとも生きています。悲しいことがあれば、妻の温もりを傍に感じます。自分が楽しいときは、きっと妻も共に喜んでいます。妻はそういう女性でした。死を通して、妻は自分とひとつになったのです。だから、自分が先生のことが忘れられず、リューヤも先生に懐いているのなら、きっと、妻もあなたを好いているのだろうと……」
 それはアリガにとって思いがけない考え方だった。
 西大陸(こきょう)において、死者はすべからく主神と聖女の御許へ――楽園へ迎えられるとされた。魔を縛する地に留まるものはない。
 だがこの東大陸には、聖女の信奉者はいない。
 使者は主神の御許に導かれると信じる者がいる一方で、地に留まって精霊となり、残された人々を祝福すると考える者もいる。
 そう思えばウツギの考え方は否定できるものではない。
 むしろ――……。
 アリガは無意識に己の手を握り合わせていた。
 その手が掴んだ男の最後の温もりの残滓を探るように。
「あの、ウツギさん……ウツギさん?」
 話を続けようとしたアリガは、ウツギの顔色が一変していることに気づいた。
 みぞおちを押さえ、顔をしかめる彼の額には、脂汗が浮いている。
 アリガは慌てて立ち上がり、彼の傍に回って跪いた。
「どこか痛むんですか? 話せますか?」
「すみま……だいじょう」
「大丈夫じゃないでしょう――すみません!」
 アリガは通りがかりの店員を呼び止めた。横になれる場所を貸して欲しいと頼み込む。周囲の客が何だどうしたとアリガたちを輪になって取り囲み、様子を窺い始めた。
「おしぼり使いますか?」
 明るい色目の絣を着たふたり組の少女が、アリガに真新しいおしぼりを差し出す。それを礼を述べつつ受け取りながら、アリガはウツギの顔を下から覗き込んだ。
 彼の唇が真っ白だ。椅子の上で大きな身体を丸めて震えている。
「話さなくても構いません。頷くだけで……痛みますか? 気持ち悪い? 吐きそうですか?」
 ウツギはアリガの手を握った。骨が軋むような強さだ。アリガは走った痛みに微かに眉をひそめたが、ウツギの手をもう一方の手で包み込んだ。
「大丈夫ですから。気をしっかり持って」
「お部屋、準備できました!」
 給仕の娘が駆けこんでくる。彼女の背後には担架を担いだ店員らしき男もふたり。
「ウツギさん、場所を移します……ウツギさん!?」
 どっと男が椅子から転げ落ち、アリガの方へ倒れ込んでくる。
 救急を呼んで、と、客の誰かが叫んだ。


「……頭じゃなさそうだな。内臓系だと思う。ほい、これ、療法士からの魔力浸透結果」
「ありがとう、ツツミ」
 場所は変わって皇立病院。アリガは自分の診察室で同僚の医者から、検査結果の載った紙束を受け取った。
 ツツミはヒノトと同じくアリガの学友で、皇立病院で検査系の主任をしている。彼は診察室の壁際に設けられた寝台に腰かけると、白衣の物入れに両手を突っ込んだまま、作務衣に包まれた長い足を投げ出した。
「結果だけ見りゃ、大きな異常はない。卒中とかじゃないのは確か」
「それはよかった」
「血の結果は半日まってくれ。……災難だったなぁ、逢い引き中に……っでっ!」
「足が邪魔だよ。狭い」
 資料をぺらりとめくりながら、ツツミの足を蹴りつける。ヒノトの真似をするなよ、と、彼は嘆息してその長い足を畳んだ。
 東大陸で魔術師はほとんど見られない。魔術素養があるものは、国で手厚く保護されて、暦や時間をつかさどる官吏として王宮に出仕する。施療士はそのなかで珍しく人の魔力の異常を察知できる才を認められ、王宮から遣わされた検査員だった。国中を探してもこの大病院と皇宮にひとりずつしかいない。治療に関わるわけではないものの、身体の中の隠れた異常を探し当てる。
 生物は内在魔力によってかたち造られる。健康であれば魔力の流れはよどみなく、そうでなければ滞りや濁りがあるらしい。アリガは時や方角を計れても、そこまではわからない。
 施療士の報告書には極度の疲労が蓄積したもの特有の濁りと、身体の各部位の魔力の停滞や、そこから予想される病気が記され、過去の類似症状の記録が添付されていた。
 アリガは眉をひそめて呟いた。
「頭じゃなさそうなのは何よりだけど……わりと満身創痍だね……」
「長く検査してないんじゃないか。船乗りなんだって? うちの国の船なら、法律違反で勧告罰金かもな。アリガから見てどうだ? 深刻そうか?」
「何か隠れてそうな気がするけど」
「虫垂?」
「違うと思う。わたしも一瞬うたがったし、可能性がないわけじゃないけど、反跳痛がなかったから」
「そっか」
 ウツギは茶屋のものに口を付けなかった。
 つまり、飲食は原因ではないのだ。
 あの急激な顔色の変化といい、失神に至った症状といい、何らかの病であることに間違いはない。ただ、病院に運び込んだあとは落ち着いて、病室で眠る呼吸も穏やかだ。微熱はあるが、騒ぐほどのものではなかった。
 アリガは報告書を革製の紙挟みに収めて言った。
「ご家族が来たら、何か変わったことが家でなかったか聞いてみる」
「リューヤ君か?」
「そう。それと、彼の面倒を見ている、ウツギさんの妹さんだね」
 リューヤの家族構成と連絡先は病院にあったから、すぐに急使を出した。うまく会うことができれば、そろそろ来るころだろう。
 案の定、ほどなくリューヤは叔母と共に看護師に連れられて、アリガの診察室へやってきた。
「先生!」
 青ざめた顔でリューヤはアリガに飛びついた。
「父さん、死なないよね? 大丈夫だよね!?」
「うん。……大丈夫だよ」
 アリガは少年の震える頭を撫で、やさしく繰り返した。
「だいじょうぶ」
 必ず、助けるから。
 もう自分は死に往くひとを見来るだけの、無力な小娘ではないはずだから。


「うーん……」
 アリガは椅子の背にもたれて軽く伸びをした。休みが一転、救急の患者を抱えることになってしまった。検査などの通常業務は当番の医師が担当したが、ウツギの病を特定するため、本と資料に目を通しすぎて、身体が凝り固まっている。
 アリガはため息を吐いて、ひとつ点した角灯の明かりに、検査結果の資料をかざした。血液、魔力、触診。これに加えて薬湯を飲ませたあとの反応で症状を診断する。東の医療は進んでいる。そもそも魔力反応まで診ることは少なく、たいていは過去の記録と照らし合わせてあたりをつける。
 ただ、ウツギが見せているような臓腑の病ともなれば診断に苦労した。
(痛みはみぞおちを中心で、夏前から吐き気を感じることがあった……。リューヤ君が退院するころ、顔色がよくなかった。あれが初期症状だったなら……あぁ、早合点せずに、きちんとした診療を勧めればよかったわ)
 アリガは紙束を卓の上に投げ出し、目を閉じてこめかみを揉んだ。外はすでに暗い。帰ったほうがよいが、せめて明日の診察に向けて目星ぐらいはつけたいのだ。ウツギには目の前で倒れられたし、リューヤとの約束のこともある。
 救いたい。
 救いたいのだ。
 目の前から零れる命すべて。
 己の傲慢は自覚している。それでも。
 あの人(ロウエン)の代わりに生き残ったのだから――彼が救えたはずの分、自分がそれをしなければ。
 こと、と、背後から茶器が置かれ、アリガははっと息を呑んだ。角灯の明かりを受けて、茶器の中で液体が揺らいで見える。色が黒いから、豆茶あたりだろうか。
「ずいぶんと根を詰めて。少し休憩した方がいい」
 茶を差し入れてくれたらしい男が告げた。
 穏やかな、けれども少し、呆れた声だった。
「疲れていると、視界が狭くなる。見えているものが見えなくなるよ」
 と、彼は言った。
 彼はアリガの脇から手を伸ばし、積み上げられた冊子から一冊を抜いた。後ろでぱらぱらと紙を繰る音がする。
「この辺りかな。君も読んだことがあるはずだ。休憩してから読むといい……――アリー」
 アリガの前に開いた冊子を置いて彼は呼ぶ。
「アリシュエル」
 はっと、瞬く。
 背後を振り向きたい。
 なのに、振り向けない。
 その硬直した肩に暖かな手が置かれる。労わるように。
 アリガは――アリシュエルは唇を震わせた。
「ろ、うえ」
「君の自由は僕の自由だ」
 背後の誰かが、アリシュエルの頭のてっぺんに、やさしく口づける。
「囚われるも囚われないも君次第だけれど、僕は君の笑顔が好きだよ。好きにしたらいいんだ。君の感動も、君の苦しみも、君の愛も、君の生も。僕の代わりではない。君が僕なんだ」
 いとしい声がする。
 顔は見えないのに誰の声かわかる。
 なつかしさと愛おしさで胸が苦しくなる。
「どうか僕を愛したように、君自身を愛してほしい。君は頑張っている。充分に。大丈夫。共にいる。幸せの道を共に行こう――愛しているよ」
 それは夢だったのだろう。
 自分を好いたという男と外で会うなんて、滅多にないことをしたものだから。いとしい男に許されたかった自分が生み出しただけの妄想だったのかもしれない。
 それでも。
「――アリガ」
 肩を揺らされてアリガは我に返った。
 いつの間にか開いた冊子の上に両腕を枕にして伏せている自分がいた。背後にはツツミが立っている。彼は安堵に似た吐息を漏らし、とがめる声でアリガに言った。
「こんなところで寝るなよ。風邪ひくぞ」


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