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第一章 潜伏する内通者 2 


 アルマティンは笑みを消すと、踵の音も高くひと息にマリアージュとの距離を詰めた。素早く伸びた女の手が、退き損ねたマリアージュの首を掴み上げる。
「ダイはどこ!?」
「……し、らな」
「そんなわけないでしょう! ずっと一緒にいたはずよね、女王サマ――あなたいったい、どこにダイを置き去りにしたのよ!?」
 ぎり、と、首がさらに絞まる。にわかに目の前が暗くなった。このままでは、卒倒してしまう。
 マリアージュは体重を乗せて女のつま先を踵で踏み抜き、首にある手の力が緩んだ隙を突いて、渾身の力で目の前の身体を突き飛ばした。
「いっ……」
「うっ……けほっ、ごほごほっ……げほっ」
 マリアージュは脱力してその場に沈み込んだ。空気を求めて身体が跳ねる。整わない呼吸に、胸がきりきりと悲鳴を上げている。喉元に触れれば鈍く痛んだ。痣になっていそうだ。
 星の瞬く視界が開けてくると、その端に女のつま先が見えた。のろのろ、顔を上げる。色を失うほど激怒した女の顔が、無言でマリアージュを見下ろしている。
 胸の動悸が収まって、改めて疑問が湧いた。
「花街の芸妓がどうしてここにいるのよ?」
「質問しているのはあたしよ。遠くへ行っていたんでしょう? ダイはどこなの?」
 女の声は研ぎ澄まされた刃のようだ。
 マリアージュはため息を吐いた。
「ペルフィリアはわかる、のよね。こっちに帰ってくる途中、そこの国境沿いで、タルターザっていう町の住民が起こした暴動に巻き込まれたの。逃げる途中にはぐれて、それきり」
「暴動……? なによそれ。そのまま、あの子を放置してきたの!?」
「うっさいわね! 私だって好きであの子のことを放り出したわけじゃないのよ!」
 アルヴィナをタルターザに向かわせたし、自分だってデルリゲイリアに戻り次第、手を打つつもりでいたのだ。
「いまどこにいるのか、私だって知りたいわよ!」
「……探したいって、思ってるの?」
「は!? 当たり前でしょうが!」
 俄かに苛立ちがこみ上げて、マリアージュは怒鳴り返す。
 アルマティンが怒らせていた肩を落として、マリアージュへと手を差し伸べた。
 逡巡したのち、アルマティンから手を借りて、マリアージュは腰を上げた。立ち眩みを覚えてよろめく。が、支えの手がアルマティンからすぐさま伸びた。彼女は丁寧な手つきで、マリアージュを手近な椅子に座らせる。
「乱暴したわね。ごめんなさい。……女王様たちが暴動に巻き込まれたのはいつのことなの? そう前のことじゃあないことは、わかるんだけど」
「……半月、ぐらい前よ」
 マリアージュは日数を逆算しながら答えた。アルマティンが顎に手を当て、はんつき、と、ちいさく反芻する。
「……ちょうど同じぐらいの頃ね。お貴族様たちの勢力図が、がらっと書き換わってしまった。花街(うち)にもずいぶん影響があった」
「……客が貴族だから?」
「そう。……お茶飲んでもいい? 女王様の分も淹れてあげるし」
 マリアージュが許可を出す前に、アルマティンは戸棚へとすたすた歩いていった。彼女は茶道具をてきぱき広げて話を続ける。
「少し前からヤな感じはしてたのよ。アスマから言われて、いろいろ探ってはいたんだけど……」
「貴族を探る?」
 アルマティンの物騒な発言に、マリアージュは眉をひそめた。
「さっきから訊いているけど、あんた、いったい何なのよ? 芸妓じゃなかったの?」
「芸妓よ? 元ね」
 アルマティンはくるりと反転し、マリアージュに向き直った。
「いまはお貴族様のお妾さん。よくして下さっていた旦那様が、あたしをこっちに招いてくださったの。けっこう多いのよ。お妾さんや、奥さんとして、あたしたちをお迎えしてくださるひと。……お貴族様にしろ、お役人の皆様にしろ、商人の旦那様方にしろ、いきなり何かあると、うちの客層ががらっと変わってしまうし、ツケてるお代、踏み倒されかねないから。事前に手を打てるように、あたしたちが探りを入れるようにしているの」
 ようするに、間者か。マリアージュは苦虫をかみつぶした心地になった。
「あんたたちみたいなのは、どれぐらいいるの?」
 マリアージュの問いかけに、アルマティンは笑ってみせるだけだった。彼女の反応から相当な数の人間が、貴族社会に入り込んでいると推測できる。
 いつだったか。あの男が、零したことがある。
 この国は古くから娼婦が遍く根を張っている。
 芸妓の小国――……。
「ダイは、あんたたちのこと、知っているの?」
「あたしたち芸妓がお貴族様に身請けされることもあるとはもちろん知っているわよ。でも、それ以上はどうかしら」
 アルマティンがマリアージュの前の卓に茶器を並べる。それらに紅茶がとぽとぽと注がれ、茶葉のかぐわしい香りが、マリアージュの鼻腔をくすぐった。
「情報網は武器よ。でも、扱いの難しい諸刃の剣でもある。ダイは隠匿することを知ってる子だけど、根は単純で頑固な職人気質だから、アスマも教えていないって言っていた。知らせないほうが守れるってことも、いっぱいあるもの。……こんなことになる前に、あたしたちのことを、あの子に教えていたら、状況も何か変わっていたのかも知れないけれど」
 対面の椅子に腰を下ろし、アルマティンが茶器を持ち上げる。うん、なかなか、と、茶の味を自賛する彼女に倣って、マリアージュも紅茶にゆっくりと口を付けた。
「……おいしいわ」
「うふふん。ありがと」
「花街で不味いお茶が流行っていたわけじゃあないのね」
「ダイのお茶、飲んだことがあるのね? まっずいでしょ! あの子、味覚はまともなのに、食事を作るのとかてんで駄目なのよね」
 調理場で困り果てるダイの姿を思い浮かべたか。アルマティンが忍び笑う。
 マリアージュも口元を緩めて紅茶を再び啜った。
「アスマは見守ってた。……ダイと、女王様のこと」
 ダイの養母は花街にいる。
 彼女はだれを通じて自分たちを見守っていたのか。
 マリアージュは茶器を放して、アルマティンに問いかけた。
「あんたも?」
 自分たちのことを、見守っていたのか。
 アルマティンは軽く目を見張ってから頷いた。
「えぇ、そう。……貴族街(こっち)に入っている子は、みんなよ。皆、アスマの目として、あなたたちのことを、見ていた」
 ダイがミズウィーリに足を踏み入れた日から、ずっと。
 アルマティンは、かち、と、茶器を受け皿に置いた。
「小スカナジア、だったわよね。女王様たちがそっちへ出発したころから、お貴族様たちは少しおかしな動きを始めたわ。アスマはダイが戻ってきたらすぐ呼びつけて、忠告するつもりだった。なのにあなたは女王様じゃなくなるっていうし、ダイは……行方不明だって、いうし」
 化粧師付きだった女官が遺体で戻り、ダイもまた死んだのだと、まことしやかな噂が流れているらしい。
「あんたが、ここにいるのは、偶然?」
「まさか! 苦労したに決まっているでしょう! あたしたち、いつもは人の話に聞き耳を立てているだけで、こんな風に動くことはないんだから」
 ダイの行方の手がかりであるマリアージュと接触するためだけに、アルマティンと彼女の仲間たちは今回のような危険を冒したのだ。
 すべては、ダイのため。
 そして、彼女の養母たる、アスマのため。
「年をとったら捨てられる以外の未来を示してくれたアスマには、あたしたち全員、どう逆立ちしても返せない恩があるわ。ダイにもあの子の母親のことで、たっくさん借りがある」
「……どうやって、ここまで入り込んだの?」
「女王様のお世話係を探しているって聞いて、あたしの旦那様に働きかけてもらったのよ。娼婦上がりの女が、女王様の面倒を見るのよ。女王様を貶めるのに最高じゃないかしらって」
 その意見に同調するように、仲間たちで次期女王派の面々に働きかけ、ほかにも色々と水面下で工作して、実現したらしい。
 危ない橋を渡ったものだ。マリアージュは頭痛を覚えた。
「それって選んだ側からしたら……口封じしやすい女だったって、ことじゃないの?」
 素性の知れない女を下手に招きたくはない。かといってなまじ高貴な血筋だと、いざというとき後始末に困る。
 使い勝手がよく、切り捨てやすい。そのような観点で、アルマティンは選任されたのではないか。
 マリアージュの指摘に、アルマティンはにやぁと笑った。
「あら、心配してくださっているの? アリガト。大丈夫。うまくやるわ」
「ならいいけど。……でも、悪いわね。苦労させたようだけれど、あんたたちが望むようなことを、私は何もできない――私はもう、女王じゃないもの」
 アルマティンが顔から笑みを消す。
 彼女は地を這う低い声でマリアージュに問うた。
「……ダイを探したい。そう、おっしゃいましたわよね、女王サマ」
「探したいわよ。探せるものなら」
 マリアージュは膝の上で拳を作った。
 指先がしびれるほど、握る手に力を込める。
「タルターザであの子は、私を守るために敵兵に飛びついて、馬から落ちたの。……後続が確認したから、そのときは生きていた。でも、回収できなかった」
 ダイを悠長に助けている暇はなかった。全速力で逃げきることだけが、あの場にいた者たちに許された、唯一のことだった。
「探したいわよ。あの子がここにいないのは、私のせいだもの。探したいに決まってるじゃない! でも! 私に! どうしろっていうのよ! 何ができるっていうのよ……!」
 いまこそ力が必要なのに。自分ときたら囚人なのだ。
 嗤いしかでない。
 女王の座などいらないと叫んだ過去の自分を蹴り殺してやりたい。
 いまの自分にできることといえば、さっさと死んでしまうことだけだ。
 マリアージュが生きていれば。足掻いていれば。
 あの国章持ちの化粧師は必ず、自身が無事であるかぎり、己の身の危険を顧みず、ここへ来てしまうだろうから。
「私がこんな状況なのよ。あの子が生きているなら、先にあんたたちの主人のところに連絡がいくわ」
 自分のところまで来たところで意味はない。
 アルマティンは無駄足を踏んだのだ。
 アルマティンがマリアージュの主張に頭を振る。
 聞きなさい、と、彼女は鋭く告げた。
「女王様と接触を図ったのはね、アスマの身動きが取れないからよ」
「……どういうこと?」
 追及したマリアージュに、アルマティンが嘆息する。
「ダイを探しているのは、あたしたちだけじゃないみたいなのよね。……ダイの出自は伏せられているけど、だれも知らないわけではないんでしょ? 娼館に、見張りが付いているの」
 マリアージュは顔をしかめた。
 ダイが花街の出だと知る人間は限られる。ミズウィーリの使用人の一部。ロディマスとアッセ。それからルディア・ガートルードだ。彼らの周囲にも複数人はいるだろう。
 ルディアは蟄居しているというし、ロディマスたちはダイの捜索を行わない口ぶりだった。
 ダイの出自を知る手立てのひとつに、ヒースの業務録を検める方法もある。あれはロディマスの元にあるはずだが、彼がだれかに渡したのだろうか。はたまた、やはり、ロディマスたちがダイを探しているのか――先の遣り取りが、あの兄弟の演技であると、思いたくはないが。
「うちの顧客にはお貴族様が多いから、簡単に潰されることはない、と、思う。でもこのままじゃあ危ないのよ」
「ダイを突き出すの?」
「あのねぇ! あたしの話、聞いていらして? あたしたちは! あの子を! 助けたいの! ……あの子を探し出すにしても、何にしても、状況を打開するには、女王様に復権していただくのが、一番いいの!」
「復権って……どうやってよ?」
 女王の再審議はすでに始まった。
 玉座の譲渡に向けて、城は動き出している。
 わからないわ、と、アルマティンは言った。
「方法はこれから探すのよ」
 その回答にマリアージュは呆れてしまった。なんともおおざっぱなことだ。
 だがアルマティンの目は真剣だった。
「あたしたちはあなたが女王様の方がいいと思ってる。だってあなた、ダイのご主人なんだもの。だから、あなたが復権を望むなら、あたしたちはここでのあなたの目と口になるわ。でも、あなたがそれを望まないって、何が何でもダイを助けるって、言わないなら、あたしたちも無駄なことはしない。別の方法を探す」
 アルマティンが選択肢を示す。
 マリアージュは額に当てた指の腹で、眉間のしわを揉みほぐした。
「……あの子が敵兵に飛びついたとき、自分の身を粗末にするあの子を、私はひっぱたきたかった」
 女王の座を取り戻せば、それが叶うだろうか。
 わかっている。あの娘は負い目を感じている。
 己の恋がマリアージュを窮地に追いやった。だから、死にたがっている。早く楽になりたがっている。
 板挟みになる苦しみから。
 しかしそれはマリアージュがあの娘を手放せなかったがゆえのものだ。そう思うと、彼女をこのまま探さずに、自らが消えてもよい気がしていた。これまでの彼女の献身にはそれだけの価値がある。
「ダイはいまも、自分のことが軽いのね」
「いまも?」
 反芻しながら顔を上げたマリアージュに、アルマティンが苦笑して首肯した。
「あたしたちのせいなのよ。あたしたちが……あの子を、ずっと、否定してきたから」
 ディアナではなく、ダイとして扱った。自らの出生を、性別を、隠して生きるよう強要した。
 芸妓ではなく、顔師という、二親とは違った道を歩ませた。
 大半の者が生まれ育った地から離れないなか、あの娘には新天地を探すことを宿命づけた。
「……あの子を男装させておきたい気持ち、わかるわよ。あの子の女装は凶器だもの」
 美しく着飾らせたあの娘は、ものの見事にばたばたと、男たちを引っかき回すのだ。無自覚であれだ。故意に動いて男たちを籠絡するようなら――花街の女たちの恐れおののく心情を、マリアージュでさえ、理解できてしまう。
 アルマティンがちいさく噴き出す。
「なぁに。ダイ、何かやらかしたの? 年相応の女の子っぽくなったって、アスマ、言っていたものね」
「まぁ、いろいろ、しでかしてくれたわよ」
 そう、と、アルマティンが哀しげに微笑む。
「あの子が父親のような画家じゃなくて、顔師を職として選んだのは、アスマの側で働けるし、稼ぎが安定しやすいってこともあるんでしょうけれど、一番の理由は多分、自分の存在を塗り替えたかったんでしょうね」
 だれからも否定されない。
 生を否定されない。
 違うだれかに。
(あぁ、そうだったのね)
 マリアージュはようやっと合点がいった。
 あの娘は元々、己を消し去りたがっていたのだ。
 あの男との関係が宰相たちに知れた点は、その衝動に大義名分を与えたにすぎない。
 マリアージュは猛烈に怒りを感じた。
(なに、それ)
 まったく、あの娘ときたら、負い目などではなかった。
 彼女はマリアージュを、死ぬための理由にした。
「冗談じゃないわよ……」
 こちらが殊勝にも死んでやろうかと考えていたのに。馬鹿みたいではないか。
「いいわ、アルマティン」
 名を呼ばれたアルマティンが軽く目を見張る。
 マリアージュは怒りをたぎらせて宣言した。
「あんたの提案にのりましょう。私は何がなんでも、ダイを探し出して……一発、ぶん殴らないと気が済まない」
「殴る?」
「そうよ。はたき倒して殴って、踏みつけてやるわ。あんの馬鹿娘」
 そもそも自分はあの娘にいなくなるなと何度も約束させたはず。それを反故にしたのだ。制裁を加える必要がある。
 彼女を手放すか否かは、そののちに決めればよい。
 アルマティンはぱちぱちと瞬いたのち、ふっと口角を不敵な笑みにつり上げた。
「そうと決まれば、さっそく打ち合わせね。色々とご協力いただかないと!」
「は? あんたが私に協力するんじゃないわけ?」
「物事を達成するのに、相互協力は大事じゃなくて? まずは女王様を嫌いで嫌いで仕方がないっていう、あたしの演技に付き合ってもらうから……ところでマリアージュ様、演技はお得意?」
「知らないわよ」
 女王らしい仮面を被ることはできる。だが配役に応じて演じられるかとなれば――さて。
 どこぞの狸を見習うしかないのか。
 まったくもって不本意なことだが。
 結局いつも窮地となれば追ってしまうのは、あの男の背だ。


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