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第四章 探索する俘虜 4 


 木々の間に渡された縄を掴み、ダダンは大地を強く踏みしめた。山道の敷かれた斜面は厚い雪に覆われている。針葉樹林越しに垣間見える丘陵もまた白い。点在する灰色の影はペルフィリア兵の天幕だ。まるで寒さに蹲る獣のようにダダンの目には映った。
「ダダンさん」
「おー」
 先を行く集団からの呼びかけにダダンは応じた。
 縄を伝って下山する商人の一団である。オズワルド商会と付き合いのある別商会の人間たちで、ダダンは彼らの護衛の名目で国境入りをしている。
 内側に毛を張った頭巾を深く被り直し、ダダンは白い息を吐いて隊列に戻った。
 商人たちはダダンの隠れ蓑だ。ダダンは彼らに混じることで国境越えを図っていた。
 目的はふたつある。
 まずは、緊張状態にあるデルリゲイリアを警戒して展開された、ペルフィリア軍の動向を探ること。
 もうひとつは、かつてミズウィーリ家に当主代行として勤めた男の過去を探すためだった。
 ブルーノ・オズワルドは十年ほど前、ペルフィリア国境地帯を治める領主の屋敷で、ヒース・リヴォートを目にしたことがあったのだという。
 マリアージュいわく、自分は国境沿いの生まれなのだと、ヒースはダイに語っていたらしい。ならば本当にあの男はこの国境地帯で幼少期を過ごしたに違いない。
 あの男のことを調べてほしい。
 依頼の主はもちろん、マリアージュだ。
『あいつのことが気になるのか?』
『ちがうわ。あの男の行動の理由が知りたいのよ』
 下町で身を潜める生活に、マリアージュは目方をわずかに減らしたが、その目ばかりは強い輝きを放っていた。無駄に勝ち気な眼差しは、出逢ったころから変わらない。
『女王の座を狙ってわたしを陥れた者たちの望みは、あの男が欲していたものと同じに思えてならないの。あの男の過去から、拾えるものがあるなら拾っておきたい』
 ざく、と、ダダンは新雪を踏んだ。
 片手で頭巾を押さえて視線を上げる。下山を終え、山の麓を北上して半日。辿り着いたちいさな町の外れ、ただ広い雪原に暖炉と煙突が佇立していた。
 煤けて、苔むして、煉瓦にひびの入った古い暖炉と煙突。かつては火の焚かれていたであろう暗い洞には、雪ばかりがある。
「あそこには御領主さまのお屋敷があってね……焼け落ちて、あれだけが残ったんだ。崩してしまうのも忍びなくてそのままだ」
 湯で割った火酒を運んだ給仕女が言った。場所は町の食事処に移っていた。先に宿入りしていた商人たちが固まって燻製肉を突っつく中、ダダンはひとり厨房に近い席に落ち着いた。火酒を啜り、温かな煮込みものを発注しがてら、給仕女に話の続きを促す。
「屋敷が焼けて、そのまんまにしてんのか? 新しい領主はどうなってる?」
「来ていないよ。お屋敷が焼けてからは、お隣の御領主様が、こっちの御領主様だ」
「そりゃ、残念だな」
「そうでもないさ。お隣はいま、軍のお手伝いで大変らしいよ」
「こっちに依頼は来ていないのか?」
「手伝える人間が少ないんだ」
 少し前までここは商人たちの行き交う要所でもあった。
 いまは見る影もない。
 住む者を失った郊外の家々は朽ちた。治める者が不在となり、街の人間も多くが去った。若手も少ない。軒を減らした家族が慎ましく暮らすばかりの土地。
 だが外を知るダダンからすれば、流民に荒らされず、家畜を追って日々の糧を得ているという暮らしぶりは、ひどく平和に思えた。
「ご領主の館が焼け落ちたっていうのは物騒だな。……昔あったっつう内乱のとばっちりか?」
「そんなところだ」
 給仕女の口数が減る。
 彼女の警戒を悟って、ダダンは口を噤んだ。
 料理の配膳を待ちながら、町の人間たちに近況を尋ねる。彼らは口が堅かった。直轄する領主が不在であること、暖炉の立つ郊外の平原はかつての領主の私有地だったこと。そこに佇むぼろぼろの暖炉が、元は領主の館の大広間に据えられたものだったこと。そういった、他愛のないことは話しても、町の内情に一歩踏み込めば、揃ってのらりくらりと追及をかわす。
(何か、知ってやがるな)
 町人たちの奇妙な団結にダダンは舌打ちした。
 意図して隠されていては、探れるものもあったものではない。
 元よりその可能性はあったのだ。
 ここが真に故郷だというのなら、あのイェルニ兄妹が、己の過去に連なる土地を放置しておくはずがない。
 引くべきか、待つべきか。
 逡巡したダダンに機は意外と早くもたらされた。
 食事を終え、商隊と今後の打ち合わせを済まし、また食堂へ戻ったダダンの傍らに町人がひとり腰掛けた。年の頃は二十代半ば。周りの人間の態度を見ていれば、この町で重んじられる立場だとわかった。
「この雪の中、商隊の護衛らしいな。ご苦労なことだ」
「ありがとうよ。ここのやつらは皆、気前よく接してくれるから俺としても助かっている。穏やかでいい町だ。色々聞いてみたが、この町は派兵に巻き込まれずにすんでいるみたいじゃねぇか」
「幸いにしてな。……いろいろ聞いて回るのは性分か?」
「護衛役なんてそんなもんだ。土地土地のことを聞いて回って話を仕入れておかなきゃ、警戒するものもできんからな」
「なるほど、そういうものか」
「ただ、ソレとは別に、探っていることもある」
 杯に口を付け、ダダンは言及した。
 隣の男がゆるめかけていた警戒を強める。
 干した杯を卓上に置いて、ダダンは肩をすくめた。
「探している男がいる。俺の妹と恋仲になったんだが、姿を眩ましちまってな。妹が嘆いている」
「災難なことだな。……こっちで姿でもみたやつが?」
「いんや。……このあたりの出身だって聞いていてな。戻ってきているんじゃないかと思った……。だが、いそうにないな」
 ダダンは真実を織り交ぜた嘘をつらつらと並べた。下手に探りを入れるより、情報を嗅ぎ回っていたと公言したほうがよい。行動の理由さえわかれば、相手も安心するのだから。
 案の定、ダダンの嘘を信じた男は、案じる顔になって身を乗り出した。
「お館様がいなくなって、町を出たヤツも多いからな。なんていう男だ?」
「ヒースだ」
 空気が、変わった。
 男の目が見開かれている。ふたりの会話に耳をそばだてていた町人たちも、各々の動きを止めている。
 ダダンは相手の出方を待った。
 やや置いて、男が口を開く。
「どんな……男だ?」
「顔のいい頭のきれる男だよ。年はあんたより下か、同じぐらいだ。知っているか?」
 男たちの顔から色が失われていく。
 屋根から雪の塊が滑り落ちた。
 暖炉の火が大きくはぜる。
 奇妙な静寂ののち、男が愕然と問うた。
「あいつは……生きているのか?」


 吹雪の風音を、大聖堂の鐘の音が割る。
 からん、からん、からん。乾いた音だ。石造りの回廊内を跳ね回る。人の気配が少ないからこそ、壁を隔てていてすら遠慮なく響いた。からん、からん、からん……。
 遠のく鐘の音と入れ替わりに、五人分の靴音が反響を始めた。ディトラウト、ダイ、ラスティ、ゼノとマーク。ダイはディトラウトに従ってペルフィリア王城の深部を歩いていた。ラスティはダイの化粧箱を持っている。ゼノとマークは自分たちの護衛。ほかには誰の姿もない。要所となる扉の前に、守る騎士や取り次ぎの文官が佇立しているのみだった。
 ダイはディトラウトの背を追いながら、この十日ほどの日々を回顧した。
 ゼノの手引きで会ったディトラウトは、ダイを一度、塔に戻すと、また数日、姿を見せなかった。女王とずいぶんもめた、とは、後日に顔を見せたゼノの弁だ。
 そこからさらに安息日を数え、年始の月も下旬に近くなったころ、私室に戻ったディトラウトはダイに化粧を依頼した。
 対象は、セレネスティだ。
「陛下は病を患っています。年末に倒れてから快癒しません」
「……あの日ですか?」
「そうです。……起き上がれるようにはなりましたが、顔色がとにかく悪い。ですが、政務にこれ以上の穴は開けられない。ですが陛下の病を周囲に悟られるわけにもいかない。あなたには陛下の傍について化粧をしていてほしいのです。……あなたは、薬学もかじっているでしょう?」
「薬学、というほど大層でもないですけれど」
 肌の善し悪しは体調に直結している。身体を保つための食事、栄養、身体のつくり、そういったことの知識はあった。いまは亡き医者だった友人――ロウエンから手ほどきを受けたのだ。国章を負ってからは、城の医局に顔を出して学ぶようにしていた。
 ただそれは、医師のまねごとができるという意味ではない。
 ダイの指摘に、かまわない、と、ディトラウトは答えた。
「いまのわたしには、陛下の顔色を過(あやま)たず見抜き、周囲にそれを隠せる人間がいる」
「わたしの職分ですね」
「えぇ。だから、力を貸してほしい」
 ダイは了承した。苦渋の表情を浮かべたままの男の腕を撫でる。
「ディトラウト、これは契約です。あなたが危険を冒してわたしを助けた、その分だけわたしはあなたの下で働く。わたしはあなたの定めた行動範囲から逸脱しない。あなたに不利益をもたらさない。誓います」
 ただしすべてがこの男のためというわけでもない。
 広がる行動範囲はダイに新たな情報を得る機会をもたらす。ダイにとっても利のあることなのだ。
 ディトラウトへの援助は純粋な好意でも恩返しでもない。知れば、ディトラウトは幻滅するだろうか。
 ディトラウトは安堵したように微笑んだ。
 すこしだけ、胸が軋んだ。
(それにしても、ご病気ですか……)
 大陸会議で会ったセレネスティはどこか儚げな印象だった。あのころからすでに病を患っていたのだろうか。
 政務に支障を来すどころか、寝台から起き上がるまでに難儀するとは。かなり重度であることが窺える。女王がそのような状態でありながら、重体であったダイを囲っていたのだから、ディトラウトもほとほと余計な荷を負ったものだ。ダイは改めて彼の側近たちに同情した。皆、頭が痛かったに違いない。
 やがて辿り着いた扉の前にはダイも知る人物が立っていた。ヘルムート・サガン。ペルフィリアの騎士の長。
 彼はダイを見据え、疲れたように肩を落とした。
「ラスティ、ゼノ、マーク。ここで待ちなさい。……道具を」
 ディトラウトがラスティから化粧箱を引き取る。
 ダイは慌てて彼に縋った。
「私が持ちます」
「体力は温存しておくべきだ。……来なさい」
 ディトラウトが扉の奥へ消える。
 ヘルムートたちに促され、ダイもその後へ続いた。
 先日、ディトラウトが仮眠を取っていた居室に造りはよく似ている。ただ、調度が少なかった。絨毯の敷かれた室内には、ちいさな円卓と、ひとり掛けの椅子のみがあった。
 女王はそこに腰を下ろしている。
 傍らには影のように侍る梟の姿があった。
 ディトラウトが卓の上に化粧箱を置く。
 こと、と、箱の金具が固い音を立てる。
 ダイは愕然としてセレネスティを見た。続いて傍らの梟へと視線を移し、ディトラウトの主人をむしばむ病の正体を知った。
 ダイの知る、ディトラウトのこれまでが、彼と道を違えてからいままでの過去が、縒り合わさって、ひとつの事実を織りなし、ダイの前に現れる。
 ダイは暗がりの中で傍らに立つ男の手を探った。
 冷えた手を握る。男の指がダイの五指を割った。縋るように、ダイは男の手と自分のそれを握りあわせた。
 あぁ、と、息を吐く。
 傍らの男は青白い顔をして、己の王を見つめている。

 ――……昔話をしよう、と、ディトラウトは言った。


 ふたつの国の国境沿い。山の麓の丘陵地帯。広漠としたヒースの野が地平まで続く。乾いた土の匂いが常に風に乗る土地だ。
 隣国との関係は安穏そのもの。主幹街道の一本を有する領地でありながら、人の往来はそう激しいものではなかった。よく言えば伸びやか。悪く言えば田舎。豊かな土地ではなかったが、山羊を追い、馬を走らせ、川沿いの畑を耕し、得たわずかな自然の恵みを旅往く人々に売って暮らす。そんな場所だった。
 領主はアデレイド・イェルニ。
 ディトラウトは彼女の長男として生を受けた。
 大人しく、気弱ともっぱら評判な長子だった。
 ヒースの野に隠れていた本が上から取り上げられる。ディトラウトはぱちぱちと瞬いて、頭上に差した影の主を見上げた。ディトラウトとよく似た顔の少女が呆れに目を細めていた。
 妹のセレネスティだ。
「セレ……」
「ディン、こんなところに隠れてた。兵法の時間だろう?」
「もうそんな時間?」
「そうだよ。その後は馬術だよ。……ちゃんとしてないと、母さまに怒られるよ。しっかりしなよ、兄上」
「うん……」
 ディトラウトは立ち上がって土を払った。ほら、と、妹が手を差し出す。その手をディトラウトは握り返した。妹がぐいぐいとディトラウトを引っ張っていった。
 イェルニの兄妹は妹が主導をいつも握っている。セレネスティは母に似て気性が荒く、その一方で面倒見がよかった。ディトラウトの代わりに前に立った。
(セレが跡継ぎならいいのに)
 抱えた本に視線を落として、ディトラウトはいつも思う。
 イェルニの後継はディトラウトだと決まっている。メイゼンブルが崩壊して以後、貴族の女子、とりわけ古い血筋の娘は貴重で、セレネスティはいずれ王都へいかねばならないらしい。だから、ディトラウトはイェルニの嫡流として、国境を守る領地の人間として、兵の運用や馬術や諸々のことを学ぶ必要があった。
 学ぶことは好きだが、たとえ訓練だとしても、荒事に関わらねばならないことに気が滅入る。
 セレネスティの方が、よほど向いているのだ。
「セレネスティ様、ディトラウト様」
 館の裏手にこっそり入ったディトラウトたちを使用人の少年が見咎めた。妹とふたりで身体を強張らせる。
「ヒース」
「おふたりとも、どちらへ行かれていたのですか? ロッソ先生がお探しでしたよ」
「僕は隠れていたディンを探していたんだ」
「隠れてないよ。本を読んでいただけ」
「隠れてただろ」
「おふたりとも……」
 自分たち兄妹より幾ばくか年嵩の少年は、頭痛を堪えるように額を押さえた。
「セレネスティ様、どうか口調を改めください。ぼく、ではなく、わたくし、です。ディトラウト様、外へご本を読みに行かれる際は、ひと言だれかにお声がけください。黙って行かない」
 ディトラウトはセレネスティと顔を見合わせた。自分たちふたりはこの少年にめっぽう弱かった。殊勝な態度で返事をする。
『はぁい』
「わかったならよろしいですが……あぁ、それから衣服を改めください。お客様がお見えになりますから」
「お客様?」
「急だね。母様に?」
「えぇ……」
 まるで頃合いを図ったように、馬車回しの方が騒がしくなった。使用人たちの慌ただしい足音が響く。
 ディトラウトはセレネスティやヒースと連れだって、馬車回しを覗きに出かけた。見慣れない馬車が一台停まっている。だが降りてきた男は知った顔だった。
 紅茶色の髪をした壮年の男は、物陰から顔をだしていたディトラウトと目を合わせた。にっこりと笑って手招きする。見つかったことに具合の悪さを感じながら、ディトラウトはざっと自らに汚れがないことを確認し、セレネスティと手を繋いで客人の元へ歩み寄った。
 習得した丁寧な一礼を客人へ披露する。
『ご無沙汰しております、ミズウィーリ卿』
「おや、しばらく見ない間に成長したね、ふたりとも。昔と同じようにしがみついてくれてもいいんだよ」
「……そんなことはしないよ、おじさま」
「それは寂しいね、セレ」
 客人の男はくすくすと忍び笑った。
「じゃあ、しがみついてくれなくてもいいから、前と同じように、おじさん、と、呼んでくれないかな」
「それならいいよ、フランツおじさん」
 照れくさそうなセレネスティに、フランツ・ミズウィーリが微笑む。
 彼は年に一、二度、イェルニの屋敷に滞在する両親の友人。
 デルリゲイリアの上級貴族のひとりだった。


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