BACK/TOP/NEXT

第九章 終演する領主 1


 レジナルド・チェンバレンは、ペルフィリアの名家に長子として生まれた。
 古くは女王を輩出し、城の官を束ね続けた一族だった。名を連ねる者たちの結束は固く、親族同士の婚姻は推奨された。時折、血を薄めるため、政治基盤を強固にするための婚姻もあったが、余所者には排他的だった。次第に婚姻相手として倦厭され始めた。
 その頃からだ。家に女子が生まれづらくなった。
 ペルフィリアは例に漏れず、聖女の血を濃く受け継ぐ女子を頂点にいただく。基本は王室の直系だが、稀に男子ばかりを生む女王や、子どもを産む前に夭折する女王もいる。そういうときは名家の女子の中から女王が選ばれる。女子が生まれないということは、家の格の低下を意味していた。
 男は郭公のように、托卵されることがある。
 聖女の血を当人も知らない間に途切れさせているかもしれない。そのように、女子の生まれない一族は見做された。
 レジナルドの父はその差別を最も苛烈に受けつつも、巻き返しの機を狙い続けた反骨精神の高い男だった。先々代女王から彼女の姪、つまり、先代女王アズラリエルの従妹と、妻の腹に宿った子との婚約にまでこぎつけた。
 誤算はレジナルドが魔力の素養を全く持たずに生まれたことだった。
 魔力素養は長じてから発現することもある。父は当時の女王に主張して、七年の猶予を貰った。レジナルドは幼心に、たおやかでやさしい年長の婚約者を慕っていた。彼女とはいずれ家族になるのだ。そう思って疑っていなかった。
 レジナルドが七つ、婚約者が十のとき、婚約は破棄された。
 チェンバレン家にはこれまでにない凋落が訪れた。
(なぜだ)
 レジナルドは血に汚れ、砂と土埃、苔や虫にまみれ、岩壁を掴みながら這うように進んでいた。レジナルドを移送していた兵たちが襲われる間、もっとも無力と見做されたレジナルドは、暗闇に紛れていた深い穴を長く転がり落ち、別の古道に出た。追いかけてくる者はいなかった。レジナルドは淀んだ空気の中、足下を流れる水をさかのぼるようにして、ひとり歩いていた。道々で点滅する魔術文字の明かりが頼りだった。
 身体中が痛みを訴えている。どうしてこれほどまで自分が痛めつけられているのか、もはやレジナルドにはわからない。一歩進むごとに記憶は混濁していく。
 やがてなぜ自分がこの暗闇を、たったひとりで歩いているのかすら、わからなくなったころ、レジナルドは悲憤に叫んだ。
(なぜ)
(なぜだ)
(なぜ)
「なぜですか、聖女よ! なぜわたしにここまでの試練をお与えになるのですか!」
 聖女の姿は何よりも鮮明に思い描ける。レジナルドの最初の記憶は父母でも使用人の顔でもなかった。乳母の腕に抱かれながら見上げる聖女の像だった。魔力素養がないとわかった赤子に、両親は物心つくまえから聖女に祈ることを強要した。
 お祈りが足りないから、然るべき力がないのです。
 祈り続けなさい。聖女の祝福を賜れるように。
 教会の教えを守りなさい。
 教会の示す悪を許してはなりません。
 そうすれば。
 そうすれば――……。
 いつか、この苦しみから。
 この魔を縛する獄の如き大地から。
 ふと、人工的な階段が現れた。息を切らしながら登り、天井を塞いでいた板を夢中で押し退けた。折られた板が傷み、身体中に燃えるような熱を感じたが、とにかくこの閉塞から抜け出したかった。
 歯を食いしばる。ぷちぷち何かが千切れる音がする。これまでにないほど力を込め、板を押し退けたレジナルドは広い空間に出た。
 粗末な石づくりの御堂だ。
 穴から這い出たレジナルドの目の前に人の陰が差す。
「……シンシア……」
 聖女が慈愛の笑みを浮かべてレジナルドを見下ろしている。
「どうか……祝福を……」
「ぼろぼろね」
 いつもなら何も語ることのない聖女が口を開いた。
 仰臥して動けないレジナルドの頭上に膝を突く。
「憐れな仔。……いいわ、望み通り、祝福をあげましょう」
 レジナルドの額に聖女の手が触れる。
 身体中の痛みが闇に溶けていく。
 聖女は言った。
「あなたの魂が少しでも早く安らかに、主神の下へと運ばれていくように」
 ようやっと聖女に祈りが届いたのだ。
 祝福を受けられるのだ。
 あぁ、と、レジナルドは感涙に嗚咽する。
 光が瞼裏に広がった。


 瞳孔が開いた男の目をアルヴィナは閉じてやった。
 ひどい怪我を負っているが、戦闘に志願した暴徒のひとりだろうか。泥にまみれて擦り切れた下着姿の、ひどく凡庸な顔の男である。貴族ではないだろう。敬虔な聖女の信者だったのか。救いなら断ったが、死に行く男に祝福――穏やかな死を与えることはやぶさかではなかった。もっとも、アルヴィナが何もせずとも、まもなく主神の下へ旅立ったに違いないが。
「アルヴィナ様、こちらでしたか」
 アルヴィナに付けられていた兵が礼拝堂を覗き込んで言った。
 アルヴィナは彼に向き直った。
「そっちには誰かいた?」
「家屋に気配はあります。ですが、出てくる様子はなく。扉も開きません。この辺りの人々には逃げていただきたいのですが」
「襲ってこないなら放っておきなさいな」
「わかりました。……この男は敗走者ですか?」
「えぇ、多分ね」
 女王たちとペルフィリア軍の間に仮協定が結ばれ、後続の船が到着したことで、半刻ほど前に兵の展開が始まった。
 アルヴィナもマリアージュの命令を受けて暴徒の制圧に駆り出されていた。王城の裏門のひとつに当たる北門の戦闘から敗走してきたものたちを捕縛、もしくは制圧すること。そして攻撃的な魔術が街中に仕掛けられていないかの確認が、いまの自分の仕事である。
 男の遺体の見分を始めた兵に問う。
「遺体を回収する?」
「念のため、そうですね……。おい、集まれ!」
 兵が散らばっていた小隊を集める。
 打ち合わせを始めた彼らから離れ、アルヴィナは礼拝堂を出た。深呼吸して空を見上げる。星は一等星を残して姿を消していた。
 城のある東の方を振り返る。空は白み始めていて、払暁が近づいていると、魔がアルヴィナに伝えてくる。
(長い夜だわ)
 全ての人々にとって――とりわけ、力のない人々にとって。
 先ほどの兵は残っている住民たちが応えないことに不満そうだったが、彼らの立場になれば当然のことだ。王都に残留する人々はどこにも行き場のない無力な人々だ。どこから来たのかもわからない、ペルフィリアの正規兵ですらない、得体の知れない武装集団に応えるはずがない。どれだけ大義名分を抱えようと、傍目から見た自分たちは侵略者だ。
 彼らの忍耐の限界が訪れる前に、王都の沈静化を図ることができればいいのだが。
(ダイは、ちゃんとヒースたちに会えたのかしらね……)
 彼女は生きてはいるものの、まだ王城にいるようだ。王城の基礎に施された《トリエステの術》に阻まれて居場所を追跡できない。
 王城を眺めていたアルヴィナは、ふと、尖塔の一角に光を見出した。
 日が昇るには早い。星とも異なる。魔術発動の燐光だと悟り、アルヴィナは光またたく尖塔を注視する。
 ――声が、響いた。
 女にしては低く、男にしては高い。穏やかで、やわらかな声が。


「ペルフィリアの都のすべての者たちへ。わたくしはセレネスティ・イェルニ・ペルフィリア」
 妹から名を借りるのはこれが最後となる。
 拡声の魔術は問題なく発動していた。王城の門の傍、燻る火の陰に固まる、豆粒のように見える人々が、声の源を探して空を仰いでいる。
「いまからあなたたちの未来のことを話します。武器を握る者も、そうでない者も、愛する者と手をつなぐものも、己の肩を抱くしかない者も、ひとときわたくしの話を聞きなさい」
 王城から断続的な爆発音が響いていたはずだし、無補給船が港に乗り上げたときもかなり揺れた。この時間だが大半の者がまんじりともせず過ごしているはずだ。
「……皆も知る通り、わたくしは教会から罪を問われている身です。結果、ペルフィリアはひどく混乱しました。戦で親しい者を失くした者もいるでしょう。都に残るものは貧しく辛い日々が続いているはずです。それもわたくしの至らなさゆえ。見かねた他の国々がペルフィリアに救いの手を差し伸べにきてくださいました。それが港に留まる船。船より降りて都を巡回する人々です」
 ディトラウトは港の大型船に視線を落とした。
「繰り返します。このペルフィリアを救うために、船は訪れたのだと、わたくしの下を一足先に訪れた使者の方は言った。その言葉を信じるなら、船より降りてこの地の土を踏んだ方々が、眠れない夜を過ごすわたくしの民を傷つけることはないでしょう」
 これで自分たちがディアナと会ったと、大陸会議側に知れるだろうし、彼らに民の安全を必ず担保するように釘を刺すこともできたはずだ。
「陽が登って明るくなり、知らない顔を見たとしても、すぐに敵だと思わないように。むやみな攻撃は救いに来た方々を刺激するからです。心を静めて待ちなさい」
 最低限は話した。
 だが、話したりない、と、思った。
「これはわたくしからあなた方へ送る最後の言葉です」
 そう思えば、なおさら。
「わたくしの背後の音も聞こえますね。いまこのときも、わたくしの死を望む者がいます」
 背後で露台と部屋を隔てる窓を叩き割ろうと試みる音がする。
 玻璃が砕けて落ちる。男の怒声が聞こえる。それらを拡声の魔術が雑音として拾っている。聞くものが効けば、ここで戦闘が起こりかけているとわかる。
「罪だと糾弾されようと、わたくしは自身の成したことを後悔はしていません。わたくしは――最善を尽くしました。わたくしの大切な人々を、土地を守るために! 守れなかった後悔を二度としないように! わたくしは自らの目で現実を見定め、この道を選んだからです!」
 ぽん、と、背後で爆発音がした。
 ごくごく小規模だ。窓の鍵を招力石で飛ばしたらしかった。窓全体を破壊せず、石の使用に時間がかかっていた点を鑑みれば、火薬は使い切ったらしい。招力石も最後かもしれない。
 ディトラウトの背後にいた梟が駆け出す。
 彼女が拡声の魔術の維持から離れたことで、陣がほどけ始めた。まもなく、効果が途切れる。
 背後から剣戟が聞こえる。梟も魔力の消耗が激しい。魔力は石や針などの投擲物への防御に回し、基本は物理で攻撃すると、事前に梟からは聞いていた。
 十中八九、自分たちはここで命を落とす。
「ペルフィリアに生きる人々よ。この国を故郷と定める民人よ。祈りに手を組み、聖女に――主神を想う前に、目を開き、耳を澄ませ。果たしてこの救いの手は取ってもよいものなのか。取るべきものなのか。家を、家畜を、他人に預けるときのように、見定めよ」
 家や家畜は財産だ。家は家主が手入れをしなければ簡単に朽ちる。家畜は病になって価値が落ちる。
 雨漏りしたからといって、修繕すると言い出した赤の他人へ、家を簡単に預けはしない。調子が悪い羊を渡しはしない。奪われないか、慎重に相手を見るはずだ。誰だってしている。
 だから、できるはずだ。
「目を見開け――刮目せよ!」
 足下の陣から燐光が立ち上って消えていく。
 この声は民に届かないのかもしれない。
 そう思いながら、ディトラウトは叫んだ。
「現実(それ)は、お前たちが選んだ道だ!」
 ど、と、背中に重みが掛かる。
 首だけでディトラウトは振り返った。
(……梟)
 衝突した彼女が青ざめた顔で崩れ落ちていく。
 露台には多くの遺体が横たわっていた。動いている敵はひとりだけ。しかし身のこなしも体格もディトラウトとは比較にならない。
「――信じている」
 ディトラウトは呟いた。
「お前たちが自らの足で立ち、助け合い、輝かしい未来の中で生きることを」
 皆を信じている。
 祈っている。あらゆる手立てを尽くしたあとでは、主神に祈ることしかできないから。
 大きくこちらに踏み込んだ敵が剣を振り被る。
 ディトラウトは最後に、自分が妹の身代わりにならなければ、兄と呼ぶことの許されなかった、男の名を呼んだ。


 妹に尋ねる。
『セレネスティ、僕は立派にできたと思う?』
『もちろんだよ。やさしくて、とっても気弱だったのにね――頑張ってくれて、ありがとう』
 わたしのたったひとりの、お兄さま。


 空から降っていた声が途絶え、未明の空に静寂が戻る。
 崖に巣をつくっているらしい海鳥が、一斉にとび立つ様を、ダイたちは渡り廊下から認めた。
 青白い顔でよろけたヒースが柱にもたれかかる。
「ヒース……」
「大丈夫です」
 ダイの心配を拒むように彼は体勢を立て直した。ダイの手を引いて歩き始める。
 ダイたちは崖側に向かって王城の奥の庭を縦断する道を歩いていた。崖側の外壁を補修する際に外へ出られる、使用人向けの小扉へ向かっているのだ。崖の道を下って浜の方へ出られる。皆との合流まで時間がかかるし、夜は明かりなどの補助なしには決して歩けない。しかし払暁は間近だし、安全なら迂回することに否はなかった。
 喧噪は遠く、人気はない。本当はもっと急いだ方がいいし、庭から狙い撃ちされかねない、正規の道を通らない方がいい。けれど走り続けるには足の限界が来ていて、足場の整った道を歩いていくしかなかった。
 怖くはない。
 近衛やダダンに守られていた方がずっと安全なはずなのに。ヒースは何度も自分を傷つけたのに。彼の手が自分のそれと繋がっている。それだけがダイを、ディアナを安心させた。
 ヒースはどう思っているのか。
 つながる自分の手は、主人と離れてひとりになった彼の手を、きちんと温められているだろうか。
 物思いはすぐに途切れた。
 奥から火矢が飛んできたからだ。
 誰が飛ばしたかはわからなかった。
 ヒースが舌打ちする。
「こっちはだめだ……」
 ひと冬、ペルフィリア王城はきちんとした清掃が成されなかった。
 その間に枯れ積もった葉の上に火矢が落ちる。潮風に煽られて火が立ち上る。
 ダイたちは行く先を遮られて、引き返すしかなかった。
 時に逃げ遅れた暴徒に、得体の知れない集団に、ダイを人質に取られたと勘違いされた兵に追い回される。八方ふさがりになり、もっとも近い裏門のある南へと走りながら下っていたころ、斜め右方向に位置する扉の開かれた礼拝堂の中に、ダイは知己を見つけた。
「ファビアンさん!」
 大陸会議側の混成兵が仮の陣地として定めたところのようだ。ダイの反応を見てヒースが進路を礼拝堂の方へ修正する。
「話は、できるんですね!?」
「王都まで……一緒に来たんです!」
 ダイはヒースの確認に応え、再びファビアンの名を呼んだ。
「ファビアンさん! クレアさん!」
「……――ダイ!」
 ファビアンたちがダイに気づく。
 走りながら、ダイは叫んだ。
「攻撃しないで! お願いです!」
 矢を射かけた兵士をファビアンが慌てて制止する。
 ダイたちが礼拝堂に駆けこむと、数人の兵が外へと飛び出していき、同時に扉が勢いよく閉じられた。
 ダイは限界が来てその場に崩れた。
 ヒースが慌ててそれを抱える。が、彼も疲れ果てて支えきれなかったらしい。共に床の上にへたり込むことになった。
 ファビアンとクレアがダイたちの顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「だれか、水を持ってきて……!」
(……ついた)
 安全な場所に。話の通じる人々と合流できた。
 ダイは肩で荒い呼吸を繰り返した。
 ファビアンには悪いが、彼の問いに答える余裕が、いまのダイにはない。
 回復はヒースの方が早かった。
 呼吸を整えて彼はファビアンに告げる。
「彼女を、早く休ませてあげてください。これまで走り通しで、かなり無理をしている」
「了承した。……あなたは我々の要請に応じてくれたということでよいのかな」
「大陸会議の保護を受けにきたのか、という問いになら、そうだと答えます。敵意はありません」
「審問は女王たち立ち合いの下、行います。色々と嫌疑があることにはかわりないので、一応、それまで拘束することになりますが」
「かまいません」
 素直に短剣を差し出すヒースにファビアンが目を丸くし、苦笑してそれを引き取った。
 ヒースがダイの耳元に口を寄せて囁く。
「手を」
 これまで逸れないように固く繋いでいた手を解く。
 ヒースが立ち上がる。ダイもクレアに手を貸されながらそれに倣った。
 俄かに嫌な予感が胸に沸く。
 ダイと向き直ったヒースが苦笑する。
「そんな不安そうな顔をしな――……」
 ヒースはダイを安心させようとしたはずだ。
 そのやさしい声が、ふいに途切れた。
 彼の首がぎこちなく背後を省みる。ヒースの背後に誰かがいるのだ。
 ぽた、と、礼拝堂の白い床板に雫が落ちた。
 赤い雫だ。それが、降り始めの雨のように、ぽた、ぽたたと、床に落ちて斑な染みを作っていく。
「――……ナ」
 ヒースがダイを見つめて唇を動かした。
 名を、呼んだのだと思う。
 けれども声になっていなかった。
 ヒースがダイにどっと倒れ込んでくる。
 ダイは彼の身体を抱き留めて再び床に腰を突いた。
 力なく崩れた男の腰から色がじわりと広がる。
 血の赤だ。
 ダイは悲鳴を上げた。


BACK/TOP/NEXT