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第四章 探索する俘虜 3 


 湯、たらい、数枚の手拭い。
 髪留め、手鏡、粉よけの布。
 列を成す小瓶の玻璃が、窓からの陽光を反射する。
 色板を開き、筆を並べる。
 椅子の位置を調節した。
「じゃあ、始めますね」
 ダイのかけ声に、ラスティが頷いた。
 いつもの薄布は取り払われ、緊張に強張る顔が顕わとなっている。ちいさな丸い輪郭に収まる目鼻立ちは可憐だった。
 だからこそ首から耳横、さらには額にかけて広がる爛れの醜悪さが際だった。ダイが女官たちに手入れや化粧の練習をすること早数回。ラスティが最後まで首を振らなかった理由はおそらくこの傷跡にある。
 そうひどく引き攣ってはいないものの赤みが強く、健常な肌との境界が明確だった。
 ダイはその傷跡にそっと触れた。ラスティがますます身体を固くする。
 ダイは彼女に微笑みかけた。
「違和感があったら言って下さい。そっと触りますし、大丈夫。きれいになります」
 表情を引き締めて、ラスティが力強く頷く。まるで戦に挑むような面持ちだ。ダイは笑って手を清め、化粧水の小瓶を取り上げた。
 ラスティに無理強いはしていない。ダイが練習台を請わなくなって、彼女の方から依頼されたのだ。これまでの化粧を見て、気がかわったのだろう。
 化粧水を落とした綿布を、ラスティの肌に滑らせる。宰相付きには高年齢が多いなか、彼女はダイと年が近かった。瑞々しい肌はきめ細やかだ。化粧水がよく馴染む。
 乳液を塗布し、その上に下地。傷の部位には淡い緑の色を塗り伸ばす。赤みが薄れた上に、周囲の肌と色味を調整しながら、練粉を塗布していく。
 境界が消えた次は白粉だ。ダイが特別に発注したものに比べては不満が残る。それでも充分に細かくやわらかいものだった。これだけの品質を揃えるために、ディトラウトは詳細な指示を出したに違いない。ディトラウトはもちろん、依頼を遂行した彼の下官には感謝である。
 その当の宰相は、ダイに化粧箱を与えた夜、帰ってこなかった。どころか、会わないまま年を越し、はや十日が経つ。夜に戻った気配もない。ゼノの姿も見ない。ダイに付く騎士たちは口を閉ざしたまま。女官たちは何も知らされていないらしい。お戻りにならないのは少し前ならいつものことだったと取り合わない。
 けれども、わかる。
 何かがあったのだ。
 ディトラウトは連絡を怠らない。約束していたことを反故とするなら事前に言づてがある。
 けれども、あの日は何もなかった。
 それどころか、一日、二日、三日と、音信が途絶えた。マークと交代する騎士がディトラウトの多忙さを伝えてきたとき、新年は目前となっていた。
 ダイは新年をマークとラスティの三人で迎えた。新しい年の初日も例年にない雪で、鳴り響く大聖堂の鐘の音も積雪に吸われて生彩を欠いていた。白く塗りつぶされた街並みを、窓から眺めて倦まなかったわけは、手元に化粧の道具があったからだ。自分の本職を忘れずにいてよいという許しは、思いのほかダイに静穏をもたらした。
 倦怠と高熱に潤びた息を吐いて、寝台で沈むばかりだった日々よりはるかによい。ダイは黙って、体力を付け、なまった化粧の腕を取り戻すことに尽力した。
 ラスティの肌造りを終える。火傷の痕は目を凝らさなければ判別できない。
 ダイは小さな櫛をとりあげた。眉を整えて、不要な細かな毛を落とす。華美は好まれないので、目許は弄らない。肌なじみのよい頬紅を、頬の高い部位から放射状に広げれば、傷跡もさらに目立ちにくくなった。
 くちびるに蜜紅を注して、余分な粉を大ぶりの筆で落とせば完成だ。
「どうですか? 気に入らない部分があれば教えてください」
 ラスティに手鏡を渡したダイは、櫛を手に椅子から腰を上げた。ラスティの横に回り、髪に手を掛ける。
「髪型も変えれば、もっと目立ちにくくなると思いますよ。火傷のない方で髪を結いましょう。視線の誘導になります」
 ラスティの亜麻色の髪は後頭部で簡素に結わえただけだ。それを解きほぐして櫛を通し、一部を三つ編みに編む。すべてをまとめて火傷とは逆側の耳側で団子にした。
 これまで黙って壁際に佇立していた騎士が口を挟む。
「きれいじゃんか。いいねそれ」
「スキピオさんもそう思います?」
「おー。傷もこっからだとわからないね。髪も派手じゃないし、いい感じだよ」
 マークと交代でダイに侍るスキピオは、相方と違って愛想がよい。話を振れば気軽に応じて盛り上げる。嘘やごまかしは苦手なようだ。ダイが踏み込んだところまで尋ねれば、狼狽えながらそれは言えないと答えてしまうような男だった。
 ラスティははにかんで笑った。ダイへ感謝を身振りで表現する。ダイは微笑み返して、それはよかった、と、返した。
 ラスティが立ち上がって、卓の上に畳み置かれていた薄布を取る。肌や髪の色に合わせた薄布だ。早々にそれを被ってしまうことはもったいないが、ペルフィリア宮廷におけるお仕着せであるため仕方がない。
 彼女はダイとスキピオに一礼し、茶の支度に退室した。
「化粧って面白いんだなぁ。女の化粧なんてまともにみたことなかったけどさ」
「化粧は女だけのものではありませんよ。老若男女だれにしてもいい。なんならあなたのご主人にでも。疲れた顔が少しよく見えるでしょう」
「あぁね。意外に化粧されてもわからなさそうだよなぁ、閣下は」
「肌がきれいですからね」
「肌ねぇ……。確かにばーさんたちより、しやすそうだよな。ばーさんたち、しわもあるしな」
 早い段階で練習台を引き受けた女官は年配の者たちだ。年を経て乾燥した肌に化粧をするためには下準備として丁寧な保湿が必要になる。
 それ以上にダイの手を煩わせたものは、彼女たちの顔に存在した醜い瑕疵だった。
 やけどの痕が最も多いが、なかには斬りつけられたと思しきものもある。
(しわ、も)
 ダイはスキピオの発言を胸中で反芻した。
 彼は彼女たちが薄布で覆い隠す傷を知っている。
 ダイは道具の片付けを進めながら、さりげなさを装って呟いた。
「あの傷は……女王が決まる前の、内乱のもの、でしょうか」
「そうだな」
 ひとりごとめいた問いに、スキピオから肯定が返る。
 ダイはため息を吐いた。
(やはり、そうですか)
「ばーさんたちはまだやさしいな。この国では女はだれでも傷持ちだよ。若い女ほどひどい……。言うほど若い女は残ってもいない」
「そうなんですか?」
「閣下がまだ奥方を持てていないのはどうしてだと思う? 適当な女子がいないのさ」
 いつだったか、ダダンから耳にした、ペルフィリアの内乱の話を、ダイは思い返した。
 先代女王が崩御したと同時に後継が失われた際、ふたつに割れた派閥が玉座を争った。やがてそれは野火のように国全土に広がって、後継となりうる女子を駆逐する結果となっていった。
 同様のことは、他国でも起こっている。
 たとえば、ゼムナム。かの国の宰相サイアリーズが抱える身体の欠損は、ペルフィリアと似た状況によるものだ。
 ダイははた、と、気づいた。大陸会議中、ペルフィリアからの使者の男女比は、デルリゲイリアに比べて男性に偏っていた。しかし女性も皆無ではなかったはずだ。
「……社交に顔を出すご婦人方は、ペルフィリアの方ではないんですか?」
「……いや、ペルフィリア人だけどな……」
 スキピオが言葉を濁す。含みのある言い方だ。内容も先までの彼の説明と矛盾する。
 ダイは化粧箱の蓋を閉め、留め金を掛けて、スキピオに向き直った。
 頭の中でペルフィリアの年表を辿る。
「いまは、ペルフィリア人だけれど、最近までは違った人、なんですね?」
 セレネスティが女王となったのち、ペルフィリアは大陸北部の国々を呑み込み、国の形を大きく変えた。
 いまペルフィリアの上流階級に顔を出す女子は、元は隣国の人間だったのか。
 ダイの問いにスキピオは躊躇いがちに肯定を返した。
「まぁ、そう、かな」
「あとは北大陸からの出戻りですか? メイゼンブルが滅びたときに亡命していた人たちが、学術都市(ラセアナ)……フレスコ地方から戻ってきているんですよね?」
 ダイの推測を耳にし、スキピオは脱力した。
「そんな感じだね。あとは金で爵位を買った商人や……そのあたりだ。閣下は血筋でどうこうおっしゃられるお方ではないが、どの女子もいわくがあって、閣下を支えることも、共闘することもできない。……それでもサガンのじいさんは、厳選して釣書を持っていくんだけどね」
「情勢が落ち着いてもいないのに、面倒だって突き返される?」
「その通り」
 想像できる気がする。立場上、はやく跡継ぎを要することは理解していても、かといって得た妻に余力を割きたくはないといったところだろう。
 ちいさく笑ったダイに、スキピオが不審な目を向ける。
「どうしてそこで笑うんだ?」
「え?」
「お嬢さんは、閣下の……女だろう? 釣書云々って、嫉妬しない? それとも、結婚するのは自分だって思っている?」
「わたしがあのひとと結婚する?」
「お嬢さんは……閣下の何なの?」
 ディトラウトは何と説明しているのか――していないのだろう。
 ダイは長椅子に腰掛けて、スキピオに問いかけた。
「スキピオさんはわたしが誰だかご存知ですか?」
「……隣の国の人だ。閣下と同じ……」
「あなたが知る限り、わたしとあなたのご主人の接点はほとんどない。あっても政治的な絡みだけ。あのひとが自分の立場を危うくしてまで助ける、わたしはいったいあのひとにとって何なのか。……それがスキピオさんの知りたい部分であっていますか?」
 スキピオが首肯する。
 ダイは微笑んだ。
「わたしも知りたいですね。あのひとにとって、わたしは、何なのか」
 あの男を愛しく思っても、同じだけの愛情が返ってきていても、恋人か、と、質されれば違う気がする。
 男女である前に自分たちは各々の女王に仕える臣であるからだ。自分たちふたりを繋いでいるもの。それは半年にも満たない日々が織りなしたか細い糸に過ぎない。
 自分たちはひとつの目的のために、共に働いて、食べて、感情を分け合った。
 そのときに知ってしまった、やさしさや、ぬくもりを、呼び声の響きを、捨てきれないでいるだけの、ふたり。
「……メイゼンブルが滅びたあと、この国は火傷を負った。虐殺に次ぐ虐殺の爪痕を、あらゆる意味で消すために、閣下は心身を削っているんだよ」
 大陸有数の大国に名を連ねても、その水面下では不安定さが顔を覗かせている。
 その全ての始末を付けている人間が、ディトラウトだ。
「お嬢さんは、閣下の、何になるんだい?」
「……何になるんでしょうね」
 ダイは僅かに目を伏せた。
 彼に食いこむダイの存在はさぞや不穏因子と見えるに違いない。
 途切れた会話から生まれた沈黙を、叩扉の軽い音がぬぐい去る。スキピオが扉を開ける。
 ラスティが戻ってきたかと思えば、違った。
 ディトラウトに次いで姿を見せなくなっていた、ゼノだった。
 ゼノは蒼い顔をダイに向けた。
「シンシアちゃん、頼みがあるんだけど」
「たのみ?」
「あいつを……ディータを、寝かしつけてやって欲しいんだ」


 ラスティの手を借りて、女官のお仕着せを着たダイは、頭から薄布を被り、ゼノの背を追って見知らぬ廊下を歩いていた。
 ゼノの足取りは急いて早い。まだ歩行も十全とは言えない状態で、ダイは付いていくだけで精一杯だ。傍らを歩くスキピオが補佐していなければ、ダイは幾度か転倒していただろう。
 兵が番をする扉を複数枚通過し、廊下を歩き、城の深部へと進んでいく。
 あきらかに先が部屋だとわかる、最後の扉の番はマークだった。彼は目礼して扉を開けた。ゼノがダイの背を押して入室を促す。
 室内の窓は遮光幕で覆われていて暗かった。応接のためと思しき椅子や円卓、壁に掛けられた絵画の輪郭が廊下側の入口からの光を受けて浮かび上がる。
 奥まったところに扉がもう一枚あった。微かに開いた扉の奥はさらに暗い。
 背後を振り返る。
 ゼノの困った顔と目があった。
 ゼノは肩をすくめて口を開いた。
「俺は長くあいつの傍にいるけれど、外に置かれている。俺だけじゃない。あいつの周りにいる俺たちは、皆そうなんだ」
「そんなことは……」
「あるんだよ」
 ダイの慰めを、ゼノはきっぱりと否定した。
 彼は自嘲めいた笑いを漏らした。
「俺たちは、あいつが築いた壁の外にいる。でもそれは、俺たちを除けるためのものじゃない。俺たちを、守るための壁なんだろう」
 シンシアちゃん、と、切実な響きで、ゼノがダイに請うた。
「君は俺たちが踏み込めない壁の向こう側にいる。いまのあいつを救えるのは、俺たちじゃなくて君だ。君の立場はわかっている。でもどうか……ディータを、助けてやって、くれないか」
 扉が閉じられる。
 部屋にダイはひとり残された。
 誰もいない。
 暗い部屋を、ダイは手探りで歩いた。
 奥の部屋の扉をあける。
 微かに、蝶番の音がする。
 僅かな光すら拒絶した部屋は寝室で、天蓋付きの寝台の上に、顔を腕で覆って仰臥する男の姿があった。
「ゼノ……遅かったですね。何をしていたんですか?」
「……ディトラウト」
 ダイが囁くと、男は寝台の上で跳ね起きた。
 愕然とした顔で彼はダイを見る。
「なぜここに?」
「ゼノさんが、あなたを寝かせてほしいと」
「ゼノ……何を考えているんだ……塔から出すなと言っただろうに!」
「彼はあなたを心配していました」
 ダイは出来うる限り足早に距離を詰めた。寝台によじ登ってディトラウトの前に座る。
 ディトラウトの顔色はひどかった。不眠が続いているのだろう。目周りの隈は濃く、顎の線もずいぶん鋭い。手負いの獣のように纏う空気を尖らせて、ダイを睨み据えている。
「戻りなさい。ここはあなたに許された場所ではない」
「知っています。でも、あなたと一緒に戻ります」
「ディアナ」
「ディトラウト、いったいどうしたんですか。何があったんですか?」
 ディトラウトから疲労の影が消えた日はない。
 けれどもダイの記憶にある限り、ここまでひどかったことはかつてなかった。泣きたくなってしまうぐらいだ。
 ダイは彼の髪に指を通した。そのまま頬を慰撫する。かさかさと荒れた肌の感触。疲れ果てた男の顔が、苦渋の表情でダイを見ている。
 敷布の温度から、長くここで横になっていたことが窺える。仮眠を取ろうとしたのかもしれない。襟周りは緩められ、上着は椅子の上に掛かっていた。
 彼は息を吐いて、ダイの手首を掴んだ。
「ゼノは外ですか? 送らせます」
「戻りません」
「聞き分けなさい」
「わたしに何かできることはありますか?」
 ディトラウトの動きが止まる。
「……何か、とは?」
「あなたへの手助けです。何か、わたしにできることは、ありますか?」
「デルリゲイリアに与するあなたが、わたしを助けようというのか」
「あなただってわたしを助けた」
「単純に命を救うことと、政務を手伝うことでは話がまるで違うでしょう」
「あなたのお仕事を直接手伝わせろと言っているわけではありません。あなたの身の回りのことでもいい」
「では夜とぎでもしますか?」
 男は嗤っていた。
 彼が本気で言ったとは思っていない。
 でも、それで彼の気が済むならよいと思った。
 ダイはディトラウトから手を引き、自分の衣服の紐に指を掛けた。まずは薄布を外して、胸の合わせの紐を解き、釦を上から外す。
 その手を、男の手が差し止めた。
「違う。そうじゃない」
 すみません、と、男が謝罪する。
 そのまま背を丸めて項垂れる男の手に、ダイは自分の手をさらに重ねた。
「わたしは、あなたの往く道すべてを、助けられない。でも、いまのあなたにできることがあるのなら、助力は惜しみません」
 この男がダイを助けるためにどれほど危うい橋を渡ったか。
 わかっているつもりだ。
 ダイは男の肩の線を撫でた。
「ヒース。あなたはたったひとりで、何を背負っているんですか?」
 男は何も言わない。
 やるせなさにダイは声を震わせた。
「こんなにぼろぼろなのに……どうしてわたしを助けたんですか? ペルフィリアの宰相のくせに――どうして自分の負う荷を増やす真似をしたんですか!」
 ゼノに請われるまでもない。
 彼が負った自分という重荷の分だけはせめて、できることがあるのなら助けたい。
 長い長い沈黙ののち、ディトラウトは問うた。
「ディアナ……あなたは、口を、閉ざすことはできますか?」
 だれも知らない真実について。


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