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第八章 潜入する救援者 4


 魔術の明かりが灯る階段を、ヒースに手を引かれてひたすら降りる。
「地下を経由して外へ出るんですか?」
「いいえ。いったん城内へ戻ります」
 ダイを先導しながら彼は答える。
「あの部屋から外に直に出る道は塞いでしまいました。……あなたが道の存在を知っていたので、侵入経路を限定したんです」
「あぁ、だから道を使うなってベベルさんに伝言したんですか」
「伝言が無駄にならなくてよかったですよ。いえ、そもそも聞く立場になってほしくなかったですね」
「あなたのせいですからね」
「はいはい。すべてわたしのせいですよ。……ひとまず、外に出るには城内の別の部屋から入り直す必要があります」
「あちこち鍵が掛かっていましたけれど……」
「鍵ならわたしが持っています」
 王城の扉のすべてに対応する魔術式の親鍵を、女王と宰相は持っているとヒースは言う。デルリゲイリアにもあるな、と、ダイは遠い目になった。
「すみません。そうですよね。馬鹿なこと訊きました……」
「ディアナ」
 ヒースがぴたっと立ち止まって振り返る。
 何かあったのかとダイは首を捻った。警戒に視線を巡らせた刹那、腰が強く抱き寄せられる。
 頭上に影が差し、ふっと唇が合わさる。
 不意打ちに口づけられ、呆然としていたダイに、彼は額同士を押し付ける。
 蒼の瞳を痛ましそうに細めて彼は言った。
「痩せましたね」
「……旅暮らしが長くて」
 ルグロワ市からまともな宿は昨日だけだった。ダダンはダイの体力も鑑みて、できうるかぎり休憩や食事を準備してくれていたものの、安全が最優先である。過酷な旅はダイから肉を削いだと思う。
 だが、痩せたのは自分だけではない。
 ダイは男の頬を両手で挟んだ。
「あなたもひどい顔。落ち着いたら、肌磨きを一から十までして差し上げます」
 ヒースは笑った。ダイは彼の首に腕を回して、自分から深く口づけた。
 唇を離して、男の肩口に額を擦りつける。彼はダイを抱いたまま、髪をやさしく梳いた。
「落ち着きましたか?」
「少し。……すみません。なんだか、いっぱいしゃべってしまって」
 ヒースと無事に再会できて、自分は少し、興奮していたのだと思う。
 会話は体力を削る。無駄口は叩かない方がいい。
 わかっていても、声が返ってくることがうれしくて、存在を確かめたくて、話しかけてしまう。
 男の心音を聞きながら、ダイは彼に問いかけた。
「ほとぼりが冷めるまで、ここに隠れているっていうのは、駄目なんですよね?」
「えぇ。……隠し通路の存在は相手も知っていますから。城の面で方々を爆破させていたのも、奥につながる道を探していたんでしょう。どこからどう誰が入ってくるのか不明です」
「わかりました」
「わたしとしては、ふたりきりでずっと閉じこもっていたいのが、本音ですけれどね」
 ダイの髪に顎を埋めて、ヒースがため息を吐く。
 やや本気の色が声に滲んでいて、ダイは笑ってしまった。
 気持ちが落ち着いたところで、再び手をつないで階段を降りる。
 やがて道は昇りと下りの道に分かれた。
 上に向かう道に足を掛けて、ヒースが説明する。
「登りきると、騎士寮に出ます。安全そうなら近くの裏門から外に出れば」
「ヒース」
 ダイは彼の腕を引いて話を止めた。声を潜めて警告する。
「足音がします。下から」
 ヒースは顔色を変えた。ダイの手を強く引いて、階段を駆け上り始める。
「敵が来る」
 彼は端的に告げた。
「下は地下牢だった。サガン老が閉ざしたはずだ。あそこからこちらへ人が来るはずがない……!」


 ヘルムートはどっと膝を突いた。
 立てた剣を杖替わりに、どうにか崩れ落ちることだけは堪えているが、腹部の出血がひどい。動脈を傷つけたか。情けないことだ、と、ヘルムートは自嘲した。
 ざり、と、砂利を踏んで、影がヘルムートの前に立つ。
 ヘルムートは影を見上げた。
 影が外套の頭巾を頭から落とす。あぁ、と、ヘルムートは笑った。顔に見覚えがあるからだ。
「おぬしか」
「サガン将軍」
 影の声は女のものだった。その背後で行われる殺戮の音が、その声の場違いな玲瓏さを引き立てる。
 彼女は言った。
「レジナルド……。あれを勝手に突き出されては困るのです。殺してくれるかと思っていたのに……。念を入れて回り込んで正解でした」
「どこから……ここを……」
「あなたのご精鋭から。あぁ、ご本人は決して何も漏らしませんでした。身持ちが固くて大変だったのです。一夜の夢の中で、少しばかり、お薬を嗅いでもらいまして。それでもはっきりしたことがわからず、色んな情報をつなぎ合わせてようやっと」
「あぁ……同郷だったか……」
 喉の奥から鉄臭さが競り上がってくる。切り裂かれた腹が燃えるように熱い。
 霞んだ視界の中、すらりと立つ女の向こうで、ここまで付いてきてくれた兵たちが、外套を頭から着こんだ何者かに取り囲まれ、なぶり殺されている。
 万が一に備えて、付き従う部下たちにはこの道のみ教えてあった。王都から離れた海岸の洞穴につながる古道。狭い道だ。手勢があっても分散する。待ち伏せされたら、どれほど剣の腕が立ってもひとたまりもない。
「許せない」
 女の声は冷えていた。
「ゆるせない。ゆるせない。どうして父母を殺した相手に忠誠を誓えるの。犬でも尻尾を振る先を選ぶでしょうに。あぁ、わたしたちはゆるせない。ずっとあなたたちを、ゆるせなかったのよ」
「レジナルドの、手引きをしたのは、おまえか」
「無念ですか。無念でしょうね、将軍。逃げ出すことができなくて……」
「はっははっ!」
 笑いかけたヘルムートは、腹が引き攣って咳き込んだ。吐き出した血で地面が黒く染まる。
 ヘルムートは深く息を吐き、杖替わりにしていた抜き身の剣を振りぬいた。
 刃は女の外套を割くだけに終わった。
 仲間の男が危険を察して彼女を急ぎ後退させたのだ。
 女が忌々しげにヘルムートを睨む。
「この……!」
「……元より、逃げるつもりなどないわ」
 手足がしびれる。もう剣は握れまい。
 城に残る兄弟のために、この女を撤退させたかったのだが、難しそうだ。
 自分はここで死ぬ。
 長かった。
「この首で満足するなら、持っていくがいい。わしを憎む権利がおぬしにはあろうよ。だが、そこまでにせい。……わしがすべてを始めたのだ。この首で以って終わりにせい。逃げよ」
「……なにを」
「父母の眠る地で、平和に暮らせ。どうか」
「黙らせて!」
 女の悲鳴じみた声が狭苦しい道の中に響き渡る。
 誰かがヘルムートを背後から刺した。
 幾度も。幾度も。幾度も。
 女が何かを叫んでいる。金切り声で。おまえが、おまえが、おまえたちが。
 怨嗟が永眠の子守歌とは、主神も粋なことをしてくれる。
(まったく、ふさわしい死に方だ……)
 似た死に方をしたクラウスも同じように思ったのだろうか。
 この国を守るために自分たちは多くの罪を犯した。
 犠牲になった者たちの怨嗟は引き受けるから、巻き込んだすべての者たちに――自分を殺す彼女たちを含めて――明るい未来があってほしいものだな。
 己の血の泉を眺めながら、ヘルムートは穏やかにそう思った。


 長い昇り階段を踏破したダイたちは、それなりの広さがある簡素な部屋に出た。布を被った寝台と机。壁には剣掛け。埃と土、それから革と金物の臭いがする。
 ヒースの言っていた騎士寮の一室らしい。出口は備え付けの衣装箪笥の中だった。ヒースはダイを室内に引っ張り出すと急いで扉を閉めた。
「布をかぶせてください」
 ヒースが廊下に続くらしい扉に取り付いてダイに指示する。ダイは机を覆っていた大判の布を急いで扉に被せた。たかが布だが、出てこようとする相手の視界を塞ぐ程度はできる。その一瞬が大きな差になることもあると、ダイはダダンを通じて知っている。
 ついでに椅子も寄せようとしたが、そこまではいいとヒースに腕を引かれた。
「逃げるのが先です」
 ヒースは扉を開けて、廊下をさっと一瞥した。安全を確認して部屋を出る。
 廊下は明るかった。窓の外で火の手が上がっているのだ。人々のざわめきが聞こえる。戦闘が起こっているらしかった。
 ヒースが苦々しく呻く。
「門は駄目か……」
「ヒース、地下から誰か来ます。物音が」
「こっちへ」
 火の手の見える窓を左手に見ながら、ダイたちは走った。角を曲がったところで、先ほどまでいた部屋の扉が、ごがっと蹴り破られる。視界の端に外套を着こんだ人の集団が過った。
 ダイは先を走るヒースに報告した。
「正門で見た、暴徒の人じゃ、ありませんっ」
「人数は!?」
「ふたり、いえ、五人っ、以上!」
 ダダンと動いて、足音に耳を澄ませる癖がついた。ぱっと見た分も合わせて間違いない。
 ヒースの顔に焦燥が滲む。彼が少し振り返ってダイを見る。
「ディアナ――……」
「いやですからね!」
 彼が何を言おうとしているのか悟って、ダイは叫んだ。
「置いていかないでください!」
 雷雨の夜、叫べなかった言葉を、いま告げる。
 自分だけでもどこかに隠れたほうが、きっとヒースも逃げやすいはずだ。正門から城に入って、もうずっと、ダイは走り続けている。足は棒のようだし、脇腹が引き攣って傷む。完璧に足手まといだ。
それでも嫌だった。置きざりはもうこりごりだった。
 さらにいまこの手を離したら、ヒースはおそらくその身を囮にする。彼の主の最後の命令はダイを安全に送り届けることだが、彼自身も無事で、というひと言が明言されていなかった。
 だからこの手を放さない。絶対に。
 ヒースが正面に向き直る。
 手がより固く繋ぎ直された。
 騎士寮の建物から中庭に出る。訓練場も兼ねているのか。藁を巻いた打ち込み用の柱がいくつも立っていた。その中庭を囲む回廊の左手。裏門方向から、追走してくる組とは別の人々が現れる。
 人数は十人弱。平民の身なりだった。しかし手に武器を手にしていた。
 彼らがヒースに目を留める。宰相だ、と、誰かが叫んだ。
「聖女さまを騙した悪いやつ!」
「殺せ!」
「動くな!」
 ヒースが平民たちに声を張る。
 彼はダイの身体を乱暴に引き寄せた。後ろから抱え込んで、いつの間にか抜いていた細身の短剣の刃をダイの首にあてる。
「動くな……」
 繰り返される制止は、ダイにも向けられたものだった。短剣を水平に構える彼の手は震えていた。力加減をひとつ間違えれば、ダイの頸動脈を切り裂ける。
 男は宰相の、冷徹な声音で、静かに警告する。
「こちらは隣国、デルリゲイリアからの使者だ。お前たちが動けばこの首を掻き切る」
「それがどうし……」
「ただの使者ではない。デルリゲイリア女王の側近だ。もしもお前たちの浅はかな考えで殺されたと知れれば、お前たちもただではすまない。……死にたくなるような刑が待っているだろうな」
 平民たちの動きが止まる。
 でたらめな言い分は効果があったようだ。彼らは顔を見合わせて次の行動に迷い出す。
 その隣国の女王の側近がなぜここにいるのかという疑問は彼らから出なかった。
 ただ。ペルフィリア宰相の繰り返す、無関係な人間を見殺しにするかもしれない事態への良心の呵責が、彼らの足を踏みとどまらせたようだった。
 たった、ほんの三呼間。
 外套を被った得体の知れない追撃者たちが追い付いてきた。ダイは後ろ手にヒースの足を叩いてそれを知らせた。
 ヒースが来た道を一瞥する。
 その一瞬のうちに、別の足音が平民たちのさらに向こうから聞こえ始めた。
「おい、あれ!」
「セトラさま……!?」
 平民たちの来た方角から見覚えのある女が現れた。薄暗がりに照らされて色はわからないが、ファーリルの国章が縫い取られた騎士服を着ているはずだ。小スカナジアで挨拶をしたことがある、かの国の《国章持ち》と、彼女が率いる小隊。
 平民たちが背後を振り返る。
「城の騎士か!?」
 勘違いしたらしい平民が武器を振り被って小隊の下へ走る。しかし訓練された精鋭と武器を持っただけの平民では話にならない。すぐに引き倒され、それを見た平民の仲間たちが悲鳴を上げて四方に散る。彼らがダイたちを追いかけていた者たちの前を阻む。
 ヒースが短剣をダイから放し、手を引いたまま駆け出した。
「合流しないんですか!?」
「混戦の場にあなたを置きたくない」
 さらにファーリルの騎士隊にまで行動を勘違いされたとヒースは付け加える。彼女たちはペルフィリア宰相が使者として城に入ったデルリゲイリアの《国章持ち》を、人質に取って逃げ回っていると考えただろう。冷静に話を聞いてもらえるような状況にない。
 入り乱れて戦闘する集団を後目に、ダイたちは騎士寮を離れた。


「あぁああああっ!」
 男がひとり、悲鳴を上げて、階段を転がり落ちていく。
 彼に巻き込まれて後続の追撃者たちも後退する。梟がすかさずディトラウトを上へ押し出した。
「お早く!」
 彼女は叫んで、魔術の呪を唱え始める。階段を崩して足止めするつもりなのだ。
 ディトラウトは重い衣装の裾を絡げ、裸足で階段を駆け上っていった。
(失敗した……)
 王都を見渡せる塔の露台を目指し、梟と玉座の間を移動したまではよかったが、途中でかち合った妙な集団に追われ始めた。聖女教会に洗脳された暴徒でもなければ、そこから遣わされた傭兵でもない。魔術を含めた様々な方法で足止めして距離を取り、また追い付かれを繰り返している。
(男装していればよかったな)
 玉座で死ぬだけなら、セレネスティの姿でよかった。
 けれどいまの自分にはすべきことがある。
 最後の最後で、仕事がひとつ、できてしまったのだ。
 塔を登りきると広い部屋に出た。貴人の居住空間にも使えるような、きちんとした設えの部屋だ。扉から真っ直ぐ進んだ先に玻璃をはめた大きな窓がある。露台へと続くその窓は飾り格子がはまっていて、通常は施錠されて開かないようになっている。それをディトラウトは携帯していた親鍵で急いで開けた。背後の扉を固く閉じ、その前に家具類を移動させた梟が追い付いてくる。
「拡声の魔術を使うと、あちらの動きを封じられません」
 彼女は階段方面の扉を睨み据えて述べる。いくら梟でも複数の魔術を同時には使えないのだ。いや、平時なら問題ないのかもしれない。けれども、疲労で集中力が続かなくなっているのだろう。
 申し訳ございません、と呻いて、梟が下唇を噛む。
 ディトラウトは微笑んだ。
「大丈夫。……拡声と、時間稼ぎを頼める?」
「もちろんです」
 ふたりで露台に出て、窓を再び閉める。
 潮風がディトラウトの頬を撫で、長く伸びた髪を棚引かせた。
 時刻は知らぬ間に夜明けに近くなっていた。日の出にはまだ早いが、遠く、東の空の闇色が薄まっている。
 西に視線を戻すと、王都が、治めてきた国が一望できた。
 未明の都の方々で光が瞬いている。ディアナが言っていた、ゼムナムからの兵だろう。光の動きをさかのぼれば港に乗り上げた大型船が見える。改めて、めちゃくちゃな寄港の仕方だな、と、呆れた。豪快なゼムナムの宰相らしいと言えばそうなのかもしれないが。
 妹の名を借りて即位したばかりのころを思い出す。
 こことは別の塔だが、似たような場所でフランツ――マリアージュの父親と、ヒースの会話を盗み聞いた。
 デルリゲイリアに傀儡の女王を立てよう。すべてはペルフィリアを救うため。血塗られた道でもかまわないと腹をくくった。
 ディトラウトは胸中で妹に問いかける。
(僕は、どうするべきだったのかな、セレ)
 勝気で冷静で果敢な女王を目指した。気丈な妹ならそうすると思ったのだ。ディトラウトの政治はいっときこの国を延命させたけれど、今日の混乱を引き起こしたのもまた、自身の行いの積み重ねなのだった。
 梟が露台の端に招力石を設置する。魔術の補助のためだ。
 背後の部屋から窓越しに、扉を潰そうする音が響いている。
「終わりました」
 拡声の魔術の準備が。
 梟が告げて、剣を部屋に向けて構える。
 ディトラウトは彼女が設置した陣の中央に立ち、露台の縁に手を置いた。
 深く息を吸い、口を開いた。


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