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第十章 懊悩する青年 1


 私はこの日を、永遠に忘れないだろう。
 流され続けてきた私が。
 初めて選択した、この日を。
 自ら運命を塗り替えた、この日を。


 夜明けにはまだ早い時刻だというのに、街の通りには人の姿が溢れていた。
 大通りの脇には出店が並び、前掛けを締めた女たちや勇ましく腕まくりした男たちが、慌しく商品を並べ置いている。西大陸の国々は有事で無い限り、毎年この時節に祭りの賑わいを見せるのだ。
 〈聖女の祝祭〉。人はそのようにこの日を呼ぶ。
 〈聖女の祝祭〉。それはかつて魔女が聖女と成り変わった日。新しき国の始まりを、人が祝った。
 〈聖女の祝祭〉。今日、新しい女王が決され、これからの道が示される。
 アルヴィナは人を避け、空間を歪めながら道を進んだ。ほどなくして到着した貴族の区画へ入る門の周辺は、馬車で込み合っている。彼らは女王選出の儀に来賓として招かれた街の有力者たちだろう。貴族ではないながら一角の財力と権力を有する、市井の代表者である。
 アルヴィナのもとにダイを経由してマリアージュから招待状が届けられたのは、数日前のことだった。先日、護衛したときの礼らしい。城で行われる儀式に一席を用意すると、紙面に記載されていた。
 断るべきか迷ったが、結局はこうやって足を運んでいる。同胞たちが知れば、珍しいと目を丸めるだろう。
 検問で手続きを終え、朱塗りの屋根並ぶ街に入る。
 山脈を背にそびえる白亜の城を見上げながら、アルヴィナは久方ぶりに立ち会う歴史の転換に、密やかな吐息を零した。
 白い呼気が、視界を染めて虚空に溶けた。


「ねぇ梟」
 梟は水差しから面を上げて背後を振り返った。鏡の前に佇む主君は、国から付き添ってきた女官たちに、今日の装いを確認させている。彼女たちは主人の衣装の裾を整え、その腰帯を飾る組紐の角度を調整して香水を吹き付けていた。誰一人として、口を利かない。衣擦れの音だけが微かに響く部屋に、主の声はよく通った。
「君は誰が女王になると思う? 女王候補たちの話は聞いてるけど、どれもいまいちぱっとしないよね」
 夜明け前。今頃他の来賓は眠い目を擦りながら侍女たちを急かしている頃だろうに、梟の主君といえばその蒼の双眸を、眠気なぞ知らぬといわんばかりに冴え冴えとさせていた。高杯を載せた盆を携えて歩み寄りながら、梟は思案する。主人は同意を求めているのだろうか、それとも、こちらの意見を求めているだけなのだろうか。
 この国の政情は、様々な機関を通して報告を受けている。女王候補たちについても然りだ。有力と思われた候補が失踪したこともあり、その顔ぶれはどれもいまひとつ、といったところだった。
「楽しみだなぁ。顔を見るの。どれもこれも、きっと甘やかされたお嬢様なんだろうね」
 問いかけておきながら、答えを待つことなく主君はつらつらと言葉を並べる。もともと、返答など望んでいなかったのだろう。
「あぁいうお嬢様たちってさ、自分が一番世界で愛されてますって感じで傲慢なんだよね。見てるだけで滑稽だよ。誰が女王になろうがなるまいが……これからその平和に浸かりきった自分を詰ることになるんだろうな。あぁいうのって、いじめてあげるときが一番楽しいよね。誰よりもみっともなく助けてって懇願する。私は死んではならない、愛されるべき人なのって顔で。……ねぇ、どう思う、梟」
「……何をでしょうか?」
「選ばれた女王は、僕の役に立つのかな? 立たないのかな?」
 梟の主は盆から高杯を取り上げて、中の水を優雅な仕草で飲み干した。美しい横顔を、震える喉を、梟は黙って見つめる。
 それはもちろん、と請け負うべきか。
 わからない、と正直に述べるべきか。
「陛下は、どちらを望んでいらっしゃるのですか?」
 杯を置いて、主君は子供のように笑った。
「ずるいなぁ。そういう答え方はなしだよ」
 梟は盆を女官に下げ渡し、彼女の持っていた薄布を広げると、主人の黄金色の頭にふわりと被せた。
「どちらでもいいんだ、梟」
 端に透かし編みを縫いつけた淡青色の薄布は、蝋燭の光を受けて、今は眩いばかりに白い。
 その下で、形良い唇が笑みに吊り上がる。
「今日ですべてが終わり」
 そして、始まるのだ。
 主君は、興奮に頬を上気させて笑った。
「楽しみだなぁ」
 窓からは、闇が徐々に薄らいでいく様がよく見えた。


 卓の上に並べられた仕事道具を見つめる。今日に向けて肌にのせる品一つ一つを検品し、筆の類は入念に手入れした。
 目の前ではマリアージュが椅子に腰掛け、ダイの動きをじっと観察している。肌の手入れは終わっていた。髪結いも着替えも終わり、あとは化粧を施すのみだった。
 マリアージュが、ふと笑う。
 ダイも微笑んだ。
 並べられた道具に、手を伸ばす。その指先が僅かに震えていることに、ダイは苦笑せざるを得なかった。化粧が全てを決するわけではない。それでも酷く緊張しているのは、ダイの仕事の如何が今日という日に臨むマリアージュの心構えを左右するからだろう。
 時に他家の招待を受け、時に集まりを催して、繰り返しその身を売り込む。来るべき日の為に、空いた時間は作法諸々の勉学に。
 その日々の終わりを告げる、〈聖女の祝祭〉。
 女王候補は夜明けと共に城に集められ、訓示を受けた後に一人ずつ演説を行う。これを以って貴族たちは投票を行い、次代の女王が決定されるのだ。
 ここ数日はこの日の為の仕度に、誰も彼もが大わらわだった。マリアージュは事前に支持を表明してくれた貴族たちへの挨拶廻りに加え、衣装の仮縫い、装飾品の選定、演説の練習、等々、数え切れぬほどの課題をこなさねばならなかった。ヒースは中立派の貴族たちを訪問することに余念がなく、時間が空けばマリアージュに付き合って、当日の段取りを繰り返し確認していた。侍女たちも執事たちも右へ左へと準備の為に奔走し、番兵たちは緊張の度合いを深めて警戒に当たっていた。
 その連日の騒々しさは今、鳴りを潜めている。
「どんな女王がいいかとかなんて、やっぱりわからないわ」
 静かな部屋に、マリアージュの声が反響する。
「大体ね、他の誰かが望むように自分を捻じ曲げてやるなんて器用な真似私には無理よ」
 独白は気を紛らわせるためのものだろう。
 練粉をのせていく前段階、下地を彼女の頬に伸ばしながらダイは笑った。
「マリアージュ様、他人に合わせるのすっごく苦手ですもんね」
「あんたと違ってふらふらしてないだけよ」
「え、私ふらふらしてるんですか?」
「言い方間違えたわ。ぼけっとしてる」
「……もうなんとでもおっしゃってください」
 次は練粉。彼女生来の肌の明るさを生かすために、まずは薄桃色の色粉を大きめの筆に取る。一歩間違えれば肌を赤くみせる。しかし使い方によっては、艶を出す色粉。
「国のこともわからないわ。大体難しいこと考えるの、私の性にあってないのよね」
 薄桃色の色粉を頬と輪郭を中心に軽くまぶすだけでとどめ、肌色の練粉の中でも液体に近いものを引き寄せた。小瓶の中にこしのある平筆を入れる。親指ほどの太さの筆だ。
 色の量を手の甲で調節し、マリアージュの頬の高い位置に横に一筋滑らせる。
「でもどうありたいか、だけは教えてくださらないと困りますよ。私たち仕える側が」
 練り粉を伸ばし、骨格を強調して、次へ。
 顔全体に伸ばす完璧に液体の状態の小瓶を引き寄せた。今日はとにかく艶を出していくために、粉物は品数を抑えるつもりでいる。
「なんで困るのよ?」
「化粧と同じですよ。マリアージュ様が、右に行くか左にいくか示してくだされば、そっちの方向に向けてみんな動くってことです。マリアージュ様が慈悲深い女王を演出したいというのなら、皆そういう政策を考えるでしょうしね」
 首の色より少しばかり暗めの練粉を、大きめの平筆を使って斑のないように伸ばす。崩れやすい口周り、目元は、薄めに。
「あんた、まだ女王になるって限らないのよ」
「この後に及んで何言ってるんですか」
 余分な練粉を海綿で抑えて吸い取り、次は粒子の細かい白粉を。柔らかい太めの筆を使って、顔全体をくるくると磨くように。
「今日で全てが決まる。ガートルードの一門はそりゃ私を支持してくれるって確約してくれたけど、残り三家が結託すれば匹敵する勢力になるし、中立派がそっちに流れ込めば」
「その中立派が流れ込まない限りは大丈夫でしょう?」
 肌を作り終わる。目元の色は決めている。鮮やかな、赤。
 薔薇の色だ。聖女の色でもあり、この国の色でもある。
「その人たちを惹き付けるために、私は今マリアージュ様に化粧を施しているんですよ」
 まず、保湿のための蝋を薄く塗って、目元を明るくする。
 淡い紅の色粉を引き寄せ、柔らかい毛足の筆にそれを含ませた。
「マリアージュ様、貴女様は以前おっしゃいました。迷いなく、揺ぎ無い美しさが欲しい」
「……エイレーネ女王陛下がそうだった」
 目元に筆をのせる。白い肌に、色が映える。
「前に会ったことがあるって言ったじゃない?」
「おっしゃってましたね」
「今でも覚えてるわ。ゆったりと微笑みながらね、でも気が強そうだったのよ。真っ直ぐに人を見て、まるで矢を射るような張りのある声で人に命じてたわ」
 次は濃い紅を。少し粘度の高いものを。細筆の先につけて。
「アリシュエルもそうだった。あんたの友人とのことで悩んでたりもしたんでしょうね。だけど私の目から見たら、みんなに愛されて迷いごとなんて何にもないように見えた。揺るぎがなかった」
 目元の際に紅をのせる。太さを調節しながら線を引いていく。
「私もそうなるわ」
 黒の色粉で目を縁取る。睫に色をのせて強調する。眉の形を整えて、口紅の並ぶ板を手に取った。
「えぇ。知っています。そのように化粧を」
「ダイ」
「はいマリアージュ様」
「……私が女王になった暁に、私が決めた指針に、皆は付いて来るのかしら。納得するのかしら」
 マリアージュの頤(おとがい)を持ち上げ、唇に紅を注していきながらダイは笑った。
「もちろんです」
 紅は色味を抑えたものを選んだ。目元の色味を殺さないため。彼女の唇の形のよさと艶を出すことを念頭に置く。
「迷うな、とはいいません。悩むな、とも。けれど人の前に立つとき、貴女様は胸を張らなければならない。エイレーネ女王陛下、もしくはアリシュエル様のように、超然として佇む。貴女様が望まれる姿は、そういうものでしょう?」
「そうね」
「そういう存在に人は付いていきます。いつものように強引に人に命じてください。そうすればみんな仕方なく従うしかなくなるんですから」
「みんなっていうか、仕方なく私に付いて来てるのはあんたじゃない」
 紅筆を置き、頬紅を太筆に含ませながら、ダイは片眉を上げた。
「あれ、そうですか?」
「こんなところですっとぼけないでよ。あんたってばいっつも、あー仕方ない人だなーとか思いながら私に付いて来てるでしょ。わかってんのよ」
「……マリアージュ様って、実は人の心が読めるんですか?」
「そしてそこは否定しときなさいよ変なところで馬鹿正直ねこの化粧師は」
「いたっ。頭叩かないでくださいよ筆持ってるときに」
 ダイは嘆息して、ふん、と鼻を鳴らすマリアージュの頬に紅を入れた。選んだ色は肌に馴染みやすい煉瓦色。彼女の顔の丸みを削ぐように頬骨の位置を中心に淡く馴染ませていく。
 目元に青みある白の色粉を加える。境目がないように筆で暈(ぼか)す。
 少し距離を置き、正面、横顔、斜め、下方、様々な角度から均衡が取れているか確認し、最後に余分な粉を落とした。
「終わりましたよ、マリアージュ様」
 粉除けの布を取り、手鏡を渡すと、マリアージュは緊張した面持ちで一度だけ頷く。
「ご苦労」
 珍しく労ってくる彼女に、ダイは瞠目した。こちらの反応に、マリアージュは怪訝そうな顔を見せている。ダイは首を横に振って、微笑み返した。
 マリアージュが椅子から腰を上げる。扉の前に黙して控えていた侍女たちが、凛とした所作で通り過ぎていく主人に頭を垂れた。執事が開いた扉の先、伸びる廊下の両脇にもまた、ミズウィーリ家の使用人たちが列を成して控えている。一番奥にはマリアージュの付き添いとして共に城へ向かうヒースが待っていた。
 壮観な光景。一度足を止めたマリアージュは満足げに頷き、ダイを振り返る。
 幾重も襞を作る衣装の裾を引いて、彼女は微笑んだ。
「私は先に行くわ」
「はい、お気をつけて」
 ダイもまた微笑んで、付け加える。
「……後で参ります」
 マリアージュは口の端を一層上げて、身を翻した。
 並ぶ窓一つ一つから、一日の始まりを告げる陽が差し込む。
 その光の幕を押しやるようにして赤い絨毯の上を進む主人を、ダイは丁寧に腰を折って見送った。


 女王が崩御して以後、長きに渡って閉じられていた城の門が、再び開かれる。
 新しい女王を迎え入れる意思の表れとして。
 楽器が鳴らされる。
 野薔薇の花びらが舞う。
 それが、一つの終わりを告げる、〈聖女の祝祭〉始まりの合図だった。


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