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第五章 暴かれる罪人 4 


 夜の闇を吸って、漆黒に揺らめく北海の水面が、東から淡い光を孕み始める。
 それが深い群青に染まれば夜明けの合図。墨色の空もまた明るさを一気に増すのだ。  
 騎士と女官を付き添いに、渡り廊下を行きながら、ダイは目を細めた。
 ペルフィリアの夜明けは美しい。
 儚きそれは、この国を治める、兄弟たちに似ている。


「――おはようございます、陛下」
 入室してダイはセレネスティに声を掛けた。彼は長椅子に身を横たえて、書類に目を通している最中だった。化粧と装飾品を除けば、彼の身支度はほぼ終わっている。
 廊下を早番の官が往来するころには、セレネスティはいつも着替えを済ませている。何らかの理由で人が突発的に踏み込んできても、性別を見誤られないように。ダイにも覚えのある習慣だ。
 藍色を基調とし、襟が喉元まで詰まった執務服はダイが選んだ。形はやや古風で、肩からふんわりと膨らむ袖が特徴的だ。絞った袖口や、襟周りは水色の糸で百合の花の意匠が刺繍されている。通例、野ばらやばらを象ったものを柄として刺すものだが、凜とした花の模様は珍しく、セレネスティに合うだろうと踏んだのだ。女王の潔癖な雰囲気に合致し、布や刺繍の色が、彼女の金蜜の髪色をよく引き立てている様を見て、正直、予想以上だとダイは頷いた。
「よくお似合いですね」
「それって皮肉?」
「いいえ、褒めてますよ。心から」
 選んだ衣装は身体の線を補正する。喉は覆われ、広がった袖は手首を細く見せる。布地の柔らかさもセレネスティが元来もつ華奢さを強調する。
 とはいえ、衣装ひとつでよくもこう、女に寄せられるものだ。
 ダイの感心を正確にくみ取ったらしい。セレネスティは露骨に顔を歪めて、書類を卓の上に投げた。
「衣装だけだ。人は違和感に気づく」
「苦労されていますね」
「しみじみ言うな。何なんだお前は」
「あなたの兄君に臨時で雇われた化粧師ですね。……陛下のその、違和感を消すのが仕事ですよ」
 〈魔狂い〉の病に冒されるセレネスティにこれ以上、〈上塗り〉させないため、化粧を通じて彼の印象を操作すること。加えて朝の支度、行事ごとの衣装替え、そして就寝前の彼の体調確認が、新たに引き受けたダイの仕事だった。
 性別を偽ることの面倒さは骨身に染みている。分別の付く前からそれを仕込まれたダイより、長じてから女性を演じ始め、しかも陽光の下、大衆に身をさらし続けなければならないセレネスティの方が、圧倒的に苦労しているはずだ。〈上塗り〉という便利な魔術があるのなら、それに頼りたくなっても無理はない。なにせ彼には政治という強大な敵に立ち向かっているのだから、少しでも要らぬ労を削りたかっただろう。
「兄上って趣味が悪い」
 拗ねた様子で頬杖を突くセレネスティに苦笑し、ダイは化粧鞄を定位置となっている棚の上に置いた。
 頭から被っていた薄布を外し、化粧道具を台車の上に広げる。化粧水、乳液、化粧の下地に、練粉、色粉、白粉。
 それらを順番に塗布していく。
 セレネスティの肌はきめが細かくなめらかだ。肌色が明るいので、どんな色もきれいに乗る。
 彼には悪いが、正直なところ、とても楽しい。
 ダイは折り畳まれていた色板を開いた。
 今日のセレネスティに施す化粧は決めてきた。
 まずは目元。ほとんど白に発色する青を、毛足のやわらかい平筆で、上瞼全体に塗布する。肌との境界をよく馴染ませたら、次は灰色を選ぶ。鈍色と呼んで差し支えない濃い色だ。それを瞼の際から濃淡をつけて塗りのばし、目尻の際にも細く色を入れ込む。縁は潰した麺棒の先で丁寧にぼかした。それが目尻の自然な影として見えるか、ダイはセレネスティから一歩引いて確認した――問題はない。
「やけに地味な色だね」
 色板を一瞥してセレネスティが指摘する。
「昨日まではもう少し華やかじゃなかった? いいの? こんな色で」
「えぇ。陰影をはっきりさせようと思っていまして」
「陰影?」
「薄布を被ってしまうと、色って出てこないでしょう? だから逆に、影で骨格を際立たせてしまったほうがいいかと思いまして」
 ダイ付きになっている女官たちに、練習をかねて幾度か化粧させてもらったが、まぶたや唇をいくら艶やかに彩っても、すぐに薄布で覆い隠されてしまう。セレネスティも同様だ。
 だから色の組み合わせより濃淡を重視する。透けたとき、影が彩りとして見えるように。
 セレネスティが眉をひそめる。
「骨格をはっきりって、だめなんじゃないか? 余計に男に見えるよね?」
「化粧のせいで、男っぽく見える。そう思わせるんです」
 ダイは説明しつつ、次の工程に移った。
 目元を終えたら眉である。小さな櫛で毛流を整えて、鋏を入れて伸びた毛を切りそろえ、そのかたちがより美しく見えるよう、金茶の色粉で毛の上を淡くなぞった。
「花街にもいるんです。男装して、口調を男のひとっぽく振る舞うことを売りにしている芸妓が。そういう子にするんですよ。わざと男のように、見える化粧」
「……男っぽい女の子が好きな男がいるってこと?」
「か弱い人じゃなくて、芯のある人を屈服させることに快感を覚える性癖の人とか。男色であることを隠したい人とか、まぁ、そういう人が買っていきます」
「……人の趣味は色々だよね……」
「ですね。で、そういう子が好みのお客さんのために、わたしたち化粧師は、芸妓を男性っぽく見えるように化粧をする」
 そのときに強調するものが骨格だ。色の濃淡を明確につけ、眉や唇の輪郭を直線的に描く。
「そういうのが合うと思うんです。……薄布越しに見ると美しくて、顔を明らかにしても、化粧のせいでこうなのだと、思われるような」
 ダイは選んだ三色の口紅で、左手の甲に線を描いた。その手を陽光にかざし、紅の発色の具合を見る――青みの利いた赤がよいだろう。
「失礼いたします。……口紅をつけますよ」
 ダイは決定した紅を筆にとって、左手でセレネスティの顎をすくい上げた。
 その顔は、本当に、ディトラウトとよく似ている。
 セレネスティが口を尖らせる。
「……なに?」
「いいえ。その口、やめていただいても? 紅が塗れませんので」
 セレネスティが不機嫌そうに唇を引き結ぶ。
 赤紫に近い色の紅は、彼の薄い唇によく映えた。
 頬紅はつけない。白粉も控えめにした。
「……思ったより派手じゃあないね」
「気に入ってくださいましたか?」
「僕は化粧の良し悪しなんてわからない。本物の男だって思われなければそれでいいよ」
 彼らしい感想だ。ダイは化粧道具を片付けた。
 小卓に置かれていた宝石箱を開く。天鵝絨が内張された箱の中で、宝飾品が陽光を受けて燦めく。
 空を移したような色が美しい、小粒の宝石が連なる耳飾り。首には白金の繊細な鎖が絡まった蒼の宝玉。涙滴型の宝石のはめ込まれた銀細工の髪留めは、薄布を固定するために使うものだ。
 ほか、箱の中にはみっちりと宝飾品が詰まっている。梟が支度したものだ。
 それらから化粧に合った適当なものを選んで、セレネスティに着けていく。
 ダイはセレネスティに薄布を被せた。それを髪留めで固定し、彼の手を取って立ち上がらせる。
 セレネスティとふたりで姿見の前に立つ。彼にはかなり上背があった。並んで立つとよくわかる。けれども彼の兄と比べればあまりに華奢だった。
 青年になりきれない歪さを抱える彼を、放置できないディトラウトの気持ちを理解できる気がした。
 軽い叩扉の音が室内に響く。振り返ったダイの耳に、慣れた声が滑り込んだ。
「わたしです」
「入りなよ」
 セレネスティの許可を受けて、ディトラウトが入室する。ヘルムートも一緒だった。
「おぉ、今日は一段とよいな。これまでと雰囲気は違うが……女帝、という感じではないか?」
 セレネスティの姿を一目見て、ヘルムートが明るく寸評する。この文人然とした面差しの老年の将軍は、わりと洒落者らしく、装飾品に対しても一家言があった。
「ふむ。この首飾りは招力石なのにそれらしく見えるな。よう似合っておる。が、この、髪留めはもう少し抑えめのほうがよかろう。ほれ、首回りの刺繍の意匠と合わせたものがあったはず。あー、たしか、《陽気な乙女の剣》」
「それがその髪飾りの名前ですか? サガン様」
「そうとも、お嬢ちゃん。黄色の宝石がついとるやつだ。青ばっかりだからな。差し色になってよかろう」
「いいですね。女官の人に探してもらうように依頼しますね」
 ダイとヘルムートの横をディトラウトが通り過ぎる。彼はセレネスティを長椅子に座らせ、失礼、と、言い置いて、彼の薄布を引き上げた。
 セレネスティの顔を矯めつ眇めつ確認し、ディトラウトはほっと息を吐く。
「顔色が戻りましたね。……紅を付けてないのに、血色よく見える」
「紅?」
「頬紅」
 ディトラウトはセレネスティに回答してダイに向き直った。
「これで支度は終わりですか?」
「えぇ。謁見には問題なさそうですか?」
 人の目に晒されて、女王として見られるかどうか。
 ダイの問いかけに、そうですね、と、ディトラウトは頷いた。
「美しい貴婦人に見えますよ。少々、きつそうな印象のね」
 彼はセレネスティを一瞥してちいさく笑った。
「今日はタルターザの代表と同様、自領のことしか考えていないくせ者ぞろいだ。雰囲気も丁度よいでしょう」
「僕は彼らをやさしく諭すつもりなんだけど、兄上」
「なら落差があって、さらによろしいのでは?」
 ヘルムートとディトラウト、ふたりから太鼓判を押されて、セレネスティの緊張が解け、彼のまとう空気が和らいだ。
 ダイは安堵した。これで朝の仕事は終了である。
 ダイは薄布を頭から被り直し、一同に向かって一礼した。
「それでは、わたしは一度ここで失礼いたします。……一刻半後に本塔の執務室でよろしいでしょうか?」
 これからセレネスティたちは朝議のために移動する。ダイはそこまで同行はできない。いったん、割り当てられた個室に戻って休憩するのだ。
 ダイもまだまだ全快にはほど遠い。歩き回れる時間は長くなく、出歩いては仮眠を取るの繰り返しだ。
「えぇ。それで問題ありません」
 ディトラウトが肯定を返した。
「ですが、予定の変更がいくつか。行きましょう。歩きながら説明します」
「……部屋まで送ってくださるのですか、閣下」
「途中まで」
 ディトラウトはセレネスティに頭を垂れ、さっと身を翻した。
 セレネスティは面白くなさそうな顔だ。対してヘルムートは楽しそうである。
「シンシア」
 ディトラウトに呼びかけられ、ダイは慌てて彼の後を追った。


 セレネスティの私室を出ると、すっかりダイ付きとなったマークと、ディトラウトの護衛であるゼノが立っていた。
「おはよう、シンシアちゃん」
「おはようございます、ゼノさん」
 ダイは挨拶だけ交わして、ディトラウトと横並びに歩き出した。
 数歩分の靴音を響かせたあと、ダイからディトラウトへ問いかける。
「予定の変更って?」
「今日の体調は?」
「質問の答えになってませんよ。……ご覧の通り、悪くはありませんけれど」
 気分が優れない日はそもそも寝台から起き上がれない。特に冷え込んだ朝などは、痛めた内臓が萎縮するのか、吐き気と目眩に絶え間なく襲われる。そんな日は、どうにかセレネスティの元に辿り着いて化粧を終えたとしても、ひと休みしてからでなければ自室に下がることができなかった。
「昨晩はよく眠れましたか?」
「尋ねるぐらいなら、あなたがきちんと帰ってきて自分で確かめるんですね」
 昨晩、ディトラウトは私室に戻ってこなかった。
「すこし復調したからって、夜更けまで政務を詰め込まないでください」
「そーだそーだシンシアちゃんもっと言ってやって」
「ゼノ」
 ディトラウトが背後を振り返って近衛の男を鋭く睨む。ゼノが諸手を挙げ、その隣でマークが生真面目な表情を崩さぬまま、やや呆れの空気を醸し出す。
 ディトラウトが肩を落として前に向き直った。
「本題に入りますよ。……さっきの問いの答えですが、あなたに昼からも出仕してほしい。具体的には、昼食会の直後から、一刻半ほど」
「今日、その時間帯は執務室で決裁をする予定だったはずではありませんか?」
 ダイの仕事は基本的に化粧である。昼食会を終えたセレネスティの化粧直しを行った後、ダイ自身は午睡を取ることになっていた。その時間を潰せと、ディトラウトは言っているのだ。
 セレネスティに付きあうこと自体はかまわない。
 だが。
「わたしはその間にいったい何を?」
「陛下の傍に侍っていただくだけです」
「侍女のように?」
「えぇ。席に着いて、陛下の顔色を見て、休憩や、飲食の差配を。補佐にはラスティを着けます。ただ、あなた自身が横になることは許されない。……できますか?」
「依頼してくるということは、他に選択肢がないんでしょう?」
 そもそも最初から、予定の変更を確定として言い渡していたではないか。
 しますよ、と、ダイが苦笑しながら請け負うと、ディトラウトはあからさまに安堵の息を吐いた。
「ありがとうございます」
「いーえ。……梟さんですか?」
「……えぇ」
 控えめな肯定を返したディトラウトは、動けなくなったのだ、と、続けて呟いた。
 以前、ディトラウトはダイにこう告げた。
 〈女王の影〉は、セレネスティから離れない規則だと。
 それは女王の性別を偽るべく、魔術を行使するために他ならない。梟が不在となるときは、ヘルムートが護衛に付くか、ディトラウトが傍にいて、性別を偽ることで不自由を強いられるセレネスティを助けてきた。
 セレネスティの秘密を守る従者は梟の他にも少数いたが、皆、公の場所を闊歩できる者たちではなかった。ラスティのように、口が利けないといった、身体にままならないものを抱える者ばかりだった。
 公の場に立つセレネスティをたったひとりで支えていた梟。
 〈女王の影〉もまた、身体の不調に喘いでいる者のひとりである。
 〈魔狂い〉に罹ったわけではないが、近い状態にある。
 なにせ、長きにわたって、ふたり分の性別を魔術で偽り続けてきたのだ――あの、〈女王の影〉は。
 ディトラウトがダイに手のひらを示した。招力石が載っている。大陸会議中に散々つかった、〈消音〉の招力石だ。
 ディトラウトがそれを点した。背後のゼノたちを気遣ったのだろう。
「あなたが来て、休息をとれるようになった。……これまで無理していた分の、揺り返しがきているんでしょうね。先ほども様子を見に行きましたが、寝台から動けるようではなかったので」
「セレネスティ様にはそれを?」
「サガン老が報告しています。……陛下もご納得なさるでしょう。梟は元々、そう強い身体をしていませんからね」
 ダイは軽く目を伏せた。
 ダイが梟の身体を検めたのは一度だけだ。発熱した梟に代わってセレネスティに付き添わなければならなかった日に、その寝所に立ち入って目にした。
 セレネスティの近衛も兼ねる梟の四肢は、適度に引き締まった筋肉に覆われていた。それでも肩は華奢だった――あきらかに、男のものではなかった。
「そのままで隣に並べば、体格の差異がわかるかもしれないからって、自分にも〈上塗り〉し続けて……他人より負担は圧倒的に少ないらしいですが、負担がないわけじゃないんですよ、魔術って」
『他人の魔力による〈上塗り〉は、重さと身の丈の合わない服を着るようなもの』
 かつてアルヴィナはそう述べた。
『じゃあ、アルヴィー。自分の魔力による〈上塗り〉は?』
『ずーっとおめかししているようなものね』
 女の姿で社交に出るたびに、ダイはマリアージュに感心したものだ。絹の布地を何枚も重ねた晩餐服は、いくらダイの身体に沿って設えられたとしても重い。動きも制限される。次第になれたが、それでも脱ぎ去ったあとの爽快感たるや。
「あなたがいて、よかった」
 ディトラウトは言った。
「梟もそろそろ限界だった。代わりがいないときに倒れられるよりずっといい」
 ダイがセレネスティの傍に侍る間、梟は〈上塗り〉も解いて、休息をとるようになった。これまでの疲れが出たに違いない。度々、熱を出す。
 ディトラウトが述べた通り、梟は〈上塗り〉のことがなくとも無理がきかない身体なのだ。
 ――彼女の胸部には膨らみがない。
 乳房をえぐり取られた醜い痕が残っていた。腹部にも裂傷があった。
 だれもかれもが。
「満身創痍ですね……」
 ペルフィリアは、傷を引きずりながら生きている。
 先代の女王が、その娘と共に身罷った日から。
 殺戮の坩堝に陥った日に負った爛れた傷を癒やす間もなく走り続けているのだ。
 予定の変更に伴う打ち合わせを、歩きながら行っていると、仮眠室に辿り着いてしまった。
 途中まで、と、言いながら、結局、ディトラウトはここまで付いてきてしまった。
 ダイは部屋に一歩踏み込んで、くるりとディトラウトを振り返った。腰に手を当てて忠告する。
「早く帰ったほうがいいですよ。あなたの帰りが遅いと、セレネスティ様、拗ねますし」
「陛下は拗ねているのではありませんよ。単に面白くないんでしょう。あなたに頼らざるを得ない状況と、それを発案したわたしのことが」
 似たようなものだろうに。
 弟の心、兄しらず。
 変なところでこの男は鈍感である。
「それじゃあ、えぇっと……今日はもう会わないんでしたっけ?」
「そうですね」
 ディトラウトの予定は細かく知らされていない。城外の情勢について示唆するものが多いからだ。
「じゃあ、頑張ってきてください。あ、無理はほどほどに」
「その言葉、そのままあなたに返しますよ」
 ディトラウトが言葉を句切り、ダイとの距離を一歩分だけ詰める。
 ぎ、と、扉の蝶番のきしむ音が響き、ダイの頭上にふいに影が差した。
 手袋に包まれた指先が眼前の薄布を掻き上げる。
 乾いた唇が自分のそれに一瞬だけ重なって、ダイは呆れて男を見上げた。
 悪びれもせず、ディトラウトは肩をすくめる。
「今晩は帰ります」
 そう言い残して去ろうとする男の袖を引く。
 身体を傾けた男の頬に接吻して、驚いた様子の彼にダイは告げた。
「言質とりましたよ」
 そうしてその背を護衛たちの方へ突き飛ばした。
 ダイは扉を閉めた。
 歩きながら外した薄布を、通りすがりざま小卓に置く。
 奥の寝室に向かうことも面倒で、応接の長椅子に倒れ込んだ。
『化粧師など、どうして傍に置くのか』
『女官に代わらせればよいものを』
『陛下もほとほと、〈国章〉を負わせる意味を軽んじておられる』
『いなくてもいいのに』
 ――あなたがいて、よかった。
 あたたかな声が、染みいる。
 ダイは仰向けになって片手で目を覆った。
 からんからん、と、大聖堂が、乾いた音を響かせて、かみ殺した嗚咽をかき消した。



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