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第二章 女王の候補者 3


 マリアージュに断りを入れて荷物を解き、化粧道具を円卓の上に広げる。ダイの私物の大半を占める道具の多種多様さに、女王候補の少女は驚いたらしい。その大きな瞳を瞬かせていた。
「何……こんなに、色使うの?」
「そうですね。一人に対して全てを使うわけじゃないですが」
 色の板を広げ、瓶を並べ置きながら、ダイは答える。そして、はた、と、マリアージュの質問の意図に気が付いた。
「普通は使わないんですか?」
 貴族の子女に対する化粧は、侍女が担うのだという。彼女らがどういった化粧をするのか、ダイは目にしたことがない。ダイが使用する色数は、確かに花街の化粧師が用いるそれよりも多いほうだ。しかしマリアージュの反応は、明らかにかつてない圧倒的な数を見た者の驚き方だった。
「使わないわ……見たこともないもの、ばかり」
「普段、お化粧とかはされない?」
 薄く白粉が施されただけのマリアージュの顔を覗きこむ。彼女は驚いた様子で僅かに身を引いた。
「ちょっと、顔、近い」
「あ、すみません」
 つい癖で、不躾に顔を覗きこんでしまった。相手は女王候補だというのに。
 羞恥に熱を帯びる頬を隠すように伏せて、ダイは円卓の上の整理を行った。使用する順番に道具を並べ替えていると、マリアージュの声が掛かる。
「化粧は……あまりしないわ。意味がないから」
「意味がない?」
 手を止めて、ダイは鸚鵡返しに尋ねた。
「そうよ」
 腕を組んだままのマリアージュは、そっけなく応じる。
「化粧したところで、何が変わるわけじゃない。だって私、もともとの造りがよくないんだもの」
「……そんな風には思えませんけれど」
 まじまじとマリアージュを見つめ返しながら、ダイは彼女の言葉に反論した。
 最初に一目見たときも思ったのだ。マリアージュは、愛らしい少女である。絶世の美女というわけではないし欠点も見られるが、目鼻立ちはそれなりに整っていて、くりっとした目や形良い唇などの美点となるべき箇所は数多い。
 心からそう思ってマリアージュの言葉を否定したのだが、彼女にとっては単なる世辞のように響いたらしい。
「そんなのね、アリシュエルとか見てないからそんなこと言えるのよ」
「アリシュエル……様?」
 聞き覚えのない名前に、ダイは首を傾げる。その無知に対して、マリアージュの視線は冷ややかだった。
「ガートルード家の女王候補」
「あぁ」
「あとホイスルウィズムのクリステルとかね」
 そういって黙り込んだマリアージュを横目で見つめる。ふてくされた横顔。ダイの脳裏を、かつて耳にしたヒースの言葉が過ぎる。
『マリアージュ様は、そのお顔に自信がおありでない』
(そういうことですか)
 他の候補者達がどのような顔立ちをしているのかダイには皆目見当も付かないが、要するにマリアージュは流行の顔立ちでないことに引け目を感じているのだ。
「お待たせいたしました」
 水差しと手ぬぐいを携えた侍女を連れて、ヒースが歩み寄ってくる。ダイの傍らで足を止めた彼は、化粧道具の広げられた円卓を一瞥し、小首を傾げた。
「台車か何か、用意したほうがいいですか?」
「いいえ。そちらにおいて下されば大丈夫です。ありがとうございます」
 ダイが指差した空間を確認したヒースは、背後の侍女に視線のみで指示を下す。指定された場所に携えていた一式を無言のまま置いた侍女は、即座にその場を辞去していった。
 彼女を目で追っていたマリアージュは、ヒースを一瞥して呻く。
「あんたも部屋の外へ行きなさいよ、ヒース」
「私もですか?」
「そうよ。なによあんた、女の化粧を覗きたいわけ?」
「そういうわけでは……」
「あんた達も!!!」
 ヒースの弁明を無視し唐突に立ち上がったマリアージュは、戸口に屯していた使用人たちを睨み付けた。
「そんなところで何油売ってるの!? さっさと部屋を出て行きなさい!! 私がいいっていうまで入らないで!! シシィはお茶を用意するのよ!! 喉が渇く前に用意しなさいよ!!」
 叫ぶ、というよりも吼える、と表現したほうが正しいような怒声である。間近にいたダイは、耳を塞ぐべきだったと心底後悔した。
「マリアージュ様」
 同じく耳鳴りに苦しんでいるらしいヒースが片耳に手をやり、軽く頭を振りながら主人に呼びかける。しかしマリアージュは椅子に腰を下ろし、鬱陶しそうに嘆息しただけだった。
「なによ、あんたまだいたの。早く行きなさいよ」
 ヒースが無言でこちらを見下ろしてくる。案じるようなその眼差しに、ダイは苦笑した。
「平気ですよ」
 強がりではなく、本心だった。その返答に彼は渋面になりつつ肩を落とす。そして何かあったら呼んでくださいと言い置き退室していった。
「ほんっとうに訳がわからないわ。人の化粧を覗いて何が楽しいっていうの? 私の素顔を笑いたいのかしら」
「多分、心配だったのだと思います」
 貴族社会のしきたりといったものを一切知らない自分が、マリアージュに対して粗相がないかどうか。
 ところがダイの発言は、マリアージュにとって笑いを誘うものだったらしい。目を丸めた彼女は笑い声を立てながら、ダイの言葉を否定した。
「そんなはずないじゃない!」
「でも、私の振舞いがマリアージュ様のご気分を優れなくさせてしまっては」
「ヒースが絡めばどんなことだって私には気分悪いわよ。あいつもそれは承知のことでしょう」
 ずいぶんと、ひどい言われようだ。
「あいつはもともと私の顔色を窺うような男じゃぁないし」
 ダイは納得した。先ほどのマリアージュとヒースの一触即発なやり取りを見ていれば、大いに頷ける。
「あんたが私にいじめられないかどうか心配してるっていう線もなしね。あいつは人の心配なんてするような奴じゃないわ」
「……そうですか?」
「そうよ」
 これまで共にいて、知らぬ間に気を遣わせていたのだと思うことが多かった。人を案じるような男ではないと評するのは、いささか言いすぎではないだろうか。
 黙り込むダイに、マリアージュは冷ややかに言葉を吐き捨てた。
「得体の知れないやつよ。ヒースは」
「……マリアージュ様にお仕えしているのに?」
 己の使用人を得体が知れぬとは。あまりの言い方に、ダイは思わず訊き返す。
「仕えてるわよ。私に」
 使用人の一人には違いないと口にし、マリアージュは、ぽつりと付け加えた。
「正確に言えば、私のお父様にね」
「……お父上?」
「そうよ。死んでしまったけれど」
 膝の上に頬杖をつき、口先を尖らせながら彼女は言う。まるで亡き父の霊がそこにいるのだとでもいうように、どことも知れぬ虚空に、目を凝らすようにして。
「教えてあげるわダイ。あんたがどんなことを言われてあのヒースに呼ばれてきたのかわからないけれど、あの男ほど得体の知れない男はいないわ。本心を言わない。嘘を付く――いいえ、本当とも嘘ともいえないような曖昧なことばっかり言って、平然と人を騙すんだから。私にだって嫌々仕えてるに違いないのよ」
「そんな風には、思えませんでしたけれど……」
 手ぬぐいを濡らす手を止めて、ダイは控えめに反論した。
 平然と人を騙すと言われてもいまひとつ納得がいかない。ヒースはダイに対して紳士だった。子供と称されることが少なからずある外見をダイは自覚していたし、何せ出自が出自だ。けれど彼はダイを雇い入れると決めて以降、見下すような真似をすることは一切なく、むしろ親身ですらある。
 それにヒースは腕の良い化粧師を探すために噂を聞きつけ、花街まで赴いてきたのだ。それは全てマリアージュが女王となる可能性を押し上げる為の行動に違いない。使用人たちの呼称から判別するに、彼らの中でも相当高い地位にいるらしいヒースが、花街に素材を引き抜きに行くというのは抵抗のあることだっただろう。
 それでも彼は直々に足を運んで、最後にダイを引き抜いた。ヒースの一連の行動は、マリアージュへの奉仕ゆえではないのか。
 何より、ダイがヒースの言葉を信じてミズウィーリ家にやってきたのは、主を真の国主にしたいのだと、その手助けがいるのだと、彼が真摯に訴えたからこそだ。
 だがマリアージュはきっぱりとダイに断言した。
「あんたそれ、ヒースに騙されてるわよ」
「え。いえ、そんなこと」
「騙されてる」
「……そうですか」
 強く断定され、ダイは呻くしかなかった。化粧の仕度を再開する。
 それにしてもだ。ヒースの口ぶりから信頼しあう主従なのかと思っていたというのに、マリアージュと彼の関係は想像していた形とかなり異なっているようである。ヒースはマリアージュに冷たく当たるし、彼女も彼に対して不信感ここに極まれり、といった様子なのだ。
 これは一体どういうことか。
 眉をひそめ、黙考していたダイの耳に、マリアージュの呟きが聞こえた。
「そうよ……」
 作業の手を止め、ダイは彼女を振り返る。マリアージュは視線をぼんやりと虚空に向けたまま、唇を動かしていた。
「そうよ。みんなみんな。なんで。お父様も、どうして」
「……マリアージュ様?」
 訝りをこめ、ダイは呼びかける。その声に、マリアージュは我に返ったらしい。なんでもないわ、と頭を振って、彼女は椅子の上で口元を引き結んだ。
 化粧の準備を整えて、居住まいを正す。マリアージュと向かい合う形で椅子を引き寄せたダイは、彼女に深く一礼して腰を下ろした。
「それでは、始めさせていただきます」
 マリアージュは依然として険しい表情のまま。挨拶にも沈黙が返ってくる。ダイは苦笑し、彼女の髪に手を伸ばした。
 刹那、強張る少女の身体。
「髪を留めるだけですよ」
 身構えるマリアージュに、ダイは囁きかけた。
 マリアージュの緊張が緩むのを待ってから、邪魔にならないように彼女の耳にかかる髪を固定する。顕になった顔は、やはり当人がいうほど造りが悪いというわけではない。愛らしい顔立ちだ――仏頂面でなければ。
 清めた手で、乳液を温める。
「白粉を落としていきますね」
 それを指先ですくい取り、一声かけてから彼女の顔に伸ばしていく。その後、濡らした手ぬぐいで丁寧に顔を拭っていった。ヒースが侍女に準備させた手ぬぐいは、ダイが扱ったこともないほど柔らかく上質のものだ。肌触りは決して悪くないはずである。
 それからも一声一声掛けていきながら、化粧の下準備を進めていく。むくんでいる首筋を軽くほぐしてやり、薔薇水を綿布に浸して顔に付け、果実から抽出した精油を薄く伸ばす。
「……化粧師ってこんなこともするの?」
 前準備が終わり、いよいよ化粧に移ろうかという段階で、マリアージュが口を開いた。
「化粧がより美しく映えるためには、大切なことですから」
 微笑みながらダイは彼女に応じる。手の甲に落とした下地を指で拭い取っていたダイの耳に、低いマリアージュの声が滑り込んできた。
「……あんた、なんか私に変なことをしようってんじゃないでしょうね?」
「変なことなんてしませんよ」
「してるじゃない。だって全然違う」
「何が違うんです?」
「全部よ! 侍女は誰もそんな風にしたりしないわ!」
 そんなにも異なるのだろうか?
 化粧をする前に、肌を整えておくその仕方が? あるいは、それそのものを行わないということなのだろうか?
 一応、手順を踏むたびに一声かけているのだが、その内容すら彼女は理解できていないようだった。本当に自分の化粧の仕方は、貴族の子女達のそれとは全く異なるらしい。
 マリアージュの顔がますます強張っていく。
「本当に、ヒースが持ってくるものは、全部、訳がわからないもの、ばかり」
 その、苛立ち孕む低い声。
「そりゃぁ、面倒だから勝手にしてって言ったのは、私だけど、でも」
 彼が来てから全部全部、わからないこと、ばかり――……。
 癇癪を、起こしかけている。
「マリアージュ様」
 嵐の前の静けさを彼女の呟きから感じ取って、ダイは手を拭ってとっさに呼びかけていた。出来る限り、柔らかく、そして抑揚の少ない声音で。そして呼びかけに合わせて彼女の手を握りこむ。
 初めて客の前に引き出され、泣き出す寸前に唇を引き結ぶ、幼い芸妓。
 マリアージュが浮かべている表情は、ダイが幾度も目にしてきた幼い娘たちのそれと同じだった。
「マリアージュ様……今は、やめておきましょうか?」
 マリアージュの顔を作っていくことはダイの役割である。ミズウィーリ家に居続ける限り、いつかは彼女にもそれを許してもらわなければならない。
 しかしそれは彼女から不信感を取り除いた後でも構わないことなのだ。今から化粧道具の一つ一つを、口頭で説明してもいい。
 呼びかけを耳にいれたマリアージュが唇を戦慄かせながら、こちらに目線の焦点を当てる。そして静かに首を横に振った。
「やりなさい」
「ですが」
「いいからやりなさい!」
 気丈に命じながらも、マリアージュの顔は強張ったままだ。ダイは彼女の手を握りなおしながら、彼女を勇気付けるための言葉を必死に搾り出した。
「私もこちらの世界の勝手がわかりません……ので、うまく、言うことは出来ませんけど。でも今から施す化粧は、マリアージュ様を思って致します。マリアージュ様が怖いと思われること、してほしくないと思われることは、致しません」
 目元や口元の色一つにしても、本人が激しく違和感を覚えるものは肌にのせない。当人の不快感がそのまま顔に出てしまうからだ。いくら他人の目から見て似合っていても、それでは自身の内面の輝きが翳ってしまう。
「良い悪いは、それからおっしゃっていただければと思います」
 そして、自分を化粧師として傍に置くかどうかも。
 あまり考えたくない話だったが――そうせざるを得ない。ミズウィーリ家で働けなくなる可能性というものは、ヒースの依頼を受けたときから、常に意識していた。アスマは駄目なら花街に戻ってくればいいといったが、そのつもりはない。
 あの花街を出る日は、今までの生き方と決別する日だと、ずっと決めていたから。
 ダイの言葉に耳を傾けていたマリアージュは嘆息を零し、目線を下げて低く唸った。
「……ちょっとあんた、いつまで手を握ってんのよ」
 ダイは慌てて手を離す。
「あ、すみません」
 実に失敬だった。芸妓達が癇癪を起こしかけたときなどよくするものだから、つい手が出てしまった。
 マリアージュはダイが握っていた手に視線を落とし、低い声音で尋ねてくる。
「……私が怖い怖くないって、どうやって見分けるの?」
「動きの前に断りを入れます。何をされるのかよくわからず、嫌だと思われたらおっしゃってください。変なことをしようっていうのではないので、我慢してくださると大変助かります」
「私からしたらあんたの動きは全部変よ」
「……す、すみません」
 そんなに侍女達の化粧と自分のそれに、差があるのだろうか。
 卓の上に並んだ仕事道具を一瞥し、ダイは嘆息したくなった。
「……もっと詳しい説明が欲しいときは、おっしゃってください。出来る限り……あまり、説明とかって苦手なので、わかりにくいかもしれないですが……致します」
 芸妓達はダイたち化粧師に全幅の信頼を置いていて、余計な説明など求めてこない。ダイが自身の化粧について説明する機会は、同業者と技術の向上を狙って討論するときぐらいだ。先日ヒースに化粧を見せた際、彼に対しても説明を挟んだが、実はかなり一杯一杯だった。
 未知の世界は誰しも恐れるものだ。説明も何もなく、自らの意思ではないものに振り回されて、触れるというのなら、なおさら。
「いいわ……さっさと始めて」
 椅子の上で身じろぎし、居住まいを正してマリアージュが言う。
「あんたみたいな子供に、いつまでも諭されてちゃ、ヒースの子供扱いに腹を立てることもできなくなるわ」
 どうやら、緊張はほぐれたようだ。口先を尖らせて呻く彼女に安堵し、ダイは化粧の下地となる乳液を指先ですくい取った。
 ふと、ヒースのことを思う。
 彼はダイにあまり多くのことを解説しなかったが、目的は明確に述べていた。マリアージュを、女王にする。そして、それにはダイの腕が必要なのだ、と。
 真っ直ぐな彼の言葉は、説明の不足を補って有り余るものがあった。少なくとも、ダイにとってはそうだった。それは駄目ならば逃げればいいという、気楽さ故なのかもしれない。
 ただ、渦中にあって逃げられぬマリアージュにとって、ヒースは言葉足らずなのだろう。だからこそ、彼女は癇癪を起こし、怯えを見せる。
「それじゃぁまず、下地となるものをつけていきます。顔を少し、こちらに寄せていただけますか?」
 無言のまま顔を突き出してくるマリアージュの頬に、下地を伸ばしていきながら、ダイは提案した。
「私と同じようにヒースにも説明を求められてはいかがです?」
 眉をぴくりと動かした彼女は、ため息と共に言葉を吐き出した。
「どういうことよ、って何度も訊いても、あなたを女王にするため、一点張りのやつに、これ以上なんの説明を求めろっていうのよ」
「もっと具体的に、尋ねてみられるとか」
「何? あんた私の尋ね方が悪いって言うの?」
「あ、う、いえ……そうじゃなくてですね」
 でも、そのように響いても仕方のない言い方をしていたかもしれない。反省に口を噤んだダイに、マリアージュがふと微笑を漏らす――可愛らしい、笑い方だった。
「いっつも、噛み付いていってしまうから、ヒースも答えられないのかしら」
「……さぁ、どうでしょう」
 下地を塗り終わり、色の板を引き寄せる。肌色を補正していく、極彩色の板。
 その蓋を開けて中身を確認しながら、ダイは言った。
「でも、貴女様にとってわからぬ行動も、あの人にとっては意味があって為されるものなんだと思います。そしてそれら全ては……貴女を、女王にするためのもの」
 彼はダイに言ったのだ。
『私の主が、真の意味で、国の主と、なるために』
「あの人は確かに、貴女を女王にしたいのだといって」
 わざわざ花街まで足を運んで。
「その助けとなるように、私をここに連れてきたんです」
 どんな理由があれ、マリアージュを女王にしようという意志は本物だ。それだけは、間違いない。
「……ヒースを追い出しておいてよかったわ」
 マリアージュが、ふてくされたように頬を膨らませる。
「でなければ、やっぱり貴女のほうが子供でしょう、なんて、また馬鹿にされるところだった」
 小さく頭を振った彼女の唇から漏れた呻き。
 ダイは、可笑しさから小さく噴出した。


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