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第八章 墜落する競争者 2


 化粧のためにマリアージュの部屋を訪れたダイは、卓の上で突っ伏して眠る彼女の姿に苦笑した。道理で、入室に声を掛けても返事がないはずだ。
「マリアージュ様」
 ダイは歩み寄って化粧鞄を足元に置いた。そして彼女を揺り起こしにかかる。
「えぇ……? ……あぁ、ダイ」
 薄く目を開けたマリアージュが、頭を押さえながら身体を起こした。
「なんなの……?」
「夜会の準備のお時間です。もうすぐリースたちが来ます」
「え? あぁ……そんな時間なのね」
 零れるあくびを手で隠すマリアージュを横目に、ダイは壁際に歩み寄った。棚に置かれた水差しを手に取り、目覚めの一杯を高杯の中に注ぎ入れる。
「なんだかお疲れですね」
「考え事してたら眠れなかったのよ昨日」
 ダイの言葉に、マリアージュは不機嫌そうに応じた。
「あー頭痛い」
「考え事ですか?」
 高杯を手に、ダイは歩み寄りながら問いかける。
 水を受け取りながら、マリアージュは気だるそうに頷いた。
「昨日ちょっとね……気になることがあったのよ」
 おかげで眠いと呟いて、彼女は水を喉に流し込む。くぐもったその言葉を聞きながら、ダイはふむ、と唸った。
 昨日のマリアージュの予定は二件。朝一番は、ミズウィーリ家を古くから支持しているらしい中級貴族の家をヒースと共に訪問していた。その後、身支度を整えるため一度屋敷へ戻ってきていた彼女に、なんら変わった様子は見られなかった。
 午後、マリアージュはホイスルウィズム家が主催する夜会に出かけている。何かあったとすればその時だろう。
「……気になることですか?」
 癇癪を起こすことは多々あれど、このように何かを考え込む姿は珍しい。
「アリシュエルの様子がちょっと変だったのよ」
 何気なく尋ねたダイは、もたらされた回答に、差し出された空の高杯を取り落としそうになった。
「……アリシュエル様の?」
 両手で杯を支え、問い返す。
「そうよ」
 マリアージュは髪を無造作に掻き上げながら、あくび混じりに答えた。
「なんだかちょっと……変な感じだったのよ。次、あの子と鉢合わせする集まりっていつだったかしら」
「んー、ちょっと確認してみないとわからないですけど、明後日の昼食会には来られるんじゃないですか? だってカースン家のご招待ですし」
 カースン家の長女メリアはマリアージュたちと同じ女王候補だ。女王候補を有する家の催し物には、大概、他の候補者が揃って招待される。
「……そうね。……でもま、来ればいいけど」
 マリアージュの意味深な言に、ダイは動揺して呻いた。
「来ればいいって……」
 それは。
 アリシュエルがもう、姿を現さぬ可能性があるということだろうか。
 ふとロウエンのことが脳裏を過ぎる。アリシュエルと二人で今後のことを話し合うと言っていた彼は、アリシュエルを置いて帰国する心積もりのようだった。
 結局、連れて出ることにしたのだろうか。
 ――……マリアージュには、ダイの友人である医者とアリシュエルの関係を報告していない。
 ヒースもまた、彼女に伝えていないようだった。
 もしも今、ダイがロウエンたちのことをマリアージュに打ち明けたとしたら、彼女はどんな反応を示すのだろう。
 ダイの黙考をよそに、マリアージュが机の上に小山を成す書籍を突如叩いた。
「結局、読み終わらなかった」
「……リヴォート様からの宿題ですか?」
「そうよ。ほっとんど頭に入っちゃいないけど」
 忌々しい目で、マリアージュは本を睨みつける。女王になった暁に必要になってくるだろうということで、読むように強要されている資料だ。女王としての振舞い方、歴代女王の歴史、芸術関連、その他諸々の読本。
 招待された先には嫌がらず出るようになったが、マリアージュは相変わらず座学に関しては一刻持たず投げ出してしまう。癇癪を起こさぬだけましとは、侍女たちの弁。
 積まれた本の題名を目で追いながら、ダイはふと、引っかかるものを覚えた。
(……そういえば、お金に関する本って、ないんだな)
 アスマの書斎で見かけるような、金銭に関る書類を、マリアージュの部屋で見たことがない。
(マリア様、最初お金のこともよくわかってなかったみたいだし……)
 改めて考えると不思議なことだ。女王になった時の為にと用意されている資料ならば、幅広い分野のものがあって然るべきはずなのに、どこか偏っている。
 見当たらぬものは経済関連のものだけではない。
 政治に関るようなものも。
 一切。
「そういえばダイ」
「は、はい」
 呼びかけに我に返り、ダイは居住まいを正した。卓の上に頬杖を突いたマリアージュは、胡桃色の眠たげな目をダイに向ける。
「様子が変っていったら、あんたたちもだけど」
「……私、と?」
「ヒースよ。あんたと、ヒース」
 ダイは、無意識に息を詰めた。
「喧嘩でもしたんなら、さっさと仲直りしておきなさいよ。鬱陶しいったらありゃしない」
「……はい」
 頷いたダイに、マリアージュは壁際の水差しを指差した。
「水、もう一杯頂戴」
 話を変えてくれたのは、彼女の優しさだろう。
 深く追求されなかったことに安堵して水差しの方へ歩き出すと同時、衣装を持って侍女たちが仕度の為に現れた。


 何故、気付いたのだろう。
 彼とのやり取りは、人前ではいつも通りのはずだというのに。
 マリアージュの洞察力に驚嘆しつつ、ダイは廊下を歩いていた。
 マリアージュの化粧を終え、自室に道具を仕舞い直したその足で、ダイはヒースの部屋に向かっている。彼は今宵、屋敷を留守にする予定だが、この時間ならばまだ執務室にいるはずだった。
 控えの間に入り、奥に続く扉を叩く。
「どうぞ」
 ダイが名乗る前に、承諾の返事が寄越された。
「失礼します」
 断りを述べながら踏み入った部屋には、執事長のキリムがいた。ヒースは彼と、何事かを相談している最中だった。
 ダイは戸口で大人しく、彼らの話が終わるのを待った。どうやら次の安息日を越えた辺りに予定している茶会の相談のようである。マリアージュが出向くものではなく、ミズウィーリ家が主催で開くものだ。自分たちにも近々、その件について侍女頭から話があるだろう。
「……ダイ、用件は?」
 一度、話の区切りがついたらしい。
 ヒースの質問に、ダイはキリムを一瞥して答えた。
「相談したいことがあるんです」
 ダイの視線の意味を、ヒースは汲み取ったらしい。彼は執事長を仰ぎ見る。
「以上の件が片付いたらまた報告を」
「かしこまりました」
 遠まわしに退室を促されたキリムは、丁寧に礼をして踵を返す。すれ違い様に目礼を交わし、ダイは彼を見送った。
 扉が閉じられ、足音が遠ざかる。
 二人だけになったことを確認して、ダイはヒースの机の正面に移動した。
「相談事、とは?」
 距離を置いて足を止めたダイに向き直り、ヒースが尋ねてくる。
「街に下りたいんです」
 ダイは即答した。
「許可、いただけませんか?」
「……道具の調達は済ませていると思いましたが?」
「えぇ。理由はそっちではありません。……ロウエンです」
 この場に自分たちしかいないとわかっていても、自ずと声は低められた。
「マリアージュ様がさっき漏らしていたんです。昨日会った、アリシュエル様の様子がおかしかったって」
 そして彼女のその様は、二度と会えぬかのような印象をマリアージュに与えたようである。
 報告に、ヒースは口元に手を当てて唸った。
「……ロウエンが、彼女を連れ去る可能性がある、と?」
「最初は連れて行くつもりはないって言っていましたけど。……結局どうすることになったのか、聞いてみたいと思いまして。ロウエンはどこにいるかわからないですが、カイト達にはミゲルの店に行けば会えると思うんです」
「あぁ、貴女が話していた、ロウエンの弟さんですか」
「そうです」
「……わかりました」
 ヒースが黙考したのは、ほんの僅かな時間だった。
「予定を空けるように調整してみます」
「……リヴォート様も、来られるんですか?」
「貴女一人で、もう行かせられませんよ」
 あの時から、門の向こうに出る際は必ず警護が一人付くようになった。
 ミゲルには予め手紙を出して、商品を表通りのほうへ持ってきてもらうのだ。前回は時間的に店へ行く余裕がないからと言って誤魔化したが、二回目からはなんと理由をこじつけて彼を呼び出そうか、頭を痛めているところである。
「……ありがとうございます」
「……話は、終わりですか?」
「えぇ」
「わかりました。ご苦労様です」
 労いの言葉を口にするヒースの微笑は、作り物めいていた。
 事務的な微笑。
「ありがとうございました」
 ダイは頭を下げて、歩き出した。足早に歩を進める。
 そしてヒースを振り返らず、外へ出た。
 閉じた扉に少しだけ背を預けて、天井を仰ぐ。
(……しんどいな)
 以前、ティティアンナから距離を取られたときも辛かった。だがあれは話をすることもできなかったからだ。
 今回、ヒースはダイを冷たくあしらうわけではない。笑わないわけではない。無視するわけでもない。
 話しかければきちんと返事がある。相談にものってくれる。
 それらが全て、事務的になってしまっただけで。
 傍に立つとき、距離を大きく置くようになっただけで。
 名前を、呼び合うことがなくなっただけで。
 それがあの時からもう、半月ほど続いている。
(うそつき)
 歩き出しながら、ダイは胸中で呻いた。
(うそつき)
 嫌いにならないと言った。
 名前を呼ぶと言った。
 望む限り。
 何度でも。
 けれど彼は今、自分を拒絶している。
(うそつき)
 子供じみた、我侭だ。
 だが急に態度を変えた彼を、ダイは恨まずにはいられなかった。
 同時に思う。
 あのとき。強く、抱きしめられたとき。
 彼を抱きしめ返していたらこんな風にはならなかったのだろうか。変わらず名前を呼んでくれていただろうか。柔らかく笑ってくれただろうか。時々頭を撫でて、冗談を口にして。
 以前と変わらずにいてくれただろうか。
 こんな風に辛いなら、あの時逃げなければよかった。
 きちんと、ヒースにあの行為の意味を問いただしておけばよかった。
 後悔という名の痛みが、身体の芯を締め付ける。
 嘆息を零したダイは、廊下の向こうから響いた声に足を止めた。
「ダイ!」
「……ティティ」
 ぱたぱたと駆け寄ってくる侍女はティティアンナだ。彼女はひどく慌てた様子で、息を切らしながらダイの前で立ち止まった。
「ダイ、さっきリヴォート様のところにいたのよね? まだいらっしゃる?」
「え? えぇ。いると思いますよ。私部屋出たの、今さっきですし」
 ヒースの執務室の方向を振り返って答えたダイは、首を傾げながらティティアンナに向き直った。
「どうかしたんですか?」
「お客様がいらっしゃっているんだけどね」
「……厄介な方が来てるんですか?」
「そうなの」
 肩を大きく落としながら、ティティアンナは言った。
「ガートルード家ご当主の、奥方がいらっしゃっているのよ」


 ガートルード家当主の奥方。つまるところ、アリシュエルの母親だ。
 当主と異なり、夫人は滅多に姿を現さない。ガートルード家が何かを催した時のみ、挨拶に出てくる程度らしい。


「本当は、奥様がガートルード家の嫡子だったんだけどね」
 ヒースに客人来訪の報告を入れて控えの部屋に戻ったティティアンナが、休憩に茶を用意しながら説明する。
「嫡子って……えーっと、本当だったら奥様がご当主だったってことですか?」
「そうよ。今のご当主のバイラム様って、エイレーネ前女王陛下の兄上に当たるでしょ? 婿養子に入ったの。今は飛ぶ鳥落とす勢いのガートルード家だけど、昔は上級貴族の中でもそんなにぱっとする家じゃなかったのよ。でもバイラム様があの通り野心家で、ガートルード家の今の権勢を築かれたから、奥様は頭が上がらないの」
「なるほど」
「でもその奥様が、一体何の用事なのかしら……?」
 今頃マリアージュとヒースは、その奥方と応接間で向かい合っているはずだ。
 胸中に沸き起こる嫌な予感を押し込めて、ダイはさぁ、と肩をすくめた。
「あんまり変なことじゃないといいけどね」
「ですね」
 同意するダイの前に、ティティアンナは湯気を立てる紅茶をそっと置く。ダイは自分の前に回りこむ彼女に謝辞を述べた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
 己の分の紅茶を手に席に着き、ティティアンナはにっこりとダイに微笑む。つられて笑い返した後、ダイは腰を上げ、紅茶に甘味を足すべく、卓の中央に置かれた砂糖壺へと手を伸ばした。
「ねぇ、ダイ」
「何ですか?」
 手を止めて、ダイはティティアンナを見下ろした。
「最近、元気ないみたいだけど……」
 卓の上に頬杖を突く彼女は、躊躇いを見せつつ言葉を続ける。
「何か、あった?」
「あ……」
 とっさに、言葉が出てこなかった。
 身体が、強張る。
 立ち竦むダイの方へ、ティティアンナは砂糖壺を寄せた。
「はい。言ってくれたら取るのに」
「……ありがとうございます。……元気ないように見えます?」
「うん。見える。でもね、理由が思い当たらなくって。マリアージュ様の癇癪かなぁとも思ったんだけど……。気のせいだったら、いいんだけどね」
 ティティアンナにもヒースとのことを勘付かれているのかとひやりとしたが、違うらしい。ただ、煩悶だけは表れているということだろう。
 ダイは席に着き、砂糖壺を開けた。匙ですくった砂糖を、さらさらと紅茶の中に落とす。
 茶色の粉は、すぐに溶けて見えなくなった。
「……ちょっと、落ち込むことがあって」
「……私に言えること?」
「……あんまり、いいたくない、です」
 ヒースとのことは、口にしたくなかった。名前を呼び合っていたことも、彼だけが知る、自分の名前のことも、二人だけの時間のことも、その時に起こったことも。
「そう」
 深く追求せずティティアンナは、じゃぁ、と口を開いた。
「……また、元気になれそう?」
 問題解決の見通しは、立っているのか。
 彼女の問いに、ダイは頭を横に振った。
「……わかんないです」
 ヒースを問い詰めてみたいが、怖くて出来そうもない。
 今はまだ、会話できている。
 だがもし、それすらも出来なくなったら。
「ダイが元気になるために、私に出来そうなことはある?」
 小さく首を傾げて、ティティアンナが問いかけてくる。ありがたい申し出に、胸が熱くなる。しかし彼女に頼れるような問題でもなかった。
 何もない、と答えかけたダイは、とある閃きに目線を上げた。
「……ティティ」
「ん?」
 微笑んで回答を待つティティアンナに、恐々と尋ねる。
「あの、頭撫でてもらっても、いいですか?」
「え?」
 予想していなかったことだったのだろう。ティティアンナは目を見開き、意外そうにダイを見つめ返した。しかしそれも一瞬だ。彼女は笑い、承諾を示す。
「いいわよ。もちろん」
 静かに伸びてくる手。
「よしよし」
 ゆっくりと。
 猫の頭を撫でるように動くそれに、ダイはそっと頭を寄せた。
 ティティアンナの手は決して大きくない。水仕事でかさついてはいるものの、柔らかな曲線を持つ女性らしい手だ。
 ヒースのものとは、違う。
 冷たく甘く、感覚を痺れさせる彼の手とは。
 それでもダイはティティアンナの手の感触に、彼のそれを重ねずにはいられなかった。
 夢想する。
 また以前のように、彼に柔らかく触れてもらえる日を。
 その欲求の意味を、理解しないまま。
 ゆっくり与えられる人のぬくもりに浸っていたダイは、ふいに止まった手にぼんやりと視線を上げた。
 ティティアンナが困惑めいた目を向けてくる。
「……ダイ、貴女――……」
 彼女が何かを問いかけた刹那。
 部屋の扉が唐突に開いた。
「……リヴォート様?」
 腰を上げてティティアンナが呻く。ダイもまたつられて戸口に目を向けた。
 客人は帰ったのだろうか。開いた扉の縁に手をかけて、ヒースが佇んでいる。
 どこか険しい表情を浮かべた彼は、ティティアンナを一瞥した。睨みつけた、といってもいい。冷ややかなその視線にぎょっとした様子でダイから手を引いた彼女は、慌しくその場に直立した。
 ティティアンナに倣って立ち上りながら、怪訝さにダイは呻く。
「……何か」
 あったのか。
「ダイ、来なさい」
 言葉を最後まで待たず、ヒースは言った。
「今から、街へ降りますよ」


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