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第五章 暴かれる罪人 3 


 植林された裏庭を突っ切るかたちでガートルードの敷地を出る。敷地同士を隔てる垣根の狭間を抜け、壁をぐるりと迂回して、未整地の道を上り下りする。マリアージュが理解できたのはそこまでだ。あとはただダダンに手首を取られたまま引きずられるようにして道を駆けた。整わない呼吸に肺が引き絞られ、脇腹を断続的に刺すような痛みが襲う。こんなに走ったことは初めてだった。
「もういいぞ」
 ダダンが手を離したとき、マリアージュは煤けた床に膝を突いていた。空気が足りない。目眩がする。衣服も手もどろどろに黒い。噴き出した汗で身体中がべたべただ。マリアージュは床の上で拳を握った。マリアージュから少し離れた場所にかがみ込んでいる男に思わず怒鳴る。
「もうすこしっ! 休みを挟みなさいよ!」
「休んでたら追いつかれて殺されるだろ。馬鹿か」
 ダダンの言うことはもっともである。
 それでも叫ばずにはいられなかったのだ。
 下唇を噛んで項垂れるマリアージュの前にダダンが立つ。のろのろ顔を上げたマリアージュに、彼は頭を掻いて息を吐いた。
「まぁ、怒鳴れるぐらい元気なら上出来だわな……こっちに来い」
 そう言ってダダンは元いた場所へ引き返す。マリアージュはようやっと周囲を見回した。炭化した天井と壁、床が目に入った。
「ここ……」
「お前も一度来ただろ」
 アリシュエルを連れ戻しに。
 ダダンが素っ気なく答える。マリアージュは目を眇めた。視界の端に炎がちらついた気がしたからだ。
 ロウエン、と、恋人の名をひび割れた声で繰り返す少女の背が眼裏を過ぎる。
 (あの子が、全部を失った、あの山小屋)
 ここは王城の敷地を哨戒する官の、数ある休憩所のひとつだった。少々辺鄙な場所にある予備施設で、だからこそアリシュエルとその恋人が逢瀬に使用できたのだ。
 最後、この小屋は焼け落ちた。折を見て撤去する方向で話が進んでいたと記憶している。けれども、時期を逃してそのままになっていたのだろう。
「どうしてここに……」
「ロウエンから聞いてた抜け道をいくつか使ったら着いた。潜伏にはいい立地だな。お前、あとでここを手入れしておけ。変な鼠に押さえられんようによ」
「……覚えておくわ」
「それから、いつまでもそこに座り込むな。汗が冷えるぞ。こっちへ来いつっただろ」
 二度も言わせるなと、苛立ち顕わにダダンは告げた。
 焼けた小屋は半分は煤けたまま原型を留め、崩れさったもう半分は土が剥き出しとなって、ところどころは植物の侵食を受けていた。その一角に、いつの間にかたき火が熾っている。草木や盛り土で慎重に火を隠した、竈めいた火だ。勢いこそ少ないが、マリアージュが足取り重く近寄ると、確かに温かかった。床板の縁に腰掛けて、枝で橙色の火を突っつくダダンの横に、マリアージュも腰を落とした。ばさ、と、肩に重い布が載る。顔をしかめて横を見ると、ダダンが軽装となっていた――彼の上着を着せかけられたのだ。
「……あんたが風邪を引くわよ」
 ダダンはガートルード邸で外套をすでに失っている。軒のような屋根があってもここは吹きさらしだ。
 もたつきながら上着を返却しようとした手を、ダダンが押しとどめる。
「汗が引くまで着ておけ。お前が倒れる方が面倒だ」
 休憩は少しだけ。
 街へ引き返すため、またマリアージュは走らなければならない。
 ダダンが火を強く着いて呟く。
「悪いが、もう少し掛かるぞ」
「……何が?」
「おまえに茶を飲ませるまでに」
 温かいお茶を飲みたいと言ったのはマリアージュだった。
 貴族街を抜けることは容易ではない。事前に警備の穴を知らせてきたアッセの情報の確かさ、周到に抜け道を調べ上げたアスマやアルマティンたちの情報力、そして、マリアージュを連れて逃げる、ダダンの腕の確かさが頼りだ。
 マリアージュは膝を抱えて大人しく上着の端を胸の前にかき合わせた。
「いいわよ。ちゃんとまた飲めればね。……そのときはあんたに一杯ぐらい淹れてあげるわ」
「はぁ? おまえ、茶なんて淹れられるのか?」
「ダイよりは上手なはずよ。アルヴィナがそう言っていたもの」
「どういう基準だよそれは。……はぁ、まぁ、わかった。毒はいれんなよ」
「楽しみにするぐらい、言えないのあんた」
 ダダンがちいさく笑う。からかわれているとわかって、マリアージュは口をつぐんだ。
 冷気に晒された吐息に視界が白む。天を仰げば濃紺の空に星が瞬いていた。ただ、闇色の雲はまだ流れていたから、雪はまた降るのかもしれない。
 そうなる前に戻らなければならないことはわかっている。しかしいったん落ち着けた腰はひどく重たかった。
「どれぐらいここにいるの?」
「あと四半刻ぐらいだな」
「四半刻?」
「半刻すると、出入りの商人やら下働きやらが動く時分だ。そこに混じって移動する。……先に移動したところで、門が開いてなきゃ待つところを探すのに苦労する」
「あぁ、堂々と門を抜けるの?」
「ブルーノとそういう手はずになっている」
 オズワルド商会ゆかりの手引きがあるのだろう。それまでの時間つぶしをここでしなければならないということか。
 (これから……無事に戻れたとして)
 次はどうすべきなのか。
 ルディアからデルリゲイリアの秘密のすべてを確認したのだ。これであのレジナルドなる男がこの国で暗躍する理由も知れた。マリアージュが玉座を取り戻すにはまず、あの男を排除することが最優先となるだろう。
 そしてまずはバイラム・ガートルードか。彼をどうにかしなければならない。
 そのためには――。
 (だめ)
 マリアージュは重い瞼をのたのた動かした。
 (考えが纏まらない。……ねむい……)
「眠るなよ」
 ダダンからマリアージュに叱責が飛んだ。
「休憩するだけだ。俺ならほんの仮眠で終わるが、おまえはそうじゃない。疲れで眠り込んだら、身体が動かなくてきついぞ」
「そんなこと言われても……あんたは眠くないの?」
「まぁな。言うほど疲れてもねぇし」
 マリアージュは感心を通りこして男に呆れた。どんな体力馬鹿だ。
 それだけ彼は火事場をくぐり抜けているということなのだろう。
「ねぇ、何か話して」
「……は? 何かって……何をだよ?」
「あんた、色んなところに行っているんでしょ。黙っていたら眠いの。何か話して」
 マリアージュの突然の依頼に、ダダンが困惑の色を浮かべる。何を話したものか、考えあぐねた様子だ。
 マリアージュはため息を吐いた。
「……じゃあ、適当に聞くから、それに答えて。……あんた、本当にあんまり、寒そうに見えないわね。寒いところになれているの?」
「馬鹿。寒いに決まってるだろ」
 ダダンが渋面になった。
「……つっても、この程度の寒さなら、なんとかならぁな。シュレディングラードほどじゃない」
「……シュレディングラード……」
「北大陸の最北端にある。でかい国で、氷河と雪原が延々に広がる、獣と長命種の国だ」
 あぁ、と、マリアージュは頷いた。
 聞き覚えがあるはずだ。アルヴィナを王城で採用する際に目を通した紹介状がその国の発行だったのだ。
「長命種って?」
「古来種のヒトガタだ。……古来種ってわかるか?」
 マリアージュは首を横に振った。耳なじみのない言葉だ。
「主神が世界を創造したときに連れていた獣の直系だっていわれている。えーっと、なんつったか。メトセラ、か。めちゃくちゃ寿命が長いんだ。魔力が馬鹿高い」
「ふぅん。……あんた、古来種のヒトガタって言ったわね。ちがうのもいるの?」
「馬とか犬とか、猫とかにな。たまにいるらしい。俺は会ったことないが……魔力が高くて、人語を理解する」
「アルヴィナあたりが詳しそうね」
「そうだな」
 会話が順調な滑り出しを見せて、ダダンの緊張が和らいだことを、マリアージュは感じ取った。彼は周囲ばかりを警戒していたわけではない。貴族の娘というだけでもやっかいなものを、さらに気むずかしいマリアージュを、彼は扱いかねてもいたのかもしれない。
 いまさら、と、マリアージュは笑いを口の中でかみ殺して、次の質問を投げかける。
「あんたは、そのシュレディングラードに何をしに行ったの? 他にどんな国へ行ったの?」
 ――話を聞いて理解する。
 ダダンは本当に世界中を渡り歩いていた。
 北大陸はシュレディングラードに始まり、六日、夜明けのない国や、招力石の産地で名高いディスラ地方――ここは長年、石の利権を巡って争いが絶えないでいる。氷河に閉じ込められた島々を橋で繋いだアーヴソーウィル、延々砂礫の続く国だというロプノール、大陸会議でも話題に上っていたラセアナを中心とした、鉄の尖塔群が遺跡として残るフレスコ地方。
 南大陸は土地の大半が砂漠だという。もっとも広大な国はアハカーフ。岩を積んで造られた巨大な建造物の中に街があるのだという。双獣の国の帝都に並ぶ岩の像も圧巻らしい。沿岸は色んな特色を持った小国が入り乱れて存在するという。
 豊かな穀倉地帯と小川が蜘蛛の巣状に大地を覆う東大陸は、真珠の養殖とその装飾加工で名を馳せるマジェーエンナ、占いが盛んだというダッシリナ。そして最後にアリシュエルが居を移した、水の帝国ブルークリッカァ。
 西大陸においては未踏の場所がないほどだ。
 あそこはこうだった、あぁだった、こんなことがあった、と説明を受けながら、マリアージュは気づいた。
 これらはすべて、男が『訪ねた』国だと。
「ダダン」
「なんだよ?」
「あんたが生まれたところはどこなの?」
 ダダンが無言でマリアージュを見下ろす。
 その顔からは表情が剥がれ落ちていた。
 マリアージュはゆっくりと身体を起こした。背から上着をはぎ取って男へ返す。
「充分に温まったわ」
「……あぁ」
 ダダンがマリアージュから受け取った上着を膝の上に置いた。
 ダダンは眉間に皺を寄せて頭を掻いた。答えに詰まったときの、この男の癖だ。
 たき火がぱちりと爆ぜる。
 マリアージュはその赤い火を見つめながら問いかけた。
「わたし、ずっと気になっていたの。……『くになし』って、どういう意味なの?」
『俺はどこの国にも属さねぇよ。……国なしだからな』
 あれは、ペルフィリア表敬訪問の直前。
 デルリゲイリアから姿を消した男の消息を、ダダンが伝えに来たときのことだった。
 国なし、の意味がわからなかった。辞書にも記載されていなかった。ダイも首をかしげていた。おそらく、知る者だけに意味が通る俗語なのだ。
「……そのまんまの意味だ」
「それがわからないから訊いているんじゃない」
「だから、国がないんだ。俺の生まれた国が、ないんだよ。俺が生まれたあと、なくなった。消滅した。俺がしかとした国に生まれたという記録は、この世のどこにもない。だから、国なしだ」
 今度はマリアージュが黙り込む番だった。
 (記録が、ない)
 メイゼンブルが滅びて、あと数年もすれば二十年。
 この間に滅びた国はマリアージュが知るだけでも片手で足りない。そのあとの住人たちがどうなったか。流民となることは嫌というほど知っている。この一年、彼らが持ち込む問題に頭をさんざん痛めたのだから。
 だが、いま、初めて、思い知った。
 (あぁ、流民たちは……)
 平穏を、住まいを、祖国を、失ったというだけではない。
 出生したという記録。この世に生まれ落ちた存在だという、その確かささえ、一端であっても失ったのだ。
「そんなに沈んだ顔をするな」
 ダダンが笑う。
「俺は根無し草の生活を気に入っている。一カ所に居着いて生きられる人間じゃないからな」
「それと国がないのは話が別じゃないの?」
 好き好んで旅をすることと、強制的に旅暮らしになることとでは、意味合いが違う。
「それでも……俺だって所帯だのなんだの持とうと思ったら、いつでもできた。それをしなかったのは俺の意思だ。おまえが気に病むことじゃない」
「気に病んでいるわけじゃないわ」
「だったら、なんだ。変な同情はごめんだからな」
「同情じゃないわ。これは――わたしが、無知だったと、思い知っただけ」
 マリアージュの回答にダダンが漂わせていた険を収めた。
「お前らしい言い方だな」
 ダダンは少し、笑ってすらいた。
 細く息を吐いて、彼は口を開いた。
「……お前は、マナメラネアはわかるか?」
「……内海の、島国よね。無補給船の、中継地の」
 東西南北。四つの大陸に囲まれる内海の、やや北よりにある国だ。マナメラネア諸島連合国――通称、諸島連国。
「あそこに加盟している、バヌアって島がある。諸島連国じゃ、マナメラネア本島の次にでかい島だ。場所は一番、北大陸寄りだな」
「そこが……あんたの生まれたところ?」
「そうだ。元はひとつの国だった。八年……いや、十年経ったか? 政変が起きて滅びたんだ。国民は方々に散っていて、いまは生き残りが細々と暮らしている」
 ダダンがひと息に説明する。珍しく、早口だった。
 マリアージュは眉をひそめた。年号にひっかかりを覚えたのだ。
「十年……って、あんた確か、そんくらいのときに、ルゥナたちに協力していたんじゃなかった?」
 ドッペルガムは建国九年目のはずだ。女王となったルゥナ――フォルトゥーナは、建国のために数年を費やしていた。ダダンは古くから彼女たちと大陸を回っていた様子だった。
 マリアージュの問いにダダンが苦笑する。
「そうだ。だから、俺は国の崩壊に立ち会わなかった」
「……一度は、戻った?」
「あぁ。……更地になったところもけっこうあったが、そんな悲惨なことにはなってなかった。諸島連国がきっちりした国だったからな。こっちと違う。幸運なこった」
 マナメラネアはちいさいながらも貿易国として栄える国だ。遠く離れたデルリゲイリアでさえ、その豊かさは聞こえてくる。その国に吸収されたダダンの故郷は、荒れることなく復興の道を歩んでいるのだろう。
 ただ、と、ダダンが目を細める。
「……国ってやつは、案外、あっさりなくなるもんだなって、思ったがな」
 その、更地となった大地に立って、男は何を思ったのか。
 マリアージュは俯き、躊躇いがちに尋ねた。
「……あんた、親族、とか、知り合いとか、いなかったの?」
「いたな」
 ダダンはあっさりと答えた。
「親父、おふくろ、あと弟ふたり、妹ひとりで計五人」
 従兄弟が複数家族。そのほかにも――この男のことだから、友人知人も多かったに違いない。
 国民は方々へ散ったのだとダダンは述べた。
 この男の、家族はいまも、見つかっていないのではないか、と、マリアージュは思った。
「……あんたが、情報屋だか調査員だか、そんな仕事しているのは……ご家族を、探すためなの?」
 ダダンがマリアージュをひたりと見据える。
「鋭いじゃねぇか」
 煙に巻くか、それとも、核心を突かれて、怒り出すか。
 マリアージュの予想に反し、ダダンの声色は面白がるかのようだった。
 男は床に両手を床に着いて軽く背を反らした。そのまま天を仰いで話し始める。
「調査関係の仕事にゃ、人を探す仕事も多くてな。その筋に伝手ができる。それで、専門になった」
「なんであんた、家を出たの?」
「仲が悪かったからだよ」
「仲が悪かったのに、探すの?」
「そうだな。……あぁ、違う。俺が、仲が悪いと思っていたんだ。一方的に」
 ダダンは片膝を立てて、その膝に頬杖を突いた。
「俺は地元でも名の通ったくそガキで、一方の親父は真面目一辺倒の小役人だった。城に献上される女の名簿を作ってた」
「……献上される女?」
「当時の王様が色狂いだった。国中から女をかき集めていたんだよ。嫌がる女もひとまとめ。いつ妹が招集に入るかもわからんのに、上からの命令にくそまじめに従い続ける親父が、俺は嫌いでな。顔をあわせりゃ、喧嘩ばかりだ。何がきっかけだったか覚えてねぇが、出て行け、とぶん殴られて、俺は家を飛び出した。十三のときだった」
 雪が。
 また、ちらつき始めた。
 たき火の灯を受けて朱にほの染まる男の頬に雪がひらりと触れる。
 小さな滴となって頬を滑り落ちていく。
 涙のようだった。
「それから商工協会の世話になった。最初は傭兵の小間使いに始まって、段々ひとり立ちして、護衛だのなんだの受けるようになったころに、ルゥナに関わった。あのとき、国を興すことも、国っつうもんを維持することも、それに関われることも、すげぇことなんだなって、わかってな。……役人だった親父にも、なんか、思うことがあったのかもしれん。いまなら、話もできるかもな。そんな風に思って、帰ったらな、国がなかった」
 皮肉なもんだ、と、呟いて、ダダンが黙り込む。
 マリアージュは重い息を吐いて、かねてからの疑問を投げかけた。
「それで、あんたは、わたしに協力してくれているの?」
「……は? どういう意味だ?」
「わたしはいま、後ろ盾も失った、身分すら怪しいただの小娘なのよ。あんたに金子だって準備できないわ。アスマがある程度、報酬を支払っているにしてもよ。割に合わないでしょう。……なのにわたしに協力しているのは、この国が、デルリゲイリアが、消えるのを、見たくないから、なの?」
 興味本位で訊くべきことではない。
 踏み込みすぎだという自覚はある。
 それでも、大事なことだ。
 この男がなぜマリアージュに付き合うのか、ずっと不思議だったのだから。
「かもな」
 ダダンは困ったように笑った。
「そんな気もするし、違う気もする。俺にもよくわからん。……ただ、お前が偉いからな。もうちょっと付き合ってやっていいと思っている」
「えらい?」
「あぁ。金銀財宝を好きにできるわけでもない。しんどいだけだってわかってるのに、お前は国を背負おうとしている。それは、偉いだろ」
「……わたしに、国を救いたいとか、そんな立派な理由はないわよ」
「わかってる。だが、結果そうなってんだから、理由はどうであれ、いいだろ。……おまえなぁ、俺が珍しく褒めてんだから、もう少し嬉しそうに受け止めろ」
 ダダンはマリアージュに呆れた声を向けたあと、時間か、と呟いた。マリアージュも時を計った。四半刻はとうに過ぎてしまっている。休憩を始めてから半刻近い。
 移動の時間だ。
 ダダンが身支度を調えてたき火を消す。マリアージュは水筒を片付けた。外套や靴の紐に緩みがないかを確かめる。
 ふと思い立って、マリアージュは告げた。
「わたしがまた、女王になれたら、あんたに家をあげるわ」
「……家?」
「そう。裏町でもどこでもいいけど。……あんたの、好きなところに」
 マリアージュは立ち上がってダダンを見上げた。
「わたしが女王にまたなれたなら、わたしはあんたの働きに、報いるべきでしょ。だから、家をあげるわ。別に、そこに住まなくてもいいわよ」
 一カ所に居着くことが苦手だと、ダダンは述べていた。家があったところで使用するかは男次第だ。
 けれども。
「それでも、家があるなら、ここは、あんたの国になるでしょ。国なしって言わなくていいわ」
 ダダンがその砂色の瞳をこれでもかと見開く。
 間抜けな顔だわ、と、思いながら、マリアージュは言った。
「わたしの国が、あんたの国でいいじゃない」
 ダダンは動かなかった。
 くちびるを戦慄かせて、瞬きを繰り返している。
 棒立ちしたままの男へマリアージュは苛立ちながら尋ねる。
「ねぇ、そろそろ動かないとまずいんじゃないの? ……ダダン?」
 頭上に、影が差した。
 マリアージュは反射的に身を引こうとしたが、叶わなかった。ダダンの腕がマリアージュを抱きすくめるほうが早かった。
 男の首筋に鼻先が触れ、マリアージュは顔をひきつらせて、男の胸に強く手を突いた。
 当然ながら、びくともしない。マリアージュは懸命にもがいたが、男の腕が緩む気配はまったくなかった。
 マリアージュはついには悲鳴を上げた。
「ちょっ……ダダン!」
「く……」
 くく、と、ダダンの喉が鳴る。
 断続的な笑いは、やがて高らかな哄笑となった。マリアージュはぎょっと目を剥いた。男が正気を失っているように思えたのだ。
「ダダン……」
「あぁ……」
 ダダンがマリアージュの髪に瞼を押し当てる。
「ここが、俺の国、か」
「……えぇ」
 マリアージュが肯定すると、ダダンが再び含み笑う。
 彼は呟いた。
「そうか。おれは――……」
 そう、言われたかったのかも、しれないな。
 ここがお前の国だと。
 ここがお前の場所だと。
 そのように。
 気狂いのように男は笑い続けている。
 マリアージュは諦めの境地で男の肩に頬を預けた。
 男の腕はマリアージュをしっかりと抱いている。驚いたが、恐ろしくはなかった。不思議な安堵とあたたかさだけがある。
 (あぁ)
 ふいに悟る。
 アリシュエルに国を捨て去る覚悟をもたらしたもの。
 ダイを、ディアナ・セトラにもどすもの。
 (これなのね)
 マリアージュは身体から力を抜いた。
 男の気が済むまで、ずっとそうしていた。





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