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間章 全ては墓の下 4 


「……ヒース」
 ディトラウトの呼びかけに、見慣れた背中は応えない。
 彼の足許には見知った女物の衣装が広がっている。
 頭の中で警鐘が鳴る。
 見るな。
 近づくな。
 見てはならない――見ざるをえない。
 ディトラウトはヒースの隣に並んでいた。
 セレネスティが絨毯の上に横たわっていた。
 くたりと横を向いた顔は虚空を見ている。淡緑の目は暗く濁って、古びた玻璃玉のようだった。
 幾本も頬を伝う涙の筋。剥き出しの身体。そして、腹に突き立てられた短剣。
 それはたとえ生き延びても、子を産めぬように、聖女の血筋を生み出さぬように穿たれた、一本の楔だった。
 裂き開かれた衣服は赤黒く染まり、彼女を芯として放射状に広がっている。
 その様は踏みにじられた花をディトラウトに思わせた。
 ディトラウトは膝から崩れ落ちた。
「セレ……」
 腕を伸ばして頬に触れる。
 その頬は湿っていた。
 どれほど辛くても、常に気丈にふるまってみせる、涙をみせたことのない妹だったのに。
「なんで……どうして、なんで……っ、なんでなんだ!?」
 セレネスティは一足早くこの屋敷から発った。平和な隣国へ逃れたはずだった。
「なんでなんだよ……!!」
 セレネスティの顔を抱えて、ディトラウトは慟哭した。
 なぜだ。
 なぜ彼女たちがこのような目に遭わなければならない。
 だれもが善良で、やさしいひとたちだった。
 セレネスティも、脆さを隠して笑ってみせる、そんな、だれよりも幸せになるべき娘だった。
 この世に同時に生を受けたディトラウトの片割れ。
 大切な、双子の妹だったのだ。
 ディトラウトは蹲ったまま彼女の頬に自分のそれを擦りつけて泣いた。泣いて、泣き喚き、祈った。
 主神よ。
 これまで自分はふがいなかった。甘やかされていた。妹に守られてばかりだった。
 これからは強くなるから。
 だれよりも強くなるから。
 だから、この館で命を散らした皆を。
 この腕の中にいる妹を、還して。
 主神は応えない。
 主神がひとの祈りを聞き入れていた時代はとうに過ぎたのだ。
 ディトラウトの涙も枯れ始めたころ、ヒースが傍らに膝を突いて囁いた。
「……デルリゲイリアに入国を拒絶されたようです」
「……ヒース?」
「何人たりとも不穏因子となるペルフィリアの者を入れるなと……女王からの勅令だそうです。彼に……わずかに、息があったので、聞きました」
 ディトラウトが目線で壁際を示唆する。騎士の男が壁にもたれかかっている。肩が外れて、腹部はべっとりと赤黒い。
 デルリゲイリアの女王への怒りが俄にこみ上げる。
 不穏因子。妹を。こんな無力な――少女を。
 デルリゲイリアにとっての災厄と呼んで、拒絶したのか。
 行き場を失ったセレネスティたちは指示を仰ぐために屋敷へ戻った。
 そして襲撃に巻き込まれてしまった。
「誰が……だれが襲ったんだ」
「騎士だったそうです」
 ヒースの回答にディトラウトは驚きから瞬いた。
「……騎士?」
「……他領の、と」
 それ以上は聞けなかった。
 語り手が絶命したからだとヒースは言った。
 ディトラウトがセレネスティの目を閉ざす。彼は手にしていた毛布を彼女の上に掛けた。ふわりと広がった毛布に、日向で寝こけてしまっていた、幼い自分たちの幻影を見る。
 やさしい記憶はすぐにかき消えた。
 セレネスティの泣きはらした瞼。叩かれたらしき頬。若々しい肌は血の気を失い、それを覆った毛布はすぐに鉄さび色へと変じていく。
 セレネスティの手を苦心して組ませたヒースは、立ち上がると今度は寝台へと向かった。そこにはもうひとりの娘が半裸で四肢を投げ出していた。
 ディトラウトは立ち上がった。
 寝台の上に仰臥する娘の腹もまた裂かれている。彼女はディトラウトがヒースを探していれば、笑いながら教えてくれる侍女だった。
 ヒースが、寝台の敷布を剥いで、彼女の身体を覆った。
 娘の瞼を閉ざす。手を祈りのかたちに組ませる。
 淡々と死者の尊厳を整える青年の手は血まみれで、白い頬には赤い涙の筋があった。
 ここに辿り着くまでに自分が目にした使用人たちの瞼も、やはりヒースが下ろしていたのだ。
「ヒース」
「あなたが……」
 ヒースが手の甲で涙を拭った。
 しゃくりあげるような声だった。
「ご無事で、よかった。ディトラウト様」
「……ヒース、も」
 ディトラウトは顔を歪めて呻いた。
「ヒースも、無事で、よかった」
 ヒースの肩越しに壁から落ちかけた肖像画が見える。
 父の同郷の画家が描いたらしき精妙な絵だ。蜜色の髪。蒼の目。端正な横顔。それらをそのまま、ヒースは有していた。瞳の色を覗いた容姿はディトラウトとも酷似している。
 ヒースは腹違いの兄にあたる。幼いころは隠されていたものの、彼が長じるに従って、公然の秘密となった。
 いまやイェルニのたったふたりの生き残りだ。
 はは、と、ディトラウトはヒースと目を合わせて笑った。哄笑した。
 血臭と親しい者たちの遺体に囲まれて、今後をどうすべきか、考えを巡らせることもできない。
 嗤うことしかできなかった。
 互いに気が触れていたのだろう。
 嗤い疲れたころだった。
 知らぬ声がディトラウトたちを叱咤した。
「何をしている!? 外へ出ろ!」
 寝室の扉口に若い男が口元を覆って立っている。
 赤みを帯びた金髪の男だ。会ったことはおろか、見たことも記憶にない。
 ディトラウトたちの鈍い反応に、男は苛立たしげに地団駄を踏む。
「立つんだ! このままだと焼け死ぬぞ!」
「クラウス! お前、ひとりで突っ走るな!」
「じーさん。こっちだ、イェルニの子がいる!」
 男が振り返って声を張り上げる。
 彼の姿が白く霞んでいることにディトラウトは気づいた。煙だ。ものの焦げる臭いもする。
 血臭で嗅覚が馬鹿になっていたから、気づくまでに遅れが出た。
 ヒースが前に出てディトラウトを庇う。彼は後ろ手に短剣を握りしめている。その手は震えていた。
 ひとを殺したことなどない。
 けれども現れた男が襲撃者の一味である可能性は捨てきれない。
 こちらの心中を知ってか知らずか。男は室内へ足早に踏み込み、セレネスティの遺体の前で顔をしかめた。
 痛ましげだった。
「……セレネスティ」
「……セレを知っているの?」
 ディトラウトの問いに男は首肯した。
「アデレイド様の長女だろう? 君はディトラウト君か。それで、君が、ヒースだ」
「あなたは、だれですか?」
「クラウス・リヴォート。君の後見人になるはずだった男だよ。あぁ、じーさん、こっちだ」
 ヒースの胡乱な目をいなして、クラウスと名乗った男は、次に現れた老齢の小柄な男を手招いた。
「まったく、お前は勝手に動くな!」
「話は後だよ。じーさんはお嬢さんを背負って。僕はこのふたりを連れて出るから」
「あなたがたについて行くとは言っていない」
「でも、ここから出ないと死ぬよ」
 抵抗を見せるヒースに、クラウスは居室を指し示した
 雲のような煙の塊が蠢いている。
 屋敷に火が付いたのか。
 クラウスはヒースの腕を軽く二度叩いて言った。
「さぁ、急ぐよ。燻製肉になりたくはないだろう?」


 油が撒かれていたのだろうか。
 屋敷は驚くほどによく燃えた。
 煙が窓の玻璃を押して砕く。
 空気を食らって火が伸び上がる。
 火の粉がはぜて雪のように散る。
 住み慣れた屋敷が瞬く間に炭と化す様を、呆然となりながらディトラウトは見上げた。
 しかし長く見物してはいられなかった。
 クラウスがディトラウトたちを馬車に押し込んだからだった。
「まずはここを離れる」
「なぜ?」
「危険だから。生き残りがいると知れれば、また襲ってくるかもしれない」
「だれが?」
「騎士だよ。正確に言うと、騎士崩れの賊だ」
「どこの領地の騎士ですか?」
「レミレーか、ジュラだ。複合かもしれないね」
 先だって暴徒に襲われた、近隣の領地。
 だがそこが有する騎士たちから襲われる道理はない。
「嘘だ!」
「嘘じゃあない。彼らはね、罹患したんだ」
「何に?」
「女王の座を渡したくない他領が攻撃してきた、という、疑心暗鬼という熱病に」
 レミレーもジュラもそうやって他領の騎士団に攻撃された。
 そうして自分の領地で行われた蹂躙を繰り返した。
 馬車の窓枠に頬杖を突いて、クラウスは憂鬱そうに嘆息する。
「……盗賊崩れに襲われたぐらいで、領主の館が陥落するものか。自身の故郷を荒らされた騎士の生き残りたちが、自分を襲ったと思しき領地を、順繰りに襲っていっている。いわば復讐。傍からみれば彼らの矛先はあまりに見当違いだ。けれど正気を失った彼らからすれば――これは正しい戦争。正しい襲撃」
「そんな……そんなはずないだろう!」
 ディトラウトは思わず叫んだ。
「正しい戦争? 正しい襲撃? いったいどこがだよ! 武器を持たない逃げ惑う人間を滅多差しにして、女性とみれば皆……」
 犯して、と、ディトラウトは最後まで言葉にできなかった。
 妹たちに降りかかった悲劇が現実だったと認めるようで。
「彼らも同じことをされたんだろう。恋人や妻や子に」
「自分がされたら、仕返しても許されるとでもいうの!?」
「そんなはずはない。こんなことは早く終わりにしなければならない」
「あなたがたは……いったい、何なのですか?」
 ヒースが口を開いた。
 馬車に乗って以降、初めてのことだった。
 ヒースには老爺が応えた。
 ヘルムート・サガンと、彼は名乗った。
「自分らは次期女王を保護するために王都から来た」
 サガン家は亡き女王アズラリエルの親族にあたる。軍関係の偉人を幾人も輩出していた名家だ。
 ヘルムートの言葉にヒースが眉をひそめた。
「次期女王? ……決まったのですか?」
「いいや。決まっておらん。女王になりうる、聖女の血筋の娘たちすべてが対象だ。……ところがいまのところ皆、駆逐されとる有様でなぁ」
 女王となれる娘は貴族の娘の中でも決まった家からのみ輩出される。名鑑に載る古い血筋で、メイゼンブル公家と近い親等にいることが条件だ。
 王女が生まれればよほどの暗愚でなければ相続となるため、別の家から女王が輩出されることはほとんどなかったが――……。
 ヘルムートが自分の身体にもたせかけたセレネスティを見つめる。彼らは腐敗防止の魔術布で包んで、妹の遺体を馬車へ運び込んでいた。
「自分らは、一足、遅かったのかもしれん」


 内乱を終結させるには一刻も早い女王の号令が必要だ。
 だがその女王となるべき存在が、国から失われてしまったとしたら。
 それが確定したとき、季節は夏の盛りを過ぎていた。
 治政者を失った領地の多くは荒れ、貴族同士の仲違いで多くの人死にを出したことも含め、貴族は民衆の恨みを買っていた。
 ディトラウトは自領を治めながら、身を守るために潜伏せざるをえなかった。生存をごく一部の者たちにのみ知らせて各地を転々としていた。
 風が冷たくなりはじめた日。借り受けた農家の一室でヒースを補佐に、領地の立て直しに頭を悩ませていたディトラウトは、クラウスの訪れを受けたのだった。
 クラウス・リヴォートは宰相家と名高い名家、ファランクス家当主の私生児らしい。血筋の中でもっとも頭が切れて、名家の少女たちの保護にいち早く走ったのも彼だったという――残念ながら権力がなかったがために、その努力は実らなかったわけだが。
 長らく不在にしていたクラウスはディトラウトの前に現れるなり、女王となりうる少女たちがこの国から抹殺されたと告げた。
 愕然して沈黙するディトラウトにクラウスが言う。
「幸い、男子なら、古い血を正しく継ぐ家の人間が数人残っている。君を含めて。だから、僕はデルリゲイリアに行く」
「デルリゲイリアへ? 何のために?」
「男が玉座に着く、許しを請いに」
 ディトラウトは唖然となって指摘する。
「男は女王になれないよ、クラウス」
「そんなことはないはずだ。男だって王になれる」
クラウスが穏やかに反論する。
「他の大陸では、国主の大半が男だから」
「……男が女王になれば、国が滅ぶって、そう聞いた」
「女が女王でも国は滅ぶ――男が国主であってはならないなら、聖女の血筋以外からでも、即位できるようにならなければ、ペルフィリアは早晩なくなるだろう」
 すでに玉座に着く資格を持った娘たちが国から失われているのだから。
 確定事項のように述べるクラウスにディトラウトは苛立った。
「そう簡単に滅んだりするものか!」
「そうだよ。だから僕は、デルリゲイリアに行くんだ」
 デルリゲイリアは格別な国だ。かの国の女王が許せば、農村出の小娘すら、一国の主となり得る。
 ペルフィリアが男を王に戴くこともできるだろう。
 妹の死に顔が脳裏を過ぎる。
 苦々しくディトラウトは言った。
「……そんなに簡単に、許してくれるものか」
 デルリゲイリアの女王エイレーネはセレネスティを見殺しにしたのだ。
 そう簡単に禁忌を覆してくれるとは思えない。
 クラウスが苦笑する。
「説得に時間がかかることは覚悟しているよ。だから……ひとつ頼まれてほしいんだ、ディトラウト」
 セレネスティに、なって欲しい。
 クラウスが言ったことをディトラウトは即座に理解できなかった。
「ペルフィリアには女王が必要だ。この馬鹿馬鹿しい災禍を終わらせるために、いますぐにでも国主が必要なんだ」
 今のペルフィリアは混沌の坩堝にある。早晩に取りまとめなければ瓦解する。
「僕らはエイレーネ女王の承認を待っていられないんだよ」
「……僕に妹を……セレを、装えってこと?」
「そうだ。幸い、君は、妹君とよく似ている。変声も遅れているし、体格もまだ華奢だ」
 クラウスが言わんとしていることはわかる。
 ディトラウト自身も毎朝、鏡の中に妹の姿を見る。続く旅暮らしで細った食は、元々華奢だった少年の身体をますます細くしていた。
 襟の詰まった女物を身に纏い、髪をそれらしく結ってしまえば、セレネスティのできあがりだ。
 妹が生きているように見せかけて、ディトラウトが女王に成り代わる。
「長い間のことじゃない」
「……エイレーネ女王から承認を得るまで?」
 クラウスは首肯した。
「僕は自分の国が亡くなるのは御免被る。君はどうだい? ディトラウト」
「僕も嫌だ……嫌に決まっている」
「なら――協力して欲しい。……ほんのいっとき、せめてこのひと冬」
 女王になって、くれないか。
 クラウスの懇願にディトラウトは瞑目した。
 領主の館から離れた見晴らしのよい丘に、妹の遺体を埋めたときの記憶が過ぎった。
「ねぇ、クラウス」
 ディトラウトはクラウスに問いかける。
「君は予想していたの? 僕がセレになる必要があるかもしれないって」
「そうだよ」
 ゆえにわざわざ遺体を運び出した。
 そしてどことも知らぬ場所に埋めさせた。
 本物のセレネスティの死を悟られぬように。
 あっさりと肯定するクラウスに、ディトラウトは了承を返した。
「セレネスティになるよ。……それで本当に、僕の土地も含めた国が、平らかになるのなら」


 夏の終わり、ディトラウトはヘルムート・サガンの手引きで王城入りし、女王として即位を果たした。
 爵位を有する貴族たちを収集し、イェルニを襲った悲劇について訴え、同じことを繰り返してはならない、平穏を取り戻さねばならないと、クラウスの台本通りに力説する。
 互いに疲弊していたからか。
 セレネスティの即位に否を唱える者はいなかった。
 玉座に着くディトラウトの横でヒースが囁く。
「印章を肌身離さず付けていて正解でしたね」
 領主の証である印章は書類の決裁に用いる道具であると同時に血筋を判別する魔術具の一種でもあった。
 冠を戴く者はイェルニ領主の直系であるとその印章が証明する。
「……ふたりでここに立つ必要はなかった」
「あなたがセレネスティ・イェルニだとまで、印章は証明してくれませんから」
 ヒースは彼自身としてではなく、ディトラウト・イェルニとして立っている。
「ひと冬だけのこと。そういう約束でした」
「……そうだね」
 ディトラウトがセレネスティになる期間は、ほんの、ひと冬。
 胸がざわつく。
 デルリゲイリア女王エイレーネ。彼女は自国に禍をもたらすからと、ペルフィリアの人間のいっさいを閉め出した。
 その女王がはたして説得を受け入れ了承するだろうか。
 国を滅ぼすと謂われる男が国主になる旨を。


 懸念は正しかった。
 冬、戻ったクラウスの顔は暗かった。密使からの懇願をデルリゲイリアの女王は無碍に蹴ったとすぐに知れた。
 ペルフィリアからの要請した点は二点だ。
 一点は国主に男性を認める点。
 二点目は食糧か魔術師の支援だった。これはディトラウトが要望のひとつに加えさせた。
 農期に内乱が勃発したため、ペルフィリアは深刻な食糧難に陥っている。
 冬に暖房器具を点す魔術師たちも、内乱に巻き込まれて虐殺の憂き目に遭い、その数を激減させていた。
 食糧が支援されれば、多くの者が餓死を。魔術師であれば凍死を免れる。
 一点目の要請は認めづらくとも、二点目なら受け入れやすいはず。
 ところが隣国の女王は支援のすべてを拒絶した。
 クラウスが苦い口調で述べる。
「男を玉座に就けようという発想を持つから、いまのような状況があるのだと、エイレーネはそう言った」
「女子が残っていたらそうしている!」
「我々もそう言った。国を平らかに治めるためには国主が必要だ。けれども、いまのままでは不可能だ。だからせめて、女子が生まれて育つ、五年、いや、三年でもいい。許してくれないかと願った」
 エイレーネの回答は否だった。彼女と同席した王女は口を揃えて言った。
『聖女の血が絶えたというのなら、それは主神の御心でありましょう。……穢れた国よ、滅びよ、と』
「エイレーネめ!」
 ヘルムートが机を叩いた。小槌で叩いたような音だった。
 会議室が静まり返る。静寂を寒風の咆吼が揺らす。
 ディトラウトは嗤った。
「どんな気分だろうね……。どうかと縋った手を振り払い、血の海で溺れる民人を、平和な国で引き籠もりながら高見する女王様のお気持ちは」
 ――女王エイレーネは妹を災厄と呼んで拒絶した。
 あの女王が彼女を受け入れてさえいれば、セレネスティは死ななかった。別れの間際に交した会話のように、彼女を女王として戴いて、ペルフィリアは隣国に救いを求めることもなく、自立した道に踏み出すこともできたのだ。
 椅子から腰を上げる。いまだ慣れない女性の衣装が重たい。
 気がつけばディトラウトは暖炉上で微笑む聖女に火かき棒を振り下ろしていた。
 繰り返し、繰り返し。石造りの聖女の浮き彫りが、顔も見たことのないエイレーネに思えてならなかった。
 顔を粉々に砕き、ディトラウトは皆を振り返った。
「いいよ、なら、あの女たちに見せてやろう?」
 この国を滅ぼさない。
 どんな手を使ってでも生きながらえさせる。
 ディトラウトの宣言に、クラウスが厳かに問う。
「どんな手を使ってでも。そう言ったね?」
「……言った」
「なら僕は君にひとつ提案したい。いや、僕が、というか、彼が、か」
 クラウスが合図に手を振る。
 隣室から男がひとり招き入れられた。
 ディトラウトもよく知る男だ。
「……フランツおじさん?」
 デルリゲイリアの上級貴族。フランツ・ミズウィーリは扉の前で優雅に一礼してみせた。


「女王の暗殺?」
「そう。王女もね。そして君たちに都合のよい、傀儡となる娘を女王に就ける」 
 その新しい女王に、男が国主となる旨を承認させる。
 あるいはデルリゲイリアを併呑してしまってもいい。
 デルリゲイリア貴族らしからぬフランツの提案にディトラウトは息を呑んだ。
「……だれがそれを実行するのですか?」
「わたしが」
 ヒースの問いにフランツが即答する。
「エイレーネはわたしの大切なものたちを殺した。二度も。その報いをあの女王に受けさせたい」
「……復讐なら勝手にするといい。なぜここまできてそれを我々に告げる?」
「お許しをいただきたいからです、サガン卿」
 マリアージュ・ミズウィーリ。
 フランツのひとり娘。
 彼女を傀儡として女王に就けることを。
 ――考えさせてほしい、と、ディトラウトはフランツに応えた。


 ペルフィリアには制限時間がある。
 いくらディトラウトの貌が妹に似ていても、二次性徴が始まれば女装は続けられない。
 性徴を遅らせる薬を服用したとしても、せいぜい四、五年が限度だ。
 聖女の血を濃く継いでいること。
 女であること。
 ディトラウトが限界を迎えるまで、このふたつの条件の片方でもデルリゲイリアの承認の下に撤廃させれば道は開けよう。
 フランツの提言はディトラウトに甘く響いた。
 しかしだ。それはディトラウトが女王を殺せと、命じることと同義なのだ。
 その上、女王を暗殺して傀儡の女王を仕立てる。言葉で言うには簡単だが、フランツひとりには荷が勝ちすぎる。彼もそれをわかっているのだろう。だから利害の合致する者同士で協力できないかと、ペルフィリアまで彼は来た。
 ヘルムートを伴に黙考しながら城内を歩く。
 性別を偽り始めてからというもの、自由に出歩くことはできなくなった。散歩は娯楽のひとつだ。
 風を求めて尖塔の露台へつま先を向ける。
 先客がいた。
 ヒースとフランツだった。
「マリアージュは我儘に育った。一方で、わたしに飢えている節がある。馬鹿な娘だ。見もしない父親など、早く見限ればいいのにね」
「あなたは娘を愛していないと言った。彼女を女王にと望むのはなぜですか?」
「デルリゲイリアは近々滅びる。聖女の時代の終焉の道連れに。……あの国の皆は女王も含めて能なしだ。外を見ず、国を沈めようとしている。わたしは不出来な父親だが、娘に死んでほしいは思っていないんだ。そう、アデレイドのように」
 ふたりを呼びかけたディトラウトはぎくりとした。
 露台の入り口にかけていた指を引っ込める。
 並び立つヒースとフランツはディトラウトに背を向けている。彼らは遠くに山脈を望んで会話を続けた。
「アデレイド様が、何と?」
「女王の葬儀には嫡子を連れた家も多かった。社交のために。アデレイドはそうしなかった。若い者や有能な者を、だれも伴わなかっただろう?」
 アデレイドは王都の不穏な動きを掴んでいた。
 だから、皆を残した。
「アデレイドからは事前に手紙が来ていた。何かあれば君たちを――わたしの力及ばず、すまなかった」
「……どうしようもなかったことです」
 フランツがヒースを見る。
 彼は微笑んだようだ。
「たとえ子を愛せなくても、生きる道を示すことはできる。そう、思ってね」
「娘が傀儡でもかまわないというのですか?」
「自分の意志を持つようにあの子は育っていない。傀儡でも何でも、生き延びられればなんとでもなろう」
「……私たちはペルフィリアの人間です。たとえばあなたの奸計に乗ったとして、邪魔になればあなたの娘を斬り捨てるかもしれない」
「かまわない。自力で生きようとあがけない者が悪いのだ」
 ヒースはため息を吐いた。
「……私が協力します」
「……ヒース?」
「あの方はいま、たったひとりで、国を負おうとしていらっしゃる。……ご存知でしょう、フランツ様。ディン様は領主の責ですら重く感じられるお方です。投げ出すような弱い方ではないですが、次々に積み重ねられるあの方の憂慮を、わたしは少しでも取り除きたい。だから、私がクラウスたちを説得する」
「……その必要はないよ」
 ディトラウトは衣装の裾をからげて露台に踏み出した。
 驚きの表情に目を剥くふたりに笑いかける。
「説得はいらない。いま、クラウスたちの主人は僕だ。僕が命じればいい。そうだよね、ヘルムート」
「おっしゃる通りで」
 廊下に留まるヘルムートが苦笑しながら首肯した。
「ディン様……盗み聞きなされておいでで?」
「こうやって盗み聞きされるんだなって思った。僕も次から気を付けないといけないね。ともかく、おじさん。あなたの提案に僕らは乗る」
 聖女の血よ、滅びよ。
 主神の意志だ。わたしはあなたを救わない。
 エイレーネはそう言い放った。
 隣国の女王よ、おまえもまた、聖女の末であろうに。
 ありがとうございます、と、頭を垂れるフランツから、ディトラウトはヒースに視線を移す。
「ヒースには降りてほしい。……ヒースは、貴族じゃない。僕らに付き合う必要はないんだ」
「……寂しいことをおっしゃらないでください」
「でもこれは、血濡れた道だ」
 女王を殺す。
 それを決めた時点で、きっともう優しくは在れない。
 ヒースは生まれたときからずっと不遇で、だから自分が領主になったとき、彼がのびのびと生きられる土地であればいいと思った。
 自分の下でそれはもう叶わないだろうから。
 せめて離れていてほしかった。
 ヒースが跪いてディトラウトの手を取る。
「かまいません。……手伝わせてほしいと、申し上げたでしょう?」
 そう、と、ディトラウトは微笑んだ。
 ヒースはもう決めたのだろう。ディトラウトが覚悟したのと同様に。
 やさしさも。あまさも。本当の自分も。
 全てを墓の下に埋めて歩き出す。
 決めたと知っても敢えてディトラウトは問うた。
「……ついてこられる?」
「もちろんです」
「なら――共に往こう」
 主神が人々を縛したと謳う大地。
 この。
 地獄の果てまで。


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