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第五章 錯綜する使用人 4


 アルヴィナとのささやかな茶会を終えてミズウィーリ家に戻る。帰宅したことを侍女頭に報告し、部屋へと戻る途中でダイはティティアンナを見つけた。
「ティティ」
「あら、お帰りなさい」
 玄関広間の床を磨いていたティティアンナは、立ち上がってダイを迎える。丸めた外套を小脇に抱え、ダイは彼女に駆け寄った。
「どうしたんですか? こんな時間にこっちを磨くなんて」
 紺色の空には、太陽の名残めいた橙色の筋が残るだけで、それも間もなくすれば掻き消える。こんな時刻に広間の磨き仕事は行わない。大抵は早朝だ。
「ちょっと磨きなおしの命令が来たの。足跡が付いてたらしいのよねぇ。参ったわ」
「手伝いましょうか?」
「本当? 今日はもういいの?」
「えぇ、暇を出されてしまいました」
 変わらずマリアージュから遠ざけられている自分に対し、役立たずと暗に告げてくる侍女頭の目を思い返して苦笑する。ティティアンナは同情らしき表情に一瞬口先を窄めたが、すぐに表情を明るい笑顔に塗り替えて、盥(たらい)とその中に浮かんだ雑巾を指し示した。
「じゃぁお願い。……あ、先に荷物置いてきたほうがよかった?」
 盥の中から雑巾をすくい取るこちらの傍に丸め置かれた外套を見つけ、ティティアンナが尋ねてくる。
「いえ、大丈夫ですよ」
「でも取ってきた商品なんでしょ?」
「はい。あと、お土産が」
「お土産?」
「えぇ。ティティに」
「……私に?」
 四つん這いになって床を磨いていたティティアンナが、ぴたりと動きを止めて面を上げる。やけに驚いた顔をする彼女に、ダイは事情を説明した。
「知り合いに誘われて少しお茶してきたんですけれど、そこのお菓子が美味しかったんで、余ったものちょっと包んでもらったんです。いつもお世話になりっぱなしですし」
 後で食べてください、と付け加える。こちらの言葉に聞き入っていたティティアンナは、照れた様子で頬を赤らめた。
「気を遣わなくてもよかったのに」
「余り物ですよ」
 しかも自分が代金を支払ったわけではないのだが。
「いいのよ。それでも」
 くすくすと笑って、ティティアンナがはにかむ。
「ありがと」
 喜んでもらえたことに安堵し、ダイは手元に視線を落とした。雑巾を固く絞る。
 不意に、ティティアンナが衣服の裾を捌いて立ち上がった。一体どうしたのかと彼女の姿を目で追う。彼女はダイの外套とそれに包まれた荷物をそっと抱き上げて、広間の隅、邪魔にならない位置まで移動させていた。
「蹴っ飛ばしたりしたら大変だものね」
 元の位置に戻り、床に放置したままの雑巾を手にとってティティアンナは笑う。ダイは微笑み返して、掃除を再開した。
「今日は街でゆっくり息抜きできた?」
「はい。おかげさまで」
 アルヴィナとのおしゃべりは楽しいものだった。家で世話になったときも思ったが、彼女は人を楽しせたり甘えさせたりすることに長けている。それは花街の芸妓達を思い起こさせて、ダイの心を軽くした。身体について隠し立てしなくてもいいということも、緊張を取り払った理由の一つだ。
 花街を出た今、自分の身体のことを隠す必要もないが、かといって自ら公表する気にもなれない。アルヴィナの言ではないが、安い同情も憐憫も、不具への軽蔑も真っ平だ。
「お茶したのはそんなに長い時間じゃなかったんですけど、出たものは美味しかったですし、久しぶりにいっぱいおしゃべりできて」
「こっちの愚痴いっぱいしゃべってきた?」
 悪戯っぽく目を輝かせて尋ねてくるティティアンナに、ダイは思わず呆れた視線を投げた。
「ティティ……」
「だって、いくら私にだって、ハンティンドンさんへの悪口は言いにくいでしょ?」
「いえ、別に言い難くて愚痴ってないんじゃなくて、別に言うことなんてないですし」
 ローラたち古参の立場はよく理解できる。ただでさえ扱いに困っているマリアージュをさらに気難しくさせているだけでも頭が痛いだろう。さらに家が金銭的に傾いている状態で、役に立たぬ化粧師を雇い置いておくということは腹立たしいに違いない。たとえ、お家事情がなくとも、あくせく働く彼らの傍らで、同じ給金を貰いながら暇をもてあます存在が居れば、疎ましいことにかわりないのだ。
「あっきれた!」
 身体を起こし、ティティアンナが声を張り上げた。
「あのねぇダイ、みんなの態度には、怒ったり苛立ったりしていいところなの! 私ははっきりいってみんなに腹立ててるんだから」
「何でティティが怒るんですか?」
「だってそうじゃない? ダイは私たちが面倒くさがってマリアージュ様に言わなかったことを、代わりに言ってくれただけじゃない。私気分よかったんだからあの時」
 ダイが、マリアージュに家の内情を暴いた時のことだ。
「心の中で拍手喝采したわよ。それにマリア様がうろたえたり気まずかったりするのは、マリア様のせいで、ダイのせいじゃないでしょ。本当はこういう雑用だって」
 と、言って、ティティアンナが磨かれたばかりの床を指し示す。
「ダイはしなくていいの! お化粧する人として呼ばれたんだからね!?」
 勢いをつけて叫んだ彼女は、その瞳の焦点をダイの手に握られた雑巾に合わせると、我に返ったのかはっと息を詰めた。
「……手伝ってもらってる私は、助かっちゃってるけど……」
 もごもごと弁解するティティアンナがおかしい。ダイが噴出すと、彼女は慌てたように真面目な表情を取り繕った。
「……それに、マリアージュ様から今のところ遠ざけられてても、ちゃんと作法とかの勉強はしてるじゃない? することしてるんだから、ダイは堂々としてていいし、怒ったっていいのよ」
 言いたい事を吐き出してすっきりしたのか、ティティアンナはさっさと掃除に戻ってしまう。さかさかと床を磨いていきながら、彼女は方向転換してダイに背を向けた。
「ティティ」
 呼びかけても、あぁ忙しい、という呻きが返ってくるのみだ。
 四つん這いのまま、ティティアンナの正面に回りこむ。こちらの姿を認めた彼女の鳶色の瞳が、訝るように瞬く。
「どうかした?」
 ティティアンナの顔を覗きこんで、ダイは微笑んだ。
「ありがとうございます」
 ――……不幸では、ないとは思う。
 ダイはいつも思うのだ。自分の生はひどく歪だとは思う。それに付随して、状況はいつも穏やかざるものだった。しかしどんなときも誰かしらダイに手を差し伸べてくれてきたし、花街を出てからも決して孤独ではないと思えるのだ。こんな風に、誰かが自分を思ってくれている。ありがたいと思う。
「……ティティ?」
 これ以上ないほどに目を見開いていたティティアンナは、ダイの呼びかけに肩を落とし、その場に手をついた。
「え!? ティティ、どうしたんですか!?」
「い、いいの」
 ダイから目を逸らしたまま、彼女は呻く。
「ちょっとダイ、貴方ちょっとあっち行ってくれる?」
「ど、どうしてですか?」
「私知らなかった……貴方の顔って、笑うと破壊力あるのね」
「……は?」
 いいから、と肩を押され、しぶしぶその場から引き下がる。先ほど磨いていた場所に戻り、ダイはティティアンナを顧た。彼女は天井を仰ぎ、なにやら思案している。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫」
 振り返ったティティアンナは、いつもの彼女だった。
「あぁ、びっくりした」
「何をそんなにびっくりしたんです? 訳わからないんですが」
「いいのよ。わからなくて」
 本当にびっくりした、と胸を撫で下ろすことすらしてみせる彼女に、ダイは眉をひそめる。本当に、何に驚かれたというのだろう。
 しかしティティアンナはこちらの疑問に応じるつもりはないらしい。床に沿わせて手を動かし始める彼女に倣って、ダイも掃除を再開した。
 水拭きした後、乾いた布で僅かな水気をふき取っていく。ダイが手伝い始めたときには既に半分終わっていたとはいえ、その広さは二人の手に余る。最初は二人の侍女がティティアンナを手伝っていたというが、別件の手伝いに呼ばれて以降、戻ってこないらしい。
 黙々と作業を続け、ようやく終わりを迎えたのは、消灯も間近に迫ったころである。
「あぁ、それにしても、今日は拭き掃除ばっかりしてる気がする。お昼からずーっとだもの」
 ティティアンナは無用となった雑巾を盥の中に放り込み、背筋を伸ばしてぼやいた。
「お昼から?」
「そうよ。階段の手すりでしょ。二階と三階の窓枠でしょ。マリアージュ様が帰ってこられたときのお出迎えを除けば、なんかずーっと磨いてた」
 汚れた水で満ちた盥を忌々しく睨み付けた彼女は、その水面に向けて疲労の吐息を落とす。
「しかも何度も何度も、水を汲みに井戸まで往復しなきゃいけないし」
「面倒ですよね。毎回水を汲みにいくの」
 この手の雑用は、今回に限らず幾度も手伝っている。彼女の言う面倒臭さについてはよくわかった。
「本当よ。どうして井戸って一階にしかないのかしら」
「私井戸の仕組みってあんまり知らないんですけど、二階とかまで水を汲み上げられないんでしょうか」
「私もあんまり知らないわ。本当、せめて二階に直接水を汲める場所があれば、すごくいろんなことが楽だと思うのに」
「ですね」
 ダイは同意した。自分自身、上階と井戸を往復することには辟易している。小柄で非力な自分にとって、水を運ぶだけでも大仕事なのだ。
 基本的に飲食に用いる水は、男衆が朝方に一階の井戸から汲み上げ、〈ろ過〉と〈保持〉の魔術が施された水瓶に貯めておいたものを使う。しかし貯水量には限界があるので、掃除などに使う水は、毎回一階で汲み上げなければならなかった。風呂や厨房といった水を多量に使用する場所が一階に作られているのも、そういった事情が関係している。
「お飾りの水道がどうにかなればねぇ」
 ティティアンナが呟く。彼女の言う『お飾りの水道』とは、屋敷に張り巡らされた水道管のことだ。その出口となる蛇口は、使用人の個室を含む屋敷の至る所に据え付けられている。
「調整する人がいないんでしたね」
 自分の部屋の壁にお飾りよろしく張り付いている蛇口を思い返しながら、ダイは言った。魔術によって水を流す仕掛け。動かなくなってしまったのは、組み込まれた術式を調整する人間が居なくなってしまったからだ。ダイ自身、あれが動けば便利なのにと思ったことは一度や二度ではない。
「そうそう」
 盥を持ち上げるために片膝を床に突きながら、ティティアンナは頷いた。
「別にうちの家だけじゃなくて、どこの家も似たり寄ったり。私がダイぐらいの頃は、もっとたくさん魔術師はいたし、メイゼンブルから調整の人が派遣されて来てたのよね」
 何で滅んじゃったのかしらと、かつて西大陸の覇者だった国をティティアンナが惜しむ。ダイが物心付く前に滅んでしまった、魔術大国メイゼンブル。魔術が目に見えて衰退し、魔術師の数が激減してしまったのも、かの国が滅んでしまったが故なのだと多くの者が囁く。
 ダイにしてみれば、メイゼンブルの存在は既に遠い遠い昔話の中の国としか思えぬというのが本音だ。しかしどうして滅んでしまったのかは、確かに気になるところだった。
(調整のための、魔術師か……)
 そこでふと、思い立った。
「……アルヴィナ……」
「は?」
 盥に手を掛けたままの姿で、ティティアンナが振り返る。彼女の不審そうな眼差しを受けて、ダイは苦笑した。
「いえ。えーっと、今日一緒にお茶した知り合いが、魔術師なんですけど」
 ティティアンナの鳶色の双眸が、興味深そうに見開かれる。
「ダイ、魔術師の知り合いがいるの?」
「えぇ。で、結構、腕のいい人なんです。彼女の家に泊まったことがあるんですけど、家のお風呂場の術式、自分で書き換えていましたし」
 アルヴィナの家で目撃した様子をダイは掻い摘んでティティアンナに説明した。風呂場に組み込まれた湯量と水温を調節するための魔術。それを一瞬で書き換えていく彼女の指先。
「彼女なら、水道の調整ぐらい、できるんじゃないかなって思って……」
「それよ!!」
「は?」
 目を輝かせたティティアンナの両手が、唐突にダイの肩を引っ掴む。ぐ、と顔を寄せて詰め寄ってくる彼女に圧迫感を覚え、ダイは上半身を反らせた。
「えっと、な、何がですか?」
「だから、その魔術師の人を、紹介するのよ! この家に!」
「え? なんで……?」
「だから、今もダイ、自分で言ってたじゃない! その人、水道の魔術、調節できそうなんでしょ!? その人を、この家に紹介して、術式を調節してもらうのよ!」
「えぇ!?」
 がくがく、と首がもげる勢いで身体を揺さぶられながら、ダイは呻いた。
「ちょ、ティティ、ま、って。そんなことして、どうなるっていうんですか!?」
「だってみんな、もちろんハンティンドンさんも、 水道通ればいいなぁって思ってたはずなのよ。そのほうが仕事の効率うんと良くなるんだから。他にもいっぱい調節してもらいたいところだってあるのよ。たとえばお屋敷の〈保持〉の魔術とか。腕のいい魔術師を抑えておくことは、この家にとってすっごい利益のはずなんだから、ダイが紹介すれば、みんなだってもうちょっとダイに柔らかい態度取らざるを得ないはずよ!」
 ダイの肩を掴む手に力を込めて、ティティアンナが力説する。彼女の言は一理あるが、そんなに上手くいくだろうか。第一、アルヴィナがそういった調整を得手とするかどうかわからないし――家での様子を見る限り、出来そうではあるが――彼女が引き受けるとは限らない。腕のよい魔術師は引く手数多だというのに、わざわざ人目を避けた荒野に家を構えているぐらいなのだ。
 それに、こういったものごとはダイ個人が勝手に動くわけにはいかない。当主代行として働いているヒースの了承もいるだろう。
 そういった諸々のことを、考えはしたのだが――……。
「行きましょうダイ。リヴォート様にお話しするのよ……今すぐ!!」
 怖いほどに真剣な様子でティティアンナに凄まれ、背中を滑り落ちていく冷や汗を感じながら、ダイは思わずこくこくと首を縦に振っていたのだった。


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