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第三章 夢想する後援者 2 


 ロディマスはゆったりと城内を進んだ。急く足を無理に押さえつけたような歩みだった。
 彼を急かす叫びをかみ殺しながら、ティティアンナに扮するマリアージュは、緩慢な足取りの宰相を追った。その両脇には知らぬ顔の騎士がふたり歩いている。いつもの近衛たちではなかった。
 ロディマスもまた、監視されているのだ。
 出入りを制限した禁域を出た先では、騎士と文官が待ち構えていた。今度はマリアージュも知る顔だ。ロディマスの古参の側近である。彼らにマリアージュを預けてロディマスは去った。
「勤め、ご苦労だった」
 それがロディマスの道中唯一の言葉だった。
 ふたりの側近は丁寧に一礼して主人とその監視たちを見送る。マリアージュも隣に倣って深く腰を落とした。
 文官から声が掛かる。
「参りましょう」
 案内人は次々と変わった。
 女官、文官、騎士、そしてまた女官、文官。手配したロディマスは何を考えているのか。こうも案内の人員を入れ替えては時間が掛かろうに。
 焦れきったころ、マリアージュは小部屋に押し込まれた。
 室内には先客がいた。彼らはこれまでの案内人と異なって、扉が閉め切られてのち、マリアージュの前に跪いたことだった。
「陛下」
 と、彼らはマリアージュを呼んだ。
 ユベールとリノ。ダイに付けていた騎士と女官だ。
「……わたしがわかるの?」
「この部屋には術式が敷かれておりますので」
 ユベールが首肯して答えた。つまりアルヴィナがマリアージュに施した《姿の上塗り》が、この部屋では効力を失うということのようだ。
 騎士が表情を緩めてマリアージュを労る。
「ご無事でなによりでございました」
「時間が惜しゅうございます、陛下。早速ではありますが、これよりお召し替えを」
 リノが吊された衣装を示す。説明する前にマリアージュの衣服を脱がせにかかるところは、先のティティアンナのようだった。
「陛下を城外へお連れする手助けを、と、宰相閣下からのご依頼です」
「命令ではなく?」
「ロディマス・テディウス個人の依頼であると仰せでした。粛正される可能性もあるので無理強いはしないと」
 窓辺で外を警戒しながら、ユベールがマリアージュに説明した。
リノがマリアージュの腕に上着の袖を通しつつ述べる。
「城に出入りする商家の馬車を支度してございます、陛下。そちらで脱出くださいませ」
 マリアージュの侍女のお仕着せは活動的な装いに改められた。まさしく商家の娘が着るような衣服だった。
 リノはわれた形跡のある革の靴を履かせ、マリアージュに鏡の前の椅子に座るよう促した。粉避けの布を首回りに着せかける。マリアージュは傍らの卓を見た。化粧品とその道具が載っていた。
リノが手を清めてから迷いなく色板を広げる。やわらかな毛足の筆を手に取る女官の手慣れた様子に、彼女はダイの化粧の補佐をしていたのだったと、マリアージュは思い出した。
 ダイがタルターザで行方知れずとなり、マリアージュが失脚して、そののち、彼女たちはどこにいたのか。
「配置を換えられたそうね」
「換えられてはおりませんよ、陛下」
 マリアージュの言葉に、リノは穏やかに微笑んだ。
「余所を手伝い申し上げているのみでございます。仕えるべきお方がご不在のあいだ、遊んでいるわけには参りませんから」
「仕えるべきお方?」
「わたくしどもの仕えるお方はセトラ様ですよ。陛下がそうお命じになられたでしょう?」
 口を挟んだユベールにマリアージュは眉をひそめた。
 彼らにダイに仕えるよう命じた人間はほかならぬマリアージュだ。打診はアッセや、女官長からあったが、除目の宣旨は女王の名で下される。
「私はもう女王ではないわ」
「新しい女王は、まだ立っておりませんよ、陛下」
 化粧を直すリノは諭すように言った。
 リノが粉避けを取り払って背後に回る。彼女はひっつめだったマリアージュの髪を崩して、手早く一本に編んだ。それだけで姿見に映るマリアージュは、より商家の娘らしくなった。
「女王はあなたです、陛下」
 リノがマリアージュを立ち上がらせる。
「わたくしたちは、陛下のお近くにいたわけではございません。ですが……セトラ様を、わたくしたちは見て参りました」
「国章を負う者は、王の鏡と申します」
 ユベールは厳かに告げた。
「王の責務を果たそうとしながらも、逆に国を荒らす者は確かにおります。しかし、あなたは違っておいでです。セトラ様を通じて、それをわたくしどもは存じている。あなたは――救われるべきお方です」
「ここに戻らないかもしれないわ」
 マリアージュはふたりに告げた。
 死んでいるかもしれないし。
 逃げてしまうかもしれない。
 今回の件が露見し、彼らがさらに不遇へ追いやられても、マリアージュは何もできないのだ。
 ユベールとリノは顔を見合わせてちいさく笑った。
「無事、セトラ様とお会いできたときはお伝えください。お仕えできた日々はとても、楽しいものでした」
「お仕えしている間、色々と考えさせられました。国の内外のことや、王という存在、そして、国章を負うお方の在り方や意味。我々ひとりひとりの役割について。短いものでしたが、有意義な日々でした。それをセトラ様と陛下が与えてくださった。充分でございます」
 ユベールはマリアージュに一礼して脇を通り過ぎた。図ったように外から来訪者の知らせがある。扉に張り付いたユベールは外と二、三、言葉を交わした。マリアージュはリノに庇われていた。
 ユベールが扉を開ける。現れた騎士はロディマスの近衛だった。ここまでの道中でも顔を合わせた年嵩の男だ。
 彼はマリアージュを廊下へ招いた。
「支度が調いました。こちらへ」
「陛下」
 退室する間際に背後から呼び止められる。マリアージュが振り返ると、ユベールとリノは直立していた。
「どうか、お健やかに」
 ロディマスの近衛が扉を閉じて歩き始める。
 彼の足取りは優雅ながら、いまにも駆け出さんばかりに早かった。追いかけるには息が弾んだ。それでなくとも、ここ半月ほど出歩いてなかったのだ。体力の低下を自覚する。
 息苦しさにくちびるを引き結ぶマリアージュに、先導する騎士から声が掛かった。
「殿下から言付けがございます」
「……ロディマスから?」
 はい、と、短い答えが騎士から返った。
「逃げるもよし。戻り、王として立つこと叶うなら、今度こそ、二心を抱かず、忠義と献身を以て守り支え、お仕えすると」
 馴染まぬ騎士を近衛に付けられた宰相の背が脳裏に蘇る。
 黙したマリアージュへ案内の男は続けた。
「殿下は悔いておいででした。エヴェリーナ殿下を、妹君をお守りできなかったことを」
「……宰相と、王女殿下の仲はよかったの?」
 ロディマスとこれまで付き合ってきて、エヴェリーナの話題を聞くことはそうなかった。彼は妹のことを滅多に口にしなかったし、マリアージュも尋ねなかった。
 それはマリアージュがロディマスに興味を抱いていなかったことの証左だった。ロディマスはミズウィーリ時代のマリアージュを深く知らなかったが、その逆もまた言えたことだった。自分たちは互いを真に知らない主従だった。
「ロディマス様は王女殿下を大事になさっておいででしたが、次期女王であらせられた妹君とはお立場が違いました」
 下女たちの使用する裏路に入り、細く暗い階段を駆け下りる。滑り落ちないように注意を払いつつ、マリアージュは男の話に耳を傾けた。
「先代は厳しく王女殿下を教育なさっておりました。泣いて逃げられた王女を探しだし、先代の下へお連れするのはロディマス様のお役目で、王女にはいつも、疎まれておいででした。……ロディマス様はよくおっしゃっておりました」
 ――エヴェリーナが即位した暁には、遍(あまね)く苦しみから必ずや守ろう。
 けれども、彼女は死んだ。
 その妹を殺したかもしれない男と通じていたやもと知って、ロディマスはマリアージュたちにどのような感情を抱いたのだろう。
 怒りだろうか。悲しみだろうか。
 両方だろうか。
「わたしの主人はあなたを見殺しにはできませんでした」
 守らんと誓った者を二度も失うことは、理由はどうあれ、ロディマスには耐えがたかったらしい。
「ですが、あなたが今後も仕えるに足るかといえば、わたくしも否を唱えます」
「それでも、ロディマスに協力したのね」
「あなたが毒杯を呷るべきではないという意見には、わたくしも賛成しております。そして意見を共にするものはなかなか、大勢いるのですよ」
 外に出て土を踏む。下男下女や業者が往来する踏み固められた道だ。
 そこで待っていた男のことを、マリアージュは詳しくは知らない。
 だが誰であるかはすぐにわかった。容貌はダイから聞いていた。
 短く刈り込んだ小麦色の髪。同色の肌。色眼鏡が特徴だ。若年でこういった道具を使用する者はあまりいない。
「ブルーノ・オズワルドね」
 オズワルドは今年の社交季よりダイの化粧品類を手配している商会だ。それを率いる彼はゼムナム宰相サイアリーズの駒、オースルンドとも繋がりを持つ若手の商人だった。
 男は軽く目を見張ってから微笑んだ。
「記憶にとどめて戴いて光栄です、陛下」


 マリアージュを乗せた馬車は無事に城の門を抜けた。
 マリアージュは己の両手を見た。五指の間から砂のように燐光がこぼれ落ちている。身体が軽くなり、同時に疲れを感じた。豪奢で重い衣装を脱ぎ捨てたときのような心地だった。
「陛下のお姿に戻られましたね」
 同乗するブルーノが指摘する。やはりそうなのね、と、マリアージュは息を吐いた。
「このような魔術がまだ残っているとは」
「使える人間は限られると聞いたわ」
「でしょうね。……他人に魔力を被せる術は難しい類いだと聞いています。被せられた方にも負担が大きかったとか」
 この度し難い疲労感は上塗りによるものか。となれば、なるほど。便利な術だが、多用したいとは思えなかった。
 マリアージュは倦怠感に重い身体を壁面に預けた。
 対面のブルーノに尋ねる。
「これからベツレイム家に?」
「はい。今後の提案を、と、ご当主と商談の約束を取り付けております。……別に向かわれたいところでもございますか?」
 男の問いはさりげない。だが、試されていると感じた。
 マリアージュは自分の腕を抱いた。
 返答する前に尋ねたいことがあった。
「ブルーノ・オズワルド。おまえはどうして、わたくしを助けたのかしら?」
 時流からカースンとの関係を強化したほうがよいだろうに。かの家の邪魔となるマリアージュと行動を共にする意味は何だ。
 商人といわず、気鋭の人間は利もなく危険を冒さない。
 それをマリアージュは知っている。
 眼鏡に嵌まる濃い色の玻璃の向こうで、男の瞳がマリアージュを検分するように細められる。彼は笑ったようだった。
「わたくしは陛下に投資しているのです。それを回収せねばなりません」
 男はダイのために化粧品の供給路を複数の国に跨がって築いた。莫大な金額を動かしたはずだ。
 マリアージュはこめかみに指を押し当てた。
「元手に気をとられすぎていると、足許を掬われると聞いたわよ」
「ご忠告、痛み入ります。しかし今回の投資分はいつか必ず回収できる、と、わたくしはそう存じておりますので」
「そもそもおまえはなぜ、ダイにあそこまで投資したの?」
 ダイには夥しい数の商人が群がった。その中でブルーノだけがダイの求める品質のものを献じきった。
 ブルーノは彼女の目に適う既存のものを、ただ集めただけではない。新たに作らせたのだ。ダイが女王に用いる品々を。
 芸妓と女王。用いる相手が違えば、化粧品に求められる品質は異なる。蝋燭の薄暗い灯りではなく、まばゆい陽光の下でも艶のある色。短時間で化粧が落ちても構わぬ芸妓たちとは異なって、執務で席から動かない女王の肌に、長く載せても決して負担にならない粉。昼夜かわらず美しさを保つ品質をダイは求めたし、ブルーノはそれに応えた。
 ダイは《国章持ち》だが、その技術は化粧のみで、元の生まれも高貴ではなく、それゆえ後ろ盾もない。ダイの権勢はいっときだと思う者が大勢を占めている。
 彼女のために新しいものを作らせたところですぐに無用の長物になる。そう思った商人は多かったのだ。
 ダイから打診があったとき、ブルーノはつぎ込んだ。
 金、資材、販路、人脈。いっさいを、迷いもなく。
 ブルーノが膝の上で手を組み、マリアージュの問いに応じる。
「堅実だと思ったからです」
「堅実? 化粧に投資することが?」
「化粧を通じた新しい価値観の創造に、投資することが」
 マリアージュの言葉を訂正したブルーノは指を三本立てた。
「商人の投資先は大きくわけて三つございます。ひとつはこれまでになかった、まったく新しい技術、商品。当たれば歴史に名を残すことすらできる。外れれば一家で首をくくらねばならない」
 危険度が高く、利益も莫大なもの。
「ふたつ目は、流行になりかけているもの、です。失敗しにくく、利潤もある」
「最後のひとつは?」
「すでにあるものの、再生」
 三本の指を折って説明し、ブルーノはマリアージュに微笑んだ。
「皆、歴史を劇的に変えようとする。そんなものはね、人には受け入れられにくいのですよ。人は怠惰で、変わりたくないのです。現状がいくら苦しくとも。しかし一方で、いまを変えたいという思いも確かにある。だから既存のものに、ほんの少し、新しい可能性を示すだけでいい。古いモノを再生するだけでよいのです。広がりやすく、利潤を大きく生み、これまであるものを流用するから、労力もすくない。セトラ様の化粧はわたくしにとって、そういうモノでしたし、あなたもまたわたくしにとってそういうお方なのです、陛下」
「わたくし?」
「大陸会議の議事録、わたくしも拝読いたしました」
 ブルーノいわく。
 デルリゲイリアが提案した流民の政策は西に新しかったが、すぎる、というわけではなかった。歴史を顧みれば他大陸に例はいくつもある。あれはよかった、と、純粋に称賛されて、マリアージュは息を呑んだ。
「変えないことに固執する。あるいは、劇的な変化を試みる。いずれかは多い。愚鈍な王は保守的だし、出来物な王は有能すぎるがゆえに変化をもたらす。当人の自覚の有無にかかわらず」
 その激変はいつか軋轢を生む。
 新古の衝突は多くの血を流させる。
「その中庸をうまく行く王は、稀少なのです。マリアージュ・ミズウィーリ・デルリゲイリア女王陛下。あなたはそういう稀なお方だと、わたくしは存じております」
 いまのところは、という但し書きが、マリアージュには見えた。
 それで、と、ブルーノは問う。
「ベツレイムへ向かう前に、寄るべきところはございますか?」
「――ないわ」
 マリアージュの返答に、ブルーノは満足そうに微笑んだ。
 上手く行動を操作された気がする。マリアージュは腕を組み直し、ブルーノの隣で黙していた男に目を向けた。
「あんたはここにいていいの? アッセ」
 先代女王の次男でもある騎士の男は、鍛えられた身体を窮屈そうに商人の横に押し込んでいた。いつもの隊服ではない。佩剣こそしているが、私服姿だ。
 彼にはロディマスと同様に監視が付いていたはず。その目をどう誤魔化したものか。アッセはブルーノの支度した馬車に乗り込んでいたのだった。
「問題はない。……むしろ何かあれば、自分がここにいたほうが、対応できることもあると思う」
「あんたの兄の指示?」
「違う。わたしの意志だ」
 断言したアッセは微かに顔をゆがめた。
「……わたしは知りたいのだ。わたしが何を見て、何を見てこなかったのか。……あなたを通じて、それを、知ることができると、わたしは思った」
「望み通りに知るなんてできないかもしれないわよ」
「わかっている。……いまは」
 彼の膝上で拳に力がこもる。
「わたしはそれをいままで知らなかったのだ」
「……好きにすればいいわ」
 マリアージュは重心を壁に預けて息を吐いた。
「あんたが何をどうしようと、わたしは恨まない」
「あなたが恨まずとも、ダイは恨むだろうな」
 もしもアッセがマリアージュを斬り捨てるべきと判じたら。
 苦く嗤う男にマリアージュは肩をすくめる。
「それは、どうかしらね」
 彼女がだれかを恨んで憎みきれるような娘なら、話はとても簡単だったのだ。
 会話が終わる頃合いよく馬車はベツレイム家の敷地に入った。ブルーノは商談を内々のものとしていたらしい。正門ではなく通用門を通って馬車回しへ。三人連れだって従僕の案内を受け、ベツレイム家当主の書斎へ赴く。
 ベツレイム家の当主はマリアージュからしてみれば祖父に近い年の男だった。往年の父とよく衝突していた。彼がマリアージュの母の治療費を、ベツレイム家にたびたび無心していたからだとは、女王になってから知ったことだ。
 ベツレイム家の当主は、入室したマリアージュの顔を凝視した。そしてふらふらと進み出て跪き、ぎょっとするマリアージュを余所に額ずくと、掠れた声で懇願した。
「陛下、どうか、どうか娘を……シルヴィアナを、お救いください……!」


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