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第八章 墜落する競争者 1


 夜を満たす、紳士淑女の歓談に優美な音楽。
 踊る男女の踏鞴が、軽やかな音を響かせる。
 宴に誰もが笑いさざめくその広間の一角で、マリアージュは他国から来たという芸術家の話に耳を傾けていた。自分は国から出たことがない。国だけではない。この街から、出たことがない。見知らぬ土地の話は実に興味深く、夜会の窮屈な空気を忘れさせた。
 もっとも近頃はこのような場に出たとしても、その窮屈さに苦痛を覚えることはない。貴族たちの招待に応じることも、そこまで煩わしいものではなくなった。以前は面会する一人ひとりが自分を嘲笑っているように思えて苛立ったものだが、近頃は楽しいとまではいかずとも、和やかな気分で終わる日も珍しくなかった。
 ふいに背後から呼ばれたのは、宴もたけなわという頃だった。
「マリアージュ」
 マリアージュは振り返り、そこに佇む娘の存在に顔をしかめる。
「……アリシュエル?」
 アリシュエル・ガートルードが、呼びかけに応じて頷いた。
 マリアージュ以外の全員が一斉に席から立ち上がり、最有力の女王候補を迎え入れる。アリシュエルは今日も美しかった。真っ直ぐな黄金の髪を品よくまとめ、その結い口に小さな青い花を幾つも差している。淡い碧を基調とした衣装はすらりとした肢体を強調し、彼女の清楚さを引き出していた。
 アリシュエルはその碧眼を細め、申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさい、皆様のご歓談を中断してしまって。……マリアージュ、楽しんでいるときに申し訳ないのだけど、少しお時間いただけないかしら?」
「私?」
「えぇ」
 アリシュエルが自分に話しかけてくることは珍しくはない。しかしこのように話の最中に割り込んでくることは初めてだった。
 マリアージュは衣装の裾を手で持ちながら立ち上がり、自分を楽しませた者たちに微笑んだ。
「少し失礼いたしますわ。またお話をお聞かせ願えるかしら?」
 彼らはマリアージュに向き直り、もちろんですとも、と二つ返事で請け負う。その目に映るものがアリシュエルではなく自分であることにささやかな充足を得て、マリアージュは踵を返した。


 案内された人気ない庭に、玻璃の扉を押し開いて踏み込む。篝火に照らされた庭。橙色の光に、よく手入れされた植木の輪郭が揺らめいている。
 アリシュエルがマリアージュに先んじて階段を降り、芝生を踏む。マリアージュは扉に背をもたせ掛け、いつも自分より先を行く女王候補を見下ろした。
「……それで、何の用事?」
 アリシュエルは、振り返って微笑んだ。
「……女王選出も近づいてきたから、一度、きちんとお話したくて」
「だったらうちに来ればいいのよ。お茶ぐらい出すわよ」
 苛立ちを込めてマリアージュは呻く。せっかく楽しんでいた話を中断させられたのだ。この程度の厭味は許されるだろう。
「それともガートルード家の姫君ともなれば、格下の家には個人的に訪問する価値などないということなのかしら?」
「意地悪ね、マリアージュ」
 さすがのアリシュエルも苦笑を漏らし、こちらの皮肉に音を上げた。
「そうね……貴女の言う通り。お屋敷を訪ねさせていただくべきだった」
「……女王候補、皆に声かけて回ってるわけ?」
「えぇ。貴女が最後」
「お優しいこと」
「でも私が本当に話したいと思ったのは貴女だけ」
 自嘲めいた笑いを浮かべるアリシュエルに、マリアージュは眉をひそめた。彼女はこんな笑い方をする少女だっただろうか。マリアージュの知るアリシュエル・ガートルードという女王候補は、どんな局面においても常に余裕の笑みを絶やさぬような、超然とした娘のはずだ。
 それが、どうだろう。今の彼女は影の中に溶け入ってしまいそうなほど、鬱屈としている。
 しかし何があったのだと尋ねられるような間柄でもない。
 マリアージュは嘆息し、アリシュエルに話の続きを促した。
「……で、本題は何?」
「……貴女に訊きたかったの、マリアージュ」
 神妙な面持ちで一呼吸置き、彼女は質問を口にする。
「貴女は女王になれたとしたら、どんな国を作っていきたい?」
「……は?」
 予想していたどんな内容とも異なる問いに虚を突かれ、マリアージュは間抜けな声を漏らした。
 どんな国を作りたいか、など。
「……考えたこともないわよ」
 そもそも女王になれるかどうかも怪しいというのに、女王になった後について思索したりするものか。
「大体国にどんなもこんなもあるの? 国は国じゃない」
「あるはずなの。だって私たち、この国をよりよいものにするために、女王の座を競っているのよ」
「より、よい……?」
 混乱するマリアージュに、アリシュエルは言った。
「そう。よりよい国にするために、よりよい女王を選ぶ。それが、この女王選出の儀の意義のはずだもの」
 違う? と同意を求められても、マリアージュはすぐに意見を返すことができなかった。
 何故、女王選出の儀があるのかなど、考えたこともなかった。マリアージュにとって、参加しているこの儀式は単なる慣例だった。崩御した女王の次代を担う娘がいなければ、行われる儀式。それだけだった。
「ねぇマリアージュ。貴女はどんな国を作っていきたい?」
「あんたそれ、皆に訊いて回ってるわけ?」
「そう」
「それを聞いてどうするの?」
「ただ、確かめたいの」
「……何を?」
 アリシュエルはマリアージュの問いに答えない。ゆるやかに頭を振り、口を閉ざすだけだ。マリアージュは追及を諦めた。存外頑固なアリシュエルに答える意思がないならば、問い詰めたところで骨折り損というものだ。
 どうやらアリシュエルの意向に適う答えを出すまで、解放してもらえぬらしい。マリアージュは腕を組み、仕方なく思案を廻らせた。
 どんな国を作っていきたいか。
 どんな風に美しくなりたいかという、ダイの問いに似ている。彼女に問われた時もずいぶん長い時間をかけて回答したのに、アリシュエルに対してすぐ答えられるはずがない。
「わからないわ」
 結局、そう述べることしかできなかった。
「……大体、私、女王になりたいとも、なれるとも思ってないし」
「そうなの?」
 意外そうに呟いたアリシュエルは、碧の瞳を零れ落ちそうなほどに見開いた。
「だったらどうして女王候補に? 辞退できるものと思っていたけれど……」
「あらぁアリシュエル。あんた知らないの? あんなに没落した家からよく女王候補が出せたものだって陰口叩かれるミズウィーリ家の現状を」
 自分の家のことをまったく把握していなかった過去の自分を棚に上げ、マリアージュは呻いた。
「私が女王候補やらないとね、生き残れないのよ、うちは」
「最近、頻繁にこういうところで会えるから、真剣に女王になるつもりなんだわって思ってた」
 近頃のマリアージュの行動を、女王選への意欲の表れとして見るものは多い。しかし、実際は違う。
「あんた達がいるんだから無理でしょ。女王なんて」
 自分が女王になれる可能性は限りなく低い。
 きちんと現状を知れば知るほど、女王への道のりは遠いものなのだと思えた。ヒースがいくら有能で交渉に長けていても、ガートルード家の権勢は覆せまい。もし仮に他の女王候補たちが結託してアリシュエルを蹴落としても、彼女らの中で誰が女王になるか揉めるだろう。そしてそこにはマリアージュが付け入る隙などないのだ。
 女王選の行く末よりも気に掛かって仕方がないもの。それは他の誰かが女王として――十中八九、目の前にいる少女だろうが――選出された、後のことだ。
「私がこういう場所に来るのは、単に女王選が終わった後も、今までと同じように暮らしていきたいからよ」
 女王が選出されれば、候補者たちに与えられている様々な特権や援助は打ち切られる。それまでに、ミズウィーリ家を『上級貴族』に押し留めておくための支持や繋がりが欲しかった。
 女王候補たちが招かれる茶会に午餐、夜会という場は、そういった縁を求めていくには実に最適な場だった。女王になれずとも、『ミズウィーリ家の女当主』という意識を植え付けておきたかった。そのために、振る舞いも勉強し直した。
「私んとこは下に付いている家も少ないし。家で働いている子達の人数もあんたんとこの半分もないけど、でもうちが倒れたらみんな困るみたいなのよ。私だって今更、誰かに仕えて生きるなんてできないわ」
 中級貴族に位を落とせば、上級の誰かに仕えなければならない。そのような生き方、自分には出来ない。
 ならば上級貴族として留まれるよう、せめて最低限のことはしなければならぬだろう。
「……女王になりたくはないの? マリアージュ」
「なりたくないわけじゃないわよ」
 しかし、切望しているわけではない。
 そもそも、自らその地位を望んだことは、一度もないのだ。
 最初に女王候補を辞退しなかったのは、父親が望んだことだったからだ。彼はマリアージュが女王になることを望んでいた。招待された家で侮蔑の目に晒されるその都度、その父の願い一つ満足に叶えられそうもない自分に絶望してもいた。しかし、ダイが母親の願いを叶える為に性別を偽り、身体の時を止めるにまで至ったのだと知った時、マリアージュは思ったのだ。
 死者の願いに従って生きることは、なんと愚かしいのだろう。
 死者の為に身を削って生きることは、なんと哀しいのだろう。
 生きる場所を求めて苦しんだ少女を、死者は労わるわけではない。マリアージュの父親も同じだ。自分が女王になったところで、既に死んだ彼が喜ぶわけではない。
 故人の願いに添うことは尊いと思う。しかし身勝手な押し付けに縛られる必要はどこにもないはずだ。父は、自分に幸せになって欲しくて女王の座を願ったわけではない。彼はただ、妻の家が没落することに耐えられなかった。栄光が欲しかっただけだ。
 それに追従して生きるつもりなど、マリアージュには毛頭ない。
「なんだか見込み違いみたいな感じで申し訳ないんだけど、女王にはなれればいいわ、ぐらいにしか私は思ってないの」
 女王として選ばれれば、楽できることもあるだろう。その程度の認識である。
「だから女王になった後なんて、考えたこともないわよ」
「……そう」
 マリアージュの話を聞き終えたアリシュエルは、小さく呻いて肩を落とした。ひどく落胆したようなその様子に、途轍もなく悪いことをしてしまったような気分を味わう。
(どんな、国を作りたいか?)
 胸中でアリシュエルの問いを反芻する。
 そもそもこの国がどのような国であるのかすら、よくわかっていないというのに。
 ダイの一件で、そのことを突きつけられた。人生を歪めてしまうほどに厳しい、職人制の軛。花街というものが確かに同じ国の下に存在しているのだということ。
 かつて、自分は何も知らなかった。
「……自由に、職を選べるのが、いいのかしらね」
「……え?」
 アリシュエルが僅かに弾んだ声を上げる。期待に満ちた彼女の表情に、マリアージュは慌てて弁解した。
「あ、ううん。思いつきだけど。……うちの化粧師は……親の職の関係でそうなったみたいだから。ほら、この国って職人制があるじゃない? 親と一緒の職に就かなければならないっていうの」
「……あぁ。えぇ」
「そういうの、なくしたほうがいいのかしら。そうしたらもっと色々あの子も楽だったのかしら。他の職に就きたいのに、親の職を無理やり受け継がされている子もいるのかしらとかってちょっと思ったのよ」
 事情を知らぬアリシュエルにとっては、筋の見えぬ話だったかもしれない。
 だが彼女は感心した様子で大きく相槌を打った。
「それで?」
「……ねぇ、勘違いしないでよ? 今のは思いつきよ。思いつき」
「あ、えぇ……」
「……でもま、存在を蔑ろにされたりするのは、嫌よね」
 他人に生き方を強要されることは苦痛だ。存在を、認められぬことも。
 ダイが現れるまで、マリアージュと正面から向き合うものはいなかった。
 それまで、とても辛かった。
「女王になったら、そういうのが、ない国にしたいとは思うわ」
 みんな幸せであればいいと思えるような、聖人君子ではない。
 しかし、自分の周りの人間が不幸そうな顔をしていたら鬱陶しくて仕方がない。それだけは避けたいと思う。
「ありがとう」
 マリアージュの回答に満足したらしい。アリシュエルが謝辞を述べる。
「……ありがとうマリアージュ。私、今夜貴女に会えてよかったわ」
「……なによ。気持ち悪いこと言わないでよ」
「ごめんなさい」
 口元に手を当てて笑う彼女の表情は、先ほどよりも幾許か明るいものだった。
「でも、本当にそう思うの」
 気が晴れたか――アリシュエルの明るい微笑に、マリアージュがそう思ったのもつかの間。
「……貴女に、会えてよかった」
 アリシュエルは表情を急に歪めた。
 今にも泣き出してしまいそうな、その顔。
 様子が、おかしい。
「……アリシュエル? あんた、どう」
「私は、女王になれない」
 マリアージュの問いを遮り、アリシュエルは決然と言った。
「貴女こそ、女王になるべきだわ」
「ア……アリシュエル? あんた何を言って」
「マリアージュ、聞いて」
 マリアージュの袖口を握り締め、アリシュエルが懇願に呻く。顔を覗きこんでくる彼女に、マリアージュは動揺を隠せなかった。
「私は何も思えなかったの。この国の将来に。何も願えなかったの。祈れなかったの。父や母や妹達の幸せも、なにも。そんな人間に、女王の資格があると思う?」
「じょ、女王の資格もなにも、みんながあんたを認めてるじゃない?」
 アリシュエルがなんと言おうと、女王候補の筆頭として皆が挙げる名は彼女のものだ。
「でもだめなのよ」
 そういって緩やかに首を横に振る彼女の手は、血の気を失い震えていた。
「だめだとおもったの。だってわたし」
「アリシュエル様」
 扉越しに、くぐもった声が響いてくる。
 背後の扉を振り返る。玻璃の向こうに、アリシュエルを捜し歩いているらしい侍女の姿が見えた。彼女は周囲を見回しながら、アリシュエルの名を叫んでいる。
 アリシュエルの表情が、曇ってゆく。
「……ごめんなさい。変な話を聞かせて」
 アリシュエルは消沈した声で謝罪し、マリアージュから距離を取った。
「あれ、あんたの侍女?」
「そう。……貴女と話がしたいからって、席を外してもらったのだけれど」
「アリシュエル様」
 侍女が、扉を開いた。
 話が、途絶える。
「こちらにおいでになられたのですか。そろそろお時間でございます」
「……わかりました」
 侍女に頷いたアリシュエルは、毅然とした様子で命じた。
「ミーア、きちんとマリアージュにご挨拶を」
 命令に従い、侍女は愛想なく頭を下げる。このような陰鬱な侍女に付き添われなければならぬアリシュエルを、マリアージュは初めて可哀相だと思った。
「……それじゃぁ、マリアージュ」
「待ちなさいよ」
 マリアージュの制止に足を止めて首だけで振り返り、アリシュエルは淡く微笑む。
「ダイにも、ありがとうと伝えておいて」
 そういい残し、彼女は廊下の向こうへと消えてゆく。
 マリアージュは去来する様々な疑問に発狂しそうになりながら、その背を見送った。
 その場に立ち尽くすことしばし、忘我の域からようやく戻り、畳んだ扇を顎に強く押し当て自問する。
「……なんでここで、ダイが話に出てくるの?」


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